第七十六話:地上の空を渡る
「さ、寒い……」
エリザベスが、焚火に両手をかざしながら呟く。袖余りの外套を火に近付けた所為で、幾つもの小さな燃え跡が誕生していた。
焚火で幾ばくか暖めた両手を、冷えて感覚の無い鼻先へと当てがう。燻した木の匂いが鼻腔を満たし、もう何度目かも分からない溜息を吐く。
「いつになったら終わるのよ……」
第一次パンテルス会戦から五日後。
北方大陸の冬は厳しさを増し、一昨日の時点で既に気温は氷点下に達していた。加えてアトラ山脈から吹き下す風が、オーランド将兵の士気を容赦なく引き剥がしに来ていた。
「おいベス、交代の時間だぞ」
ダンゴムシの様に丸まったエリザベスの背中に、オズワルドの無慈悲な声が突き刺さる。
「うううぅぅ、今何時?」
「午前六時だ、交代だぞ」
大砲陣地は火気厳禁である。
陣地内で火を焚けない砲兵達は、陣地から離れた場所で暖を取る他無い。その為オーランド砲兵達は焚火にあたる砲兵と、陣地内で待機する砲兵とで交代制を採っていた。
「も、もう五分だけ……」
「お前がゴネてる間に敵が攻めてきたらどう責任を取るつもりだ。さっさと持ち場に戻れ」
オズワルドに背中を軽く蹴られ、渋々重い腰を上げる。元々朝が弱いのも手伝って、腰どころか体全体が鉛のように重い。
「昨夜からノール軍の様子がおかしい。第二次攻勢を仕掛けてくる可能性は十分高いぞ」
その辺の細枝を焚火に放り込みながら、外套の裾を尻に敷いて座り込むオズワルド。
「こんな辛い思いをするくらいなら、戦ってた方が何倍もマシよ……」
パキパキと、外套に取り憑いた霜を取り払う。
「それで、ノール軍の様子がおかしいってどういう事?」
「あぁ、昨晩からノール軍野営地が真っ暗なんだ。露営の火が一つも見当たらない」
彼の言葉に単眼鏡を取り出し、対岸にレンズを向けて見ると、確かに一昨日あたりまでポツポツと暗闇の中で焚かれていた火が全く見えない。
「暗くてよく見えないけど、確かに明かりが一つもないのは妙ね……寒さに耐えかねて逃げ出しちゃったのかしら」
「奴らに逃げる場所なんて無いさ」
鼻で笑いながら焚火に手をかざすオズワルド。
「ラカントとリヴァンは徴発済み。パルマには灰しか残ってない。国境峠はもう人が通れる様な所じゃない。奴らはもう、血を吐きながらでも前に進むしかない」
単眼橋を畳み、オズワルドへ向き直る。
「前に進むしかないから、攻めてくるって事ね」
「そうだ。奴らの後退という選択肢を奪ったのは、他でもない俺達の成果だ」
オズワルドはそう言うと、座ったまま握り拳を突き出した。
「一先ず、俺達の戦略的勝利だ」
「……そうね」
ポケットに突っ込んでいた右手を握ると、エリザベスはオズワルドと拳を突き合わせた。
「じゃ、また六時間後ね」
お互いに背中を向けながら、右手を振った。
「……いや寒っむ」
あまりの寒さに老人の様に腰を曲げ、砲兵陣地への道を進む。寒さと風はひとしおだが、降雪が無いのは救いである。
パルマやリヴァンと違って、タルウィタ近郊は朝霧もさほど発生しない。未明現在の敵情把握は困難だが、朝日が顔を出せば自ずと敵方の陣容も明らかになるだろう。
「お、来たか。お前も手伝え」
砲兵陣地から雪を掻き出していたイーデンから、スコップを投げ渡される。
「またエラい積もったわね……」
「昨晩に結構降ったからな。今降ってないだけマシだ」
半地下状に掘られた交通壕へと滑り降り、降り積もった忌々しき白い死神へとスコップを突き刺す。それを掬い上げ、怨念と共に地面へ放り投げる。
砲兵中隊が陣を構える際は、一般的に堡塁と呼ばれる大砲用の塹壕を掘る。戦線の移ろいやすい野戦で作られる事はあまり無く、通常は攻城戦の際に作られる構築物である。今回は敵の進軍路が確定しており、またエルヴェット橋南方の丘陵という緊要地形に布陣している事情もあった為、本格的な堡塁が作られるに至った。
