師匠とのお別れ
お初お目にかかります。
狗霊亭 三と申します。
どうぞ皆様親しみを込めて、クタマテイさんとお呼びください。
「秋夜よ。俺ぁお前ぇに謝っておかなきゃならねぇことがある」
急にそう切り出されて、秋夜と呼ばれた少年は口元へと運びかけていた黒文字で切り分け、突き刺していた練りきりのかけらを取り落としかけて、慌ててそれらを皿の上へと戻した。
茫然としかける意識をどうにか押さえ込み、左手首にはめている安物の腕時計へと目をやれば、液晶は午後三時を少し過ぎたあたりの時刻を表示している。
それはそうだろうと秋夜は思う。
時刻的にちょうどおやつの時間だからと供されたのが、秋夜の目の前のお膳の上にある練りきりとお茶なのだ。
それらをありがたく頂戴しようとしていた矢先に放り込まれた言葉が、秋夜の思考をほぼ完全にストップさせてしまっていた。
回らない頭を持て余し気味にしながら、秋夜は視線を周囲へと向ける。
彼がいるのはこじんまりとした飾り気のない和室だ。
外へと通じる襖は閉じられ、部屋の中はやや薄暗い。
秋夜が正座しているのは部屋の下座にあたる場所なのだが、その秋夜の思考能力を奪った声の主は、部屋の上座にあたる位置で作務衣を着崩し、胡坐をかいている。
それは枯れ木のような老人であった。
手足は細く皺が走り、肌には艶がない。
きれいに生えそろった白髪を丁寧に頭の後ろへと流しており、目つきは鋭く射貫くような眼光を放っている。
ただ今はその鋭さはややなりを潜め、訝し気に細められた両眼がさきほどからどこか落ち着きのない秋夜を見つめていた。
「なんだそのツラ? アホが鉛弾くらったみてぇなツラだぞ?」
「気分はまさにそんな感じなんですが……」
「お前ぇ、見たことあんのかよ?」
「雰囲気です、雰囲気」
自分から振ってきたネタだろうにと秋夜が首を竦めると、老人はつまらない話を聞いたとばかりに小さく鼻を鳴らす。
「話を戻しますが……俺に謝罪したいことが? 逆に俺が謝らなきゃならないのではなく?」
「お前ぇ、何か俺に誤らなきゃならねぇネタでもあんのかよ?」
「なくても気分次第で謝れとか言いそうですが」
これまでにもそんな理不尽な話があったのか、秋夜が警戒感を漂わせながら老人を睨むと、老人は心当たりでもあったのか露骨に視線を逸らした。
しばらくの間、秋夜は知らぬふりを通そうとする老人を視線だけで追い詰めていたのだが、やがてその行為には何の意味もないことに気が付いて、そっと自分から目を伏せる。
それによって視線の圧力がなくなり、途端に老人はひょいとばかりに顔の向きを秋夜の方へと戻す。
「話を元へと戻すがよ。まぁ食いながら聞けや」
促されて秋夜は、先程皿の上へと戻したばかりの黒文字を取り上げ、その先に刺さったままになっていた練りきりを自分の口へと運ぶ。
しっとりとした記事が口の中で解けると、舌の上に柔らかな触感と上品な甘みが生じ、秋夜はわずかにだが顔を綻ばせた。
「俺が謝りてぇと言ったのはよ。お前にアレを教えたことだ」
舌が練りきりの甘みを感じている間に、お茶を一口とばかりに湯飲みを手に取った秋夜は、老人の言葉に一瞬その動きを止め、そのまま改めて手にした湯飲みに口をつけ、一口啜り上げる。
口の中で甘みと渋みとが混じりあうのを舌で味わいながら飲み下し、ほっと一つ息を吐き出してから秋夜は茶菓子とお茶が乗せられているお膳を脇へとどけ、真剣な面持ちで老人を見つめた。
「この家の門前で、びぃびぃ泣いているガキに声をかけてから、もう十年になりやがる」
昔を思い出すような老人の語りに、秋夜は思わずわずかに視線を床の上へと落とす。
老人の言うガキとは、もちろん秋夜のことであった。
幼い頃の秋夜は体の線が細く、背丈もそれほど高くなく、性格も穏やかで内気であり、事あるごとに他の子供らから標的にされ、泣かされるような子供だったのである。
そんな秋夜が偶然足を止め、泣いていたのが老人の家の門前であった。
当初老人は耳障りな子供の泣き声に対し、怒鳴りつけることで黙らせてやろうと考えていたのだが、いざ泣いている秋夜と顔を合わせてみたところで考えが変わり、きょとんとした顔で自分のことを見上げている秋夜にこう言い放ったのである。
「おいクソガキ。お前ぇ力はいらねぇか? お前にどんなに才能がなくとも、お前ぇを泣かした奴らを逆にガン泣きさせてやれるくらいにゃ育ててやれると思うぜ?」
「今思うに……あの勧誘の仕方はないな、と思いますが」
「うるせぇな! 俺もあの時ゃまだ若かったんだ!」
しみじみと言う秋夜に、当時のことを思い出して気恥ずかしくなったのか、老人がそっぽを向きつつ吐き捨てるように言った。
十年前と言えば、秋夜は幼いと形容して何ら問題のない子供の時分であったのだが、老人の方は秋夜の記憶が確かであるならば、十年前でも七十代の後半といった年齢だったはずで、これを若かったと言ってしまっていいのだろうかと少し思ったりもしたのだが、そこに突っ込みを入れることは余計なことであろうと考えて、秋夜はぐっとこらえる。
「まぁ当時のやりとりはともかく、そっからもう十年もお前に教えているわけだ」
「それについては……感謝しています」
秋夜の返答は心の底からそう思っての言葉である。
