第八十二話:捨てられた西(前編)
「走れ!足を止めるな!追いつかれるぞ!」
東部戦線でオーランド連隊軍が華々しい大戦果を挙げている一方。
西部戦線では、退却していくオーランド連邦軍の尻尾を掴もうと、渡河を完了させたノール帝国軍が怒涛の勢いで追撃を開始していた。
「騎兵に追われてんだぞ!?遅かれ早かれ捕まっちまうぞ!」
オーランド戦線の最西端を担っていた、連邦戦列歩兵第五連隊、並びに第四連隊の兵士達が必死の形相で東へと走る。
編成された戦列歩兵連隊の中で最も若い連隊番号を持つ彼らは、連邦軍の中で一番最後に編成された連隊という意味も持つ。
「やむを得ん!戦列を敷け!対騎兵防御用意!」
第五連隊の大隊長が一人足を止め、踵を返す。その意図を察知した第四連隊の大隊長も次々に足を止め、背中に追い縋ってくるノール軍騎兵へと正対する。
「方陣は組まなくて良い!横隊戦列で迎え撃て!」
二個連隊合わせて四千名に昇る戦列歩兵達が再び肩を詰め、三列横隊を縦に何段も重ねたような、巨大な正四角形の陣形を形成する。
本来対騎兵用の陣形として最も効果的なのは方陣隊形である。しかし彼らには、横隊戦列に頼らねばならない理由があった。
彼らは一番最後に編成された二個連隊である。それは裏を返せば、訓練期間が一番短かった連隊という意味合いでもある。彼らは基本的な行軍隊形と戦闘隊形の訓練こそ受けていたが、方陣隊形のような高度な陣形を修得する時間は無かったのである。
「射撃用意!十分に引き付けてから撃つぞ!」
兵士達が捧げ銃の姿勢のまま、回れ右の動作を取る。今まで碌に後ろを振り返らず、前だけを見て退却してきた彼らは、この土壇場になって初めて、自分達へ迫る敵軍の姿を直視する事になった。
「重騎兵だけじゃない!軽騎兵も追撃してきてるぞ!」
うすぼんやりと、敵の重騎兵に追撃されていると思い込んでいた兵士達から、次々と驚愕の声が上がる。
「近づいて来る敵歩兵の軍服がおかしい!ノール軍の軍服は白色じゃなかったのかよ!?」
オーランド連邦軍二個連隊を追撃していたのは、唯の部隊ではない。
ブランシャール中佐率いる第一重装騎兵連隊。
ベルナール率いるローヴィレッキ軽騎兵。
そして白の軍服に包まれたノール帝国軍の中で唯一、赤の軍服に袖を通す事を許された戦列歩兵。第七フュージリア連隊『ラ・フズィル』が彼らを刈り取ろうと迫っていたのだ。
◆
【パンテルス西部退却戦】
―オーランド連邦軍―
連邦戦列歩兵第四連隊:1943名
連邦戦列歩兵第五連隊:1912名
総兵力:3855名
―ノール帝国軍―
第七フュージリア連隊『ラ・フズィル』:1950名
帝国重装騎兵第一連隊:400騎
帝国第一軽騎兵連隊『ローヴィレッキ』:561騎
総兵力:2911名
◆
雪とほぼ同じく、白い肋骨服に身を包んだローヴィレッキ軽騎兵が、駆歩の速度でオーランド歩兵戦列を追撃している。
「捕捉したのは二個連隊か。もう少し捉えておきたかったが……」
ベルナールが下顎を掻きながら呟く。
「閣下、ブランシャール中佐の重装騎兵第一連隊が突出しております。足並みを揃えるよう伝令を出しましょうか?」
ベルナールと同じく、純白の外套に袖を通した伝令騎兵が尋ねる。
「いや、あれでよい。重騎兵閥の部隊は下手に制御するよりも、ある程度の自主性を持たせた方がよい」
ローヴィレッキ軽騎兵の遥か前方では、雪溶けかかった地面を踏み締めて疾走する、ブランシャール達重装騎兵の姿があった。
跨る馬脚が泥濘を踏み締める度に、彼らの軍服が、胸甲が、泥によって醜く汚れていく。
しかし己の軍服が泥に汚れようと、ましてや血に塗れようとも、それを一顧する者など誰も居なかった。
ノール帝国の誉高き重騎兵の名において、敵前で泥に塗れる事は恥でも何でもない。怖気づき、馬脚を緩め、その衝力を失う事こそが、真にその名へ泥を塗る行為なのである。
「ラカントの制圧戦では、ブランシャールの部隊を無理に御そうとした結果として失敗した。多少逸脱しようと、衝力を維持できるのならそれでよい」
ベルナールが、自身の袖口を溜め息混じりに見つめる。
「階級も上下級部隊も、何もあったものではないな……」
彼が羽織る外套の袖口には、幾つもの線を束ねたような、美しい幾何学模様の袖章があしらわれていた。
