ラミアの愛し子
ゲルハルトに見送られて部屋を出たエマは、ユリウスと白雪と別れ、アンバーの案内で今夜の寝床となる部屋に向かった。
修道士が使う部屋だったのか、質素で飾り気のない部屋に通されたエマは、長旅の疲れが一気に押し寄せて来るのを感じてベッドに飛び込みたくなる気持ちを抑えながら、窓際に立ってみる。
入り組んだ廊下といくつかの階段を登ったり降りたりしているうちにいつの間にか地上に戻ったらしく、小さな窓からはライン川が見える。
アンバーはベッドの上に置かれた替えのシャツや石鹸などを指差しながら言った。
「日用品は概ね揃えておきましたが、何か足りないものがあればお申し付けくださいね。私は廊下の突き当たりの部屋にいます。目印としてドアにクリスマスリースが飾ってありますので。とはいえ、明日の朝には発つことになりますので、ゆっくり休むこともできないかもしれませんが。そうそう、明日からの任務にあたって必要なものなどあればおっしゃってください。替えのお洋服や、武器の手入れに必要な諸々、旅の途中で召し上がるおやつなど、その他大抵のものであればご用意できますから。ああそれから、お食事はお部屋に運びますか?それとも食堂で召し上がりますか?」
一気にまくしたてられ、なかなか口が挟めなかったエマは、アンバーが息継ぎするタイミングを見計らってやっと喋ることができた。
「とりあえず、食事は部屋に運んでもらえますか?」
「かしこまりました。後ほどお持ちしますね!」
アンバーはぺこりと頭を下げると、足音もなく部屋を出ていった。
ようやく一息つくことができたエマはカバンを椅子の上に起き、窓辺から外を眺める。
柘榴のような赤い左目で外を見ると、一瞬目がくらむ。
彼女がこの左目を移植されてから間も無く一年になるが、いまだにちぐはぐな見え方をする世界に慣れていなかった。
それも無理はない。この赤い瞳は吸血鬼の瞳、そしてもう片方はもともとの自分の瞳なのだ。吸血鬼の世界と人間の世界が交差して見えるこの視界は、日常生活を送るのも不便だった。
エマをこんな体にした「ラミアの愛し子」は、バチカンの秘密組織のひとつで、対吸血鬼に特化した組織である。世界中に支部があり、吸血鬼の目を移植することで吸血鬼の能力を受け継いだ元人間の「ヴァンピール」が兵士である「ナイト」として所属している。
その多くは幼い頃からヴァンピールにするために育てられた者たちだが、エマは違った。
彼女は幼くして父を亡くし、病気がちな母とまだ幼い妹を養うために「ラミアの愛し子」でコックとして働いていた。彼女の地元で十代の少女が安心して働けて、なおかつ実入りのいい仕事はそれしかなかったので、選り好みすることはできなかった。
とはいえ、「ラミアの愛し子」の台所はそれほど悪いところではない。毎日朝早くから夜遅くまでくたくたになるまで働くはめにはなったが、同僚はみんな親切で、給料もよく、その上毎週金曜日には希望者に読み書きや算数を教えてくれるので、大きな不満はなかった。少なくとも、彼女の妹が結婚するまでは働きたいと思える職場だった。
それがある日突然、ある吸血鬼の目とエマの体が適合すると告げられ、彼女は断ることも逃げることも許されずにヴァンピールにされてしまったのだ。
しかも、彼女に移植されたのは片目だけだった。
通常であれば両目を移植されるものなのに、彼女の体に適合する目を持った吸血鬼は、死の間際に自らの片目を潰した。そのせいで、エマはヴァンピールとしての能力も、ヴァンピールとしての覚悟も中途半端なまま、無理やり人間であることをやめさせられてしまったのだ。