第三十七話:兵士から指揮官へ
私の為に命を捧げてくれた人の伴侶と出会った時、最初に何と声を掛ければ良いのだろうか。まず謝罪の言葉を述べれば良いのか。それとも感謝を述べれば良いのか。
彼が死んでくれたお陰で私が生き残りました、などと言える訳もない。であればいっそ、私が生き残った事と、彼が死んだ事に因果など無かったかの様に話すべきなのだろうか。
彼が死んだのは偶々であり、私が生き残ったのも偶々である、そこに因果関係は無い。そう考えれば、少なくとも彼の死という責任からは逃れられる気がしたのだ。けれども。
『貴様に救われた命だ。どうせなら最期は、貴様の為に捧げたいのだ』
その責任から逃れようとすればする程、この言葉が重く心に覆い被さってくる。
リヴァン市から脱出した直後は、敵の追手を振り切る事で頭が一杯だった。彼の死について、まじまじと考える暇が無かったのは、今思えば幸いだったのかもしれない。
あの時どうすれば良かったのか、という原因を求める気持ちと、今後どう振る舞えば良いのか、という方策を求める気持ちが、私の心を別々の方向に引っ張ろうとするので、少しも気が休まらない。そのせいか、コロンフィラを出発してからタルウィタに到着するまでの三日間、碌に睡眠も取れなかった。
「大丈夫かい?また少し休もうか」
エリザベスを気遣って、馬の足を止めるフレデリカ。
「いえ……大丈夫ですわ」
疲労から、既に何度も馬から転げ落ちそうになっていたが、目的地まで後少しだからと、最後の気力を振り絞る。
「本当に大丈夫かい?君が無理して、敢えてハリソン夫人に会う必要は無いんだよ?」
「少尉殿のお願いですもの。会わなければ、合わせる顔がありませんわ……」
クリスの妻に会った後は、イーデンと共に大砲を作ってくれる鋳物師を探さねばならない。やらねばならぬ事は数多くあるのだ。
「こんな所で、感傷に浸ってる暇は無いわよ、エリザベス……しっかり、手綱を、握りなさいな」
馬の歩く振動が身体に伝わる度に、視界の端が徐々に暗くなっていく。路面の照り返しがやけに眩しい。人々の喧騒が、とても遠く聞こえる。
「ま、前を――」
しっかり前を向こうと上体を起こした瞬間、エリザベスはそのまま後ろに仰け反る様にして、バランスを崩した。
「あぁ――」
腹立たしい程に晴れた空が一瞬視界を横切った後、彼女は頭から地面に落馬した。
◆
「……あぅ?」
間抜けな声と共に、毛布をめくりながら体を起こすエリザベス。
「あれ、わたし確かタルウィタに……うぅ、頭痛ったぁ……!」
痛みの元を辿る様に、手を後頭部に当ててみると、大きな瘤が出来ているのが感触で分かった。
「な、何でこんな腫れてるの……?誰かに殴られた?はっ、もしかして誘拐された……!?」
嫌な予感を覚えて直ぐに自分の身体を見てみたが、特に乱暴された様な形跡もなく、着ていた軍服も自分の傍に置かれている。
「大尉と一緒にタルウィタまで来たのは覚えてるけど、そこから、どうなったんだっけ……」
取り敢えず起きなければと、下着のワンピース姿のまま立ち上がる。周りを見回してみるが、特に監禁する事は想定されていないであろう、普通の部屋である。人が住むにしては少し殺風景ではあるが。
「窓は開くわね、二階から飛び降りるのは厳しそうだけど……取り敢えず誘拐された訳ではなさそうだわ。ドアは……」
ドアノブに手を掛けようとした瞬間、扉が奥向きに開かれた。
「ひゃいっ!?」
「あら良かったわ、起きたのね。貴女の上司さんが下の階で心配してるわよ」
そこには、水瓶を手に持った黒髪の婦人が佇んでいた。
「ど、どなたですの……?」
後退りしながら胸に両手を当てるエリザベスの姿を見て、幸薄そうな笑顔を浮かべる婦人。
「夫……いえクリスが、お世話になったと聞いています。妻のマリア・ハリソンです」
「マ、マリア……!?」
マリア・ハリソン。その名前を聞いて、今までボヤけていた頭の中が一気に活性化される。
そして今まで必死に頭の中で考えていた謝罪の言葉の数々が、思考を待たずして、反射的に口から飛び出した。
「申し訳ありません!私を!私なんかを庇ったばかりに貴女の旦那様が……何と謝れば良いのか……取り返しのつかない事を――!」
下着姿のまま土下座の姿勢になると、頭を擦り付ける様にして謝り倒すエリザベス。
「……まぁまぁ、取り敢えず服を着なさいな。話はそれからでも遅くはないわよ?」
