第四章 四大天使会議
第四章 四大天使会議
それからの数週間、リリーはホワイトエンジェル家のことを覚えるので大忙しだった。まずは言葉遣いや礼儀作法。それからテーブルマナーやドレスの着方などだ。重いドレスを着たまま何十分もテーブルから離れられないというのはかなり疲れる。しかも食事はフルコースだ。リリーは食べ過ぎてドレスが破けてしまうのではないかと毎日のように心配していたが、ドレスはなんとか持ちこたえているようだった。
食事以外にも、リリーにとって珍しいものが、この屋敷にはたくさんあった。セピア通りの小さな小屋が丸ごと入ってしまいそうなほど広いダンスホールや、色とりどりの花々が咲き乱れる美しい庭園。中でもリリーが一番驚いたのは、まるで温泉宿のような浴室だ。ホワイトエンジェル家の入浴場は、なんと三つもある。リリーが入っているのはその中の一つなので、他の二つかどうなっているのかは分からなかったが、とにかく豪華な浴室だった。天井は入る時間によってさまざまな空を見せてくれる。満天の星空のこともあれば、淡いピンク色の朝焼け、茜色の夕焼けなど目を見張るような風景ばかりだ。浴槽には、ミルクのように真っ白な湯が張られ、バラのような甘い香りが漂っている。小さい時から風呂嫌いだったリリーも、ホワイトエンジェル家に来てからは、なぜか入浴にたっぷり時間をかけるようになってしまった。一度は浴室で眠ってしまったこともある。おかげでリリーは半分溺れかけたが、掃除にやってきたメイドが助けてくれたおかげで、何とか命拾いした。
貴族の生活に慣れるのも大変だったが、もう一つ忘れてはならないのがホワイトエンジェルの仕事だ。ダニエルと一緒にやった雲の管理の他にも、海の水や川の水など、色々な種類の水を操らなければならないのだ。さらに、水に関係すること以外にもやらなければならないことがある。天界の北の地方をしっかりと監視することだ。天界といえども、争いごとが全くない訳ではない。ホワイトエンジェルは天界の中でも、北の地方で起こる問題について責任を持っている。そのため常に天使たちを取り締まっていなければならないのだ。それぞれの仕事にダニエルのような専門の技術者がついていたが、リリーはいちいち一緒に行かなければならないので、自分が二人いればどんなにいいだろうかと何度も思った。
それらホワイトエンジェルの仕事とはまた別に、リリーは四大天使会議にも出席しなければならない。四大天使会議とは、ゴールデンエンジェル、ホワイトエンジェル、シルバーエンジェル、ブラックエンジェルの各家からそれぞれ代表の天使が集まり、監視している地方について報告したり、新しい決まりごとを作ったりするための会議だ。四大天使会議は、基本的に三ヶ月に一回、二月、五月、八月、十一月に開かれる。ただし、もっと話し合いが必要な場合には緊急会議が開かれる場合もある。
今、リリーの心に一番重くのしかかっているのは、この四大天使会議への不安だった。リリーは人前で話をするのが苦手なのだ。何年か前、学校で劇をやった時もそうだった。練習の時はすらすら言えていたはずのセリフが、いよいよ本番という時になるとすっかり頭から消え去ってしまうのだ。おかげで劇は散々な結果になり、リリーは同じ劇に出た子どもたちから耳が痛くなるほど悪口を言われた。そのせいもあって、リリーはこの四台天使会議を過剰に警戒していた。
「会議って、一体何を話せばいいのかしら?」
リリーはダニエルに、少なくとも一日五回はこの質問をしていた。この屋敷の中では、ダニエが一番リリーと歳が近いので、他の天使より話しかけやすいのだ。始めのうちは真面目に答えていたダニエルも、リリーが会うたびにしつこく聞いてくるので、いい加減うんざりしているようだった。
「そんなの、何だっていいんだよ! 適当に話せば……」
朝起きて一番にリリーがまた聞いてきたので、ダニエルは怒鳴った。リリーはしょんぼりして何も言わずに自分の寝室に戻っていってしまった。ダニエルもどすどすと音を立てて部屋へ向かった。ダニエルがバーンと音を立ててドアを閉めたので、向かいの部屋からボドワンがぬっと首を突き出した。
