第五十六話:オーデル湖邀撃戦(後編)
「ランチェスター少佐よりカロネード中尉殿へ伝令!敵主力は地点F6へ到達!密集横隊陣形にて地点D6方面へ進撃中!進軍速度に変化無し!」
手綱を目一杯引いて、自身の馬に急制動を掛けながら斥候情報を伝えるパルマ軽騎兵。
「了解よ!今後は五分間隔で伝令を寄越すよう少佐殿に伝えて!敵の最新位置を常に把握しておきたいの!」
「了解です!」
斥候情報を元に、事前に作っておいたオーデル湖の砲撃地図に印を付けるエリザベス。
「みんな良い?地点F6よ!さっき渡した砲撃地図を元に大砲の向きと角度を修正して!」
「了解!砲撃地図記載の諸元確認!F6地点へ射撃用意!」
「仰俯角、射角変更!上に五度!右に十五度!距離九百!」
「射撃用意良し!いつでも行けますぜ!」
「各砲!撃てェ!」
森に潜む鋼鉄の獣が、その咆哮を轟かせる。木々を薙ぎ倒し、一面の紅葉を切り裂きながら円形弾が飛翔する。
生い茂る木々で敵の目視が難しい為、エリザベス率いる遊撃騎馬砲兵第一小隊は、軽騎兵や輜重隊からの偵察情報を元に間接射撃を実施していた。
「あと四発……いや三発撃ったら更に七百メートル後退するわよ!前車と乗馬の連結準備をしておいて!」
「承知いたしました!」
直接大砲の操作に関わらない手隙の砲兵達が、移動準備を始める。その様子を見ながら、指折りして敵の進軍速度を計算するエリザベス。
「湿地帯を抜けてからの進軍速度が余りにも早過ぎるわ。この行軍速度じゃ、一日で二十キロ以上は進める計算に……」
大砲の砲撃音に混じって聞こえてくる、敵の行進曲に聞き耳を立てる。
通常、軍隊は長く行軍すればする程、疲労や補給の観点からその速度が鈍る。事実として、オーデル湖の湿地帯を抜けるまで、彼らの進軍速度は当初に比べて確かに鈍化していた。
それが湿地帯を抜けた途端、驚く程の進軍速度で移動を開始したのだ。泥地を抜けた、それだけの理由では全く説明出来ない程の速さで。
「横隊陣形を維持したまま、損害を顧みず、ひたすら前進する……まるで洪水ね」
カノン砲による砲撃と、猟兵による狙撃。軽騎兵による牽制と、不慣れな敵地。進軍を妨げる要素なら幾らでも有るというのに、尚も進軍速度を上げ続けるノール軍の姿に対し、エリザベスは不自然さと畏怖が合わさった奇妙な違和感を覚えていた。
「これは戦術を変更しないと――」
「エリザベス隊長!戻りましたっ!」
前線から報告の為に戻ってきたリサが、林の中から顔を出して来た。
「リサ、良いところに帰ってきたわ!敵の様子を教えて!」
「隊長!ノール軍の本隊ヤバイです!あいつら絶対に足を止めないんです!隣で味方が撃たれようと、砲弾が直撃しようと、全く怯まないんです!」
リサもノール軍の様子が変わった事を肌で感じていたのか、興奮気味に唇を震わせている。
「リサ、落ち着いて。あくまで戦っているのはさっきと同じ敵よ。敵の気迫に呑まれないで」
自分より背の低いエリザベスに頭を撫でられた事により、少し落ち着きを取り戻すリサ。
「で、ですけども、先程までとは比べ物にならない士気の高さですよ!?もしかしたら敵に援軍が来たのかも――」
「丸弾!撃てェ!」
不安を孕んだリサの言葉を遮る様に、勇ましい砲撃号令が下される。爆圧で一気に押し出された空気が大気を震わせ、リサに襲い掛かる。
「援軍が来ているのなら、斥候中のパルマ軽騎兵が事前に捕捉する筈よ。敵に援軍は居ないわ、安心しなさい」
