第七十四話:良き指揮官(後編)
パンテルス川東部戦線。
真冬の河川に腰を沈めたノール軍歩兵達が、波濤を乗り越えて小舟を運ぶ。命綱を体に巻き付けた屈強な工兵達が、パンテルスの流れに逆らいながら川淵を突き進む。
急峻の前に足を掬われ、苦悶の表情のまま水面下に沈む者。
余りの寒さに体中の筋肉が強張り、無表情のまま沈んで行く者。
架橋設備を設置しようとするノール軍兵士の幾人もが、パンテルスの餌食となっていた。
その上、冬季の河川という凍て付く地獄を凌ぎ、橋を掛けたとしても。
「一斉射撃!射撃用意!」
渡った先に待ち受けるのは、更なる灼熱の地獄である。
この二重の地獄こそ、渡河作戦が困難と言われる所以であった。
「狙え!」
対岸で待ち構えるオーランド戦列の筒先が、水上で悪戦苦闘する彼らへと向けられる。
「撃てェッ!」
「潜れ!」
戦列から眩い光と硝煙が迸ると同時に、ノール兵士達が水面下へと身を隠す。
マスケット銃の弾丸には、水中を邁進する程のエネルギーは無い。その為、水面下に身を隠せばある程度の安全が確保出来る。
しかしそれは勿論、溺死と隣り合わせである事を意味する。
彼らにとっては、溺れて死ぬか、撃たれて死ぬかの二択でしか無かった。
「繋船索が対岸へ到達しました!」
川岸で待機していたノール軍工兵の一人が、小舟を数珠繋ぎに留めるロープを保持しつつ部隊長へと叫ぶ。
「良し!突撃工兵大隊、第五班及び第六班!床板用意!味方榴弾砲の砲撃音が合図だ!」
足場用の床板を抱えた突撃工兵達が、川淵に繁茂する水草の影で息を潜める。
対岸までの距離は凡そ九十メートル。
この百メートルにも満たぬ距離を進む為に、ノール軍は突撃工兵なる精鋭部隊を、損耗覚悟で投入していた。
「撃てェッ!」
対岸から、オーランド戦列の斉射が再び降り注ぐ。
着弾が水と泥を跳ね上げ、彼等が胴に纏う胸甲鎧を汚していく。
運悪く、敵弾に見染められた者が崩れ落ち、床板を取り落とす。すると後ろで待機していた別の工兵が速やかに後を詰め、無言で床板を受け継ぐ。
足が凍える水に浸かろうとも、敵弾の雨に晒されようとも、粛々と次の命令を待つ。
軍に於いて精鋭とは、永く耐える者達を指す言葉なのだ。
「西方丘より砲煙確認!」
味方榴弾砲陣地を凝視していた工兵が叫ぶ。
曇天の寒空に硝煙が溶け込むのと同時に、榴弾砲の発射音が東部戦線にも到達した。
「進め!」
胸甲以外の装備を外した工兵達が、部隊長の言葉を受けて一斉に川へ飛び込む。
小舟と戦友の亡骸が揺れる水面を掻き分け、小舟の上に床板を次々に敷いていく。
「射撃用意!」
再三度、射撃準備を整えたオーランド戦列が銃を構える。
「狙え――」
射撃号令を下達するオーランド中隊指揮官の真横で、榴弾が炸裂する。彼が振り上げたサーベルと、それを握る腕が弾け飛んだ。
「敵の榴弾だ!中隊長殿がやられた!」
「指揮権移譲だ!早くしろ!」
「こっちの砲兵は何をしているんだ!?」
敵榴弾砲による砲撃により、オーランド戦列の射撃頻度が急激に低下する。
その隙をノール軍が見逃す筈が無かった。
「進め!進め!工兵が命を張って作った道だ!これが勝利への道だ!」
三列縦隊で浮舟の上を走るノール軍兵士達。床板は多少揺れるが、工兵が命懸けで張った繋船索のお陰で流される事は無い。
「各個に撃て!渡河を許すな!」
東部戦線中央を任されたパルマ・リヴァン駐屯戦列歩兵連隊が各個射撃を再開する。榴弾の脅威に晒されようとも、各員の判断で射撃を継続出来る彼等もまた精鋭であった。
しかし、戦線は精鋭のみで形作られる訳では無い。
「見ろ!敵が川を渡ってくるぞ!ノール軍が来る!」
「無理だ!ノール軍と撃ち合って勝てる筈が無い!」
