第八十六話:リトル・ラウンド・トップ(前編)
「男爵閣下……本当に、正面からエルヴェット橋を渡るおつもりですか?」
オルジフの隣で長槍を抱えた従士が、抱き込むようにして長槍の柄を身体に寄せる。
炸裂音と射撃音、軍靴の音と蹄の音、そして悲鳴と怒号。おおよそ戦場で聞こえ得る音の全てが、エルヴェット橋の周囲で鳴り響いていた。
同橋を確保したノール猟兵と、奪還を目論むオーランド猟兵との間で繰り広げられる狙撃戦。
西から迫るノール戦列歩兵部隊へ放たれる、オーランド戦列の弾幕射撃。
オーランド砲兵が立て籠もる小丘から撃ち下ろされる、大小交々な砲弾の数々。
両軍が攻撃を命じたあらゆる部隊の射線上に、エルヴェット橋は位置している。
「命が下らば、それに従うまで」
分厚いグレートヘルム越しに発せられた彼の声はくぐもり、反響し、まるで別人の様である。
「しかし、これでは――」
従士は槍を固く握り込みつつ、馬上のオルジフへ意見を具申しようと顔を上げた。しかし彼が言葉を発するよりも前に、オーランド猟兵が放ったであろう流れ弾が従士の肩口を掠める。標的を見失った弾丸は、そのまま彼の後ろで控えていた槍兵へと命中した。
小鳥の囀りのような短い断末魔の後、その槍兵は血と硝煙と泥で黒ずんだ石畳へと崩れ落ちた。
彼の真新しい亡骸が、後続の槍兵達によって無造作に踏み超えられていく。
「見よ、カミル」
背後の死に気を取られていた従士が、オルジフに名前を呼ばれて振り返る。
彼はエルヴェット橋の下、パンテルス川の氷を指差していた。
「最早、この空は渡れまい」
オルジフの述べた通り、パンテルスを覆う氷の過半は亀裂が入っており、中には既に水流が復活している箇所もあった。
時間経過による気温の上昇と、砲撃や銃撃による砕氷によって、パンテルスに描かれた空色の道は、とうとう閉ざされつつあったのだ。
「加えて」
斜め下へ伸ばしていた指先を、今度は斜め上に向ける。その指向先には、オーランド連邦軍が陣を構える小丘が聳えている。
「我らの背負う大羽根を以て、かの地の注意を引く。さすれば他の味方は容易に前へ進めよう」
大砲から放出される多量の硝煙によって、丘の頂点部分は雲に覆われたかのように隠れしてしまっている。ただ断続的に聞こえてくる遠雷のような砲撃音のみが、砲兵陣地の存在を誇示していた。
「特に、あの砲兵令嬢の注意をな」
オルジフが指を下ろすと同時に、小丘から無数の遠雷が響き渡る。
「ほう、もう勘付いたか」
丘に掛かる傘雲にも似た硝煙の渦から、幾筋もの砲弾が尾を引いて有翼騎兵の元へ迫る。
「流石は砲兵令嬢。目の良さはパルマの時より劣らずか」
エルヴェット橋の固い石畳の地面に着弾した丸弾は、パルマ会戦の折と同じく跳躍を繰り返しながら有翼騎兵の集団へ、そして背後の槍兵の集団へと襲い掛かった。
橋上を前へ前へと進むしか無い彼らに、砲弾から逃げる術など無い。自身を殺そうと迫る漆黒の塊を前にして、身を守る事も、ましてや逃げる事も能わないのだ。
並の部隊であれば壊乱状態に陥ってもおかしく無い戦況。その最中においても彼ら有翼騎兵達は、そして槍組達は誰一人として歩みを止めようとはしない。
隣の兵士の頭が吹き飛ぼうが。
前の兵士の手足が千切れようが。
空いたスペースを埋めようと前に詰める時を除いて、走ろうとする者すら居なかった。
「……槍組に、此処で待機するよう申し付けよ」
橋の中程まで進んだ所で、初めてオルジフが馬を止め、後ろを振り向いた。
「……」
グレートヘルムの裏で、オルジフが僅かに顔を顰める。
死した有翼騎兵が背負っていた誉高き大羽根の飾りは地面に堕ち、持ち主の血で赤黒く染まっている。
一方で、槍を握りしめたままの腕が辺りに散乱し、橋の両端に積もった残雪の上には、その持ち主たる槍兵が多数横たわっていた。
その中には、カミルの姿もあった。
「……」
オルジフは、固く握りしめられた長槍を彼の手中から抜き取ると、穂先を曇天へと突き上げた。