「ダニエル!」
その言葉で、近くにいたメイドたちは一斉に耳を塞いだ。ボドワンとダニエルの怒鳴り合いを直に聞くと耳が痛くなるからだ。ダニエルとボドワンは、何もしていなければ仲が良さそうに見えるのだが、三日に一度は必ず大喧嘩をする。この日も朝から二人の怒鳴り声で、屋敷中の天使たちが一斉に叩き起こされた。
八月二十七日の四大天使会議は、五日後に迫っていた。リリーは眠っていても落ち着かない気分だった。実際、夜中に何度も目を覚ましては、少し考え事をしてからまた寝る、といったことがこの数晩続いていた。会議のことを考えると、食事ものどを通らないくらいだった。リリーはわざと風邪を引いて会議に行けないようにしようかと本気で考えた。だが、こんなに暑い夏に風邪を引こうと思っても、そう簡単に引けるものではない。
あっという間に、四大天使会議の前日がやってきた。昨日のうちに話すことは大体決めてあったものの、リリーは不安と緊張で何をするにも全く身が入らなかった。屋敷中をうろうろと歩き回っていたので、挙句の果てには屋敷のメイドたちにまでうっとうしがられる始末だった。
そんな訳で、リリーはその日の午後からずっと自分の部屋にこもっていた。その方が、皆に迷惑をかけずに済むと思ったのだ。しかし、リリーが部屋ですることといえば本を読むことくらいしかない。リリーは、昨日の夜ボドワンから借りてきた本を開いてみることにした。昨晩どうしても眠れなかったので、本を読んで気を紛らわさせるために借りてきたのだ。しかし、読んでいるとますます頭が痛くなってきたので、途中でやめてしまった。
今、リリーが読んでいるのは「ビッグバン――魔法の大爆発」という本だった。ビッグバンとは、もともとごく狭い空間に集まっていた宇宙の全ての物質が、あるとき突然起こした大爆発のことだ。その爆発のせいで、物質はあらゆる方向へ飛び散っていった。そうして、宇宙が誕生した。リリーが思っているビッグバンとはそのようなものだった。しかし、その本に書いてあるビッグバンの説明は、リリーの知っている話と少し違っていた。「ビッグバン――魔法の大爆発」によると、ビッグバンとは大きな魔法のエネルギーが気まぐれに起こした大爆発だ。その後、魔法のエネルギーはそこらじゅうに散らばっていった。もともと一つの場所に縛り付けられていたたくさんのエネルギーが、ビッグバンにより解放されたのだ。リリーたちは、その飛び散ったエネルギーのおかげで魔法を使うことができる。
リリーは夢中で読んでいたので、誰かが部屋のドアをノックしていることに気がつかなかった。
「リリー?」
誰かが部屋の外からリリーの名前を呼んだ。リリーは慌てて本を閉じた
「はい?」リリーは上ずった声で答えた。
「どうぞ、入ってもいいです……」
ドアをノックしていたのはボドワンだった。リリーは本を返せといわれるのかと思い、手に持っていた「ビッグバン――魔法の大爆発」を差し出した。
「いや、その本はまだ読んでいていいよ、リリー。読み終わっていないんだろう?」
「はい。でも、とっても面白いです」
ボドワンは微笑んだ。
「そうか。それは良かった。ああ、それからな、今ライラック君が下に来ているんだが、良かったら会って行かないか? ライラック君のことは知っているよな?」
「え、ライラックが?」
この一ヶ月間、ずっとホワイトエンジェル家の中で過ごしてきたリリーの耳には、ライラックの名前がとても懐かしく感じられた。
「行きます。ちょっと待って」
リリーは「ビッグバン――魔法の大爆発」を、他の本と一緒に机の上へ戻すと。ボドワンの後について部屋を出た。
ライラックは一階の応接間でダニエルと話していた。リリーが応接間に入って行くと、ダニエルは手に持っていた何かを、慌てて背中に隠した。だが、入ってきたのがリリーだと分かると、ほっとしたようにため息をついた。
「なんだ、リリーか。良かった。父さんかと思ったよ」
ダニエルの向かい側に座っていたライラックも、長い銀髪をさらりと揺らしてリリーの方を振り向いた。
「リリー?」ライラックは半信半疑で呼びかけた。
「ライラック!」