ぽんぽんと、震えるエリザベスの背中を叩くと、エリザベスが着ていた軍服を手に持つマリア。
「ごめんなさい……!ごめんなさい……!」
心の準備が全く整っていない状態で、相対するのに最も勇気が要る人物と鉢合わせしてしまい、エリザベスはすっかり萎縮してしまっていた。
「ほらほら、丸まったままだと服が着れないわよ?」
マリアはお構いなしにエリザベスの服を広げながら、ニッコリと笑った。
「うぅ……」
顔を上げて、恐る恐る彼女の表情を伺うと、そこには確かに、何の敵意もない微笑を浮かべるマリアの姿があった。
無言で両腕を広げて、マリアの着付けを受けるエリザベス。かつては純白だった灰色のブラウスのボタンを留め、泥と砂がこびり付いたブリーチズボンを履き、所々が断裂したソックスに足を入れ、端がほつれたクラヴァットを締め、最後に煤の匂いが染み付いたロングコートを羽織った。
「この様なお見苦しい姿で、申し訳ございませんわ」
「あら、とても似合ってるわよ?」
「お気遣い、ありがとうございますわ……」
気は遣ってないわよ、と階下を指差しながら手をこまねくマリア。
「命懸けで国を守った軍人に相応しい、名誉の汚れよ。誇らなくてどうするの?」
マリアに続いて階段を降りる。半分程度降りてきた所で、ダイニングテーブルに付いていたフレデリカと目が合った。
「エリザベス!良かった!落馬した時はどうなる事かと……!」
エリザベスの頭をぎゅっと抱き締めながら、安堵の言葉を漏らすフレデリカ。
「ハリソン夫人、改めて感謝申し上げます」
「夫が命を賭して守ろうとした方ですもの。私が助けない理由がありません」
簡素な木椅子に座りながら、マリアが髪を後ろで結う。暫し、彼女の髪飾りだけが音を立てていた。
「……事の顛末や弔慰金の事も含めて、私から話すべき事は話したよ」
フレデリカが、隣に座ったエリザベスへ語り掛ける。
「君からご婦人に、何か言いたい事はあるかい?」
俯き加減で、マリアを見るエリザベス。
未だに延々と悩んではいたが、先ずは助けてくれた感謝を述べようと決心した。
「……戦場では旦那様に、タルウィタでは奥様に助けられましたわ。今ここに私の命があるのは、他でも無いハリソンご夫妻のお陰ですわ。その恩返しの意味も込めて、旦那様から託されたこの品を受け取って頂きたいですわ」
ポケットから指輪を取り出して、テーブルの上に置くエリザベス。
「あぁ、まあ……!」
震える声で指輪を手に取るマリア。
「ずっと身に付けていてくれたのね……」
押し殺す様に、小さな嗚咽を漏らしながら指輪を眺めるマリア。
「……ありがとう。これで私の本当の名前を忘れずに済むわ」
鼻声混じりに礼を述べるマリア。
「本当の、名前?」
無言で指輪にの内側に刻まれた文字を見せるマリア。そこには、マグダレナという名前が彫られていた。
「マグダレナ……ヴラジド系の名前ですわね……?」
「その通りです、これが私の本当の名前です」
胸に手を当てて、もう一度自己紹介をするかのように会釈するマリア。
「……ヴラジド人、だったんですのね」
「ええ、もう昔の事ですが……」
二人を見ているようで、どこか別の遠くを見ているような不思議な目つきで、ぽつぽつとマリアは話し始めた。
「二十年前……私達の大公国が戦争に負けた時、ノールの支配を受け入れた人、ノール国内で抵抗を続けた人、国外に逃げた人……沢山のヴラジド人が散り散りになりました。私は真冬の国境峠を超えて、そのままパルマに流れ着きました」
その時に夫と出会ったの、と左手の薬指に嵌めた指輪を見せる。
「なぜ、名前を変えたのですか?」
「当時は、難民として食い扶持に困ったヴラジド人が悪さを働く事が多かったので。ヴラジド人の名前を持つこと自体、世間体が悪かったのです……夫は最後まで名前を変える事に反対していましたが」
「なるほど……せめて忘れないようにと、クリス少尉は指輪に貴女の名前を刻んだのでしょう」
机の端に置いた制帽を所在なさげに撫でながら、フレデリカが述べる。
良き軍人とは、良き父が、良き夫が、良き市民が成れるものである。クリス・ハリソンは、良き夫であるが故に良き軍人だったのだろう。
「私からも、一つ質問して宜しいでしょうか?風の噂で聞いた限りなので、真偽の程はわからないのですが……」
「はい、我々に答えられる範囲で良ければ答えましょう」
