2.乙女ゲームが始まりませんでした。
スタスタと木の前を通り過ぎようとしたヒロインを慌てて呼び止める。ヒロインは、私の声に気付いたのか、ゆっくりとした動作で振り返った。間近で見ると死ぬほど可愛い顔をしているヒロインは、けれどゾッとするほどに無表情だった。ヒロインはこんなに無表情な女の子だっただろうか? ヒロインは、私の顔を見て、微かに首をかしげる。
「何か?」
鈴を転がすような、澄んだ美しい声だった。雰囲気に呑まれて「いえなんでも……」と言いかけて、慌てて首を横に振る。
「いや、何かじゃないです! 猫! 今、あなた、猫を見ませんでしたか!?」
「はあ、見ました」
「ですよね、その木の上に登って降りられなくなっている、かわいそうな猫を見ましたよね!?」
「ええ、見ました」
「ならなんで助けないんです!?」
思わずヒロインの肩を掴む。華奢だ。
ヒロインは私の剣幕に驚くこともなく、無表情のままで答えた。
「はあ、だって、私、木に登ったことなどないものですから」
淡々とした返答に、一瞬確かに、世界から音が消えた。
えっ今、なんて? 私は自分の顔から血の気が引いていくのを自覚する。木登りを、したことが、ない。
そんな馬鹿な!?
「……あの、本当に、木に登った経験がないのですか?」
「ありません」
「本当に? なくても、ほら、あの木なら、上手いこと登れそうじゃないです?」
「いえ、無理だと思います」
取りつく島もない。嘘でしょ。いやだって、無理でも登ってくれないと世界が終わるんですけど!?
このシーンはメインヒーローとの出会いのシーンでもあるとともに、このゲームが始まるプロローグ的なシーンでもある。いわばゲーム開始の合図なのだ。ここでメインヒーローと出会ったことで後々再会したときに「あ、あなたはあの時の……」となるし、王子が自ら声をかけた聖女ということで、他の攻略対象も興味を持ち出すのだ。
ここの出会いは、ないとやばい。乙女ゲームが始まらない。始まらなければラブパワーは溜まらず、世界が終わる。このままでは、世界滅亡の理由が、「木に登れなかったから」になってしまう……!
私はヒロインの華奢な肩から手を離した。木に登れないのなら、他の方法を考えなければ。
ヒロインは不審そうな顔で私を見る。わかりました、と私はヒロインを見据えて言った。
「木に登れないのなら、仕方がないです。そういう場合も、あるでしょう。けれど、お願いです。これは、世界の明日を左右する重大な局面なのです。私のことを怪しむ気持ちもちろんわかりますが、どうか一生のお願いなので、聞いてください。そこの、木に、登るふりをしてほしいんです」
訝しげなヒロインに必死に伝える。不審者上等だった。だって、これがクリアできないと本当に困るのだ。ただ木に、足をかけるだけでいい。その一歩が世界を救う一歩になる。猫を助けようとする意志さえ見せれば何とかなる気がする。あとはお兄様がなんか上手いことやってくれる。あれ、というかそもそもお兄様は一体どこで何してるんだ?
そこでようやく私は、肝心なメインヒーロがまだここに到着していないことに気がついた。
「すみません、やはり少し予定を変更します。今から私が、ある人を呼んできます。そのタイミングでそこの木に登るふりをしてほしいんです」
とにかく急いでお兄様を連れて来なければならない。私はヒロインに一旦ここで待つよう伝えた。ヒロインが「え、」と何か言いたげなのを遮って、もう一度伝える。
「ほんと、すぐですから。もちろん開会式までには終わります。終わりますからどうか、世界のために、木に登るフリをしてください。それだけでいいですから!」
ヒロインは終始何か言いたげだったが、私はヒロインから離れて走り出す。ほんとにごめんヒロイン。でもこの世界のために、何としてでも乙女ゲームを開始しなければ……!
■
暫く走ったところで、私はようやくお兄様を見つけた。
「お、お兄様! やっと見つけましたよ!」
「あれ、アリシア?」
ヒロインとの出会いシーンがあるにもかかわらず、お兄様はあの木の場所から少し離れた場所を呑気に歩いていた。危なかった、もしあのままちゃんと木に登っていたとしても、お兄様が来なければゲームが始まらないところだった。どうしてこんなところに!と問えば、お兄様は少し怒ったように顔を顰めて言った。
「それはこっちのセリフだぞアリシア? お前こそ、今日の授業をサボったらしいじゃないか。勉強好きなお前が珍しい。何かあったんじゃないかと思って、心配で探してたんだぞ?」
あっしまった、お兄様が来ないの私のせいだった。まさかの理由に頬が引きつる。そんな、お兄様に心配されるほどの騒ぎになっているとは思わなかった。こんな些細な行動がこんな事態を招くとは。一気に心臓が冷える。ごめんなさい、と謝りながら、けれど今はゆっくり反省をしている場合でもなかった。
あとでちゃんと反省するので、と私はお兄様の手を引く。
「あの、今は何も聞かずに一緒に私についてきてください」
「え? なんで?」
「いいですから、ほんと、ちょっとそこまでなので」
訝しげなお兄様の手を引いて先ほどの木の場所まで向かう。もう間もなく、聖女の試験を行う前の開会式が行われる。そこにはヒロインも当然参加しなければならないし、お兄様も第一王子として出席する義務があった。だからそれほど、時間はかけられない。
茂みをかき分けて、先ほどの開けた場所が見えて来る。今そこでヒロインが、木に登るフリをしてくれているはずだった。そこさえお兄様が目撃してくれればイベントは――
けれど、私とお兄様が到着したとき、既にそこにはヒロインの影も形もなかった。
「……アリシア? ここに一体何があるんだ? 早く授業に戻らないと、そろそろキースが本気でが怒るぞ?」
お兄様の不思議そうな声を聴きながらも、私は返事を返せない。
ヒロインが、いない。だって、まさかこんなことになるなんて。
心臓がどくりと音を立てて跳ねる。
どうしよう、どうしようどうしよう。ゲームが、乙女ゲームが。
「始まら、なかった」
拝啓、婚約者様。ヒロインが、乙女ゲームを始めてくれませんでした。