リリーは歓声を上げると、二人の座っている白いソファのほうへと駆けていった。
「ライラック、久しぶりね!」リリーは立ったままそう言うと、にっこり笑った。
「そうだな」ライラックも笑顔で答えた。
「ちゃんと仕事はしていたのか?」
「ええ、もちろん。でも思ったより大変だったわ。特に明日――」
「四大天使会議か」ライラックはおかしそうに言った。リリーは顔をしかめて頷いた。
「そう。もう考えただけでも嫌。知らない大人三人と話さなきゃいけないなんて……」
「しかし、三人とも知らないというわけではないだろう」
ライラックは不思議そうにリリーの顔を見上げた。
「え? なんで?」リリーはきょとんとした声で聞き返した。
「なんでって、お前、忘れたのか?ブラックエンジェル家の当主は――」
「そっか。ホップを忘れてた」
リリーは少し安心した。知っている天使が一人でもいれば、会議の時も心強い。それに、あのホップが出席できる会議なら、そんなに堅苦しくないのではないかという気がする。
「シルバーエンジェル家からはライラックのお父さんね。まだ会ったことはないけど」
「そうだ。それから、ゴールデンエンジェル家は、ジュリアンナ・ゼルダっていう――」
「あれ?」リリーは首を傾げた。
「ゴールデンエンジェル家って、男性が跡を継いでいたんじゃないの ?ジュリアンナって女の名前よね……?」
「ああ、そうだよ。しかし、前にも言っただろう? 今、ゴールデンエンジェル家には正式なリーダーがいないんだ。前当主は魔法の事故で亡くなったらしいが、彼の子どもは女ばかりだったからな。ただ一人末息子がいたはずなんだが、いつからか姿を消している……詳しいことは、俺もよく知らないんだが」
「じゃあ、そのジュリアンナとかいう人に聞けばいいじゃない。私、聞いてみるわ」
リリーはきっぱりと言った。しかし、ライラックはやれやれとでも言うように頭を振る。
「それくらいで分かることなら俺だって聞いてみるさ。だが、彼らは話したがらないんだ。理由は知らないが、何か隠さなければならないことが裏にあるのかもしれない……」
ライラックは気の抜けたような声で言うと、話題を変えた。
「そういえばダニエル、あれをリリーにも見せてやれよ。傑作じゃないか」
「ああ、これ?」
ダニエルは、背中の後ろに隠していた小さな箱を引っ張り出してきた。手のひらに乗るくらいの、小さな黒い箱だ。ダニエルは箱の中から何かを取り出すと、リリーの目の高さまで持ち上げて見せた。
「ほら、リリー、見てよ」
ダニエルが手に持っていたのは、ピラミッド型をしたガラスの置物だった。しかし、それはただの平凡なガラスではない。ガラスの内部に白い天使の姿が彫ってあるのだ。リリーは身を乗り出してその置物を見つめた。
「すごいわ! これ、ダニエルが作ったの?」
「ああ。知ってる魔法をちょっといじくって、ガラスの中に傷をつけたんだよ。この前美術展に応募したんだ。予選に落ちたから、結局展示してもらえなかったけどね。来年はもっとすごいのを作るよ」ダニエルは置物をくるくる回しながら言った。
「これも十分すごいわよ」
リリーは、お世辞ではなく心からそう言った。リリーの元いた科学世界にも、レーザークラフトというガラスの中に模様を描く技術はあったが、ダニエルの作ったこの置物とは少し種類が違う気がする。
「ダニエル……もしかして、私がこの家に来た時作っていたものって……これだったの?」リリーは半信半疑で聞いた。ダニエルは少し驚いたような顔をした。
「ああ、そうだよ。よく分かったな」
「え?本当にそうだったの?適当に言ったのに」リリーは逆に驚かされた。
「でも、それならわざわざ隠さなくても良かったんじゃないの?」
「父さんは芸術になんて興味ないよ」ダニエルは断言した。
「昔々、僕がまだ二歳とか三歳の頃だけど、この屋敷に弦楽四重奏かなんかの楽団が来たことがあったんだよ。僕は他のホワイトエンジェルに混じって、ダンスホールで演奏を聞いてた。でも、そこに父さんはいなかった。その頃の父さんは、なぜだか部屋にこもりっきりで、食事の時にしか姿を見せなかったんだ。僕は小さいのにほとんど毎日一人で過ごしてたんだよ。その日も、父さんは楽団の人たちに挨拶さえしようとしなかった。だから、仕方なく他の天使たちが集まって、みんなで演奏を聴いてたんだ。そうしたら、ちょうどラストの曲、しかも一番盛り上がるところで、突然バーンと扉が開いた。父さんが入ってきたんだよ」