「折角リヴァンから生きて脱出出来たのに、こんな所で死にたく無い!」
パルマ・リヴァン駐屯戦列歩兵連隊の左隣。
南部辺境伯義勇軍によって形成された戦列が大きく乱れる。戦列のカドが取れ、三列横隊の隊列が歪み、不定形の楕円へと変貌していく。
「もう沢山だ!ここに居たくない!」
最後列の兵士の一人が銃を放り出し、背後に向かって逃走を始める。それに釣られる様にして、同じく最後列の一部が後方に向かって脱走する。
「逃げるな!隊列を維持しろ!」
戦列後方で督戦を行う下士官達が、逃走防止用の槍を彼ら突き付ける。
「戦いたきゃお前らだけで戦ってくれ!」
そう吐き捨てながら走り去る彼等の人数は、既に彼等へ向けられた槍の数を大きく上回っていた。
「待ってくれ!置いて行かないでくれ!」
最後列という壁が無くなった中段列からも、次々に脱走者が現れ始める。
そして最前列の旗手までもが踵を返した時、同義勇軍戦列の崩壊は決定的となった。
◆
【パンテルス会戦:東部渡河作戦】
ーオーランド連邦軍ー
・パルマ・リヴァン駐屯戦列歩兵連隊:1674名
・南部辺境伯義勇軍:765名
・パルマ軽騎兵中隊:98騎
・連邦騎馬砲兵中隊:6門
ーノール帝国軍ー
・帝国戦列歩兵第五連隊:2000名
・帝国戦列歩兵第三連隊:1419名
・帝国重装騎兵第二連隊:567騎
【パンテルス会戦:戦況図③】
◆
「まずいわ!戦線左翼が士気崩壊してる!」
エリザベスが、こちらに向かって来る旗手を見つけて叫ぶ。
「これは良くない兆候だね。対処しないと」
対してディースカウは落ち着いた様子で右手を挙げる。
「各砲、我が右に展開せよ」
縦列を形成していた騎馬砲兵隊が、右へ右へと横隊を形成する。
「エリザベス、君はパルマ軽騎兵を全騎此処へ呼んできてくれ」
「分かりましたわ!」
雪深い平原をパイパーに跨り進んでいく。背が高く、馬力もある重輓馬であれば雪原もなんのそのである。
「ランチェスター少佐殿!」
「その声はエリザベスか!ようやく騎馬砲兵隊のご到着だな!」
フレデリカが、前線から脱走してくる兵士達を押し留めようと奮闘している。
「南部辺境伯義勇軍戦列が士気崩壊中だ!急ぎ対処する必要がある!」
「ディースカウ大尉が策をお持ちですわ!一度わたくし達の元へ合流して下さいまし!」
「あいわかった!再集結!」
彼女が円弧を描くようにサーベルを振ると、散り散りになっていた軽騎兵達がすぐさま集結する。
来る時にパイパーが掻き分けた雪道を活用し、一列縦隊でディースカウの元へ馳せ参じるフレデリカ達。
「パルマ・リヴァン連隊の状況はどうなってますの?」
「彼らの戦列は健在だ。幸い、連鎖士気崩壊にまでは至ってない」
「流石は歴戦の部隊ですわね、安心しましたわ」
最悪の事態には至っておらず、ホッと胸を撫で下ろすエリザベス。
一個中隊の中で発生した動揺が、一個大隊へ伝播し、一個連隊へ伝播し、最終的には戦線全体へ伝播する。これが連鎖士気崩壊である。
一度連鎖士気崩壊が発生すると、まだ無傷の連隊でさえ恐慌をきたし、潰走してしまう。
故に連鎖士気崩壊は指揮官にとっての悪夢であり、何としてでも阻止しなければならない現象である。
「ディースカウ大尉、何か案をお持ちか?」
騎馬砲列に到達したフレデリカが、騎乗のままディースカウに問う。
「一瞥した限りですが、脱走中の兵は三百を越えようとしております。一度こうなってしまうと、下士官及び騎兵による督戦は意味を成さないでしょう」
そう言うと彼は、敵の渡河地点に向かって指揮棒を向けた。
「各砲、支援砲撃用意。脱走兵達に、我ら砲兵が来た事を教えてやれ」
指示を受け、砲兵達が仰角を目一杯高く取る。
