第八十五話:死者に敬意を、生者に使命を
「対岸の敵砲陣地から砲撃音!」
「はぁ!?コリードンバーグ伯様の部隊が制圧したんじゃなかったの!?」
騎馬砲を西へと指向させていたエリザベスが、突如北から聞こえてきた砲撃音と報告に喫驚する。
ディースカウ率いる騎馬砲兵中隊は、イーデン率いるカノン砲中隊が陣取る小丘へと再び舞い戻っていた。西部戦線から退却してくる味方戦列歩兵達を砲撃によって支援する為である。
「弾種は焼夷弾!着弾まで……ん?」
着弾観測を行っていた砲兵の表情が、怪訝な面持ちに変わる。
敵陣地から放たれた焼夷弾が、エリザベス達の元へ着弾する事は無かった。最大高度に達したそれはパンテルスの上空で暫く煌々と輝いた後、まるで満足したかように水中へと没したのだ。
「敵陣地の状況を再度知らせなさい!制圧済みの旗は確かに昇ってるのよね!?」
観測を行っていた砲兵の元へ、エリザベスが脱兎の勢いで走り込んでくる。敵砲兵陣地は既に制圧済みと判断し、全砲門を西へと向けているのだ。同陣地が息を吹き返したとあれば、至急で砲を転回させる必要がある。
「は、はい!確かに我が軍の旗が翻っております……!」
観測員の報告が俄かに信じられず、エリザベスも手持ちの単眼鏡を対岸へと向ける。長距離である為に判別は難しいが、確かに青地に金模様の旗がポールに括り付けられ、パタパタと翻っている。
「制圧済みなのは確かね……でもどうして――」
思考を巡らそうとした途端、再び対岸から砲撃音が響く。今度は間を置かずに三度の砲声が響き、三つの小さな太陽が空に輝いた。
「焼夷弾を最初に一発、その後に間を置かず三発……」
フレデリカ達が意味も無く焼夷弾を打ち上げる筈が無い。ならばこの砲撃には必ず意図がある筈だ。しかし肝心の信号内容が分からない。
「どうやって意図を汲み取れば……信号表なんて何も――」
エリザベスは自分の胸ポケット内に、妙な異物感があるのを覚えた。
そこからは、まるで脳内で光が迸るかように、直感が冴え渡った。
「まさか――ッ!」
エリザベスは反射的に、胸ポケットに仕舞いっぱなしになっていた信号表を取り出す。
「……初弾一発は『敵戦線に動きあり』次射の三連発は『敵本陣及び予備戦力』なら次に示されるのは……ッ!」
エリザベスが信号表を握りしめながら寒空を見上げる。彼女の予想通り三度目の砲撃音が響き渡ると、間を置かずして三つの焼夷弾がほぼ同時に瞬いた。
「三射目は同時に三発……!」
信号の対応表一覧を指でなぞりながら、三発同時発射が示す意味を追い求める。
「三発同時発射は――」
彼女の対応表をなぞる指が止まった。
「『有翼騎兵が接近中』――ッ!?」
思考が纏まるよりも早く、エリザベスは駆け出した。
六ポンド砲陣地の交通壕を飛び越え、八ポンド砲陣地の火薬集積所前を風のように通り過ぎ、十二ポンド砲陣地内に転がる丸弾に足を取られそうになりながらも、エリザベスは全速力でコロンフィラ伯の座す天幕へと辿り着いた。
「その様子なら、わざわざ説明するまでも無いようだな」
そう言いながら、コロンフィラ伯が例の信号表を目線の高さへ掲げる。彼の前には、既にイーデンとオズワルドが呼び付けられていた。
「はい、軍団長閣下、速やかに、有翼騎兵への、対処を……」
息が続かず、言葉が途切れ途切れになってしまう。
「退却支援の砲撃を、行っている砲を半数に減らし、もう半数を有翼騎兵の、対処へと充てる事を、進言致しま――」
「否だ。西部への退却支援砲撃は現時刻を以て全面中止とする。速やかに全砲を有翼騎兵への対処へと充てよ」
「……!そ、それは承服しかねますわ!」
息を整えたエリザベスが、胸に手を当ててコロンフィラ伯の前に立つ。