ダニエルは深刻そうな顔でリリーのほうを向いた。
「それで、父さんがなんて言ったと思う?」
「……分からないわ」リリーは首を振った。
「ああ、分かったらすごいよ。信じられるか? 父さんはずかずかって楽団の人たちの前に歩いていって、屋敷が壊れるかってくらいの大声でこう叫んだんだぜ。『無意味な騒音は迷惑だ。不快な物音を立てる者どもは、即刻退場せよ!』って」
「……え?」
リリーは一瞬言葉を失った。リリーの見る限り、ボドワンはそんなことを言うような人には見えなかったからだ。
「だから、言っただろ。父さんは芸術になんて興味ないんだよ。最近は部屋からも出てくるようになったし、昔みたいに刺々しくもなくなったけど、でも……やっぱり、そうなんだ」ダニエルはぽつりと独白すると、頭を振った。
「うん。まあ、あの日は応募締め切りが三日後に迫ってたから、ちょっと焦ってたんだよ。さらにそこへ加えて父さんがあんなこと言い出すからね。まったく……僕は仕事のことなんて何にも聞いてなかったのに。小さい頃から、父さんが『この仕事は将来お前にやらせよう』って仄めかせてはいたけどさ。驚くだろ、いきなり言われたって……」
「そういえば、ライラックってシルバーエンジェル家でどんな仕事をしているの?」
リリーはライラックの座っている方へ視線を移した。前から聞いてみたいと思っていたことなのだが、この一ヶ月間忙しい日々が続き、ずっとできなかったのだ。
「あ、ああ? 俺か? 俺は……人間界と情報をやり取りすることが役目だな。やり取りといっても、大抵は人間界の情報を一方的に天界へ送り込んでいるだけだが……」
「あれ、そんな仕事があったの。知らなかった」リリーは少しだけ目を見開いた。
「ああ、あるよ。しかし、基本的には当主の許可がなくても動けるから、お前が直接会うことはなかったかもしれないな」
リリーはなるほど、と頷いた。それなら自分の記憶にないのも理解できる。もっとも、現在リリーの頭の中は、四大天使会議のことで一杯なので、たとえ会ったことがある人のことでも、記憶に残っているのかどうか定かではない。
「じゃあ、ついでに聞くけど、ディモルさんとか、コメットとか、ライアンって、普段何をしているの? あんまり話す機会がなかったから聞けなかったんだけど……」
「確かに、あいつらとお前はほんの数回しか会っていないな」
ライラックはいつものように、長い銀髪をさらりと後ろへ流した。
「ディモルさんは……セピア通りで奥さんと花屋をやっている」
「え?」リリーはきょとんと聞き返した。
「でも、あの基地、花屋っぽくなかったけど……?」
花屋っぽくないどころか、庭にすら花は咲いていなかった。ただの一つも。
ライラックは苦笑した。
「ああ、あのぼろ小屋でじゃないぞ。あの辺りは人通りが少ないからな、あんなところで商売しようなんて考える奴は、よっぽど自信があるか、さもなければただの馬鹿だ。普通の店なら即潰れる。もっと中心部の商店街のほうに、ちゃんとした店があるよ」
「なんだ、そっか。そうだよね。あんなところに花屋があったら驚くもの」
「ああ、そうだ。それから、ライアンは……確か大学に通っていたはずだ。名前は忘れたが、セピア地方のどこか……よく分からないが。そもそも、学校というのは金のかかるものだ。大学にいけるということは、あいつの親もよほどの金持ちなのか……」
「大学……ね。知らなかったわ」
リリーは頷いた。確かにライアンは真面目そうなので納得できる。
「あとはコメットか。あいつは……うーん、今は家庭教師だが……」
「えっ、家庭教師?」リリーは思わず聞き返した。
「家庭教師って、丸い眼鏡で、勉強一筋で、問題を一つでも間違えるとねちねち文句言ってくる人のこと?」
「いや、それは少し違うと思うぞ」ライラックは眉をひそめた。
「何でそんなひどいイメージを……」
