手荒い洗礼
「黄金の季節」と呼ばれるドイツの秋は、驚くほど短い。ほんの数週間で秋は去ってしまい、そのあとには長く暗い冬がやってくる。
スコットランドで生まれ育ったエマ・ハンターは、残念ながらそのことを知らなかった。
彼女は雪が舞う季節にはやや薄手と思われるツイードのコートの襟をかき寄せて、小さな広場を横切っていく。ライン川を吹き渡る冷たい風から逃げるように足早に歩くエマは、誰かを探すようなそぶりを見せながら、何気なく空を見上げた。
彼女の真っ赤な左目と榛色の右目に映るのは、高く伸びる二つの尖塔だった。まっすぐに伸びる塔は灰色の空を突き、低くたなびく雲をショールのようにまとっている。
「あの塔のところまで行けばいいわけだから……ここを右でいいのかな……?」
心もとないつぶやきは、北風にかき消される。エマは通りの名前が書かれた標識と地図上の通りの名前を見比べながら、眉間にしわを寄せた。
その時、突然女性の大きな声が耳に飛び込んできた。
「止まれ!」
びっくりして持っていた地図を取り落としたエマの目の前に、男が飛び出してくる。エマは地図を拾おうと伸ばしかけた手を止め、その男をゆっくりと見上げた。
上等そうな毛皮のコートを身にまとった男は、豊かな髭に白いものが混じる年の頃で、鷲の頭の形をした持ち手のステッキを携えていた。一目で上流階級の人間だとわかる姿と立ち居振る舞いに、エマは気まずさを感じてたじろいだ。
しかし次の瞬間、銃声とともに目の前の男の体がぐらついた。
「え……?」
突然の出来事にどうしていいかわからず固まったエマの肩に、誰かが手を置く。そしてその感触に体がこわばるよりも早く、彼女の体は通りの向こうまで蹴り飛ばされた。
腹に食い込む靴の感触と、肺から押し出される空気。それから、冷たい石畳に強く打ち付けられる背中。
自分の身に起きたことが受け入れられず、エマは痛みに咳き込むことしかできなかった。
ーーー一体何が?
咳き込みながら上半身を起こすと、目の前には黒い服を着た髪の長い女性が立っていた。手には刀を持ち、艶やかな黒髪が風に揺れている。
「大丈夫ですか?」
女性は振り返り、エマに尋ねた。
「え?あ、はい……」
「突然蹴ってしまってごめんなさい。でもあいつの間合いからからあなたを外すためにはそうするしかなくて」
女性はそれだけ言うと、足を肩幅ほどに開き、刀を構える。
毛皮を着た男はその姿を見て、鼻で笑った。
「『ナイト』と聞いていたが、女ではないか」
それを聞いた女性は眉毛をぴくりと動かしたが、動揺することもなく、相変わらず刀を構えたままだった。
「もう一人はどこだ?この私を撃ったやつはどこに隠れている?」
男はそう言いながら、毛皮の上着を脱ぎ捨てた。左の上腕に穴が空き、どす黒い血が滲んでいるが、男は痛みを感じていないようだった。
それどころか、わざとらしいため息をつきながら、仕立てのいい上着に開いた穴を見て呟いた。
「やれやれ、先日仕上がったばかりの上着が台無しだ。わざわざサヴィル・ロウで仕立てたというのに」
「服など、もうお前には不要になる」
女性はそう言うと、一直線に駆け出した。男はニヤリと笑い、ステッキを構える。振り上げたステッキの先からは、鈍色の刃が覗いていた。
ーーー仕込み杖!
エマははっとして女性を止めようと声を上げかけたが、それよりも先に彼女は深く屈んで地面を強く蹴り上げた。そして街灯の柱を足場に大きく飛び上がると、男の頭上をふわりと舞う。男は驚くでもなく女性の姿を目で追って頭を上げたが、同時に思わず目を見開いた。
彼は、そこで初めて頭上を覆う木の枝の間から覗く一人の男の影に気が付いた。
ーーーまさか、吸血鬼の『目』からただの人間が逃れられるわけない!
信じがたい事実を受け入れる間も無く、木の中に隠れていた男が構えた銃から銀の弾がはじき出さる。
「なかなか、いいジャケットだったな」