第五章 再会
第五章 再会
「わあ、久しぶりに翼が無いから体が軽いわ!」
十五年間の間滞っていたホワイトエンジェル家の家業もようやく軌道に乗り、リリーは三ヶ月ぶりに人間界へと戻ってきた。ダニエル、ライラック、ホップも一緒だ。リリーはあまりの嬉しさに、スキップしながら他の三人の周りをぐるぐる回った。ライラックは呆れたような顔で、走り回るリリーを見た。
「全く、お前という奴は……なぜ一々そんなにはしゃがなければならないんだ?たかが人間界に来たくらいで……こんな日常茶飯事」
「うわあ、すごいなあ」
迷惑極まりないとでも言いたげなライラックの隣で、ダニエルも感嘆の声を上げた。ダニエルが人間界を訪れるのはこれが初めてなのだ。
「誰にも翼が生えてないなんて!初めて見たよ!」
ダニエルの大声に(ボドワンと毎日怒鳴りあいをやっているおかげで、ダニエルの声は人並みより大きい)道行く人々は不審そうに眉をひそめていた。
「ここってセピア通りよね?」
走りすぎて目の回ったリリーは、ふらふらと歩きながら誰にともなく聞いた。
「当たり前だ。それ以外に何がある」ライラックは眉を吊り上げた。
「それ以前に、お前、セピア通りとディアマンテタウンくらいしか地名を知らないんじゃ……?」
「何それ?ひどいわ」リリーは頬を膨らませた。
「グラナートの首都は、グラン地方のグランでしょ。それから、セピア地方と……この前台風が直撃したところ、アベーテ。あとは……この近くだと、レヴァンテとか、メリディオとか」
「……いつの間に覚えた?」
ライラックは目を丸くした。リリーがここまで覚えているとは想定外だったようだ。
「馬鹿にしないでよ。私だってちゃんと勉強してるんだから」
「そうだそうだ。人が見てない間に成長してないと思ったら大間違いだぜ」
ホップが横から口を挟んだ。
「頭が悪いからって人を馬鹿にするんじゃな――」
「黙れ。お前はその屁理屈頭をもっと有効に使え」
「いや、俺にとっては、ライラックをからかうことがとっても有効な――」
「どこが有効だ?全く時間の無駄――」
「いやいや。ライラックをここまでムキにさせることができるのは、世界中探したって俺くらいしかいないと思うぜ」
「誰がムキになったって――?」
リリーとダニエルは一斉に吹き出した。ライラックは驚いて二人のほうを振り返った。
「何がおかしいんだ?」
ライラックは訳が分からないという顔をした。リリーとダニエルの笑いはますます激しくなった。
「だ……だ……だって、本当にムキになってるんだもん」
リリーは必死で笑いをこらえながら言った。
「じ……時間の、無駄、とか、言って……真面目に、答えて、るし」
隣で聞いていたホップも笑い出した。ようやく笑いの収まっていたリリーとダニエルも、ホップにつられて再び笑い出した。ライラックは傷ついたような顔をした。
「……分かった、もういい。もうこれからはホップに何を言われても応えないことにする」
「おい、それは困るぜ」ホップはライラックをつついた。「俺の楽しみを奪うなよ」
「人をからかって喜ぶな!お前はいじめっ子か?」
「だとしたらライラックはいじめられっこだな!」
「はぁ?」
ライラック以外の全員が笑った。リリーは笑いすぎて腹が痛くなってきた。
「ブラックエンジェルって、なんか怖いイメージがあったんだけど……本当は面白いんだ」
ダニエルは笑いすぎて目に涙を浮かべていた。
「いや、俺は特別だと思うよ」ホップはにやりと笑った。
「そういえば、俺、まだ君の名前を聞いて無かったよな――」
「お前が遅刻したのが悪い」
ライラックは険悪な目つきでホップを流し見たが、ホップはまるで動じなかった。
「ああ、僕は、ダニエル・ロドルフ・ド・ホワイトです。でも、ロドルフっていうのは僕が勝手に決めた名前で――」
「ダニエルか。ダニエルって名前にまつわる話は知らないな。でも、ロドルフっていうのは……あれじゃないか?あの……タイトルは忘れたけど、ベストセラー冒険小説の主人公ロドルフ。そこからとったんだろ?あいつは最高だよな!」
「え、あ、はあ。そうですけど……なんで?」
ダニエルは感心したようにホップを見上げた。ホップはダニエルに向かってウインクした。
「そりゃあ、俺は勘と耳のよさが売りだからな。ちなみに、半径一キロ以内に俺がいるときは、俺の悪口を言わないことを勧めるぜ。俺は恨み深い方だからな」
「ああ、はい……分かりました……」
ダニエルはホップの会話のスピードについていけていなかった。
「それより、早く用事を済ませないと時間がなくなる。昼には戻ることになっているんだ」
ライラックは、ずらりと建ち並ぶ家々の間から遠くの時計塔に目をやった。ちょうど十一時になるかならないかの所だった。
「あれ?そうだったのか?それなら確かに急いだほうがいいな」
ホップは服の内ポケットから黒い懐中時計を取り出した。ちなみに、ホップの洋服はいたるところに見えないポケットが付いている。本人曰く「鞄を持ち歩きたくないから」だそうだ。
「でも、何で昼に帰るんだ?そんなに急がなくてもいいじゃないか。一日くらい休暇があっても問題ないだろ?ノープロブレム」
「い、いや、僕が、学校に行かなくちゃならないから……」
ダニエルは申し訳なさそうにもごもごと言った。
「学校?今日は日曜だぜ?」
「父さんにこき使われて学校に行けなかったから、補習食らって……」
「なんだ、まあ、最近の教育機関はどうもおかしいな」ホップは顔をしかめた。
「しかしなあ。お前、仮にも貴族の息子だろ?学校なんか辞めちまって、家庭教師に変えればいいのに」
「いや、家庭教師だと、父さんが次々辞めさせちゃうから……『お前のやり方は気に食わん』って。もう、巷の家庭教師達の間では『ホワイトエンジェル家だけは止めておけ』ってことになっているみたいなんです」
いかにもボドワンが言い出しそうなことだった。
「なるほどね」ホップは愉快そうに笑った。
「だけど、俺は嫌いじゃないぜ。そういう『己の信念を貫け!』っていうのは。だいたい、俺だって小さい頃は――」
「無駄話はそこまでにしておけ」ライラックがホップを遮った。
「早くしないと全部終わらせられなくなる。とりあえず、ディモルさんの所に行くことになっているが……ダニエルは……どうする?」
「ディモルさんって……花屋やってる人だっけ?」ダニエルは自信なさげに言った。
「なんで知ってるの?」
リリーは驚いてまじまじとダニエルの顔を見つめた。ダニエルは肩をすくめた。
「リリーとライラックさんがその話をしてる時、僕も一緒にいたんだよ。うーん、でも……多分、僕がついていったら、邪魔だよね。うん。じゃあ、僕はここに残って、人間界の見物をすることにするよ」
「ああ、分かった。悪いな。外は寒いのに……」ライラックはすまなさそうに言った。
「別に大丈夫です。このくらいの寒さなら」
「もし寒かったら、あの小屋で待ってればいいわ。あの中なら風もないし、少しはましだと思う」リリーは通りの隅、今にも壊れそうな木造の小屋を指差した。
「確かに、それがいいかもしれないな。ダニエル、向こう側に建っている小さい小屋が見えるか?」
ライラックは、リリーが指差したのと同じ方向に手を伸ばした。ダニエルはライラックの示す方向に目を凝らした。
「うーん?えーっと……あの、古めかしい……?」
「ああ、それだわ」リリーは古いという言葉に反応した。
「あの小屋ね、古いくせに意外と強いの。狼に吹かれたくらいじゃ吹き飛ばないと思うわ」
「僕は豚じゃないよ」ダニエルは呆れ顔で言った。
「じゃあ、十二時五分前にその小屋で落ち合うことにしよう。いいか?」
「はい。また後で」
ダニエルはライラックとホップに手を振って、リリーに向かって舌を突き出した。リリーが手でダニエルを撃つ真似をすると、ダニエルはリリーに背を向けてすたすたと小屋に向かって歩いて行ってしまった。
「さあ、皆さん、四分の一時間が経過いたしました」ホップはおどけた調子で言った。
「やばいな」ライラックはもう一度時計塔にちらりと目をやった。
「少し急がないと間に合わない。リリー、今日は寄り道なしだ。といっても、そんなに長い道のりじゃないか……」
「言われなくてもそんなのしないわよ。もう思い知ったわ」
「思い知った?それが本当ならいいが……まあ、とにかく早く行こう」
ライラックとホップは、今さっきダニエルが向かった小屋とは反対の方向に歩き始めた。リリーもライラックの言い草に少しむかむかしながら二人の後に続いた。
リリーは、セピア通りに一晩泊まったことがあるとはいえ、実際には小屋の周辺しか見たことがなかった。グラナートの中でも最南端のセピア地方、さらにセピア通りといえばもうほとんどグラナートとディアマンテの国境に近い位置にある。そんなに栄えている場所ではないのだろうとリリーは勝手に思い込んでいたのだが、それもただの思い込みに過ぎないのだとリリーは知ることになった。小屋のある辺りは少し寂れた住宅街だが、それは例外中の例外で、ほんの少しだけ進んでみると、裏寂しい住宅街はいつの間にか小洒落た商店街へと早変わりしていた。初めのうちは八百屋や小さなベーカリーなど田舎っぽい店が多かったが、中心部に近づくにつれ雑貨店やカフェなども徐々に姿を現すようになった。もう十月なのでハロウィンの飾り付けをした店もたくさんある。