エリザベスと一瞬顔を見合わせた後、手を遣りながら答えるフレデリカ。
「ノール軍の中には、旧大公国の有翼騎兵も編成されていると聞いています。同じヴラジド人として、誰が何の為に率いているのか……個人的に気になっているのです」
「有翼騎兵がノール軍に従軍している意図は不明ですが、指揮官の名は判明しております。オルジフ・モラビエツスキという者です。恐らく、貴族の末裔かと」
「オルジフ・モラビエツスキ……?それは、本当なのですか!?」
マリアが驚きの表情を浮かべながら身を乗り出す。
「奴をご存知なのですか?」
「は、はい……。先程、敗戦後も大公国領内で抵抗を続けた人々がいると申しましたが、その抵抗組織を纏め上げていたのがオルジフ男爵です。彼は大公国時代、野戦指揮官という軍の要職に就いておりましたから、当時のノール軍も鎮圧に大分手を焼いたそうでして……」
「なんと!有力な情報、有難うございます!」
思わぬ所で敵有翼騎兵に関する情報が手に入り、思わず口調が明るくなるフレデリカ。
「い、いえ、本当に私の知っているオルジフ男爵なのか確証は持てませんから。当時で既に齢四十を超えていた筈なので、もし今でも指揮官職を続けているのだとしたら、六十は軽く超えている計算になりますよ?」
「貴女にとっては複雑な心境かとは思いますが、私は一度、戦場でオルジフ男爵と刃を交えた経験があります。あの老練された技量と指揮……野戦指揮官の手腕だと言われれば合点が行きます」
フレデリカは納得がいっている顔をしているが、それでもマリアの方は、どうも腑に落ちない顔をしている。
「ハリソン御夫人はどうお考えですの?そのオルジフ男爵とやらは、かつての敵に対して膝を折る様な人物なのでしょうか?」
「……いえ、そうとは思えません」
短く首を横に振るマリア。
「彼は緒戦から敗戦まで、ノールに対する徹底抗戦を主張しておりました。敗戦後も大公国の復活を掲げて、幾度も蜂起を繰り返していたと聞いています。確かに二十年という歳月は、人の心を変えるに足る時間の長さだとは思いますが、それでも彼がノールの軍門に降るとは考えられないのです。むしろ何か策があって、敢えてノールと行動を共にしていると考えた方がしっくり来ます」
元と言えども商人であるエリザベスの目から見ても、マリアが嘘を言っている様には見えなかった。むしろ、オルジフに対する信仰の念すら感じさせる程に、彼女の瞳は強く光っていた。
「承知いたしました、貴重なご意見、有難うございます」
フレデリカが制帽を被り直し、そろそろ退散する時間であることをマリアへと暗に示す。それを察したマリアは戸口に向かうと、無言で見送りに立った。
フレデリカに続いて、マリアの横を通り過ぎようとしたエリザベスが、不意に足を止めて、マリアへと向き直った。
「……ご子息も、旦那様も、戦禍による永訣の別れとなってしまった事……差し上げる言葉もございません」
マリアの両手を握りしめながら、一つ一つ、言葉を選んでいくエリザベス。
気休めであろうと。
詮無き言葉であろうと。
自己満足だと蔑まれようと。
それでも言わなければならないと思ったのだ。
「かくなる上は、その命を無為にせぬ為、必ずやパルマを奪還してみせます。白鉛の街に金葉の旗が翻るその時まで、どうか、どうか耐えて頂きたく……」
このままだと、彼女は自ら命を絶ってしまいそうだったから。
何とかして、生きる目的を与えたかったのだ。
「心強いお言葉、ありがとう。エリザベスちゃんもご武運を。そして……」
エリザベスの頭を優しく撫でながら、最初に会った時と同じ様にニッコリと笑うマリア。
「夫の為にも、必ず生きて帰ってきてね。ここで待ってますから」
フレデリカは二人が抱き合うその様子を、黙って見つめていた。
◆
「……一つの死に対して、あまりにも深入りするのは良くないぞ」
ハリソン家を後にした二人は、タルウィタ近郊の連邦軍兵舎へと向かっていた。
「一つの、死?」
道中、無言で馬を駆っていたフレデリカが、突如エリザベスに忠告を促す。
「そう、一つの死」
エリザベスの返答に対して、振り返らずに答えるフレデリカ。
「戦時において死は普遍的な物だ。ふとした拍子に、誰に対しても起こり得る物だ。それ故に、死への向き合い方も平時とは変える必要がある。軍人であるならば、尚更だ」
「どういう、意味ですの?」
フレデリカの言う事が理解できない。