「加えてランチェスター少佐殿、それにカロネード中尉」
ディースカウが、前車に積んでいた二本のオーランド軍旗を取り出す。
「逃げる兵達を戦場に留まらせるには、前へ前へと進む軍旗を用意するのが一番です。砲撃後、この旗を翻しながら前線へ躍り出て下さい。きっと潮目も変わります」
「文字通り、旗振り役か。良いだろう」
軍旗を掲げる誉れを受け、微笑みながら旗を受け取るフレデリカ。
「出来る限り、大声で我らが来た事を伝えてくれ。エリザベス、特に君は英雄と名高い。自分の名を叫ぶだけでも効果はある筈だ」
「わ、分かりましたわ」
自分の様な小娘がノコノコ出てきた所で、脱走中の兵士の気が変わる事などあるのだろうか。
半信半疑のまま、オーランドの軍旗を受け取るエリザベス。
「おおよそ三十秒後に発射予定です。ご武運を」
ディースカウと砲兵達に帽子を振られながら送り出される二人。
「……本当に砲撃と旗なんかで士気が回復するのかしら」
長く、重い軍旗を見つめながら呟くエリザベス。
「そうかそうか!そう言えば、そうなのか……!」
隣でエリザベスの呟きを聞いていたフレデリカが、突然手を叩いて納得した。
「そういえば君は、味方を砲撃で援護した経験はあっても、君自身が砲撃で援護された経験は無いんだね……!」
言われてみれば、砲撃援護される側に立つのは今回が初めてだ。臨時カノン砲兵団の頃から、私は援護する側だった。砲兵なのだから、当たり前ではあるのだが。
「良い機会だ。砲撃支援を、その身を以て体験してみると良い!」
そう言いながら、旗竿を担いで左へ展開していくフレデリカ達。
丁度その時、エリザベスの懐中時計が三十秒を指した。
背中から、次々に砲撃音が響いた。
空気を震えさせ、耳を聾し、腹に響く。散々聞いた喧しい音だ。
しかし、今度ばかりは事情が違った。
「他の誰でも無い……私達に向けられた援護砲撃……!」
砲撃の爆風が、自分の背中を力強く押す。
頭上を飛び越える丸弾が、向かう先を指し示す。
「これが、味方砲兵の援護……!」
砲撃音が鳴り響く度に、旗竿を握る両手が熱く滾る。
寒空を切り裂き、敵の渡河地点に降り注ぐ漆黒の鉄球。
あの全てが我らの側に。あの全てが我らの為に。
「あぁ――」
大砲の音が、これほど頼もしい物だったとは。
「――オーランドの兵士達よ!この音と声が聞こえまして!?」
熱に浮かされた様に、口が動いた。
雪の寒さなど、最早この熱気の前には無意味である。
「貴方達の為に、このわたくしが参りましたわ!」
旗竿を高く掲げ、金葉の旗面を翻す。
逃げ出してきた兵士達の勢いが弱まり、エリザベスの声と大砲の音に耳を傾け始める。
「わたくしの名はエリザベス!エリザベス・カロネード!」
エリザベス・カロネード。
その名を聞いた義勇軍兵士達が顔を見合わせる。
「エリザベス・カロネードって、あの砲兵令嬢か!?リヴァン市退却戦の英雄の!?」
「……騎馬砲兵隊だ!銀髪の魔女が騎馬砲兵隊を率いて来てくれたぞ!」
目の前で旗を掲げる少女の正体が判明し、兵士達の恐慌がみるみる内に取り払われる。
「この砲兵令嬢が貴方の後ろに付いてますのよ!負ける道理などありませんわ!」
「我らパルマ軽騎兵中隊も砲兵令嬢に賭けよう!勝ち戦に乗りたい者はこの旗に続け!」
フレデリカ率いる軽騎兵達も、拍車を掛けて前線へと急行する。
「さぁ再び前進する時が来ましたわ!この砲声を貴方達に捧げますわ!さぁ前へ!前へ!」
エリザベスの熱が、兵士達へと伝播する。動揺が伝播した時と同じ様に。
彼女の周囲に居た数名から、十数人、数十人、そして数百人へと。
「進め!進め!勝てるぞ!」
「ノール軍にタルウィタの地を踏ませるな!」