リリーの住んでいたヒアシンス通りは日本の中でもかなり田舎のほうだったので、店先にかぼちゃを飾るような店はそれほどなかった。そもそも日本という国に、ハロウィンにかぼちゃを飾るような習慣はほとんどない。物珍しさから、リリーは店先に飾られた大きなかぼちゃをしげしげと眺めて回った。しかし、後ろを振り返るたびにライラックが鋭い視線を投げかけてくるので、無意識のうちに立ち止まらないように気をつけなければならなかった。
「セピア通りって、意外と長いのね。ヒアシンス通りと同じ感じなのかと思っていたのに」
リリーは少し重たくなってきた足を引きずるようにして歩いた。店の数だけでなく人通りも段々と多くなってくるので、歩くだけでも重労働だった。
「ヒアシンス通りって何だ?」ホップが聞いた。
「私の住んでいる通りの名前。何でヒアシンスなのかっていえば、昔そこに住んでいた一人の女の人が『通りが寂しいから、みんなで家の前にヒアシンスの花を植えましょう』って言ったからなんだって。本当かどうか怪しいけどね。でも、今でもみんな家の前にヒアシンスの花を植えてるよ」
「いい話じゃないか。俺の辞書にヒアシンス通りを追加しとくぜ」
ホップはとんとんと指先で自分の頭を叩いた。
「俺はそういうどうでもいいような話が大好きなんだよ。小さい頃は親父に雑学博士って呼ばれてたんだぜ。いや、地獄耳だったっけ?」
「方向性が全然違うよ」
リリーはため息混じりに呟いた。ホップは敢えて無視することにしたのか、空々しく鼻歌を歌っていた。
リリーはホップに呆れた視線を送るのをやめて、再びかぼちゃの観察を始めた。ちょうどリリーの斜め前辺りに、一段と大きなかぼちゃがどっかりと座っていた。
「何のお店……?よっぽどお金に余裕がある店じゃないと、こんなかぼちゃは飾らないわ」
呟きながら、リリーはかぼちゃの飾ってある店の看板を見上げた。店名の脇に大きな花のイラストが描いてあった。
フラワーショップ アイリス
「あれ?もしかしてここ、ディモルさんの花屋?」
「え?ああ、本当だ。見落としてた――」
ライラックは感心したようにその花屋を見上げた。
「それにしても、ずいぶん外装が変わったな。これじゃあ気が付かないのも無理はない」
「そう見えるのは、このばかでかいかぼちゃ君のせいだろ」
ホップは、彼の腰くらいの高さに置いてあるかぼちゃにそっと触れた。
「すごいな。このかぼちゃ君もディモルさんが作ったのかな?」
「いや。それは昨日、俺が作ったんだ」
リリーたちの背後から声が聞こえた。リリーはびっくりして十メートルくらい上に飛び上がったような気分だった。
「だ、だ、誰?」
三人は一斉に振り返った。リリーの視線の先には、腕を組んでじっと足元のかぼちゃを見つめる男の姿があった。
「いや、正直な話、俺にこんな仕事を頼むのは間違ってると思うんだけど……こういうのはもっと芸術的センスのある人に頼むべきだ。ああ。だけど、人手が足りないらしいから仕方なく……」
呆気にとられているリリーたちに向かって、気まずそうに言い訳をしているのは、なんとコメットだった。
「おい!びっくりさせんなよこの馬鹿!」
ホップはふざけてコメットに殴りかかった。しかし、間一髪のところで彼の攻撃はかわされてしまったので、行き場を失ったホップの拳はライラックの腹に見事命中した。
「ぐ……お、お前、ふざけるな!」
不意打ちを食らったライラックは、ほんの少し斜めによろめきながら、ホップに食ってかかった。
「ち、ち、ちが……違うってば!悪気はなかったんだって!怒るならコメットを怒れよ!」
コメットは完全に知らぬ振りを決め込んだ。
「他人に責任を押し付けるのか?人として最悪だな」
ライラックはホップにきつい視線を送った。
「何とでも言えよ。俺は人間じゃないからな」
「だからその屁理屈頭をどうにかしろといっているんだ!」
「お生憎様。皆さんご存知の通り、俺の脳味噌は生まれつきどうにかなっているんでね」
リリーはとうとう笑い出した。ライラックをここまで散々からかおうという気が起こるのは、世界中探してもホップくらいしか見つからない気がする。
「ライラックとホップってね、ダニエルとお祖父様にそっくり」
ライラックとホップは揃ってリリーの方を振り向いた。
「ボドワンさんとあいつに? どこが?」ホップは眉をひそめた。
「うーん、どこがって言われると答えられないけど……あの二人も毎日喧嘩してるから」
リリーはくすくす笑いそうになるのを必死でこらえた。ダニエルとボドワンの言い争いは、思い出すたびに笑いたくなってしまう。例えば昨日は、苺が野菜か果物かという話題で、昼食の間中ずっと二人で話し込んでいた。ダニエルは『苺は木にならないから果物ではない』と主張したが、ボドワンは『苺はあくまでも果物である』と言い張った。苺は甘い、苺が果物だと言っても誰も疑わない、そもそも果物と野菜の定義なんて曖昧だし、どこかの役人が勝手に決めたものだ――と。冷静に考えれば馬鹿らしい話でも、ダニエルとボドワンが話せばとても重要なことのように思えてしまうのが不思議だ。
「ダニエルって誰だ?」今まで黙っていたコメットも会話に加わった。
「ボドワンって名前は聞いたことがあるけれど――」
「ボドワンっていうのは私のお祖父様で、ダニエルはその息子よ」リリーは説明した。
「つまり、そのダニエルとやらは、リリーの叔父さんってことか?」
眉をひそめたコメットのその質問に、リリーは口をパクパクさせる他なかった。
「……え? え、え、えーっと」
リリーは、何か言うべき言葉はないかと探したが、何も浮かんでこなかった。
確かに、言われてみればダニエルは、リリーの叔父だ。それ以外には説明のしようがない。しかし、リリーは今まで一度もダニエルのことをそんな風に考えてみたことはなかった。どちらかといえば友達のようなものだったのだ。
「何だ、違うのか?」戸惑うリリーに、コメットは眉根を寄せた。
「いや」リリーの代わりにライラックが答えた。「冷静に考えれば、ダニエルはリリーの叔父になるはずだ。ただし、ダニエルとポピーさんの歳が離れすぎているから、いまいちピンとこないのも理解できる」
「ダニエルってさあ……さっきのチビ助くんだよな?」ホップは半信半疑で言った。「俺さ、そういう家の話になると疎いんだよなあ……。冗談抜きで全然分かんないよ。自分の家族だけでも嫌というほど大勢いるしな。小さいころ遊び呆けてたつけが回ってきたぜ。これからはもうちっと真面目に行くか」
「自覚があるのはいいことだ」ライラックは素っ気なく言った。
「といってもなあ」ホップは困ったように漆黒の髪を掻き毟った。「俺が庭中の毛虫を集めたり、親父のコーヒーカップに塩入れたりするのに夢中だったのは、六歳とか七歳とか、その辺のもっとガキのころだぜ? その後はちゃんと真面目にやったんだ。なんで俺がそんなに馬鹿扱いされるのか分かんねえよ」
「言動が馬鹿っぽいからだ」ライラックは真面目な顔で言った。
「それに、普通に考えれば、七歳の子供がそんな幼稚な悪戯に熱中するわけないだろう?やっぱり馬鹿としか言いようがない」
実際七歳のころポピーのコーヒーカップに塩を入れた覚えのあるリリーは、ライラックの言葉に少しどきりとした。それに、六歳七歳といえば、一番その手の悪戯に精を出しそうな年齢だとリリーは思っていた。
ホップもほとんどリリーと同じようなことを考えていたようで、眉をひそめてライラックに聞き返した。
「じゃあ、お前はそのくらいの頃、何やってたって言うんだ?ああ……だけど、後生でも『明けても暮れても勉強してた』なんて答えないでくれよ。そんな気味の悪いガキがどこにいるってんだ」
「俺は……」
「……明けても暮れてもヴァイオリン弾いてたとか?」リリーは声を潜めて言った。
次の瞬間、ホップやコメットが何らかの反応を示す間もなく、ものすごい勢いでライラックはリリーの方を振り返った。
「ど、ど、ど、ちょ、ちょっと待て!お、お、おま、ど、どこでその話を……!」
ライラックはリリーの肩を掴んで激しく揺さぶった。まさかこんな反応が返ってくるとは予想もしていなかったリリーは、やっぱり言わなければ良かったと後悔した。
「い、いや、別に何も不法に聞き出したとかじゃなくって……ただ、たまたま、聞いちゃっただけ……あの、四大、天使会議で」
そこでようやくライラックはリリーを揺さぶるのを止めた。リリーは掴まれた肩を抑えてよろめき、ライラックは放心したように突っ立っていた。
「……ヴァイオリン?」コメットが訝しげに言った。
「なんでそこでヴァイオリンが登場するんだ?」
リリーはライラックの様子を伺った。さっきの反応から察すると、勝手にライラックのヴァイオリンのことを二人に話してしまうのはまずそうだ。
「そうだよ。なんでヴァイオリン、猫にヴァイオリン……って、ああ」ホップも言った。
「そうか。そういうことか。それなら過去のの不審な言動の数々にも説明がつくぜ」
納得したようなホップの言葉で、コメットにも察しがついたようだった。
「まさか、ライラック、ヴァイオリンを……ひ」
「うわあぁ!」ライラックはまるでこの世の終わりかと思うような声を上げた。
「俺の人生最大の秘密が……」
「え? 秘密だったの?」
ライラックは本格的に落ち込んでしまった。「フラワーショップ・アイリス」の壁にもたれかかって、頭を抱えている。花屋の店員(ディモルは数人の店員を雇っているようだ)がぎょっとしたようにそんなライラックを見ていた。自分の店の前でいきなり悲鳴を上げられたら、誰だってぎょっとするだろう。
「何が明けても暮れてもヴァイオリンだ……勘弁してくれよ……」ライラックは呟いた。