「私の家庭教師はそうだったもの」リリーは思い出して少し顔をしかめた。
「私がまだ小さいころ、病気で学校を休みがちだったから、家庭教師に来てもらっていたの。確か、ゲオルグ・オイレンシュピーグルとかいう……あれ、シュピーゲルだっけ? まあ、名前なんかどうでもいいんだけどね。でもその家庭教師、言ってることの意味が全然分かんなくて……訳分からない専門用語とかをたくさん使ってくるんだもの。それで私が『分からない』って言うと『お前がちゃんと聞いていないからだ』って言い返してくるのよ。だからお母さんに頼んで辞めてもらったわ。でもそのオイレンなんとかって人、今は博士になって色々研究しているから、そこそこ有名みたいで……この前新聞にも載っていたし。何かの賞をとったらしいわ」
「とりあえず、お前の家庭教師の話はおいといて」
ライラックはほとんど聞き流していたようだった。
「コメットは元々貧乏苦学生だったんだが、真面目に勉強していたおかげか何だか知らないが、大学はグラナート国の中のトップ校に奨学金で通っていたんだ。そして、なんと十二歳でその大学を卒業してしまった」
「じゅ、十二歳って……今の私と同い年よ?」
自分と同じ年で大学を卒業してしまった人がると、リリーはすぐに信じることができなかった。リリーは、今の学校の勉強でさえ分からないことが多く、時々ポピーに教えてもらっているのだ。
「へえ、すごいな。僕もそのコメットとかいう人にあってみたいよ。人間界にも行ってみたいし」
「じゃあ、四大天使会議が終わったら私も人間界へ行くわ! 翼って重いんだもの。人間界へ行くと翼が消えるのよ。ああ、そう思っていれば会議も少し気が楽かな。でもやっぱり少し頭重い……」
ライラックががたんと音を立てて席を立った。
「さあ、俺はもう帰るよ。ダニエルの作品を見に来ただけだし」
「うん。ありがとう。だいぶ気分が良くなった気がする」
リリーは部屋の出口へと足を向けるライラックの背中に呼びかけた。
「ああ、そうか。良かったな」
ライラックはそれだけ言うと、静かに部屋を出て行った。
「さようならー」ダニエルがばたりと閉まったドアに向かって言った。
リリーは欠伸をした。夜にきちんと眠れていないので、このごろしょっちゅう欠伸が出る。しかも頭痛がひどくなってきた。
「私、部屋に帰って少し寝ることにする」リリーはずきずきと痛む頭に手をやった。
「うん。じゃあ、僕も帰るよ」ダニエルは天使の置物を大事そうにケースへしまった。
「明日、がんばれよ」
「うん。ありがとう」
リリーはダニエルに手を振って応接間を出た。ダニエルも手を降り返した。リリーはふらふらと階段を上ると、自分の部屋まで戻った。本当はすぐにでも眠りたいところだったが、机の上に本が散らばっているのを見て、リリーはよろよろと部屋の片付けを始めた。借りた本なのでなくしたり汚したりしたら一大事だ。たとえリリーが本を一冊なくしてしまったとしても、ボドワンはそれほど怒らないだろうとリリーには分かっていたが、あまり迷惑をかけたくなかったのだ。ボドワンは、ダニエル以外の者には滅多に怒らない。たとえメイドが玄関ホールの掃除を一日くらい忘れたとしても笑って許してしまうだろう。基本的にボドワンは優しい天使なのだ。
部屋が綺麗になると、だんだん気分も良くなってきた。うつ病の患者は、医者から部屋の片づけを勧められるという話を、リリーはポピーから聞いたことがあった。
リリーはベッドへ潜り込んだ。リリーの部屋の時計(魔法で動く時計だ)は、ちょうど六時を指していた。この三日間、眠ろうと思っても眠れない日々が続いていたが、今はすぐに眠れそうな気がする。いつもの不安な気持ちはいつの間にか和らいでいた。もしかしたら、自分が眠れていなかったのではなく、自分の心が休めていなかったのかもしれない、とリリーは思った。リリーは落ち着いた気分でふわりと微笑むと、ゆっくり目を閉じた。
次にリリーが目を覚ました時、部屋の時計はまだ六時を指していた。リリーは訳が分からなくなって一瞬戸惑った。いくらなんでもほんの数分しか寝ていないということはないはずだ。時計が止まってしまったのだろうか。しかし、時計の秒針はきちんと毎秒時を刻んでいる。もうすっかり明るくなっている窓の外を見て初めて、リリーは今が朝の六時であることに気がついた。