大砲の数だけ設けられた砲眼の周りは、土や砂を用いた防楯で固められており、敵砲弾を強固に防ぐ構造になっている。砲眼の背後には、駐退用のスペースが広く平らに設けられており、砲撃後の大砲がスムーズに後退出来るようになっている。射界に合わせて扇状に広がる駐退スペースの更に後方には、ジグザグに交通壕が穿れており、その終点には火薬集積所がひっそりと息を潜めている。
交通壕が雪で埋まるという事は、火薬の運搬路が雪で埋まるという事と同義である。故に野砲部隊の砲兵達はもちろん、ディースカウ率いる騎馬砲兵部隊の砲兵達や、砲兵輜重隊の面々も総動員して雪掻き作戦を実施していた。
「なんで屋根をつけないのよ。布でもいいから張ればいいのに」
「雪の重みで潰れる。屋根ごと崩落でもしたら面倒が二倍だ」
「木でしっかり作ればいいじゃない」
「木は貴重な燃料だ。屋根なんかに使ったら勿体無いだろ」
「むむむぅ……」
イーデンのごもっともな意見に閉口し、手を動かし続けるエリザベス。
「ここの作業が終わったら……あっちと、向こうと……」
エリザベスの前には、野砲十四門の為に掘られた幾本もの交通壕が広がっている。しかも、その全てに雪が降り積もっているのだ。
基本的に堡塁は、三から四門毎、つまり中隊毎に独立して構築するのが普通である。しかしオーランド連邦砲兵隊は士官不足の為、カノン砲八門と榴弾砲六門の堡塁がひと繋がりになっている。要するに交通壕が非常に長いのである。
ひーこら言いながらも雪を除け続け、寒さよりも腕の痺れが気になり始めた時、頭上からイーデンの声が響いた。
「おいベス、ちょっと来てくれ」
「分かったわ」
身長が足りず、交通壕を直接よじ登れない為、階段まで回り道してから地上に顔を出した。
「やぁエリザベス。雪かきご苦労様」
「お疲れ様です隊長殿!」
そこには騎馬砲を従えたディースカウとイーデン、そして猟兵のリサが揃っていた。
「リサ、すまないがもう一度ベスに説明してやってくれ」
「了解しました!」
リサは頭に乗った雪をはたき落としながら、寒さを全く感じさせない声を響かせた。
「昨晩より、我々猟兵大隊はノール帝国軍陣地の偵察を行っておりました。然するに、判明した事項は二点。一つは同軍の灯りが昨晩より全く視認出来ない点。今一つは、前述の現象は中央戦線のみならず、全戦線に渡って発生しているという点です」
「……驚いたわ、しっかり報告できるようになったじゃない。邀撃戦の時とは大違いよ」
「うヘヘヘ……うちの大隊長殿から一字一句間違えないように伝えろと言われまして」
メモを取り出しながら照れるリサ。
「ホーキンス君、現在の偵察状況について教えてくれるかい?」
腕を組み、騎馬砲にもたれ掛かっていたディースカウが尋ねる。
「えぇと、今は大隊長の命令で全員偵察を中断しています。これ以上偵察を続けたら、みんな凍死しちゃいそうだったので……」
「目を瞑ってしまうのは良くないね。シュトイベン卿の部隊は交代制を採用していないのかい?」
糸目のまま、眉を顰めるディースカウ。
「交代できるほど猟兵が居ないんです。それに全戦線を偵察するとなると、結局かなりの数の猟兵が必要になっちゃうので……」
「それは参ったね……」
内戦を経験した歴戦の将校であっても、人の不足ばかりはどうしようも無い。ディースカウの漏らす息が、それを如実に物語っていた。
「リサが言うように、このノール軍の動きは攻勢準備と見て間違いないだろう。コロンフィラ伯閣下のご所見も同様だ」
そう言うと、前車の上に広げられたカロネード商会の地図を指差すイーデン。
「だが肝心の、何処から敵が攻めてくるのかが読めなくてな……ベス的にはどうだ?何か思いつく所は無いか?」
「何処から、ねぇ」
広げられた地図を覗き込むエリザベス。