「……ご、ごめん、なさい。秘密にしてたって、知らなかったから」
リリーは震える声で謝った。ライラックはあきらめたように首を振った。
「もういい。どうせ忘れてくれといったって誰も忘れてくれないだろうし……まったく、あの家はどうかしている。いや、ヴァイオリンのことさえなければいいのに。二百年前からずっと、本家の子供たちには全員ヴァイオリンを習わせるという伝統ができた?そんな伝統なんかいらないって言ってるんだ」
「はいはい。じゃあお前が当主になった頃にでも廃止にしちまえばいいだろ」
ホップはうんざりしたように言った。
「ねちっこい男は嫌われるからな。文句はほどほどにしておいたほうがいいぜ。もっと俺みたいに――」
「でも、何でライラックはそんなこと秘密にしてるの?」リリーは聞いた。
「秘密にしているんじゃない、していたんだ」ライラックはため息交じりに言った。
「だって……ヴァイオリンなんて、女のやるものじゃないか」
聞いていた三人はライラックをまじまじと見つめた。
「……そんなことはないと思うけど」
「……それは単なる思い込みだぞ」
「……女の子の弾くような楽器を弾ける男っていうのは、案外もてるもんだぜ」
ライラックはわずかに顔を上げた。
「それは……本当か?」
「ああ、本当だぜ。この俺が嘘をつくとでも思うのか?」ホップは大真面目な顔で言った。
「お前には聞いていない」
「なんだよ、冷たいな」ホップはライラックに向かって舌を突き出した。
「でも、ヴァイオリンができるってすごいわ! 私、本物を見たことさえないのに」
「そうだ。それに、オーケストラのヴァイオリニストなんてほとんどが男じゃないか」
「ああ、それ、ダニエルも言ってたわ。私たちのお屋敷に来たことがあるヴァイオリニストは、全員男だったって」
リリーとコメットは二人がかりでライラックをなだめにかかった。明らかに嘘の混じった最後のリリーの言葉に、ライラックは複雑な表情をした。
「ああ、いいなぁ。みんな特技があってさ」横で聞いていたホップは大げさにため息をついた。「俺の特技といえば、ライラックをからかうことくらいしか……」
「それは特技と言わないだろう」ライラックが口を挟んだが、ホップは無視して続けた。
「ライラックはヴァイオリンだろ……コメットは魔法が得意じゃないか。ああ、リリーは何か特技ある?」
「私?うーん、そうね……」リリーは眉を寄せた。
「特技……うーん、じゃあ、私も魔法にする」
「……魔法にするってなんだよ!するって!」ホップは笑った。「しかも何気に一番不得意なことを特技にしてないか?」
「でも、私、ヒアシンス通りに帰ったら、たぶん町内で三番目に魔法が使える人になるわ。一番と二番はお父さんとお母さん」
「そんなこと言っても、お前は魔法が使えないだろう?ただ見たことがあるというだけで」ライラックは眉をひそめた。
「そうだよ。別に変わらないだろ」
ホップはくすくす笑った。リリーは顔をしかめた。
「何?馬鹿にしないでよ。私だって,、魔法のひとつくらい、使えるようになったわ!」
一瞬の沈黙が流れた。疑惑を隠そうとしない視線がリリーの方に向けられた。
「あれ、言ってなかったっけ……?」
「そんなの、聞いてないよ!」ホップがわめいた。「ああ、これでリリーが魔法を使えるようになっちゃったら、俺の取り柄がなくなるじゃないか!」
「お前だって別に、魔法が得意なわけではないだろう?」ライラックはじろりとホップの方へ視線を流した。「いや、どちらかといえば苦手じゃ……」
「うるさいな、馬鹿」
「馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはない」
「なんだよ!ライラックは黙ってヴァイオリンでも弾いてろ!」ホップが怒鳴った。
さっきのショックから少しだけ立ち直ってきていたライラックは、再びげんなりしてしまった。
「これだから嫌だったんだよ……」
「お前が馬鹿を蔑むからいけないんだよ。自業自得だ」ホップはライラックに背を向けた。
「あ、あ、ご、ごめんなさい……私が魔法の話なんてしなければ……」
ホップとライラックはリリーの話など聞いていなかった。リリーは頭を抱えた。
「ああ、何で……せっかく魔法を覚えたのに、なんか嫌な雰囲気」
「やってみろよ」コメットは腕を組んだまま言った。「何の魔法を覚えたんだ?」
「え、あ、いや……今?」
不意を突かれたりリーは慌ててそう聞き返した。さっきはあんなふうに自信満々で宣言してしまったものの、こうしていざ魔法を使ってみろといわれたら、成功するかどうかは分からない。実際、リリーが使ったことのある魔法は光の魔法だけだし、その光の魔法も、地下室から出た後自分の部屋だ何度か試してみたが、いつも成功しているわけではないのだ。
「まさか、さっきのは嘘だった……なんて、言うなよ」
「言わないわよ、そんなの!」リリーは唇を噛んだ。とにかくやるしかなさそうだ。
「失敗したらごめんね」
「そうしたらリリーは魔法が使えないと思う」
リリーはため息をついた。コメットはおかしそうに笑った。
「私が覚えたのは光の魔法なんだけど……なんで光の魔法かっていえば、お屋敷の地下室に行ったとき、暗くて周りが見えなかったから、仕方なくやったってだけなの。そのときはものすごく嫌だったけど、今から思えば、それでよかったのかもね」リリーは説明した。「それで、ひとつ不思議なのは……最初にこの魔法を使ったとき、目の前に見たこともない風景が浮かんできたことなの。大きなひまわり畑なんだけど……なんでそんなところを思い浮かべたのか分からないわ」
「ふうん」コメットは頷いた。「それで?」
リリーは目を閉じて遠くを見つめた。いつかのように黄色い太陽とひまわりがまぶたの裏に浮かんできた。思わず口元が緩むのをリリーは感じた。魔法が成功するときは、何も考えなくても自然とこのひまわり畑が見えるのだ。
「アンバース」
リリーの指先から、何か暖かいものが、じんわりと手のひらに、腕一杯に、広がっていった。リリーはほっとして目を開いた。
「やった、成功――」
リリーは言葉を詰まらせた。
普段部屋の中を暗くして練習していたりリーはすっかりパニックになってしまった。今は昼の十一時、昼間なのだ。この明るい中で光の魔法はほとんど効果を奏さない。リリーの作った小さな光は、太陽の光と混ざってしまい、ほとんど目には見えなかった。
「ち、ちが……ちゃんと、できたの。でも、見えなくて……」リリーは震える声で言った。「失敗じゃ、ない……」
リリーは目をこすった。今回は今までにないくらい上手くできたと思った。それなのに、周りが明るすぎて見えないなんて悔しすぎる。
「大丈夫だよ。ちゃんと分かったから」
落ち込んでいるリリーの背中をコメットが軽く叩いた。リリーは顔を上げた。
「……本当? 見えたの? 目がいいのね」リリーは皮肉っぽく言った。「……別に、嘘つかなくてもいいよ。また、今度」
「魔法は目に見えるものだけじゃないんだ」コメットが言った。「お前だって知ってるだろ?誰かが魔法を使うとき側にいると、肌がぴりぴりするのを感じないか? それが魔法のエネルギーだよ」
「そんなの、感じないけど」リリーは答えた。「いや、もしかしたら感じるかも……。でも……嘘じゃ、ないの?」
「いいか、よく覚えとけ」コメットは重々しく言った。「俺は、生まれてから今まで一度も嘘をついたことがない」
「……それじゃあ、お母さんをだまそうとした手紙はどうなるの?」
「あれはライアンが書いた」
リリーは笑った。
「おい、そこの二人、いつまでもいじけてるなよ。こっちだって気をもまなくちゃならないだろ」
「うるさいな、俺はいじけてないよ」ホップはコメットに食ってかかった。「何だよその言い草は。こっちは仮にも天使貴族――」
「そういうときだけ身分の差を見せつけるなよ。だいたい、敬語を使うなと言い出したのはホップじゃないか。お前、自分がなんて言ったか覚えてるか?『そんな堅いこと言うなよ、俺とお前の仲じゃないか。だいたい、俺たち天使が貴族を気取っていられるのはせいぜい天界の中だけなんだよ。人間界ではただの馬鹿なだと思ってくれればいいよ。ただし、天才と馬鹿は紙一重ってことを忘れないでくれ』ってさ」
「え、そんなこと言ったの?」
リリーは耳を疑った。ホップのほうを見ると、彼はすばやく視線を逸らした。
「自分で自分のこと天才って言ったの?」
「関係ないだろ」ホップは弁解がましく言った。「昔の話だよ。その頃、俺、十四だぜ? あーあ、あの頃は若かったなあ、俺。冒険心溢れる若者だった
「そういえば」ホップがぶつぶつと呟いているのを遮ってライラックが言った。「ディモルさんはどこへ行ったんだ? さっきから見当たらないけれど……」
「ああ、そうだ。ディモルさんは、今朝急に注文が入って、ヤドウィンの国境まで配達に行ってる。そこそこ偉い人だったから、店長が行かないとまずいらしいんだ。さっきエレノアさんに聞いた。多分十二時過ぎまでは戻れないと――」
「それ、本気か?」ホップはショックを受けたような顔をした。「俺たち、正午までには天界に戻ってなきゃいけないんだよ。ダニエルっていう……リリーの叔父さんが、学校の補習食らっちまったらしくてさ。どうする、ライラック? さっさと行って戻ってくるか、また今度にするか……」
「いや」ライラックは考え込みながら言った。「リリーとダニエルは自力で戻れないけれど、俺たちは大丈夫だろう? それなら、どちらか一人が残ってどちらかが先に帰ればいい」