リリーは急いで服を着替えると、下の階へと駆け下りた。四大天使会議は朝の八時に始まり夕方四時に終わる。しかも四大天使会議の行われる、天界の最も中央に近いところまでは、どんなに急いでも一時間半はかかる。急がなければ間に合わない。リリーは目が回るほどの勢いで一階までたどり着くと、息を切らせて玄関ホールの扉を開けた。
まず初めにリリーの視界へ飛び込んできたのは、リリーの知らない男と何事かを話しているボドワンの姿だった。なんとなく険悪な雰囲気が伝わってくる。名前の分からない方の天使も、輝くばかりの純白の翼を持っているから、きっとホワイトエンジェル家の誰かなのだろう。リリーはどこかでこの天使を見たことがあるような気がしなくもなかったが、あまりよく思い出せなかった。二人はホールの隅にリリーの姿を見つけると、とたんに話すのを止めてしまった。
「ああ、リリー」
ボドワンはリリーのほうを振り向いて言った。もう片方の男はじろじろと横目でリリーの姿をねめつけた。
「今は何時かな?レオポルドと話し込んでいたから時間の感覚が――」
「もう朝の六時なんです」リリーは荒い息を整えながら言った。
「何、六時だと?もうそんな時間なのか?」ボドワンは一気に顔色を変えた。
「すまないな、リリー。昨日の夜起こそうかとも思ったのだが、あんまり気持ち良さそうに眠っているから起こしたくないとメイドが言うのでな。とりあえず準備をして外に行きなさい。メイドが馬車の準備をしているはずだ。ああ、アニエス、ちょうどいいところに来た。準備はできているか?」
ボドワンはホールを通りがかったメイドに声をかけた。また十六、七歳くらいの少女だ。この屋敷の中では最年少のメイドだろう。
「はい。全て整っております」アニエスと呼ばれた天使は礼儀正しく頭を下げた。
「そうか。ではリリー、急いで支度をしなさい。もう時間がない。それから、レオポルド」
ボドワンは先ほどまで一緒に話し込んでいた、目つきの悪い天使のほうを向き直った。
「今は時間がない。後でもう一度話そう」
「分かった」
レオポルドと呼ばれた男は低い声でそれだけ言うと、最後にリリーを一瞥して部屋を出て行った。コツコツという靴のなる音がホール中に響いた。リリーは、なぜレオポルドにあんな視線をぶつけられたのかが分からず、その場で首を傾げた。
「さあリリー、早くしろ!もう六時十五分だ!」
ポカンとレオポルドの出て行った扉を見つめていたリリーに、ボドワンが大声で呼びかけた。リリーははっと我に返り、急いで二階からおとといつくった原稿と資料を取ってきた。ようやく落ち着いてきていたリリーの胸が、またどきどきしはじめた。
「リリー、こっちだ!」
リリーはボドワンの立っている屋敷の入り口の所まで駆けていった。そしてさっきのアニエスというメイドに数少ない荷物を預け、馬車の中へ運んでもらった。
「それでは」ボドワンはリリーに向かって重々しく言った。
「幸運を祈る」
「はっ……は、い」
リリーは震える声で言った。走ったせいか緊張のせいか、心臓がものすごい速さで動いていた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。みんな別にリリーを取って食おうとはしないさ」
ボドワンはいつものように白い歯を見せてにっこり笑った。その笑顔は少しだけリリーを安心させた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。頑張るんだぞ」
リリーはくるりとボドワンに背を向け、庭の真ん中でリリーを待っている馬車のほうへ駆けていった。太陽の光が、広々とした屋敷の庭にさんさんと降り注いでいた。いつも見ている大きな噴水の水も、いつもよりキラキラと輝いて見える。リリーがどんなに不安だろうと緊張していようと、世界はいつも通りにきちんと動いているのだった。
「リリー様、お急ぎください!」