「俺達にはカロネード中尉とランチェスター少佐が付いてるぞ!」
彼らは自発的に隊列を組み、前進を開始した。不定形な楕円から、角の立った横隊戦列へと変貌していく。先程までの恐慌が嘘の様に、皆自信に満ちていた。
「……ありがとうございますわ」
あれだけ生気に満ち溢れた顔をしているというのに、彼らの行き先は死地だ。
「貴方達の死。決して無駄にはしませんわ」
エリザベスは帽子を手に取り、天に掲げながら大きく左右に振った。
ディースカウの言う通りだ。
どれだけ美辞麗句を連ねようとも、私達が彼らを死地に送り出している事に変わりは無い。
「ならば、せめて」
無駄死では無い。
犬死では無い。
誇りある、勝利の礎となる様な死に場所を。
彼らに用意してやらねばならない。
それが、良き指揮官という物だろう。
「一斉射撃! 射撃用意!」
奮戦するパルマ・リヴァン連隊の隣に、南部辺境伯義勇軍戦列が並ぶ。
「総員着剣!一斉射後に突撃だ!奴等をパンテルス川に突き落とせ!」
「「総員着剣!」」
号令が威勢よく復唱され、皆が左腰に下げた銃剣を掴む。銃床を地面に付き、リング状の着剣装置を銃口に嵌め込む。
彼等が射撃準備を進めている間も、絶え間無く援護砲撃は響く。
カノン砲による直接射撃の、何と頼もしい事か。敵榴弾砲による間接射撃の、何と頼りない事か。
「狙え!」
敵味方が直接目視できる場所から砲撃する。
カノン砲のしがらみとも言える特性が、結果として士気上有利に働いたのである。
「撃てェッ!」
騎馬砲兵隊が放った丸弾と、マスケット銃の一斉発射が同時にノール軍戦列へと襲い掛かる。
渡河直後のノール軍に砲撃が命中し、形成し掛かっていた戦列が一気に瓦解する。
未だ渡河中の兵士達にも容赦無く砲撃が降り注ぎ、小舟の一艘が床板ごと粉砕される。衝撃で架設橋が大きく揺れ、橋上にいたノール兵士達がパンテルス川へと投げ出された。
「突撃ィ!」
指揮官号令と合わせて、着剣したオーランド戦列歩兵二千名が一斉に走り出す。
疾走中に三角帽子が取れる者。着剣装着が振動で外れる者。勢いの余り転倒してしまう者。
とてもお手本とは言えない歩兵突撃であったが、血気迫る雄叫びと歓声は、その不始末を補って余りある気勢を有していた。
「渡河作戦は中止!中止だ!対岸に戻れ!」
「突撃工兵大隊!歩兵の退却を援護しろ!白兵戦だ!」
仮設橋から撤退するノール軍歩兵達を守る様にして、円匙を構えた突撃工兵達が壁を形成する。
「突撃工兵の面目躍如だ!オーランドの雑兵共に白兵戦のなんたるかを教育してやれィ!」
オーランド戦列歩兵二千と、ノール軍突撃工兵五百。
パンテルス川東部、南岸にて、本会戦初の白兵戦が開始された。
この戦いにおいて、数的優勢はオーランドの側にあったが、白兵戦での優位性はノール軍突撃工兵の側にあった。
オーランド兵が突き出す銃剣は、ノール軍突撃工兵が身に付ける胸甲に阻まれ、致命打を与えられない。加えて接近戦に持ち込めば、銃剣よりも円匙の方が使い勝手に良い。
加えて双方部隊の練度差も合わさり、白兵戦開始当初はノール側優勢の様相を呈していた。
しかし時が経過するにつれ、徐々にオーランド側の数的優勢が効力を発揮し始める。
一対多数の状況に持ち込まれ、三方から銃剣に貫かれる工兵。銃床に殴打され、地面に倒れ込んだ所を滅多打ちにされる工兵。
一旦数が減り始めると、その後は加速度的に消耗していくのが白兵戦である。白兵戦開始から三十分も経過する頃には、突撃工兵は水際へ追い込まれていた。
残った僅かな工兵達は、最後の一部隊の退却を見届けた後、仮設橋を爆破。
然る後に猛々しく戦い、全滅した。
 