やはり、この御仁は西部戦線を捨てる判断を下した。まだ退却し切っていない部隊があると言うのに。
「何が承服だ。いつから貴様は大隊指揮官になった?上官たるランバート少佐を飛び越えてまで余に不服を申し立てるな」
苛つきを帯びた表情で、コロンフィラ伯はエリザベスを諌めた。しかし彼女の進言と言う名の駄々は止まらなかった。
「し、しかし第四、第五戦列歩兵連隊の退却が未だ完了しておりませんわ!助けられる可能性が残っているのならば、全力を尽くすべきですわ!」
『勝利の為に味方を犠牲にしつつ、その一方で助けられる命は極力助けたい』
彼女の、余りにも虫の良すぎる発言に、コロンフィラ伯の顔が徐々にその険しさを増していく。
「おいベス!控えろ!」
コロンフィラ伯の殺気を肌で感じ取ったイーデンが、エリザベスの肩を掴む。
「だ、だけど味方歩兵が――!」
「至急!至急!西部戦線より報告!」
エリザベスとコロンフィラ伯の間に割り込むようにして、一騎の伝令兵が駆け込んできた。
胴と頭に包帯を幾重にも巻いた彼が鞍上から地面へ降りようとする。しかし着地の衝撃に耐える事もままならず、うつ伏せの体勢で地面に倒れ込んだ。
「……も、申し訳ありません!改めて報告致します!」
マスケット銃を杖代わりにしながら、老人のような弱々しさで立ち上がる伝令兵を、コロンフィラ伯は身じろぎもせずに見つめていた。
「西部戦線の全部隊は軍団長閣下のご命令通り、本小丘への一斉退却を実施致しました!」
彼が吊る弾薬盒に描かれた『4』の文字が、何かを訴えるように鈍く光った。
「退却の折、第四、第五戦列歩兵連隊が敵に捕捉され、間も無く壊滅!残る第一、第二、第三連隊は無事退却を完了させ、現在本小丘下において敵戦列歩兵及び敵散兵へ前進阻止射撃を行っております!」
焦り故ではなく、感情を乗せたくないが故の早口で、報告を続けていく。
「つきましては、東部戦線の安寧の為にその命を捧げる事となった第四、第五連隊の将兵達へ、何卒御高配を賜りますようお願い申し上げます!」
全報告内容を一息で言い放ち、痛みに震える左手で敬礼を披露した後、彼は敬礼姿勢のまま背後へ倒れた。
「だ、大丈夫!?今すぐに手当を――」
咄嗟にエリザベスが伝令の元へ駆け寄る。
しかし彼の瞳に動きは無く、乾いた眼球が曇天を見つめるのみだった。
「後でその者の名前を教えろ。火葬はするな、家族に遺体を返してやれ」
コロンフィラ伯の命令を受け、周囲の騎士達が事切れた伝令を担ぎ上げる。一兵卒の死体としてはこれ以上ない程丁重に、亡骸が運ばれて行く。
エリザベスは運ばれていく伝令には目を向けず、じっと彼が倒れていた地面を見つめていた。
「また、助けられなかった……」
どちらかを救おうとしたのだ。どちらかが救えないのは当たり前ではないか。
そんな単純な事であるのに、どうしてここまで胸が苦しいのか。私は一体あと何度これに耐えねばならないのか。
地面に座り込んだまま、中々立ち上がらろうとしないエリザベスを、イーデンとオズワルドが複雑な表情で見つめている。
唯一人、コロンフィラ伯を除いて。
「……良い加減、死者を憐れむのは止めろ」
コロンフィラ伯が、腰掛けていた木椅子から立ち上がる。
明かな怒りの感情を露わにしながら。
「分かってますわ。士官として、このままの姿勢ではいけないと……」
エリザベスの独白を聞くコロンフィラ伯の表情が、更に怒りで満ちて行く。
反対に、その様子を遠巻きに観察しているディースカウは、あろうことか微笑み溢していた。
「ランチェスター少佐からも、パルマ女伯閣下からも同じ事を言われましたわ……!士官として、一人一人の死に向き合っている暇なんて――」
「貴様の心持ちなぞ知ったことかッ!」
コロンフィラ伯が、エリザベスの顔を思いっきり殴り付けた。