「槍組はこの地点にて待機せよ。我ら有翼騎兵が敵砲兵陣地を蹂躙し、再びこの黒き橋へと凱旋するまで、この地を死守せよ」
生き残った槍兵達はオルジフに倣い、一斉に穂先を天へと突き上げた。
「「オルジフ・モラビエツスキ男爵閣下!その御心のままに!」」
◆
【リトル・ラウンド・トップの戦い】
―オーランド連邦軍―
連邦戦列歩兵第一連隊:1982名
連邦猟兵大隊『ハンター・オブ・オーデル』:465名
コロンフィラ騎士団:90騎
連邦砲兵大隊:14門
連邦騎馬砲兵中隊:6門
総兵力:2737名
―ノール帝国軍―
有翼騎兵大隊『フッサリア』:98騎
総兵力:98名
◆
雪催の空の下にあっては、彼らの纏う白銀の鎧もひどく色褪せて見える。加えて彼らが今寡黙にして歩を進めるエルヴェット橋も、雨に濡れて黒ずんだ石畳と、黒色火薬を吸って煤色に染まった残雪の所為で灰一色の様相を呈している。石畳の隙間から苦しそうに顔を覗かせる雑草ですら、まるで色を奪われたかのように一面鉛色である。相対するオーランド兵の目には、薄墨一色を使って描かれた絵画のように映っている事だろう。
「不味いです!有翼騎兵です!槍兵もいます!」
草地に混じって屈んでいたリサが、頭を上げて叫んだ。
「おいバカ女ァ!敵を発見した時は何を報告すべきか話しただろうが!鳥頭か貴様!」
リサのすぐ後ろからシュトイベンの罵声が飛んでくる。あまりの声量に、リサの周囲に繁茂していた草が驚き靡いた。
「す、すいません!えー、方角、距離、敵種、敵数……」
「あとは進行方向です。どこからどこに向かっているのかを報告して下さい」
片手を指折り数えて報告事項を纏めようとするリサを、ラルフが隣で補佐する。輜重兵長だった頃のリサに対して見せていた、心底面倒そうな態度は既に欠片もなかった。
「さ、再度敵情報告!方角はエルヴェット橋!距離は三百!敵種は有翼騎兵と槍兵!敵数はそれぞれ百と三百!槍兵はエルヴェット橋中央で槍衾を形成!有翼騎兵は同橋から我が方に向かって移動中!」
「合格だバカ女!報告も出来ないバカから報告は出来るバカに格上げしてやる!」
伏せていようとも草地からはみ出でる屈強な上半身を起こし、シュトイベンが立ち上がる。濡れた地面に長時間伏せていた為、彼の軍服は泥と雪で見るも無惨な色へと成り果てていた。シュトイベンは自らの前方で薄く散開しているリサ達猟兵と、後方で整列している第一戦列歩兵連隊の距離を目視で計測した後、その樫のような腕を後ろへ大きく振った。
「猟兵共は三十歩後退!第一戦列歩兵連隊の真ん前に整列しろ!良いか!?整列だぞ!」
シュトイベンの蛮声が空気を震わせながら周囲に伝わる。すると草地のあちらこちらから緑服の猟兵達が顔を出し、屈んだ姿勢のまま味方戦列の前に整列し始めた。
薄く、疎に展開した猟兵は騎兵に対して甚だ脆弱である。加えて着剣装置を廃したライフルで有翼騎兵に立ち向かうなど自殺行為に等しい。
猟兵の本分とはあくまで射撃と斥候である。騎兵と接敵する直前まで狙撃を浴びせ続け、いざ敵騎兵が襲撃機動を敢行してきた場合はすかさず味方戦列歩兵の後ろへと隠れる。シュトイベンは戦列交代を迅速に実施したいが為に、猟兵達を味方戦列の目の前へ集合させたのだ。
「膝射の姿勢で整列しろ!おいバカ女!立つな!味方にドタマ撃ち抜かれたいのか!?」
立ったまま隷下の猟兵達に指示を出すリサの頭を、シュトイベンが無理やり手で押し下げる。
「す、すいません!」
頭上から鼻下まで押し込まれた三角帽子を持ち上げ直しながら、ぐっと姿勢を低くするリサ。
「……アンタ、そんな姿勢で狙えるのか?」
リサの直ぐ後ろに立っていた戦列歩兵が、膝射どころか仰向けに寝そべり始めた彼女を奇異の瞳で見つめる。
「狙えますよ……っと」
言いながら、仰向けの姿勢から上半身だけを起こしてライフルを構える。銃床は脇下で抱え込むように持ち、銃身は伸ばした足の靴先部分で支えている。
