第七十七話:空を砕く(前編)
「薬包持って来い!」
「布覆いを外せ!射撃用意!」
「さっさと火を起こせ!導火棹は何処にある!?」
「砲脚周りを至急除雪してくれ!砲の駐退スペースが確保できない!」
風情も何も無くなった雪を踵で蹴り上げながら、堡塁の中をネズミの様に駆けずり回る砲兵達。三角帽を手で押さえながら壕の中に駆け込んでいく者や、薬包を担いで壕から飛び出してくる者。ひっきりなしに地上と半地下を行ったり来たりする姿が、より一層彼らのネズミらしさを助長していた。
「コロンフィラ伯閣下より返書!『攻勢に出てきたのは東中西どの戦線か?』」
「あぁもう情報が古いわねっ!全線戦よ!敵は全線戦に渡って攻勢を仕掛けてきてるわ!早く次の指令を持ってきて!」
本陣から来た伝令兵を下馬もさせずに送り返しつつ、導火棹に火を付けるエリザベス。
「騎馬砲は堡塁の左手に布陣せよ、僕の位置から左手に向かって布陣だ。横一線に並べる程、この丘は広くない。前後互い違いに距離を取る形で並びたまえ」
ディースカウ率いる騎馬砲兵隊も急ぎ射撃準備を整えようとするが、移動隊形から射撃隊形への移行にはどうしても時間が掛かる。加えて堡塁の外側は全く除雪されていない為、騎馬砲兵達は雪を掻き分けながら大砲を射撃位置まで運搬しなければならない。
「エリザベス君。騎馬砲は射撃準備完了まで時間が掛かりそうだ。準備が完了するまでの間、ランバート少佐のカノン砲部隊を手伝ってやってくれ」
「しょ、承知致しましたわ!」
敵軍による氷上渡河攻勢という、誰が聞いても震駭の表情を浮かべそうな事態に陥ってもなお、ディースカウの表情は涼しげである。彼はエリザベスから導火棹を受け取ると、バトンの様にクルクル回転させながら砲兵達の配置指示へと戻って行った。
「内戦で一体どんだけの修羅場くぐって来てんのよ……」
彼の持つ度量と闇の深さに想いを馳せながら、イーデンとオズワルドの元へ走る。そこには案の定、ディースカウと違って焦りの表情を全面に出しながら指示を飛ばす二人の姿があった。
「六ポンド中隊は射撃準備完了か!?」
「完了してます!榴弾砲中隊も同様に射撃準備完了!八ポンド中隊と十二ポンド中隊は未だ途中です!」
各砲の現況を、伝言ゲーム形式で伝達するイーデンとオズワルド。
現代において士官の不足とは、情報伝達手段の不足と同義である。よって士官一人が負担しなければならない伝達事項が増え、隷下の兵達を指揮統制する時間が削られていく。指揮という士官の本分が、伝令という手段に食い荒らされる事により、軍隊はいよいよもって硬直化するのである。
「イーデン!榴弾砲中隊の指揮権を私に移譲して!進軍中の敵軍を一網打尽にする方法があるわ!」
命令待ちという名の硬直状態に陥っている榴弾砲部隊を解氷しようと、エリザベスが駆け寄る。
「分かった一任する!すまねぇが榴弾砲の面倒まで見てる余裕が無ぇ!」
心底有難いといった様子で、射撃準備中の六ポンド砲兵陣地へと駆けていくイーデン。
大隊指揮官が中隊内のマイクロマネジメントに追われている状況は非常によろしく無い。直ぐにでも彼が大隊指揮という本分へ戻れるように、我々下級将校が補助をする必要がある。榴弾用の木製信管を携えながら、そうエリザベスは決心した。
「榴弾砲中隊各員!今よりこのわたくしが直接指揮を執りますわ!砲兵令嬢の隷下に入る事、光栄に思いなさいッ!」
士気向上と指揮掌握の為とはいえ、今自分が述べた歯の浮く文言の数々に思わず口端が上がりそうになる。聞き手の榴弾砲兵達といえば、あの砲兵令嬢の指揮下に入れると、大変な盛り上がりを見せている。
「信管秒数算出要請!目標は中央線戦の敵戦列!榴弾で氷を粉砕するわ!」
「了解です中尉殿!聞いたか野郎ども!ノールの奴等をパンテルスの水底に叩き落としてやれ!」