爆風で思わず目と耳を塞いでしまったリサが、エリザベスの声に反応して目を開ける。
そこには砲列の猛射に背中を晒しながらも、眉一つ動かさず手元の地図を凝視するエリザベスの姿があった。彼女の、絹のような銀髪だけが、風で揺れていた。
「軍の士気は、非戦闘時に時間をかけてゆっくりと回復していく物よ。今回みたいに戦闘中、それも急速に士気が回復する事は通常あり得ないわ。恐らく敵指揮官あたりが無理矢理に戦意高揚を……ちょっと!聞いてますの!?」
「……はっ!すいません!聞いてませんでした!」
ほんのり紅潮させた頬を両手で押さえながら、リサは謝った。
「全くもう……先に質問をしておくわね。敵の指揮官らしき人物が前線に出張って来てなかったかしら?」
「……あ!居ました!とても偉そうな人が最前線の歩兵達と一緒に歩いていましたよ!その人だけ帽子被ってなかったので、記憶に残ってます!」
短い銀髪だった事、ノール歩兵よりも更に磨きの掛かった白い軍服を身に付けていた事を併せて伝えるリサ。
「なるほど。ノール帝国軍の方面軍司令官クラスは野戦で無帽を認められていると聞いた事があるわ。軍司令官クラスが直々に、前線で兵達を鼓舞した結果でしょうね」
「どうしましょう?理由は分かりましたが、このままでは敵の足止めどころでは無くなりますよ?」
「ええ、こうなった以上、足止めはもう出来ないわね。であれば引きながら戦うとしましょうか」
エリザベスが言い終わると同時に、三発目の砲撃が終了する。
「陣地転換用意!今後は三発毎に五百メートル後退!敵部隊の遅滞よりも、後ろに下がる事を重点に置いて!」
射撃後の清掃が終わった砲から順次、前車に弾薬を詰め直し、砲架に砲具を立て掛ける。大砲の展開撤収に関して言えば、オーランド砲兵は既に熟練の域へ達していた。
「う、馬に乗れねぇ!暴れるな!」
「そっちじゃねぇ!前だ前!」
こと乗馬に関して言えば、まだ未熟であったが。
「リサ、貴女達にも命令を下すわ。退れながらで良いから、敵戦列の戦力を削って頂戴」
「了解しました!ただ、引きながら狙撃するとなると射撃機会が……あまり兵数は削れませんよ?」
「それで構わないわ。ただ……狙う相手を選べば、殺した数以上の損害を与えられますわよ?」
「ね、狙う相手ですか?」
リサの問いに対して、エリザベスは自身の左肩を指差す。そこには、将校を示す二つ星が煌めいていた。
「敵士官を優先的に狙いなさい。その方が効率的ですわ」
選んで殺す。
それが出来るのが、猟兵最大の長所である。
◆
「ローヴィレッキ軽騎兵より通達!敵部隊撤退!オーデル湖から敵を退かせる事に成功したぞ!」
「ラッジ・ド・オーヴェルニュ公万歳!ノール帝国万歳!」
「猟兵の待ち伏せが何する物ぞ!正面から打ち破って見せたぞ!」
マスケット銃を両手に掲げながら、勝鬨を上げる者。はるか後方へ撤退していった遊撃騎馬砲兵隊に対し、帽子を振って見送りをする者。夕日に燃える落葉の森に、ノール軍の歓声が響き渡る。
戦闘開始から半日。
『いかな損害を出そうとも、前進を続ける』
この尋常な士気では成せぬ厳しい試練を、ノール帝国軍はついに乗り越えたのである。
ノール帝国兵達の誰しもが確信していた。この戦いの勝者は紛れもなく自分達であるという事を。そして勝利を願う彼らの固い意志こそが、この難局を乗り越える原動力となったという事を。
「プルザンヌ公閣下、どうかご覧ください!私めはこの左腕と引き換えに、敵の猟兵一人を仕留めました!」