老人が力をくれると言って教えてくれた技術は、ひ弱と言われても仕方のなかった秋夜の体をかなり頑丈に鍛えあげてくれていた。
それに応じて腕力などが強くなっていくと、そういうところには鼻の利く連中は不思議と秋夜にちょっかいをかけてくることがなくなり、そういったものを悟れない連中は実際に秋夜の腕力を体験することにより、秋夜に近づかなくなっていく。
そうして老人のところで十年もの間、教えを受け続けてきた今では好んで秋夜に何か仕掛けてくるような者はいなくなっていた。
見た目はいまだにやや小柄で、少しばかり細いような印象を与える秋夜なのだが、その身にまとう雰囲気には剣呑なものが混じっており、下手に手を出せばきっと痛い目を見るであろうことがあからさまに分かるくらいにはなっていたのだ。
だから本当に感謝しているのだと伝えようとした秋夜より先に、老人が口を開く。
「今時じゃぁもう使い道もねぇような技術を、つらい思いまでして教わって俺に感謝するってぇ言うのか?」
気にしていたのはそこだったのかと秋夜は少し驚く。
「俺ぁお前ぇに、今じゃ使い道もねぇ技術を十年も教え込んだんだぜ? それも親切心とかからじゃねぇ。お前ならなんとなく俺の技術を物にできるんじゃねぇかって打算からだ」
初めて聞く言葉に、秋夜は驚きながらもなんとなく納得していた。
これまでの付き合いからしてこの老人は、優しさや親切心で人を助けるような性格をしておらず、どちらかと言えば弱いやつはそのまま死ね、というような考えの持ち主だったからだ。
そんな老人が何故、見るからにひ弱そうな自分に自分の持つ技術を教えてくれたりするのかを、秋夜はずっと疑問に思っていたのだが、その疑問が氷解した瞬間であった。
「鍛えるだけならなんてことはねぇ当たり障りのねぇお遊びの技術でよかった。だが俺ぁ俺の代でこの技術を途絶えさせるのは忍びねぇと、無理にこの使い道のねぇ技術をお前に教え込んだんだ。それについて俺ぁお前に詫びを入れなきゃならねぇと思っている」
「その必要はありません」
正座のまま居住まいを正し、老人をまっすぐに見つめながら秋夜はそう言った。
「学ぶことを決めたのは俺自身です。そうであるならば、師に詫びて頂くことなどあるわけがありません」
「教えた上に、手に負えねぇと封をしたのもこの俺だぞ?」
ほんの少しだけ、老人の声に自重めいた響きが混じったが、そう告げても尚、秋夜の気持ちに変わりがないらしいことを見て取ると、老人はつまらなそうに小さく鼻を鳴らして俯いた。
「十年も付き合っていて、いまだに名乗らねぇ爺相手に変わった奴だな」
確かにおかしな話だなと自分のことながら秋夜は思った。
十年前から付き合いはじめ、家に上げてもらってお茶などをごちそうになるくらいの間柄であるというのに、秋夜は老人の名前を知らないのだ。
最初に聞きそびれたことに加え、家に表札はなく、老人自身も名乗ろうとしなかったせいでずっと知らないまま今日に至っていたのである。
「師が師であることに、変わりはありませんので」
「つまんねぇ奴だが、そういう奴がいてもいいか。俺の家が代々伝えてきた技術は本来ならば俺の代で途絶えるはずだった。そいつがまぁ無名の技として残るってぇのも面白ぇ話だろうさ」
「俺が俺の後に伝えるとは限りませんが?」
「そいつはお前ぇの勝手だ。好きにしな。俺はお前に伝えた。その事実だけありゃ俺にゃ十分だ」
かなり投げやり気味にそう言ってから老人は秋夜の前へ一冊のノートを滑らせた。
その辺の文房具店に行けば、一冊百円前後で手に入れることができるであろうそれはまだ新しいもので、取り立てて重要そうな物には見えない。
だが、それを手に取るより前にその正体について伺うような秋夜へ、老人は言う。
「お前にかけた封の解除方法が書いてある。好きに使え」
「師匠。それは……」
「俺も歳を食ったってぇことだ」
急な話に面食らったような秋夜へ、老人は自分の顎を手でさすりつつ、ぼやくようにそう言った。
「医者の奴から色々と言われててな。無視しても一向に構わねぇんだが、このまま孤独死ってのも始末が悪ぃ。そんなわけで入院する運びになったってわけなんだが、多分俺ぁ出てこれねぇ」
老人が何を言わんとしているのかを秋夜は瞬時に察した。
思わず何か言いかけた秋夜を、老人は手で制する。
「使い古された表現じゃあるんだが、自分の体のことは自分が一番分かるって奴だ。そいつ自体は大した問題じゃねぇんだが、どうしてもお前への対応が中途半端になっちまう」
そこで老人は一度言葉を区切り、鋭い視線で秋夜を睨みつけた。
その視線の強さはとても、一度入院してしまったらその病院から二度と戻ってこれないだろうと思っている人間のものとは思えずに、秋夜は思わず背筋を伸ばし、体を強張らせてしまう。
「枯園 秋夜。これをもってお前ぇを皆伝と認める。俺からの餞別だと思って受け取れ」
有無を言わせぬ口調に秋夜はただ感謝を込めてその場に平伏し、老人はそんな秋夜の姿を見て満足そうに笑う。
それが秋夜が老人の姿を見て、言葉を交わした最後となったのだった。
書き始めてみました。
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