第八十八話:リトル・ラウンド・トップ(後編)
「散弾!狙え!」
リトル・ラウンド・トップの頂上へと、有翼騎兵がその姿を表す。
血に染まった大羽根を背負う彼らと、オーランド砲兵達との間には、最早若干の塹壕と、頼りない馬防杭と、幾らかのマスケット銃があるのみだ。
畢竟、オルジフ達は、オーランド軍が何重にも敷いていた防衛線を、その衝力のみを以てして突き破ったのだ。
「撃てェ!」
オーランド砲陣地の最左翼に位置していた六ポンド砲陣地が火を吹く。
散開陣形で進む有翼騎兵達へと放たれた散弾は、その殆どが虚しく土煙を巻き上げた。
彼らは既に幾度も砲兵にしてやられているのだ。正面からの散弾一斉発射という芸の無い戦術など、とうの昔に看破されていた。
「騎兵突撃に備えよ!」
「総員着剣!」
カノン砲の次弾装填に掛かる時間は、どれだけ早くとも三十秒弱は要する。次弾装填の隙など与えまいと、有翼騎兵の先鋒が砲兵陣地へと飛び込んで来るのは必定だった。故にオーランド砲兵達は愛する大砲を手放し、着剣したマスケット銃をその手に握りしめたのだ。
砲兵が砲ではなく、銃を手に取る。
それはもう、彼らに後が無い事を意味していた。
「これ以上先に進ませるなッ!差し違えてでも止めろォ!」
着剣状態のマスケット銃の全長は約二メートル、対して有翼騎兵の操る長槍は五メートル近い全長を誇る。
二倍以上のリーチ差を生む長槍が、人馬一体となった有翼騎兵と共に突撃してくる。その事実を前にして、数十名の戦列など何の意味も成さない。
彼らはまるで其処には何も無いかのように、砲兵戦列を押しつぶした。まるで洪水がボロ家を飲み込むかのように。
意思を持った二十の洪水が、オーランド砲兵陣地を左端から徐々に侵食していく。塹壕も、馬防杭も、有翼の奔流を前にしては無いも同然であった。
「これで、仕舞いよ」
有翼騎兵の一騎が、手にしていた黒い砲丸に火を移し、弾薬集積所へと放り投げた。
負傷し、交通壕の中で倒れ伏していた砲兵が、青白い煙を放つそれを見て悲鳴を上げた。
「擲弾――!?」
弾薬集積所が、目も眩む程の閃光に包まれた後、衝撃波と炎が交通壕の中を一瞬にして駆け巡った。
壕の中に降り積もった雪が刹那のうちに溶解し、行き場を失った爆風が壕中から空へと吹き上がる。その光景は、地割れと共に吹き上がる溶岩の如くだった。
「次、前方の八ポンド砲陣地。各騎の判断で蹂躙せよ」
地獄の釜のように燃え盛る六ポンド砲陣地を背に、オルジフが次の目標を指し示す。
「擲弾だ!奴ら擲弾を持ってるぞ!」
「今更擲弾が何だってんだ!腹ァ括れ!」
続く八ポンド砲陣地の砲兵達が、赫に燃える味方砲陣地を背負いつつ迫る有翼騎兵へと砲口を向ける。
「鎖弾!用意!」
「これが今生最期の砲撃だ!景気良く逝け野郎共!」
「もっと俯角を取れ!地面に当てる勢いで砲を下に向けろ!」
砲尾に土を盛られ、砲口を目一杯下に向けられた八ポンド砲達は、迫る敵に礼をしているようにも見えた。
「擲弾――」
オルジフの号令により、有翼騎兵達が次々に擲弾へと火を移す。
「狙え!」
砲兵長の号令により、砲兵が導火棹へと火を移す。
「――投擲!」
「撃てェ!」
有翼騎兵の投擲と、八ポンド砲の砲撃タイミングは全くの同時だった。
空中で緩い放物線を描きながら飛来する擲弾と、地面をバウンドしながら不規則な軌道で猛進する鎖弾が、互いに上下ですれ違う。
低空で跳ね回りながら接近する鎖弾の軌道を予測する事は不可能である。軌道が己へと向いている事に気付いた時にはもう、自身が跨る軍馬の両脚がへし折られているのだ。
「ハッハッハ……ザマァ見ろ」
数騎の道連れを確信した砲兵長は、足元に転がってきた擲弾へと、勝ち誇った顔を向けた。
数秒後、八ポンド砲の車輪が宙を舞い、その砲口は黒煙と赤黒い炎を吐き出しながら悉く崩れ落ちた。
◆
「……損害は?」
「十一騎にて。未だ翼は折れず此処にあり」
六ポンド砲陣地、八ポンド砲陣地、十二ポンド砲陣地、そして榴弾砲陣地。
リトル・ラウンド・トップに敷かれた全ての砲陣地を蹂躙し、制圧した有翼騎兵達は、その騎数を十騎にまで減らしていた。
「後は、本陣のみ」
オルジフが、未だ黒煙の先に見えぬオーランド軍本陣へと長槍の穂先を向ける。
破壊された各所の弾薬集積所から吹き上がる火の手は収まる所を知らず、小丘全体を黒煙のカーテンが覆い尽くしている。最早小丘の外からは、中の様子がどうなっているのかを全く窺い知れぬ程に。