敵は文字通り、薄氷の上を歩く様な作戦を実行してきている。これが綿密な計画に沿って実行された作戦ではない事は明らかだ。
ならばその薄氷ごと叩き割り、彼らの脆弱な奇策を足元から崩すのが最も効果的だろう。
「敵の奇策に対して真面目に付き合う必要は無いわ!只々道理を以て歓迎して差し上げましょう!」
既に、エリザベスは初動の混乱から完全に立ち直っていた。
当のエリザベスに自覚は無かったが、これまでに幾度もの戦闘を経験した彼女の心は、ひとたびの奇策程度では動じない程に強固な物となっていたのである。
「信管秒数算出!七.五秒!」
中隊内で最も古参の軍曹が、エリザベスの指揮補助に付く。
「七.五秒了!」
コンマ五秒毎に目盛りが刻まれた細長い木製信管を、七.五秒分の長さで分割する。これによって、榴弾の起爆時間を簡便に調整できる。
「信管挿入!」
外殻に信管を突っ込み、完成させた榴弾達を軍曹と二人で弾薬集積所から榴弾砲の元まで運ぶ。交通壕の中をネズミの如く足早に、且つ慎重に運ぶ。
「ほらよ!新鮮な榴弾だ!」
「あいよ!各砲仰角取れ四十一度!」
既に発射薬が装填された四門の榴弾砲が、徐々に顔を上げ始める。
「四十一度了!仰角増せ!……増せ!……やめ!」
砲身の根元で分度器を構えていた砲兵が右手を挙げ、指定仰角になった事を知らせる。
「榴弾、点火!」
「点火!」
点火命令を受けたエリザベス達が、火縄を榴弾の導火線に当てがう。すると導火線の先端から、怒涛の勢いで青白い煙と激しい火花が迸る。
「榴弾装填!」
火花を散らしたままの榴弾が、砲身内部へと送り込まれる。カノン砲と違って砲身の短い榴弾砲は、仰角を取りながらでも比較的容易に装填が可能である。
「射撃用意!」
額に汗を滲ませる砲兵が、導火棹を慎重に火門へと近づける。
発射薬と榴弾の間には弾底板と呼ばれる木製の仕切りが設けられている為、発射薬に火花が移ってしまう事は滅多に無い。しかしそれでも腔発のリスクをゼロにする事は不可能である。
砲兵は、騎兵や歩兵と違って安全圏に居ると思われがちである。しかし実の所、彼らも一射一射に命を賭ける戦士達なのである。
「撃てェ!」
今度も賭けに勝利した砲兵達が、飛翔する榴弾を目で追う。高く打ち上げられたそれが頂点に達したかと思えば、今度は殺意を持った加速度で落下を始める。
「よし!そのまま――」
懐中時計を片手に起爆時間を数えるエリザベスだったが、榴弾は虚しくも氷上へ着弾する寸前で爆ぜた。バラバラと弾殻片が氷河へと突き刺さるが、肝心の氷はびくともしていない。
「ダメ!早発よ!信管をコンマ五秒長くして!」
八秒に調整された榴弾が砲身へ押し込まれ、再び空へと榴弾が打ち上げられる。
「撃てェ!」
再び宙を舞って降り落ちた榴弾は、氷河の上にめり込んだかと思えば、そのまま爆ぜる事も無く沈黙した。
「畜生!不発だ!氷のせいで着弾と同時に導火線の火が消えちまう!」
エリザベスの隣で古参軍曹が声を荒げる。早く撃てば早発し、遅く撃てば不発となる。どうしようもないジレンマが、エリザベスの頭を駆け巡る。
「コンマ一秒違わず、着弾した瞬間に爆発させるなんて芸当、奇跡でも起きないと無理じゃない……!」
榴弾に限らず、大砲の発射前には砲兵による計算と再照準が行われる。しかしながら、事前に意図した場所へと砲弾が着弾する事は滅多にない。温度や湿度、砲架の傾き、砲弾の形状、砲腔の摩耗や遊隙といった、考慮しなければならない変数が多過ぎる為である。
畢竟、砲弾を命中させられるかどうかという点において真に重要なのは、精確な測距や正確な計算ではない。熟練砲兵の経験と勘である。
エリザベスには知識こそあれども、砲兵としての経験で言えば、未だ熟練と呼ぶには程遠い存在であった。