「閣下!私は敵砲弾に右足を持って行かれましたが、尚も歩みを止めませんでした!」
「オーヴェルニュ様!私も敵騎兵一騎を仕留めました!右眼を失いましたが、閣下の右眼の代わりと成れた事、誇らしく思います!」
兵士達がプルザンヌ公の元へ駆け寄り、口々に労いの言葉を求める。それに対して彼は一人一人と握手を交わし、握手を交わす腕の無い者に対しては抱擁を以て応えていた。失った四肢を嘆く者など、その場には誰も居なかった。
「……我が方の被害状況は?」
その狂信的とさえ言える熱狂的な渦に背を向けて、ヴィゾラ伯はリヴィエールと共に戦果確認を行っていた。
「猟兵の損害が四十名、ローヴィレッキ軽騎兵の損害が十騎、主力戦列歩兵の損害が二百五十名。合計して三百です。総兵力比にして二パーセント以下ですので、数的損害は軽微と言えるでしょう」
所々が血の指紋で滲んだ報告書を整えるリヴィエール。
「数の上ではそうだろうな。だからこそ、ああやって騒ぐ余裕もある。余が聞きたかったのは士官の損耗だ」
「……その言い方であれば、大凡予想は付いているでしょう」
戦列歩兵の被害状況を記した報告書を手渡すリヴィエール。
「連隊指揮官三名、大隊指揮官十二名、中隊指揮官二十九名、小隊指揮官……」
報告書を握り締め、頭に手を当てたまま、その場をグルグルと徘徊するヴィゾラ伯。
「全士官の三割を損耗だぞ……!?何が勝利だ……まるで敗軍では無いか……!」
堪えきれず、近くの木に拳を叩きつける。彼の頭上に伸びる枝が僅かに揺れ、紅葉し切って茶色く黒ずんだ葉が、風情も無くボタボタと舞い落ちる。
「心中お察し致します。しかしながら現状、我々の最大の敵は時間です。この地を最速で抜ける為には、この戦術が最善であったと。プルザンヌ公閣下の取った策は決して間違いでは――」
「そんな事は分かっているのだ!」
木の幹に額を擦り付けていたヴィゾラ伯が、憤怒の表情で振り向く。
「故に腹立たしいのだ!あの地を脱するにはこの戦術を取るのが最善策であった事も!今の我が軍は損害よりも時間を取るべきであるという事も!そもそもこの様な地形を進軍せねばならなかった理由も!全て理屈立てて説明できてしまうこの状況が!何よりも腹立たしいのだッ!」
リヴィエールは目を伏せたまま、何も答えない。
「他に手は無かったのかと、何度も考えては、何も浮かばぬのだ……!」
ヴィゾラ伯の叫び声に気付いたベルナールがプルザンヌ公の輪から離れ、項垂れる彼の元へ近寄ってきた。
「オリヴィエ卿、大事無いか?あまり一人で背負い込んではならんぞ?」
「……すまぬ、ベルナール卿。貴卿には……助けられてばかりだな」
「何を、帝国士官学校からの仲では無いか」
背中を叩かれるヴィゾラ伯。ヴィゾラ伯の身長が低いこともあり、まるで親子の様な身長差となっている。
「この損害で浮かれた様にしている彼らに対して、一言述べたい気持ちは余としても右に同じだ。しかし消沈するよりかは幾分良好と言える」
偵察の結果を記した紙をリヴィエールに渡すベルナール。
「プルザンヌ公閣下にしても、その御身の若さながら善く軍に尽くしている。現に今も無休で兵士を労っておられる。あの姿勢無くして我が軍の士気は無かっただろう」
「……その事で一つ、貴卿に愚痴を述べたい」
旧友に諭されて落ち着きを取り戻したヴィゾラ伯が、ベルナールに向き直る。
「総指揮官が直々に最前線で指揮を執るという作戦は、確かに大きな士気向上が見込める。しかし余は、これを劇薬と捉えている」