「そんな構え方、教練には無かったぞ?」
「無くても良いんです。自分が構え易ければそれで十分です」
リサだけではなく、他の猟兵達の構え方も皆様々だった。横向きの体育座りをする者、胡座を掻く者、むしろ一般にイメージする膝射の姿勢をしている者の方が少ない状態だ。
「敵超重騎兵、二百まで接近!狙え!」
あの口煩いシュトイベンも、構え方に一々文句を付ける事はしない。当てられるのなら、構え方など何でも良いのだ。
「狙え《Take aim》!」
戦列歩兵達よりも早く、猟兵達が銃を構える。戦列歩兵のマスケット銃なら運任せの距離だが、猟兵のライフルであれば十分有効射程圏内である。
「ホーキンス小隊長殿!誰を優先して狙えば良いですか!?」
「偉そうな人を優先的に狙って下さい!」
「奴ら全員偉そうな格好してます!」
「なら片っ端から狙って下さい!」
第一小隊の面々が口々にリサへと指示を乞う。彼女はいつの間にかラルフだけではなく、倍以上年の離れた部下達からも信頼を得ていた。
エリザベスのような折衝術や交渉術を以てしてではなく、純粋な素直さと真面目さによって彼女は信頼を勝ち得たのである。
「撃てェ!」
総数四百六十五丁のライフルが一斉に火を吹き、戦列に沿って硝煙の花道が形成される。施条に食い込んだ弾丸が猛回転しながら、密集する有翼騎兵へと襲いかかる。
「この距離での発砲……」
その弾丸の多くは、確かに有翼騎兵達を捉えていた。
無論、オルジフを含めて。
「……なるほど、施条銃か」
オルジフが、自身の鎧に出来た凹みを一瞥しながら呟く。
「ソレ如きでは、我が矜持を貫く事は叶わんぞ」
「う、嘘でしょ……?」
有翼騎兵の纏う銀鎧に着弾した弾丸の多くは、鎧を凹ませるか、さもなくば火花を散らしながら跳弾するに留まったのである。
「チッ!噂には聞いていたが、呆れる程に重装甲だなッ!猟兵共!交代だ!戦列歩兵の方陣内に下がれ!」
「よ、鎧で弾丸を弾くなんて……!?」
シュトイベンの号令を受け、リサは一先ず戦列歩兵達が敷いた方陣の内側へと退避する。しかし彼女は今眼前で起こった出来事を飲み込めずにいた。
「弾丸を通さない鎧なんてインチキじゃないですか!?そんな事有り得るんですか!?」
方陣の中心に居た年配の猟兵へ、リサが驚愕の表情と共に尋ねる。
「バカかお前は!ライフルは威力と引き換えに命中精度を増してんだ!動物とかノール重騎兵のペラペラ胸甲なら兎も角、有翼騎兵の重鎧なんてそもそも想定外なんだよ!」
ライフルは文字通り、ライフリングに弾丸を食い込ませ、回転させる事によって命中精度を上げる代物である。それは逆説的に、発射エネルギーの何割かを回転運動に奪われるという事だ。射程と精度に優ると言われるライフルだが、こと威力の面から見れば、通常のマスケット銃に劣るのである。
「構え!」
「突撃!」
戦列歩兵がマスケット銃を構えるのと同時に、有翼騎兵の一団は部隊速度を襲歩にまで上げる。
彼我の距離が、瞬きする間も無く縮んでゆく。
「撃てェ!」
五十メートル丁度のタイミングで、方陣の一辺が火花と硝煙の煙に包まれる。至近距離からマスケット銃の一斉射を受け、さしもの有翼騎兵といえども数十騎の被害が出る。
「よし!白兵戦用――!?」
効力射を認めた歩兵大隊長が、有翼騎兵との対騎兵戦に備えようとした瞬間。
「貴様ら歩兵共など、当初より眼中に無し!」
方陣に向かって一直線に進んでいた有翼騎兵達が一斉に突撃方向を変え、小丘へと続く斜面を登り始めた。
「奴らめ……ッ!ハナっから其方が狙いかッ!」
シュトイベンがオルジフの意図に勘付いた時には、もう有翼騎兵の背中を拝む事しか出来ない程の距離が開いていた。
「此度こそ、雪辱を果たさん――」
オルジフはリトルラウンドトップを見据え、吠えた。
「――其処にて待つが良い!砲兵令嬢よ!」
【パンテルス会戦:戦況図⑨】