「男爵閣下は、生きてエルヴェットへ戻る気概がありますかな?」
「元より死人と大差無し。戻るも還るも同じ事よ」
オルジフの答を受け、代頭は兜の奥で朗らかに笑った。
「最期まで、先導致します」
代頭が先陣を切り、オルジフが後に続き、その周りを八騎の有翼騎兵が固める。
戦列歩兵が百人程度居れば容易に止められる、極めて小規模な騎兵突撃。しかし彼らを止める役目を負っていた者達は、今や土に伏し、野に斃れ、堡塁に凭れ、ピクリとも動かない。
先の戦いでコロンフィラ騎士団を失い、今正に砲陣地を失ったオーランド軍の本陣に、まともな防衛戦力など残ってはいない。
「さぁ進め!進め!我らを阻む者は悉く破れ去った!後は眼前の本陣を陥すのみよ!」
炎と黒煙の中を悠然と進むオルジフは、ここに来て目標完遂を確信した。
『これほどまでに多くの血を流したのだから、我々は目的を達成できるに違いない』
払った代償に見合う報いが、必ずや訪れるという誤診。
悲壮な願いにも似た確信が、オルジフの目を曇らせたのだ。
「撃てェ!」
地獄の様な光景には甚だ似つかわしくない、少女の声が響いた。
「むっ――!?」
隊列の左方から飛来した散弾の群れが、オルジフの跨る軍馬へと襲いかかった。耳を劈く断末魔と共に、軍馬が地面へと倒れ込む。
「閣下――!?」
願望成就を目前とした時、人の目は著しく曇る。それはオルジフとて例外ではない。
いやむしろ、二十年来の辛酸を舐め続けた彼だからこそ、すぐ目の前にまで迫った悲願の香りに抗えなかったのかもしれない。
「止まるな!我は捨て置け!進め!」
軍馬から振り落とされ、地面へ叩きつけられながらも、オルジフは代頭へ突撃の継続を命令する。
咄嗟に受け身の姿勢を取った事により、負傷は皆無だった。
オルジフは折れた長槍を支えに素早く立ち上がると、左手で腰の直剣を引き抜いた。
「そこに、居るのだろう」
戦場の一角に向けて、オルジフは語りかけた。
「砲兵令嬢よ」
彼が注視したのは、放棄されているかのように見えた四ポンド砲だった。
硝煙燻るそれに目を凝らすと、火門からは拉縄が伸びており、紐を辿った先には丁度少女が隠れられる大きさの木箱が置かれていた。
「卑劣な真似はせん。その姿を見せ給え」
「……初めの一射で屠るつもりでしたのに、悪運が強いんですのね」
鈴の音の様な声と共に、木箱の裏から拉縄を手にしたエリザベスが姿を現す。方々で燃える炎に照らされて、彼女の目は赤紫に光っている。
「オルジフ・モラビエツスキ男爵。旧ヴラジド大公国の大貴族にして指揮官……」
銀の髪を後に掻き分けつつ、彼女は仁王立ちの姿勢で正対した。
「改めてごきげんよう、オルジフ男爵殿。オーランド連邦軍、遊撃騎馬砲兵隊所属、エリザベス・カロネード中尉ですわ」
「漸く、相対する事が出来たな」
落馬の衝撃で折れ曲がった長槍を地面へと放り投げる。カラカラと、乾いた音と共に槍が斜面を転がっていく。
「他の騎馬砲兵達はどうした」
「本陣の防衛に付いておりますわ。今頃、有翼騎兵の突撃を散弾の一斉発射で粉砕している事でしょう」
「そうか。貴様がそう言うのなら、そうなのだろう」
オルジフはエリザベスの挑発をそのまま受け流し、直剣の刀身に写った自分と目を合わせた。
「……反論なさらないんですの?」
「貴様程の傑物なら既に理解しているだろう。本会戦における我ら有翼騎兵の最終目的は、勝利では無い」
エリザベスは、グレートヘルムの奥に居座る、オルジフの目をじっと見つめた。
どこか澄んだ、透き通った瞳。憑き物の落ちたような、僅かな微笑すら感じさせる表情。
目の前の御仁は、あの時のクリスと同じ目をしていた。
「最初から、散るおつもりだったんですのね」
誇らしく、彼はゆっくりと頷いた。
オルジフ率いる有翼騎兵が全滅すれば、ノール帝国領内に残されたヴラジド人は悲しみに暮れるだろう。
仇敵の為に命を捧げ、最後まで使い潰された英雄として、オルジフ男爵は死後一層の崇拝対象となるに違いない。そして彼らの悲しみは間を置かずして、憤怒の炎へと変貌する筈だ。
その赤熱した矛先の向く末は、ノール帝国以外に無い。
「ヴラジドが不死鳥の如く蘇るのであれば、我が身、喜んで差し出すまでよ」
彼は、ヴラジド独立戦争の炎を、その身を焚べる事によって燃え上がらせようとしているのだ。