「中尉殿、進言致します!十二ポンドカノン砲であれば、その大質量で氷を叩き割れるかもしれません!」
古参軍曹がエリザベスへ進言を行う。
「……分かったわ!榴弾砲兵各位!この場は任せたわ!信管を調節しながら撃ち続けて!」
彼に賛同の頷きを示し、今度は十二ポンド砲陣地へとひた走る。
除雪済みの交通壕でひと繋がりになっているとはいえ、陣地まで走る距離自体は変わらない。徐々に息が上がり、脚が上がらなくなってくる。
「ホント……体力無いわね……わたしッ……!」
己の非力さに悪態を吐く。商人令嬢時代は走るどころか自分の足で歩き回る事すら稀だったのだから、道理と言えばその通りだ。しかしそれでも思い通りに動かない自分の身体が恨めしい。
「十二ポンド砲……射撃用意は出来たかしら……?」
屈んで両膝に手を付き、肩で息をしながら尋ねる。
「準備完了です!いつでも行けます!」
「了解……右方の砲から順次射撃……!氷を割りなさい……!」
エリザベスは屈んだまま右手を上げ、射撃号令を出す。
「了解!右方十二ポンド砲から順次発射!目標はパンテルス川そのものだ!撃てェ!」
各砲の点火要員が、次々に火門へと火を移す。騎馬砲の四ポンドとは比べ物にならない、雷鳴の様な砲声が四度響く。まるで神の怒りだ。
直径十五センチの巨大な丸弾が、渾身の力を以て振るわれる槌の如く、氷上へ叩き付けられる。しかして大きく抉られはすれども、割るには至らない。
「十二ポンドでもダメ……?冗談でしょ……!?」
迫り来るノール軍を見つめながら舌打ちするエリザベス。
そもそも、ノール帝国軍という超負荷を物ともしない氷なのだ。十二ポンド四発程度では、どうにもならない。
「な、何か他に手は……」
「お姉ちゃんお姉ちゃん!」
後方でエリザベスの奔走を見つめていたエレンが駆け寄ってくる。
「こっちこっち!ヨハンお爺ちゃんの所に来て!」
「ど、どうしたのよ急に!?」
エレンがエリザベスのコートの裾を引っ張りながら、ヨハンの鍛冶馬車へと案内する。
「氷を割りたいんでしょ?良い方法があるよ!」
「来たか、エリザベス」
赤々と燃える炉を前にして、ヨハンが腕組みをして仁王立ちしている。
「す、凄い火力で炉を燃やしてるわね……」
「あぁ、ここまでやればパンテルスの氷といえど割れるだろう……ほらよ」
ヨハンは炉の中に巨大な火挟を突っ込むと、炉床で加熱され、真っ赤になった丸弾を取り出した。
「氷を割りてぇんなら、衝撃よりも温度差を利用した方が良い」
夕日のような色をした丸弾を、専用の運搬車に載せるヨハン。
「今回のパンテルス川もそうだが……水が急激に冷やされた場合、多量の気泡を含んだ氷が生まれる。そこを赤熱弾で外側から熱してやれば、中の気泡が一気に膨張して氷ごと砕け散る筈だ」
彼の口元の髭が、僅かに笑みの輪郭を形作る。その表情からは、当然の帰結だとでも言いたげな自信が満ち溢れていた。
「各砲陣地に、丸弾を集めるように言ってくれ。赤熱弾を作ってやる」
「なるほど……確かに……」
極めて理論的な提案ではあったが、それでもエリザベスは考え込む。
ノール軍の進軍スピードから逆算すると、もう次の策を用意する時間は無い。ヨハンの案が失敗すれば、ノール軍全軍に渡河を許してしまう。そうなれば、自軍が極めて劣勢となる事は明白である。
「…………」
この決断を以て、大勢が決まる。
今まで感じた事も無い責任が重くのし掛かり、判断の思考そのものを鈍らせる。
ヨハンが、無言で思案に暮れる彼女の眼前に立った。
「俺はノール軍と戦った事は無ぇが……」
彼は、右手に持ったハンマーを手中で一回転させた。
「鋳物師として、気泡とは散々戦って来た。奴らの事はよく知ってる、信じてくれ」
鋳物師として数十年を費やした彼から発せられる言葉は、パンテルスの氷を砕くに、そしてエリザベスを肯んずるに十分な重みを持っていた。