「重装騎兵第一連隊の突撃まで、もう間も無くです。およそ五分」
ベルナールとは違い、シンプルな三本線の袖章を付けた伝令騎兵が、遠目に戦況を報告する。
「重騎兵の動きに引き摺られるのは些か不本意だが……」
ベルナールが、制帽のつばを右手で掴む。その素振りを見た伝令騎兵は、すかさず紙と筆記具を取り出した。
「第七フュージリア連隊、大隊長各位へ通達。移動速度を道足から早足へ変更。重装騎兵第一連隊の襲撃後、速やかに着剣。敵戦列まで五十メートルの地点へと到達次第、大隊統制射撃を二射。その後に白兵突撃を実施されたし、以上」
ベルナールが言い終わるのとほぼ同時に、伝令は速記を完了させた。
「承知致しました、直ちに伝えます」
紙を四つ折りにした後、伝令は短い敬礼と共に馬首を返した。
「では諸君、我らはいつも通り軽騎兵らしく振る舞おうではないか」
ベルナールの跨る軍馬が徐々に速度を緩めると、後に続く軽騎兵達も徐々に速度を緩め、最後には連隊全騎が停止した。
「どうぞお先に、ラ・フズィル殿」
後方から現れ出る赤服の彼らを、ベルナールはシャコー帽を振って歓迎する。
臙脂色のコートジャケットに、白のベストとブリーチズボン。灰色の三角帽には金の縁取りを備え、一般歩兵に比べて大口な作りをした袖口は、向日葵のように明るい黄色をしている。
白一色のノール帝国オーランド方面軍において彼らは、白蛇の赤目として対峙する者の足を竦ませるのだ。
「ベルナール卿、貴隊の分も、残しておいた方が良いかね?」
ラ・フズィルの連隊長が、馬上で白手袋を嵌めながら尋ねる。上級貴族らしく気取った、鼻に付く発音で。
「我らは見ての通り白禿鷹ゆえ、余り物にありつければ十分にございます」
「奇特な志だ。しかれども借りにはせんぞ」
ベルナールの謙遜を鼻で笑う彼のジャケットは、兵士達と同じ赤い生地の上から、金のモールとブレードの装飾が所狭しに施されている。ベルナールの装いを白と金と評するのであれば、この連隊長の装いは赤と金と言えるだろう。
「大隊統制射撃を二射と、言ったかな」
鼓笛隊の奏でるマーチの音色が二人の側を通り過ぎ、徐々に前方へと遠ざかっていく。
「一射で十分だ。第七フュージリアの戦いを見るがよい」
しゃがれた声色と共に、初老の連隊長はベルナールに敬礼を見せた。
「……ヤン・クラヴィエスキ大佐殿、その敬礼はあまり褒められた物ではありませんな」
彼が披露したのは、右手の中指と人差し指のみを伸ばし、他の指は握り込む敬礼だった。
「貴卿に褒めてもらわんが為に、敬礼をしている訳では無いのでな」
三角帽を目深に被り直すと、クラヴィエスキは隷下の戦列へと軍馬を走らせて行った。
第七フュージリア連隊とは、ノール帝国軍の第七歩兵連隊という意味ではない。
嘗て存在したヴラジド大公国軍。その七番目を拝領していた部隊を指す言葉である。
「重装騎兵第一連隊が敵戦列へと襲撃機動を敢行。敵縦深第五列まで貫徹の後、現在は一時離脱機動中」
クラヴィエスキの隣で単眼鏡を構える大隊長が、ヴラジド語で報告を行う。
「ノールの重騎兵は、かくも正面から突撃したがる物か。二十年前から寸分も変わっとらんな」
同じくヴラジド語で返すと、彼は握り込んだ右手を挙げ、各隊に停止を促した。
一個連隊、二個大隊、八個中隊、総員二千名の赤服を、突撃に備えて横隊三列へと整する。戦列の端から端まで、一切の歪みも無い。正しく赤い壁である。
「「着剣――」」
大隊長二人の号令と共に、全歩兵が左手を後ろに回す。フラップボタンを外し、襷掛けした鞘から白磨きにされた銃剣を取り出す。
「「――用意!」」
予令から一拍置いて発せられた動令により、マスケット銃の銃床を地面に突き立て、銃口に銃剣を当てがう。着剣ラグに銃剣のソケット部分が差し込まれ、瞬く間に二千の槍衾が構成される。
「「道足前進――」」
クラヴィエスキが拳っていた拳を開き、空を斬るようにして振り下ろした。
「「――前へ!」」
鏡写しの如く同一な挙動で、第七フュージリア連隊が前進を再開する。騎兵突撃の混乱から立ち直れていないオーランド戦列へと、赤い壁がじわじわと迫る。大隊中央で演奏を行う鼓笛隊のドラムとフルートの音色、そして彼らの足音が、再び西部戦線の空気を支配する。
今や幻と成り果てたヴラジド大公国の戦列歩兵が、今この瞬間、確かに蘇ったのである。