「ああ、なるほどな。さすがライラック」ホップは感心したように言った。「で、どっちが残る?」
「じゃあ、お前が残れ」
「えーっ?」ホップはライラックの顔を穴があくほど見つめた。「なんでだよ? 普通はライラックだろ?」
「嫌なら最初から聞かなければ良かったんだ」ライラックはさらりとかわした。「それに、普通が俺ならたまにはお前でもいいだろう?」
「ちぇっ。仕事残してきちゃったのになあ……」ホップは面倒くさそうに言った。「じゃあ、さっさと戻ってこいよ」
「ああ」ライラックはそう言うと、もときた道を戻り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
リリーは慌ててライラックを引きとめた。ライラックはくるりと振り向いた。
「何だ?」
「何で私もダニエルと一緒に帰らなきゃいけないの? せっかく人間界に来たんだから、もう少しいろいろ観てから帰りたいわ」
「だめだ」ライラックは即答した。
「なんで?」リリーはあまりに理不尽な答えに、思わず口を尖らせた。「私、前は人間界にたった三日しかいられなかったのよ? ライラックに攫われたせいで!」
「無理強いしたわけじゃない。恨むなら天気を恨め」
「少しならいいじゃない。何でだめなの?」
「迷子になりそうで心配だからだ」
ライラックはあっさり答えた。リリーは思わす悪態をつきそうになったのをぐっとこらえた。
「なんで? なんでそんなに子ども扱いするの? 私、そこまで子供じゃない! 帰り道くらい一人で探せるわよ!」
「遊園地で迷子になったんじゃないのか?」
「それは昔の話!」
リリーは頬を膨らませた。四大天使会議のとき見かけたスーツの男もそうだったが、誰も彼もリリーのことをまるで小学生のように見ている気がする。天使貴族の中に混ざるとリリーが幼すぎるのも明々白々の事実だが、それにしてもこの扱いはあまりにひどすぎる。普通に接してくれたのはジュリアンナ・ゼルダくらいのものだった……そこまで思い出して、リリーは顔をしかめた。ジュリアンナとのことはあまりいい思い出ではない。
「それなら、好きにしろ。置いて行くからな。自力で戻れよ」
ライラックは再びリリーに背を向けて歩き出してしまった。リリーはしばらくその場に踏ん張ってライラックに反抗していたが、ライラックは構わずどんどん歩いていってしまうので仕方なく彼の後を追った。もし本当において帰られてしまったら、困るのはリリー自身だ。
「俺さ、ライラックって、天使として最悪な奴なんじゃないかって、たまに思うんだよな」背後の雑踏の中からホップの声がかすかに聞こえてきた。「でも、その考えが長く続いたためしがないんだよ。不思議なことにね。特にヴァイオリン弾けるなんて言われるとそんな考えはどっかに吹き飛んじまうよな」
コメットの笑い声が聞こえた。リリーは唇を噛んで何とか笑わないようにした。こんな人ごみの中一人で笑っていたら、かなり怪しまれてしまう。
その間にも、リリーとライラックの距離はだんだん離れていた。ライラックは足が長いせいか歩くのが異常に速い。体の小さいリリーには到底追いつけそうもない。
「ライラック! 待って!」リリーはとうとう叫んだ。
「なんだ、結局帰るのか」ライラックは一瞬振り向いたが、足を止めることはなかった。
「そんなに、急がなくても、もう少し、ゆっくり、行こうよ」
リリーは息を切らせながら言った。歩きすぎたせいか、足がずきずきする。
「のんびり散歩している暇はない。あと五分で十二時になる」ライラックは前を向いたまま言った。
「そ、そんな……」
リリーは立ち止まった。それでもライラックは構わず歩きつづける。
「もう少し早めに来ればよかったのに!」
「仕方ないだろう。過ぎてしまったことはもう変えられない」
リリーはため息をつくと、すでに数十メートル先を歩いているライラックのところまで走っていった。
「間に合うの?」
「間に合うように急いでいる。ダニエルの学校は何時から始まるんだ?」
「分かんない。十二時半か四十五分か……そのくらいじゃないかな?」
二人は、ファッションの店が建ち並ぶメインストリートを抜けて、少し寂しげな裏通りを歩いていた。休日のセピア通りの混み具合は半端ではない。
「アイリスが西寄りの店で良かったよ」ライラックの声にも疲労の色が滲んでいた。「中心の広場付近は、一歩先へ進むのもやっとというほどだ。北側の通りはこんな住宅街なんて入る余地もない」
「そうなんだ……。私、初めてここへ来た時、なんて寂しい所なんだろう、って思ったの。まさか商店街と繋がっているとは」リリーは途中で言葉を切った。それ以上は苦しくて喋り続けることができない。
ライラックは唇を噛んだ。
「屋敷から学校までは何分かかるんだ?」
「うーん……二十分くらいじゃないの? 知らないけど」
仕事ばかりで学校に行けなかったリリーは、ライラックの質問にきちんと答えることができない。
「そうか。それなら何とか間に合うぞ。急げ!」とうとうライラックは走り出した。
「ちょ、ちょっと! 待ってよ!」リリーは脇腹を抑えた。「私の言ったことを全部信じられても困るわ! 適当に答えたのに!」
ライラックは聞いていなかった。
「あと少しだ。もうすぐ小屋が見える」
ライラックは道の向こう側を指差した。埃をかぶったような木の屋根が、確かにリリーの目にも映った。リリーは走るのを止めた。
「ああ……やっと着いた……。ダニエルを、呼びに行かないと……」
そう言ってから、リリーは古びた小屋の前に突っ立っているダニエルを見つけた。この寒い中一時間も待っていたせいか、顔が青白い。
「ダニエル!」
リリーが手を振ると、ダニエルはリリーとライラックが戻ってきたことに気が付いてすかさず駆け寄ってきた。
「ライラックさん! リリー! あれ、ホップさんは?」
「ダニエル、中に入っちゃえば良かったのに。何で外にいたの? 鍵が閉まってたの?」
ダニエルは背後のみすぼらしい木造の小屋を振り返った。
「リリーの言ってた小屋って、やっぱりこれで良かったのか?」ダニエルは首を傾げた。「人が住んでるみたいだったんだけど……」
「え?」リリーとライラックが同時に聞き返した。
「ああ」ライラックはライラックは自分の額に手をやった。「そうか、忘れていた。何ヵ月か前に、ディモルさんがこの家を売りに出すと言っていたんだ。まさかこんな早くに売れてしまうとは……」
「この小屋を買おうなんて人、いるの? 会ってみたいわ」
リリーがそう呟いたとき、まるでリリーに反応するように小屋の扉が開いた。リリーは思わず一歩後ろへ身を引いた。
「あ……」リリーは呆然と扉を見つめた。
「ほらね。女の人が住んでるんだよ」ダニエルが言った。
開けるたびに軋むドアの後ろから、一人の女性が姿を現した。淡い金髪を腰の辺りまで伸ばしている。どうやら庭に干してあった洗濯物を取り込みに出てきたようだが、女の人はダニエルの姿を見ると、驚いたように側へ寄ってきた。リリーとライラックは一歩下がって、ダニエルが女性にどう反応するのか見守った。
「あら、まだいらっしゃったの? あんまり長くかかるようなら、内の中で待っていて頂いても、全然構わないのよ。外は寒いでしょう。唇が紫になってるわよ」
女の人は心配そうに言った。ダニエルは目をぱちくりさせた。
「あ、いえ、大丈夫です。もう会えたので」ダニエルはリリーたちの突っ立っている方へそろそろと移動した。
「あら、そうなの? それなら大丈夫ね」
女性はリリーとライラックの二人に視線を移した。
リリーは思わず目をこすった。
「あの、えーっと……」
「……え?」女の人はまじまじとリリーを見つめた。
風が女性の長い髪を躍らせた。リリーは確信した。
「……リリー?」
リリーの唇が震えた。
「お母さん?」
「リリー? 本当にリリーなの?」
ポピーはものすごい勢いでリリーのところまで駆け寄ってくると、思い切りリリーを抱きしめた。
「お母さん!」リリーはポピーの腕の中でもごもごした声を出した。
ポピーはようやくリリーから体を離した。リリーは胸一杯に空気を吸い込んだ。
「何でお母さんがここに?」リリーは言った。
「それはこっちのセリフよ!」ポピーはリリーの肩を揺さぶった。「何でここにいるの? ついてきたの? いいえ、ついてくることはできないはずよ。だって、あなたは確かプールに行っていたんだもの」
「お母さん、痛い!」リリーは悲鳴に近い声を上げた。
ポピーははっとしてすぐにリリーの肩を離した。リリーはポピーの指が食い込んでいた辺りを手でさすった。
「ごめんね、リリー、大丈夫?」
「うん」リリーは鼻が詰まったような声を出した。
「でも、ああ、リリー! まさかこんなところで会うなんて! 本当にどうやってここにきたの?」
「お母さん!」リリーは語気を荒げた。「先に聞いたのは私なんだから、お母さんから答えて。お母さんが答えないなら、私だって何も言わない」
「あら」ポピーは再びリリーのほうへ伸ばしかけていた腕を胸の前で組んだ。「リリーがそのつもりなら、私だって同じよ。リリーが話すまでは何も答えないわ」
リリーはため息をついた。ポピーと我慢比べをしたところで、リリーの負けは目に見えている。十数年の経験から身をもってそう感じていたリリーは、それ以上ポピーと張り合おうとはしなかった。ポピーの頑固な性格はボドワンに似たのかもしれない、とリリーは思った。