「うっぐッあ……!」
鈍い音と共に、エリザベスは雪解けの泥濘へと頭から倒れ込んだ。
イーデンも、オズワルドも、周りの兵士達全員の顔が、緊張で引き攣る。
「エリザベス・カロネード!何も分かっとらん貴様に余が直々に教えてやる!」
倒れたエリザベスの襟元を掴み上げ、泥塗れになった彼女の顔を自身の眼前へと引き寄せる。
「手前の勝手な物差しで、死者を辱めるのを止めろと言っているのだ!」
「ぐッ……うげぇ……」
エリザベスは口に入った泥や砂利を吐き出しながら、涙が滲んだ瞳でコロンフィラ伯を睨みつける。しかし当然、コロンフィラ伯はそんな子供騙しが通用するような相手ではない。
「なぜ余が伝令に手を貸さなかったか分かるか!?」
「な、なんで……!」
「今にも斃れそうな伝令に、余が手を差し伸べなかったのはなぜかと聞いている!」
自身の襟元を締め上げるコロンフィラ伯の腕を振り解こうと両手で掴み掛かるが、自分の非力な腕力ではびくともしない。
「答えんか!」
コロンフィラ伯に首根っこを掴み上げられ、強引に起立の姿勢にさせられる。
「……軍団長ともあろう御方が、一兵卒に対してそう簡単に腰を上げる訳もないでしょう……!」
喉奥から絞り出すように発した自分の答えは、十中八九、彼の求める答えとは異なるものだろうと思った。
しかしそれ以上に『分かりません』などという情けない回答はしたくなかったのだ。
「余をみくびるな!王貴商庶卑、誰が相手であろうと余が自ら動くべき時は動く!そこらの傲慢貴族と十把一絡げにされたとあっては甚だ心外である!」
勢い任せに、自分の襟元を掴んでいた腕が突き放される。再び背中から倒れ込みそうになるも、二度と先の無様は晒さまいと必死に耐えた。
言葉にして言われずとも、彼がそのような性格である事は知っている。ラカント村で下馬戦闘を提案した時も、何であればリヴァン市退却戦の先魁となるように依頼した時も、眼前の貴き御仁は須く首肯し、自ら手勢を率いて行動してくれたのである。
皆の前で情けない姿を晒したくないという極めて利己的で保身的な理由から、彼の今までの行動を軽んじるような発言をしてしまった。
既に泥塗れで、これ以上ないほどに情けない姿だというのに。
「軍団長閣下の心中をご拝察する事が出来ず、申し訳ありません……」
殴られた衝撃で飛ばされた三角帽子を拾い上げ、泥と共にそれを被り、姿勢を正す。しかれどもコロンフィラ伯の怒りは未だ収まらず、拳を固く握り込んだままにエリザベスに一歩近付く。
「自力で立ちあがろうとする者に手を貸す行為そのものが、その者に対する最大の侮辱に相当すると、なぜ分からん」
運ばれて行く伝令兵の亡骸を一瞥しながら、彼は再び声を荒げた。
「あの伝令は死の瞬間まで軍務に服したのだ!気力のみを以て余の眼前に立ち、途中で力尽き果てる事もなく、最期まで伝令としての義務を果たしたのだぞ!何故憐憫の目で見る必要などあるのかッ!?」
ここまでの言葉を並べられて、漸く私は彼の怒りの理由を察した。
私はさも当然の様にあの伝令兵の事を、志半ばで無念の死を遂げた可哀想な者として扱っていた。
彼はその考え方こそが重大な間違いであり、侮辱であると。そう言っていたのだ。
「貴様のその身勝手に投げかけた同情と言う名の自己保身が、本来感謝と誉によって神の元へ見送られるべき死者の魂に泥を塗っているのだ。ここまで委細を凝らして言えば、いくら温室育ちの令嬢と言えども分かるだろう?」
責務を果たした戦士へ捧げるべき感情は、哀れみではなく感謝と敬意である。
そして彼が果たした責務を受け継ぎ、襷を繋ぎ、勝利を以てその期待に応える。
「……重々、承知いたしましたわ」
それこそが、軍人たる者の役目だろう。