「そう何度も使えない手だと?」
左様、と遠くを見るような目で答えるヴィゾラ伯。
「一度目は確かに絶大な効果が出よう。しかし二度目はどうか?三度目はどうか?一度目と同じ効果が見込めると思うか?」
「……繰り返せば、やがて慣れる。故にここぞという時に使うべき作戦ではあるな。当然ながら、戦傷のリスクも高まる」
「そうだ。故に私は疑問なのだ、果たしてこの戦いは、その一度目を使うに値する戦いだったのかと。敵に奥の手を引き摺り出されてしまったのでは無いかと、そう思わずにはいられないのだ」
ベルナールは押し黙る。タルウィタ首都攻略という一大決戦を控えている段階で、本当に出しても良い手だったのか、早々に答えなど出せる筈もなかった。
「……使わずに勝てる手があったと?」
「無い。故に唯の愚痴だ、許せ」
二択から逃げたとも取れるベルナールの返答に、ヴィゾラ伯は短く息を漏らした。
「さぁ、戻りたまえ。もう大事ない」
ヴィゾラ伯が手で促すと、ベルナールは制帽を指で傾け、元の輪に戻って行った。
「……リヴィエール」
「はい」
プルザンヌ公を取り囲む兵士達の表情を遠目で眺めながら、ヴィゾラ伯が述べる。
「彼らの顔を見たまえ。身体の一部を失ったとは思えん程に晴れやかな顔ではないか」
「……それも、劇薬の効果だと仰りたいのですか?」
「流石は参謀殿、話が早い」
哀れみを帯びた口調でヴィゾラ伯が嘯く。
「彼らは劇薬を打たれ、今や一種の催眠状態だ。勝利の為なら手足ぐらいくれてやる、生き残れば万々歳……その様な考えが彼らの頭を支配している事だろう」
日が落ち始め、足元から徐々に這い寄ってくる暗闇を、渇いた笑みで見つめるヴィゾラ伯。
「しかしそれも長くは続かん。故郷に帰った時、或いはもっと早く、この戦争中にでさえ……彼らはふと気付いてしまうのだ。もう自分には妻を抱きしめる腕は無いと。我が子と共に走る足は無いと。その瞬間、劇薬が牙を剥いて彼らを襲うのだ」
「僭越ながら連隊総指揮官殿。貴殿は指揮官です、一兵卒への同情は避けた方が宜しいかと」
「そうだな、全くその通りだ」
足元の暗闇を避ける様にして、残り僅かな日向へと移動するヴィゾラ伯。
「コホン……こんな話は捨て置いて、次の話でもしよう。仮にもし、貴殿が遊撃騎馬砲兵隊だとしたら、再度邀撃を仕掛けるか?」
一つ咳払いを漏らした後、普段の雰囲気に戻ったヴィゾラ伯が、リヴィエールに尋ねる。
「……悩ましいですが、今回の戦果を鑑みると、再度仕掛けてきても可笑しくは無いでしょう」
一瞬顔を歪めたが、直ぐに普段の毅然とした態度で所感を述べるリヴィエール。
「ほほう、邀撃地点は何処にするかね?」
地図を手渡されたリヴィエールは、数秒迷った後に、一つの地点を指差した。
「ラカント村です。ここしか無いでしょう。我々が立ち寄る可能性があり、且つ待ち伏せができる地点は、ここしか残されておりません」
「待ち伏せされていたと仮定して、我が軍はどう出れば良い?」
「……今回と同じ手を使えば、また今回と同じ損害が出かねません。敵に機動で優越する為にも、此度は我が方も騎兵主体で相手をする必要があります」
「となると、起用するのはベルナールの部隊と……」
思い当たったヴィゾラ伯が、リヴィエールの顔を見る。彼は首を横に振りながら、一際大きなため息を漏らした。
「……有翼騎兵に、出陣の準備をさせます」
夕日は既に、湖中へ沈み始めていた。