「私は、プールから帰った後、夏祭りの会議で中央公園に行ったの。だけど、誰もいなくて……。少し時間を過ぎてたから、もう終わっちゃったのかと思ったんだけど、そのうち地面から光が出てきたの。それで、気がついたら変な知らない場所にいたの。なんか、会議のお知らせは、お母さんをおびき寄せるための罠だったみたいなの」
ポピーはぽかんと口を開けた。
「罠? 私をおびき寄せるための? 何なのよ、それ」
「いいから黙って聞いていて。そのうち分かるから」リリーは厳しく言った。
「でも……はい」ポピーはおとなしく口を閉じた。
「それで、私はお母さんと間違えられて、ここへ連れてこられちゃったの。連れてきたのはコメットとライアンって人で、ホワイトエンジェルとゴールデンエン……」
「天使の事を知ってるの?」ポピーは鋭く言った。
リリーは頷いた。
「うん、知ってる。ホワイトエンジェル家の当主がいなくて困ってるから、お母さんを探してる、って言ってたよ」
途端にポピーの顔がさっと曇った。しかし、それ以上天使のことについては何も触れなかった。
「そう……分かったわ。続けてちょうだい」
「……うん。それで、四大天使のうち二人が欠けているせいで、世界が困っているって聞いて、私がお母さんの代理をすることになったの。グラナートにきた暴風雨をとめたのが、最初の仕事。ここ三ヶ月間はずっと天界にいた。今日は人間界に遊びにきたの」
「天界に行ったの?」ポピーは口元に手を当てた。
「うん」リリーは首を傾げた。「何で?」
「でも……何も言われなかったの?」
「え?」リリーは眉をひそめた。「何で? 行っちゃいけなかったの? 私、何か悪いことした?」
「いいえ、悪いことをしたのは私なんだけど……ううん、してないわ」ポピーは困り顔でリリーを見た。「リリー、なぜ私が天界から逃げてきたのか、分かる?」
「牢屋に入れられたからじゃないの?」リリーは聞き返した。
「そうよ。そう……だから、牢獄から逃げ出した天使の娘なのに、何も責められなかったの?」ポピーはすごく言いにくそうに言った。
「……え? ああ、そういうこと」リリーはにっこり笑った。「それなら大丈夫だよ。お母さんの無実はもう証明されたの。もう誰もお母さんを責めないよ」
ポピーはまじまじとリリーの顔を見つめた。
「……え、えっと……それは、どういうこと?」ポピーは弱々しい声で言った。
「お祖父さまがお母さんは悪くないってみんなに訴えたの!」リリーは叫んだ。「だから、みんなお母さんが帰ってくるのを待ってるんだってば!」
「え? お……お父様が?」
それから、出し抜けにポピーは泣き出した。
「ちょ、ちょっと、お母さん! 何泣いてるの?」
リリーは慌ててポピーの顔を覗き込んだ。ポピーが人前で涙を見せるようなことは滅多にないのだ。
ポピーはポケットから白いレースのついたハンカチを取り出すと、くしゃくしゃに丸めて目に押し付けた。
「わ、わ、私」ポピーはくぐもった声で言った。「私、お父様と、い、いつも、喧嘩、ばっかり、していたの。は、反抗、して、ばっかり、で……。だ、だから、私が、と、捕らえ、られた、時も……お、お父様は、せいせい、し、したんじゃ、ないか、って……お、思って、たわ。ず、ずっと。で、でも、なのに……お、お父様は……」
そこまで言うとポピーは声を詰まらせて、さらに激しく泣き出した。リリーはなんと言えばいいのか分からず、ただうろたえるばかりだった。
「わ、私、死刑宣告されたの」ポピーはしゃくりあげながら言った。
「え?」
リリーはぽかんと口を開けた。ポピーが有罪判決を受けたとは聞いていたが、そこまで重い刑罰だったとは思わなかった。
「て、天使は、天使同士の争いには、すごく寛大なのに、そこに、人間が絡んでくると、途端に、厳しくなるのよ。わ、私、自分の、叔母に、ルイーズに、訴えられたの。権力争いで……ルイーズは、いつも、お母様のの陰に、隠れていたって。いつも、お母様のことを、嫉妬していたんだって……いろんな人に、言われたわ。だ、だから」
リリーは恐る恐る手を伸ばして、ポピーの背中をさすった。ポピーは震えていた。
「お母さん」
リリーはレースのハンカチに向かって呟いた。ハンカチには、白いサテン・ステッチで「ポピー・ジョヌヴィエーヴ」と書いてあった。
「わ、私、ルイーズに、人間を侮辱したって、言われたの。人間界へ行って、自分はメシアだとか、嘘を言って、人間を服従させようと、したって……。それで、反抗した人間を二人、殺したなんて……とんでもない嘘を……。証人もいたわ。人間の証人が。私は、圧倒的に不利だった。私が、訴えられたって、聞いて、お父様は、すごく怒ったけど、その後、出かけたきり、家にも帰らなくなってしまった。私は、そのことが、すごくショックで、裁判で勝とうなんていう気は、すっかり失せてしまったのよ。もう……何もかもどうでも良くなって……どうせ、生まれたらいつかは死ぬんだから、何も変わらないって……」
ポピーは、濡れて使い物にならなくなったハンカチをぐしゃりと握りつぶした。リリーはポケットから自分のハンカチを取り出した。白いレースがついていて、百合の模様と「リリー・アンジェル」の文字が刺繍してある。まだリリーが小さくて、ハンカチを使うこともなかった頃に、ポピーが作ってくれたものだった。
「ありがとう」ポピーはリリーのハンカチを受け取ると、充血した目に押し当てた。
「私、十二歳のとき、ちょうど今のあなたくらいの頃に、牢獄に送り込まれたの。裁判に負けた後は、生きる希望も無くて、しょっちゅう悲鳴をあげてたわ。どっちを見ても、鉄の壁しかないの。私、太陽の光が懐かしかった……ずっと、魔法の光に照らされていたから。世界と切り離されてしまったような気がしたの。ある日突然、私が病気になって、この牢獄の中で死んでしまっても、誰も気づかないんじゃないかって、そんな風に思った」
ようやく泣き止んだポピーは、ハンカチの縫い取りを指でなぞりながら話し続けた。
「でもね、牢獄の中でたった一度だけ、私が、外の世界のものを見られたのは、セレスタンが、ひまわりを持ってきてくれたときなのよ」
「お父さんが?」リリーは目を丸くした。
「そう。お父さんも天使なのよ、リリー。天使貴族ではないけれど。セレスタンは、その頃、牢獄の看守をしていたの。私が、お日様が見たいって言ったら、お日様を持ってくることはできないからって、ひまわりを持ってきてくれたの。多分、その頃捕らえられていた人たちの中では私が一番小さかったから、同情してくれたんでしょうけど……。天界のずっと東のほうに、大きなひまわり畑があるんだって言っていたわ。私は、ルイーズの言っていたことは、全部嘘なんだって話した。セレスタンが私の言ったことを全部信じたとは思わないけれど……とにかく、私は逃げたわ。セレスタンの力を借りて」
ポピーはそこで一旦言葉を切ると、今にも壊れそうなみすぼらしい小屋に目を向けた。
「私は、しばらくの間、一人でこの小屋に住んでいたわ。天界から逃げるとき、セレスタンが少しお金をくっれたから、それで何とか凌いでいた。でも、そのうちセレスタンが私を逃がしたこともばれてしまって、セレスタンも逃げてきた。私たちは、半年くらいこの場所で息を潜めていた。不安な日々が続いたわ。家の前を誰かが通るたびに、私は扉の後ろに隠れていた。セレスタンだって、夜、足音が聞こえるたびに目を覚ましていた。下手に動くよりそのほうが安全だと思ったのよ。それでも、それほど長いことここに住んではいられなかったわ。私たちは他に住む場所を探し始めた」
「なんで?」リリーは聞いた。「誰かに見つかったの?」
「違うわ。戦争があったのよ」ポピーは顔をしかめた。「その頃、グラナートはディアマンテから宣戦布告されたばかりだった。たくさんの人たちが怯えていた。私たちはグラナート国民でもなんでもないから、国のために戦おうなんて気も起こらなかったし、逃げるほかになかったのよ」
「ディアマンテのバカ」リリーは言った。
「そうね。結局ディアマンテは他の国と戦ったみたいだけど、私たちはそんなこと知らなかったから、異世界へ逃げたきり戻ろうとはしなかったわ。戦争が起きるかもしれないと知って、私は、セレスタンに異世界の存在を教えた。昔、何かの本で読んだのよ。たぶん、お父様の書斎に勝手に入って読んだのだろうけれど……お屋敷のことも、あまり覚えていないわ。異世界のことを覚えていたのは、ラッキーだったわね。でも、私、異世界移動魔法の呪文がどんなだったかまでは、思い出せなかったの。その話をしてから、セレスタンは毎晩グラナートの国立図書館で、本を読み漁っていた。呪文を探してくれていたのよ。これは後になってから聞いた話よ。私が寝ている隙に、図書館で本を何十冊も読んでいたって。それでも、一ヵ月くらいかかったけれど、とうとうセレスタンは、異世界移動魔法の呪文を見つけてきてくれたの」ポピーはにっこり笑った。
「でも、異世界移動魔法は桁外れに難しい魔法だから、そう簡単には成功しなかったわ。セレスタンの魔法がちゃんと効くようになるまでに、また一ヶ月。一度なんて、間違えて天界へ戻ってしまって、危なかったわ。そうして、私とセレスタンは、科学界へやってきた。果てしない苦労の末に」
リリーはポピーの顔を見上げた。思ったよりも高いところにあった。
自分は何も知らなかったんだ、とリリーは思った。ずっと海の向こう側にいて、一年に一度しかポピーに会っていないセレスタンの方が、リリーの何十倍もポピーの事を知っている。