今ここで自分が何と言おうと無駄だ。一度あの目になった人間の前では、どのような説得も無意味だ。
ふとオルジフの兜に、そしてエリザベスの三角帽に、水滴が滴る。
「ただ一つ、心残りがあるとすれば」
直剣を投げ捨てると、オルジフはグレートヘルム越しにエリザベスを真っ直ぐ見据えた。
「平時において、貴様とは存分に語り合いたかった」
兜越しではあったが、彼の表情から強張りが取れたのが分かった。
エリザベスは口を横一文字に結んだまま、暫くじっと押し黙る。
パタパタと、微かな雨足を知らせていた水滴は、見る間に大粒の雫を呼び、程なくして時雨と化した。
時雨が地面のあちこちに水溜りを作る頃合いになってから、やっとエリザベスは口火を切った。
「……わたくしは、貴方様の決意や矜持に対して、口を挟む程無粋な性格はしておりませんわ」
三角帽子の溝を伝った大粒の雨達が、エリザベスの横顔を掠めて落下していく。
「然れども……然れどもッ!」
彼女は今の今まで握りしめていた拉縄を手放すと、左手に嵌めた白手袋を外し、泥溜まりへと投げつけた。
「同胞たるオーランド兵士達の命を奪った報い……必ずや!ええ必ずや受けて頂きますわッ!」
腰のホイールロック・ピストルに手を掛けながら、砲兵令嬢は啖呵を切った。
「オルジフ・モラビエツスキッ!銃を抜きなさいッ!わたくしと貴方とで、どちらの悪運が優るか勝負してくださいましッ!」
スナップボタンを外し、雨を裂く勢いでピストルを振り向けるエリザベス。
「三つ数えたら同時に発射ですわ!身じろぎ一つも許しませんわよ!」
年端もいかぬ小娘から決闘を申し込まれたオルジフは、初めて、満更でもない表情を見せた。
「無論。我も、徒手にて死すは本望に非ず!」
腰具からフリントロックピストルを引き抜くと、エリザベスとは対照的に、ゆっくりとその筒先を標的へと向ける。
「カウントは貴方の国の言葉で飾って差し上げますわ!よろしくて!?」
「本懐なり!」
お互いに半身の姿勢で向き合い、オルジフは右手を、エリザベスは左手を背中に回す。
「「三!!」」
銃身の上を水滴が跳ね回り、オルジフの像が左右に歪む。
「「二!!」」
引き金に指を掛ける。
「「一!!」」
跳ね上がりそうになる銃身と心を、押さえつけながら引き金を引いた。
「――ふ」
引き金を引いてから実際に弾丸が発射されるまでの時間は、単純な構造であるフリントロック式の方が早い。故に同時に引き金を引けば、オルジフのピストルから先に弾が打ち出される事になる。当然、オルジフもそう考えていた。
しかし、彼の構えるフリントロックピストルから、弾丸が放たれる事は無かった。
「不発、か」
コロンフィラ騎士との戦いで、地面へとピストルを取り落とした所為か。
時雨に打たれ、火皿の火薬が湿気た所為か。
当たり金へと叩きつけられた火打石は、火花を散らす事なく火皿へと沈み込んだ。
「――ッ」
対して鉄輪の摩擦熱で点火するホイールロックピストルは、雨天であろうとも雄々しき火花を散らしながら、その役目を十全に果たしたのだ。
大砲とは比較にならぬ、ちっぽけな銃声が響く。
パルマ女伯の、フレデリカの、そしてエリザベスの意思を乗せた弾丸は、奇跡的にオルジフの頭を正確に捉えた。
しかし屈強なグレートヘルムを貫通するまでには至らず、弾丸は金切り声を上げながらグレートヘルムの表面を滑り抜けるに留まった。
「ぐッ……」
オルジフのシルエットが、左右に揺らぐ。
グレートヘルムは、小さな鐘のような形状をしている。そこに弾丸という名の撞木を、思いっきりに打ち付けられたのだ。
彼の耳には今や、タルウィタ教会の大鐘楼を至近距離で打ち鳴らされたような轟音が響いているのだろう。
「み――」
持っていたピストルが手から滑り落ち、泥溜まりへと両膝を付く。
「――見事、也」
平衡感覚を失ったオルジフは、そのまま前のめりに倒れ込み、気を失った。
◆
【リトル・ラウンド・トップの戦い:戦果】
―オーランド連邦軍―
連邦戦列歩兵第一連隊:1982名→1982名
連邦猟兵大隊『ハンター・オブ・オーデル』:465名→465名
コロンフィラ騎士団:90騎→0騎
連邦砲兵大隊:14門→0門
連邦騎馬砲兵中隊:6門→6門
死傷者数:300名
―ノール帝国軍―
有翼騎兵大隊『フッサリア』:98騎→0騎(内1名捕虜)
死傷者数:98名
【パンテルス会戦:戦況図⑪】