「人の死に対して、そこまで真摯に向き合う必要は無い、という事だよ」
それは。
それは、クリスの死をないがしろにするのと同義ではないのか。
「……嫌ですわ」
「そう言いたくなる気持ちは分かる。しかし、一人の死を等身大のまま受け入れていたら、いつか君の心が――」
「絶対に嫌ですわッ!死人にすら敬意を払えなくなったら、人間として終わりですわ!大尉殿は、軍人になる為には人間であることを諦めろと仰るんですの!?」
フレデリカの背中に向かって、助けられなかった人達への悔しさを諸共に叩きつけた。
「そうか……分かった。私としても来て欲しくはないが、いずれ必ず分かる時が来るだろうから、覚悟だけはしておいてくれないか?私からのお願いだ」
フレデリカのお願いに対して、エリザベスは何も答える事無く黙っている。
「……いつかの時に、部下の名前を覚えるべきだと話した時があっただろう?」
押し黙ってしまったエリザベスを気遣ってか、少し声色を和らげるフレデリカ。
「あれは勿論、指揮統率力を高める為でもあるんだが、もう一つ、重要な意義があるんだ」
そう言うとフレデリカは、次々に人の名前を諳んじる。
「ヴィンセント・バトラー。ティム・ジョーンズ。リー・サムラル。ドリュー・グレイス。ヘイズ・スター。ノーラン・プレウス。カーク・パルトロー。グラント・タルボット。チャールズ・ヴァレンタイン……これらが誰の名前なのか、分かるかい?」
どれもエリザベスにとって覚えのない名前だ。聞いたこともない。
「……分かりませんわ」
「そう、君が知らなくても無理は無い。だが、彼らは皆、君を良く知っていたと思うよ」
そこまで言うと、フレデリカは一呼吸置いて、その答えとも言うべき単語を発した。
「彼らは皆、第一騎兵小隊に所属していた」
その言葉に、エリザベスは一気に喉を詰まらせる。
自分達を救う為に、笑って死地に向かった彼らの顔がフラッシュバックする。つい先程、分からないと一蹴した自分自身に対して、巨大な嫌悪感が膨れ上がる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
罪悪感と自責の念に駆られ、嗚咽を漏らしながら涙を流すエリザベス
「君が今苦しいと感じているのは、彼らの死を等身大で受け止めようとしているからだ。まず、その重荷を下ろすべきだ」
「じゃあどうすればいいんですの!?私には忘れることも!受け止め切る事も出来ないのよ!どうすればいいんですの!?」
苦痛に耐えかねて、心の底から泣き叫ぶエリザベス。見かねたフレデリカは無言で馬の速度を緩めると、エリザベスの横に並んだ。
「……受け取るのは名前だけにしておきなさい。気持ちは置いていきなさい。死んでいった者達から受け継ぐべき物は、名前だけで十分なんですから」
「名前……?」
よしよしと、泣きじゃくるエリザベスの頭を撫でるフレデリカ。
「そうだ。彼らの思いを全て汲み取ることは出来ないが、せめて名前だけでも覚えていれば、彼らが確かに存在したという証左になる。部下の名前を覚えるのは、彼らが死んだ時に、私だけでも覚えていられるようにする為だ」
一部の高級将校を除いて、普通の兵士達はまともな墓すら作られる事は稀である。野戦で命を落とした兵士は、戦場漁りの農民に辱められた後、大多数がそのまま風化していくのみである。
「慮るな、しかして記憶しろ。……オーランド連邦で士官を目指す者なら誰でも知っている標語だよ。辛いだろうが、君も指揮官としての覚悟を持つべき時が来たんだ」
「慮るな、しかして記憶しろ……」
途切れ途切れになりながらも、標語を繰り返すエリザベス。
指揮官になる為には、味方の損害を割り切らなければならない。リスクを許容しなければならない。見殺しにする選択も時にはせねばならない。
とうとう、その覚悟を決める時が来たのだ。
「私の、私の夢は……!」
軍団長という単語が、今までとは比べ物にならないほどに重く感じる。一体、何人の命を抱える事になるのだろうか。
しかしそれでも、諦めきれない夢なのだ。
「私の夢は軍団長になること!絶対に、絶対に諦めないわ!その為なら……勝つ為にその思考が必要というのなら、受け入れてみせますわッ!」
それは、彼女が士官候補から、本物の士官となった瞬間であった。
短いですが、これにて四章は完結ですの
もしお気に召したら感想をお待ちしておりますわ〜