「でも」リリーはぽつりと呟いた。「それなら、なんで魔法界へ戻ってきたの? 科学界にいた方が安全だったなら、そんなことしなくて良かったのに、なんで?」
一瞬にしてポピーの顔が険しくなった。
「それは……」ポピーはかすれた声で言った。「また今度話すわ。話し疲れちゃった」
「なんで? 秘密なの?」リリーはすかさず聞き返した。
ポピーは視線を宙に泳がせた。
「えーっと、そうよ、リリー、あの方たちは誰なの? 知り合いかしら? それなら紹介してくれないと」
ポピーにそう言われるまで、リリーはダニエルとライラックが一緒に来ていたことをすっかり忘れていた。慌てて背後を振り向くと、二人は少し離れたところから怪訝そうにこちらの様子をうかがっていた。
「ああ、ごめんなさい!」リリーは叫んだ。「すっかり忘れてた……ダニエルは補習なのに……。まだ間に合うかしら?」
「間に合わないけど、別にいいよ。どうせ行きたくなかったんだ」ダニエルは興奮気味に叫び返すと、リリーのほうに駆け寄ってきた。「それより、リリー、その人……」
「ねえ、お母さんに二人を紹介してもいい?」リリーは囁いた。
ダニエルが頷いたので、リリーは未だに興味のない振りを決め込んでいるライラックに手を振った。ライラックはちらりとリリーの方へ目をやると、いかにも面倒くさそうに歩いてきた。
「いいか、お前は――」
言いかけたライラックをリリーが遮った。
「ねえ、お母さんに二人を――」
「いったいお前は何をやっているんだ」ライラックは語気を荒げた。「たまには人のことも考えたらどうだ。少しも成長していないじゃないか。だいたいお前は――」
「怒るのは後でもいいから」リリーは言った。
「うん。僕も別に気にしてないことだし」
ダニエルにそう言われてしまうとライラックも他に返す言葉がなかった。
「勝手にしろ」ライラックはため息交じりに言った。
「うん」リリーは頷いて、ポピーの方を振り返った。「紹介するね。えーっと、こっちがライラ――」
「ちょっと、リリー!」ポピーは鋭い口調で言った。「人に紹介する時は、身内を先にするのが礼儀でしょう?」
「え? でも、今の話聞いてたら分かるんじゃ……」
「分からなかったかもしれないでしょう? つべこべ言わないの」
ポピーはぴしゃりと言った。リリーは大げさにため息をついて見せた。
「……はいはい。えっと――」
「はいは一回で充分」
リリーの隣では、ダニエルが笑い出しそうになるのを必死でこらえていた。
「……えっと、私のお母さ――」
「人前では『母』でしょう?」
「もう! どうでもいいじゃん、そんなの!」
リリーは言ってしまってから後悔した。ホワイトエンジェルと呼ばれるようになってから今までリリーが一番気を使ってきたのは、なるべく汚い言葉を使わないようにすることだったからだ。目の前に母親がいると、ついつい気が緩んでしまう。
「……私の母のポピーです」リリーはぶっきらぼうに言った。「それから、この二人は、ダニエルとライラック。ダニエルはお母さんと同じホワイトエンジェルで、ライラックはシルバーエンジェル。だから――」
「二人とも、天使なの?」
ポピーは息を呑んだ。そしてまたすぐに息を吐き出した。
「……じゃあ、私の無実が」ポピーは一瞬口をつぐんだ。それから迷うように続けた。「証明、されたっていうのは……本当、だったの?」
「そうだよ!」
ダニエルは声を張り上げた。裁判でボドワンがルイーズを打ち負かした話になると、ダニエルはすぐに熱くなる。ポピーの裁判のことでダニエルを質問攻めにしていたリリーは、そのことをよく分かっていた。
「父さんはあのルイーズをぺしゃんこにしてやったんだ! ……あ、すみません、馴れ馴れしくて……。父さんは、じゃなくて、えっと、父は、証明したんです……」
ポピーがリリーの礼儀について三度も注意していたことを思い出したのか、ダニエルは急に声のトーンを変えてポピーの顔色をうかがった。すぐさまポピーが眉をひそめたので、ダニエルの唇はぎゅっと引きつった。リリーは笑い出しそうになるのを必死でこらえた。
「父さん? 父さんって誰かしら?」
ポピーは首を傾げた。表情を変えたのはダニエルの言葉遣いが気になったせいではなかったようだ。
「僕の父です。ボドワン……」
「ボドワン?」
ポピーは一瞬疑わしそうな目でダニエルを見たが、すぐに目を見開いた。
「ああ! もしかして、ダニエルって、あの頃生まれたばかりだった……」
「そうよ。ダニエルは私の叔父さんだもの」
リリーは横目でダニエルの様子をうかがった。この話をしていたとき、確かダニエルはいなかったはずだ。
リリーの思ったとおり、ダニエルは何か怪物でも見るかのようにリリーのほうを向いた。
「リリー、なんか変なものでも食べた? そういえば、匂いをかぐと頭が変になっちゃう花があるって、昔父さんが言ってたっけ……」
「別に変なものは食べてないし、花の匂いもかいでないわ。誰かみたいに生まれつき頭がどうにかなっているわけでもないし」
リリーの隣でライラックが呆れたようにため息をついた。リリーは笑いを押し殺した。
「なんだよ? なんなんだよ?」ダニエルは言った。「冗談言って……ああ……でも」
ダニエルは必死で考え込んでいた。しかし、やがてぎょっとしたような表情になると、鼻が詰まったような声で言った。
「な、な、なんだよ! 気持ち悪いよ! そんなの!」
「私、嘘ついてないわ」リリーは口を尖らせた。
「うわ、僕、吐きそう」
ダニエルは地面に吐くまねをしたが、すぐに顔を上げるとポピーの顔を見た。しかし、ポピーはじっと遠くの空を見つめていて、ダニエルの下品な行動は見ていなかった。
「私、お父様と喧嘩してばかりいたわ」ポピーはぽつりと言った。
「それ、さっきも聞いたよ」リリーは言った。
「絶対僕のほうがたくさん喧嘩してると思います」
ダニエルは真面目な口調で言った。リリーは咳をして笑いをごまかした。ダニエルはリリーに向かって舌を突き出した。
「僕と父さんの喧嘩の回数は世界中の誰にも負けないと思う。何しろ最初の喧嘩は僕が三歳のときで、熱いおかゆの入ったお皿を父さんに投げつけたんだ」
ポピーは笑った。リリーは今日初めてポピーの笑い顔を見た気がした。
「私、お父様にお礼を言いに行くわ」ポピーはきっぱりと言った。「それから、謝りに行かないといけないわ。家宝のペンダントだって、科学界に持ち出してしまったっきりずっと、返すこともできずにいたし……すごく迷惑をかけてしまって。本当に、私は、親不孝な娘だった」
「娘だった、って……まだお祖父さまは死んでないでしょ?」リリーは眉をひそめた。「これから孝行すれば全然間に合うよ」
「リリーもちょっとは親孝行しなさい。あなたってば本当におっちょこちょいなんだから……自転車の鍵だって三回も無くしたでしょ」ポピーは呆れたようにため息をついた。「それに、私はもうだめよ……親孝行なんてできないわ」
「どうして?」リリーは首を傾げた。「ホワイトエンジェル家に戻らないの?」
「やらなくちゃいけないことがあるのよ」ポピーは地面に向かって言った。「もう時間がないの。お屋敷に長居している暇なんてないわ」
「どういうこと? お母さん、ホワイトエンジェル家を継ぐんじゃないの?」
ポピーは唇を噛んだ。
「そうよ。継がなきゃいけないの。でも、私にとっては、家に戻るより大事なことなのよ。ド・ホワイトの名を捨ててでも探し出さなくちゃいけないわ。それに、リリー」ポピーは手を伸ばしてリリーの肩に触れた。「私にはあなたがいるじゃない。当主に何かの事故があったときは、子供が代わりに――」
「事故なんか起きてないのに」リリーは呟いた。
「リリー」
「お母さんの言ってることってわけわかんない。お礼を言いに行くって言ったのに、お屋敷に戻る暇なんか無いって……」
「リリー、話を聞いてちょうだい」
「何が『リリーもちょっとは親孝行しなさい』よ! 自分だってしようともしてないくせに! 家の鍵五回も無くしといておっちょこちょいなんて言わないでよ! 自分のやりたいことのために、全部私に押しつけ――」
「じゃあ」ポピーは妙に甲高い声で言った。「お父さんが死んじゃってもいいの?」
リリーは、ポピーの言葉を理解するより先に、自分の体が空気の抜けた風船のようにしぼんでいくのが分かった。周りの景色がどんどん上へ上へと上がっていくように見えた。気がつくと、リリーの視界には、自分の手と、黒と、灰色の外に何もなかった。
黒い石畳の上に、ポピーの涙が丸い模様を三つつくった。
冷たい風が、紅に染まった木の葉をリリーの手の上に運んできた。その頃になってリリーの頭はようやく考えることを思い出したようだった。
「お父さんが」リリーは言った。「お父さんが」
リリーは、ポピーの背後に立っている紅葉の木を見上げた。たくさんの葉が風を受けて楽しそうに踊っていた。それから、もう一度手の上の一枚に視線を落とした。
「セレスタンは……」
ポピーは両手で顔を覆っていて、リリーにはポピーの目が見えなかった。
「セ、セレスタンは……びょ、びょう……病気なの。じゅ、十年以上も前から……もっと早く、気づいてれば……気づけたはずなのに……」
「……それ……治るの?」リリーはポピーの膝の辺りを見つめたまま言った。
ポピーは地面に膝を突いて、涙に濡れた目でリリーの顔を見つめた。
「もちろん。もちろんよ」
リリーは手を伸ばしてポピーの体を抱きしめた。
「お母さんって、運いいよね」リリーは言った。「じゃなきゃ、こんなにおっちょこちょいなんだから、家が火事になっちゃったり、橋の上で踏み外して川に落ちたりしたっておかしくないもん」