一番可能性が高いのはエルヴェット橋、つまり中央戦線だろう。渡河作戦が失敗した矢先、また同じ作戦を実行してくる可能性は低い。そして何より、敵は渡河作戦に不可欠な工兵と架橋設備を喪失している。渡るならばここしか無い。
「何処から……うーん……」
しかしその裏を突いて、再度東部に渡河攻撃を仕掛けてくる可能性も当然あるのだ。工兵も架橋設備も、あれが全てだとは誰も言っていない。加えて、今まで意識の外にあった西部戦線での渡河という可能性も十分に考えられる。
「うーん……うーん……」
このような思考の迷路に嵌り落ちるのは、なにもエリザベスに限った話ではない。
攻勢側の優位性とは、攻勢位置の主導権と攻撃時期の主導権、この二点にある。それは翻って、防衛側に思考の負担と事前の決断を強いる物である。
戦場の霧が立ち込める中、事前の決断を迫られた指揮官から発せられ得る命令といえば。
「順当に考えれば、中央戦線だと思いますわ。ただ……再度渡河作戦を実行してくる可能性も捨てきれません。騎馬砲兵部隊をいつでも移動できる状態にしておきつつ、相手の出方を伺いましょう」
現状維持、それだけである。
「やっぱり、そうなるよな。コロンフィラ伯閣下も含めて全員、お前と同意見だ」
情報不足による決断の先延ばしを、意見の一致と勘違いしたイーデンが笑みを浮かべる。
「となると、少なくとも士官は全員戦闘配置に付けた方が良いな……ベス、ちょっとオズワルドを呼んできてくれ」
「分かりましたわ」
雪を大股で踏みしめながら、先程まで居た焚き火の方へと向かうエリザベス。
「……や、やっぱり寒い」
雪かき作業で温まっていた体が、みるみる内に冷えていく。
オズワルドの元へ辿り着く頃には、再び老人の姿勢に戻っていた。
「起きてオズワルド、出番よ」
「は?もう交代か?」
もう六時間経過したのかと勘違いしたオズワルドが時計を見やる。
「まだ七時じゃねぇか」
「違うわよ。敵が攻めてくるかもしれないから、士官だけ戦闘配置に付くのよ」
「そういう事かよ、まだ禄に休んでねぇってのに……」
腰を上げ、伸びながら欠伸をするオズワルドが、ふと横を見た。
「おー、すげぇ。ここまで完璧に凍ってるのは久々に見たぞ」
つられてエリザベスも横を見ると、そこには完全凍結したパンテルス川の姿があった。
「ヨルク川やオーデル湖が凍るのは毎年のこったが、パンテルスまで凍るのはかなり珍しいな……」
思わず歩みを進めるエリザベス。寒さをも忘れる程の美しさが、そこにはあった。
真っ白いキャンバスに、とても薄い青を塗ったような光景。
地上に空が現れたような、透き通る青だった。
更に、僅かに顔を見せ始めた太陽の光が、完全凍結したパンテルス川を徐々に照らしていく。
「きれい……」
光に照らされていくにつれ、空からダイヤモンドへと変わっていくパンテルス川。
二人は暫くの間、自然が織りなす芸術的な光景に釘付けになっていた。
「ん?」
朝日がパンテルス川の過半を照らし終えた時。
対岸に蠢く何かが見えた。
「……何あれ」
川の色とは微妙に違う、白と灰色、そして少しの黒。パンテルスというキャンバスの上端から、徐々にこちら側へと垂れてくる色がある。
「あぁ、そんな……ああ……!」
眼前に広がる光景を信じたくない思いと、今までの自分が発した能天気な発言を悔いる思いが同時に押し寄せる。
「おいベス!」
「走って!」
弾かれたように走り出す二人。
凍結したパンテルス川を歩いて対岸へと迫るノール帝国軍が、朝日によってその姿を現したのだ。
「嘘だろ嘘だろ嘘だろ!?凍結した川の上を歩くとか正気かあいつら!?」
「川を渡るには橋を使うしかないと結論付けた私達の負けよ!イーデンに……いやコロンフィラ伯に伝えないと!」
砲兵陣地へ疾駆する中、コロンフィラ伯の発した言葉が脳天に響く。
『敵の関心と執着を、エルヴェット橋に縛り付ける』
「違う……縛られていたのは……!」
橋に縛られていたのは、私達の方だ。
【パンテルス会戦:戦況図④】