「私の運が良くたってなんのいいことも無いわ」
「お母さんと一緒にいると運が向いてくるんだよ」リリーは続けた。「私だって、火災報知器鳴らしたことも、川に落ちたことも、一回ずつしかないでしょ?」
「それはあなたが私よりおっちょこちょいなだけ」
「お父さんは家にいた方がいいよ」リリーはポピーの背中をそっと撫でた。「お母さんと一緒にいればラッキーになるから。お父さん、お母さんと結婚して良かったね。ツイてる」
ポピーの涙がリリーの背中を濡らした。それでもリリーは気にならなかった。
「私、ずっと前から探していたのに」ポピーは震える声で言った。「のんびりしすぎだったのよ。気がついたら、もう五年も経っていたの。慌てても遅かったわ。お薬だって万全じゃないし、それに、高くて……。一年分買うのなんてとても無理。本当に、ごめんなさい……私のせいよ。私のせい」
「……どういう、病気なの?」リリーは軽くポピーの背中を叩きながら聞いた。
「ええ……ごめんね、リリー。ずっと言わなくて。魔法のことが絡んでるものだから」ポピーは手で涙をぬぐった。「癌みたいなものよ。短い間にあんまりたくさん魔法を使いすぎると、何億分の一かの確率で、悪い魔法のエネルギーに肉体を乗っ取られてしまう事があるの。セレスタンは、たったの一ヵ月で異世界移動魔法を使えるようになって……一ヵ月間、魔法ばかりの生活をしていたのよ。きっとそのせいだわ。ああ、あの頃の私がもっと気を使ってあげられていたら、こんなことにはならなかったのに」
「大丈夫だよ。大丈夫」
「私、お医者さんに通わなくても、病気を治せる方法を、ずっと探してたの。魔法の無い世界にはそもそも存在しない病気だから、近所の病院で治すことなんかできなかったのよ。それに私たち、逃亡中だったから、なるべく危険は避けたかったし、これ以上セレスタンに魔法を使わせるわけにもいかなかった。だけど、どこのお医者さんに言っても入院させろって言われるし、詳しい事情も話せなかったから……こんなに時間がかかっちゃって」
「まだ間に合うよ。お父さん死んでないんだから」
「私に体力が無いのもいけないんだわ。去年、一度だけ、仕事中に倒れて病院に運ばれたの。薬を買うためにはハードな仕事をせざるをえない。でも、私の体が持たないわ。小さい頃もっと運動しておけば良かった。いかがわしい商売なんて絶対嫌よ」
「今から入院すれば大丈夫だよ」
「でも」ポピーはリリーの肩を揺さぶった。「発祥するまで二十年よ。二十年。あとたったの四年しか残ってないわ。今から治る確率なんて、それこそ何十億分の一なのに……。あ、あと四年したら、セ、セレスタンは、どんどん植物人間みたいに……」
「治るって言ったのはお母さんでしょ?」
リリーはポピーの両手をきつく握った。ポピーの荒い息遣いが聞こえた。
「お母さんと一緒にいれば、何十億分の一なんて、百パーセントと同じだよ。それに、これで入院できるようになったんだから。絶対治るって」
「ええ、そうね」ポピーは両手で顔を覆った。「ありがとう、リリー」
「七月の二十八日にお父さんが帰ってくるよ。はがきに書いてあった」
「ずいぶん先ね」ポピーはぎこちなく笑った。「あと九ヵ月あるわ」
「今飛んで帰って飛行機乗ったって、入れ違いになるだけだよ。お祖父さまに会いにきたら? 病院探しを手伝ってくれるかもしれないでしょ」
ポピーは脱力したように全身から息を吐き出した。
「ええ、そうね。しっかりしなくちゃ。どっちが親なのか分からないわね」
ポピーは立ち上がった。二回も泣いたせいで顔はぐちゃぐちゃだった。
「お母さん」
リリーは翼の生えたハートのペンダントを首からはずした。持つ手が少しだけ震えた。
「これ、返すね。まだお母さんが持ってていいんでしょ?」
ポピーは差し出されたリリーの手をじっと見つめた。
「リリー、私、何も言ってなくて……本当に……大変だったでしょ? 暮らし方も全然違うもの」
「うん。だからさ、お母さん……。しばらく、この家で暮らしてちゃだめ?」
リリーは、ポピーの肩越しに、おんぼろの小屋を指差した。
「ここで?」ポピーは眉をひそめた。「一人で?」
「私、あとちょっとだけでいいから、ドレスを着なくてもいいところにいたい。一ヶ月だけでもいいから。あんまり堅苦しいのは疲れちゃった。それに私、ホワイトエンジェルの仕事ももっと覚えなきゃいけないんでしょ? その前に一度だけでも……」
リリーには、ジーンズを穿いて公園で走り回っていた頃が懐かしかった。
「そうね。天使貴族の仕事って、私でも頭を抱えたくなるくらいなのに。よく頑張ったわね……リリー。ありがとう」
そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、ポピーの体がぐらりと傾いた。リリーは咄嗟にポピーの腕をつかんだ。ポピーは空いている方の手で、家の周りの柵につかまった。
「だ、大丈夫? そういえば、さっき倒れたとか言ってたよね……やっぱり、私が行って手伝った方が――」
「ううん、平気よ」ポピーは毅然として言った。「実を言えば、ちょうど一週間くらい前に、仕事をクビになったところなの。ちょっとショックだったんだけど……きっと、しょっちゅう病気で休んでいたせいね。それに、ここでの仕事に比べれば、ホワイトエンジェル家なんて毎日が休暇みたいなものよ」
「そう?」
「ええ」ポピーは微笑んだ。「じゃあ、さっさと荷物をまとめなくちゃ。そんなにたくさんは無いんだけど……」
リリーはポピーについて家の門を通り抜けた。見るからに古びた小屋は、近づけば近づくほどその痛々しさが増してくるようだった。
「この家ね、ホテル暮らしより安かったから買ったんだけど、引っ越してきたばかりの時は、かなり無残な状態だったのよ。それにしては結構丈夫なんだけど」ポピーは言った。
リリーは戸惑った。
「引っ越してきたばかりの時って? 今でも――」
しかし、ポピーが玄関の扉を開けた瞬間、リリーの疑問はどこかへ吹っ飛んでいってしまった。
「お、お母さん? ど、ど、どうしたの? これ」
ポピーは唇をぎゅっと結んだ。
「どうしたの、って……これでも頑張ったの。元はもっとひどかったんだから」
「ううん、違う。どうしてこんなにきれいなの?」
小屋の中は見違えたように綺麗になっていた。木の板が剥き出しになっていた壁はきちんと壁紙が貼り直され、床にはキャラメル色のカーペットが敷いてある。窓枠は淡いグリーンで、ぼろぼろだったカーテンは白いレースのものに取り替えられていた。
「ヒアシンス通りの今のお家に住み始めたとき、後々使えるだろうと思って色々買ってあったのよ。絨毯とか、布のセットとかね。布はリリーの洋服を作るときにちょっとだけ使ったけど、他のは使わないで残っていたから、売ればお金になるんじゃないかと思って持ってきたの。でも、結局売れなかったから、この家のリフォームに使っちゃったわ。たったの一週間にしては、なかなかいい出来だと思わない?」
「すごい!」
リリーは走って家の中に入ると、全部の部屋を見て回った。全部の部屋がグリーンとホワイトで統一されていた。しかも驚いたことに、奥の部屋にに置きっ放しに去れていたソファを、ポピーは見事ベッドに作り変えてしまっていた。
「すてき! お母さん才能あるね! センスいいよ!」
「そ、そうかしら」ポピーは戸惑いを隠しきれていなかった。「私はヒアシンス通りのお家の方がきれいだと思うんだけど……。まあ、値段も考えたらこの家もまあまあだけど」
「でも、あんなぼろぼろだった小屋がこんな立派な家になったなんて信じられない!」
ポピーはまじまじとリリーを見つめた。
「どうしてもともとぼろぼろだったことを知ってるのよ?」
「それは……」
レースのカーテンを開けたり閉めたりしていたリリーは言葉を詰まらせた。
「……さっきお母さんがそんなようなことを言ってたから」
「ふうん」
ポピーはいまいち納得のいかないような顔をしていたが、それ以上リリーを追求することはしなかった。リリーは薄い毛布が一枚乗っただけのベッドに背中から飛び乗った。
「ああ、独り暮らしって憧れだったんだよね……」リリーは呟いた。
「リリー」ポピーは呆れ顔で言った。「いつまでもそんな子どもっぽいことしないで。許可を取り消すわよ」
「えっ? やだ」リリーは慌てて体を起こした。
「いい? よく聞いてちょうだい」ポピーは胸の前で腕を組んだ。「まず、家を出る時には必ず戸締りを確認すること。最低十回は確認しなさい。あなたっておっちょこちょいなんだから……」
「お母さんほどじゃないけどね」リリーは呟いた。
「鍵を落とすのもだめよ。玄関だけじゃなくて、窓の鍵もかけること。火を使うときは絶対そばを離れない。お金を使いすぎないこと――」
「オッケー、了解」リリーはポピーの言葉を途中で遮った。「どうせその次は『水を出しっぱなしにしない』とか、そんなことなんでしょ?」
「お金はたんすの上から三番目に入ってるわ」ポピーは続けた。「それに、この家、水道なんてないわよ」
「え?」リリーは耳を疑った。
「水道なんてこの世界中どこの家にもないわよ」ポピーはごく普通の調子で言った。「魔法で呼び出すんだもの」
「なにそれ? 私、魔法使えないのに!」リリーは憤慨した。「なんで水道を作らないの? 私の他に一人くらい魔法使えない人がいたって変じゃないのに。そういう人、いないの?」
「いることはいるけど……」ポピーは軽くショックを受けたような顔をしていた。「水を出すなんて簡単な魔法は……どんな魔法の苦手な人でも使えるのよ。移動魔法くらい難しいと、一家に二、三人しか使えないってこともあるけどね」
「じゃあどうすればいいの? 水がなかったら死んじゃう!」
ポピーはため息をついた。
「やっぱりリリーに独り暮らしは無理ね……」
「ミネラルウォーターとか売ってないの?」
リリーは必死だった。今を逃したら、もう二度と独り暮らしなどできるチャンスはないだろう。
「売ってるけど……お風呂もお皿洗いも全部ミネラルウォーターで済ますつもりなの?」ポピーは首を振った。「無茶なこと言わないで」
「じゃあ魔法を覚える」
リリーはそう言ってから自分でも驚いた。スイッチを押すだけで明かりの灯る世界を知ってしまってから魔法を使うことがどれほど不便かは、よく分かっているつもりだった。
ポピーはしばらくの間返事に困っているようだったが、やがておもむろに口を開いた。
「でも……水道だけじゃなくて、ガスとか電気とかも通ってないのよ? すぐに使えるようになるとも限らないし」
「さっき簡単だって言ってたでしょ。それに私、光なら呼び出せるよ」
「ふうん……光ね」
ポピーの返事は淡白だった。リリーはがっかりした。
「そうね……。光よりは、水の方が簡単かもしれないわ。もともとホワイトエンジェルは水と相性がいいから」ポピーはちらりとリリーを見た。「だけど、あなたっておっちょこちょいだから……」
「二回もありがとう。でもお母さんには負ける」リリーは肩をすくめた。
ポピーは軽く咳をした。
「とにかく、一度ちゃんと話し合ってからにしましょう。さっきはあんなこと言っちゃったけど……よく考えてみれば……」
「えー」リリーは再びベッドの上に倒れこんだ。「水を出しっぱなしにしないなんて言わなきゃ良かった」
「そんなにこの家が気に入ったの?」ポピーは不思議そうに言った。
「いや……うん!」
リリーは期待を込めてポピーの顔を見つめた。ポピーも見つめ返した。
「じゃあ」ポピーはため息混じりにいった。「独り暮らしは魔法を使えるようになってから。それなら私も考えるけど」
「どのくらいできるようになれば許可が下りる?」
「話してみなきゃ分からないけど」ポピーは言った。「火と水の魔法が完璧に使えるようになって、他の人たちからも許しが出たらよ。魔法は必死でやれば一ヵ月経たなくてもできるようになるかもしれないわ。でも、後の方は難しいかもね……」
「なんで他の人にまで許可を取らなくちゃいけないの?」
「跡継ぎにもしものことがあったら大変じゃない。あなた、その辺の王子様王女様が、みんな独り暮らしできるとでも思ってるの?」
リリーは首を振った。
「一応話はしてみるけど」ポピーは部屋の隅からキャリーケースを持ってきて、たんすの中のものを詰め込み始めた。「あんまり期待しない方がいいかもね……」
リリーは答えなかった。
「分かった?」ポピーが言った。
「うん……」リリーは呟いた。
リリーは、十二年間あまりの自分の人生を否定されてしまったような気がした。昨日までは、もしホワイトエンジェル家を継ぐのが嫌になったら、ヒアシンス通りに帰って今まで通り暮らしていけば良いと思っていた。引っ越してしまえば居場所もばれないだろうと……。小さい頃、リリーは絵を描くのが好きだった。小学校の卒業文集にはイラストレーターになりたいと書いた。お金を貯めたらフランスのサン・マロに住みたいと思っていた。とかろが、今やその夢は完全に打ち砕かれてしまった。少し前まではものすごく魅力的なものに感じていたこの町が、突然すごくつまらないものに思えてきた。ここでは車に乗ることも、パソコンをネットに繋ぐこともできない。環境が危ないと騒ぐことさえできない。
「リリー」玄関からポピーが呼んだ。「いつまでも寝てないで」
「はーい」リリーは起き上がって呟いた。「ああほんとばかだった。夏祭りの会議なんて忘れちゃえば良かったのに」
リリーはわざと不機嫌な顔をして、足を引きずるように玄関まで歩いた。スカートのポケットを探っていたポピーは顔を上げた。
「リリー、何怒ってるの?」
ポピーの心配そうな表情が余計にリリーの癇に障った。
「怒ってない」リリーは短く答えた。
「そう」ポピーはつっけんどんに答えた。「なら、わたしのことを睨むのはやめてくれるかしら?」
「睨んでない」
ポピーはため息をついた。「リリー、私はあなたの味方として話を進めるから――」
「だから怒ってないってば!」リリーは怒鳴った。
気まずい沈黙が流れた。
「鍵がないわ」ポピーは再びポケットに手を突っ込んだ。
「お母さんだっておっちょこちょいなくせに」リリーは呟いた。
「え? 何?」
「何も言ってないけど? 空耳じゃないの?」
ポピーはポケットの中を見つめていた。
「鍵があったわ」
「良かったね」
「さっさと出てちょうだい」
リリーは言われたとおりにさっさと家を出た。門の前ではいかにも面倒くさそうな顔をしたライラックと、暇を持て余している様子のダニエルが待っていた。ダニエルは石で地面に絵を描いていた。リリーは、ポピーを置いて二人のところまで早足で歩いた。
「あれ? リリー、どうなったの?」リリーが近づいていくと、ダニエルは眠そうな顔を上げた。「人間界に残るの?」
「ううん」リリーはなるべくポピーの方を見ないようにして言った。「お母さんは私の悪口ばっかり言うの」
「へえ、そうか」ダニエルはどう答えるべきか迷っているようだった。「……そういえばさ、ホップさんの悪口言うと全部聞かれるって本当なのか?」
リリーが肩をすくめたので、ダニエルはライラックの方に視線を投げた。
「どうせあいつは、地獄耳を半径一キロ以内の会話を一つ残らず聞き取れる超能力か何かだと思っているんだろう」ライラックは切れ長の目を少し細めた。「これだからナルシストは――」
「ナルシストって俺のことか?」
空中から声がした。リリーはライラックに腕をつかまれて、後ろに倒れた。次の瞬間、さっきまでリリーが立っていたあたりにホップ・ブラックの姿が現れた。
「びっくりした……」リリーはため息をついた。
「何をやってるんだお前は!」ライラックはグレーの瞳を驚愕に見開いていた。「危ない場所に降りて来るな! 運が悪かったら死ぬぞ!」
「ごめん。本当はライラックに攻撃を仕掛けるつもりだったんだ」ホップは謝った。
「ふざけるな」
「冗談だよ。本当はお前らがあんまり遅いから探しに来ようと思ったんだ。だけど、なんだか俺のことをなんとか言ってる奴がいてさ。急に場所を変えたから微妙に失敗しただけだって。ところでダニエル」
急に名前を呼ばれてダニエルは身構えた。
「帰った後お父さんに返す言葉を考えておいた方がいいと思うぜ」
「ああ……」ダニエルは呻いた。「いいや。リリーのせいにしよう」
「なんで? だって……でも……まあ、そう言われれば、そうだけど」
「だろ!」ダニエルは頷いた。
「どっちでもいいけど」ホップが言った。「なんでお前ら全員ここで溜まってるんだ? 先に帰るんじゃなかったのか?」
「だから、リリーを待ってたんだ」ダニエルが答えた。「そしたら、たぶん父さんは『連絡くらいしたらどうなんだ』っていうだろうなぁ……やっぱりだめかな?」
ホップは首を傾げた。
「どういう意味だよ」
「お母さんがいたの」リリーは、やけにのんびりと戸締りを確認しているポピーの方を指差した。「それで、色々話してたら、遅くなっちゃって」
「え?」ホップは眉をひそめた。「お母さんって、リリーの?」
「うん」
「ポピー・ジョヌヴィエーブ・ド・ホワイト?」
「うん」
「それ、真面目に言ってるのか?」
「嘘なんかついてないってば!」リリーは口を尖らせた。
「なんてこった」ホップはようやく鍵をかけ終えたポピーの背中をまじまじと見つめた。「俺はまた会議の最年少に逆戻りだ……。でも、どうしてグラナートにいるんだ? ヒアシンスが一杯植えてあるところに住んでるんじゃなかったのか?」
「ちょっと色々あったらしくて……」リリーは言葉を濁らせた。「詳しくはお母さんが話してくれると思う」
ポピーはできる限りゆっくり歩いてリリー達のところまでやってきた。
「こんにちは」ホップが言った。
「……こんにちは」
ポピーは戸惑いながら答えた。一瞬リリーの方へ困惑の視線を向けてきたが、リリーは無視した。
「ホップ・ド・ブラックです」ホップはにこやかに言った。
「……あ! 知ってるわ!」ポピーは目を見開いて、それから笑い出した。「うちの庭の林檎を盗んだ子!」
「あー……」ホップは困ったような顔をした。「あー、えーっと、まあ、そんな時代もありましたね」
ポピーの笑いはしばらく収まらなかった。リリーはホップの方を見たが、ホップは目をそらしてしまった。
「ああ面白い」ポピーはくすくす笑いながら言った。「ずっと天界を離れてたから話についていけないかと思ったけど、結構楽しいかもしれないわ」
リリーは唇を噛んだ。ポピーが笑っているのを見ていたら、つられて笑い出しそうになってしまったのだ。天使貴族に自由はないけれど、確かに少しは楽しいかもしれない、とリリーは思った。
「それで、この後どうするんだ?」ホップが聞いた。
「とりあえず天界に戻ろう」ライラックはため息混じりに答えた。「これ以上ここにいたら怪しまれる」
「それに、父さんの顔がトマトになっちゃうし」ダニエルが付け足した。
ポピーはまた笑った。
彼女の肩越しに見える紅葉の赤が美しかった。トマトみたいだ、とリリーは思った。