白い服を着たメイドが落ち着かない様子でリリーに呼びかけた。リリーは慌てて、ホワイトエンジェル家の家紋が入った純白の馬車に乗り込んだ。色を合わせているのか、馬車を引く馬までもが雪のように白い体をしている。体だけではなく、たてがみや、尻尾や、翼までもが真っ白だ。
「……翼?」
リリーは自分の目を疑った。馬車を引いているのはどう見てもただの馬ではない。馬に翼を生やしたような外見の、この美しい生き物は、空想の世界の生き物ではなかったのだろうか。
「あの、これって……」
リリーは付き添いのため乗り込んできたメイドに聞こうとした。しかし、リリーが肝心の質問を口にするより先に馬車が動き始めてしまったので、それどころではなくなった。がたがたと揺れる馬車の中で、リリーは何とか体勢を立て直そうと、体をもぞもぞ動かした。その間に馬車はホワイトエンジェル家の見上げるほど大きな門をくぐり抜けていた。リリーは思わず後ろを振り返った。みるみるうちに門は小さくなっていく。馬車の中から紋が完全に見えなくなるまで、リリーは遠くの屋敷を眺め続けていた。
「あの……先ほどリリー様がおっしゃっていたご質問は、どのようなものだったのでしょうか?」付き添いのメイドが丁寧な口調でリリーに話しかけてきた。リリーは慌てて前を向くと、もう一度聞き直した。
「あの、えっと、この馬車を引いているのは……」
だが、リリーがもう一度質問をする前に答えは出た。今までがたがたと揺れながら地面を走っていた馬車の動きが、急に滑らかになったのだ。リリーは馬車の窓から外を覗いた。リリーの予想通り、馬車は空中を飛んでいた。リリーはメイドを振り返り、確認するために改めて聞いた。
「この馬車を引いているのは……ペガサスですか?」
「はあ、そうですが……?」
メイドは、なぜリリーがこんなことを聞くのか分からないようだった。
馬車は、リリーがライラックと天界の上を飛んだときよりさらに高いところを飛んでいた。高所恐怖症のライラックがこの馬車に乗ったら、きっと目を回してしまうだろう。その場面を想像したリリーは、おかしくなってくすりと笑った。ライラックがシルバーエンジェル家の跡を継いだら、彼はどうやって会議場まで行くのだろう。そこはどこまでも信念を貫き通すライラックのことなので、地道に歩いていくのかもしれない。
馬車の前ではきれいなペガサスが二頭、純白の翼を広げて大空を舞っている。リリーは物珍しさに、馬車から顔を突き出してペガサスを見ようとした。翼から抜け落ちた一枚の白い羽根が、風に乗りリリーの頬を掠めて飛んでいった。
「な、何……?」
リリーは、羽根の当たった頬に何気なく手をやった。手のひらに赤い血がついているのを見て、リリーは顔をしかめた。
「でも、うまくやれば羽根を掴めるかも……」
「リリー様、危ないのでおやめくださいませ」
付き添いのメイドはリリーがおかしなことばかりするので困惑しているようだった。ペガサスの引く馬車から顔を突き出さないというのは、リリーの世界でいえば車から顔を突き出さないのと同じように、小さい頃から叩き込まれる常識の一つなのだ。メイドの目には、リリーが二歳か三歳の小さな子どものように映ったに違いない。
リリーは渋々頭を引っ込めた。ペガサスはまた屋敷に帰ってからでも飽きるほど見られるだろう。リリーは、ペガサスの持つ魔力がなんだったか思い出そうとしたが、全く思い出せなかった。
そうこうしているうちに。屋敷を出てから一時間が経ってしまった。会議の始まる時間まであと十五分しかない。リリーは果たして会議に間に合うのかどうか心配になってきた。リリーは屋敷のホワイトエンジェルから、特にゴールデンエンジェル家のジュリアンナ・ゼルダは時間に厳しいと聞いていた。たった数秒の遅刻で散々怒鳴られたゴールデンエンジェルもいたらしい。毎日顔を合わせているような身内の天使ならまだしも、リリーのような初対面の天使が最初の会議に遅刻したら、今後の付き合いに影響が出る。ただでさえリリーは四大天使(そのうち二人は代理だが)の中でも最年少なので、普通に考えれば軽蔑される立場にあるのだ。
リリーはハラハラしながら窓の外を見下ろした。その瞬間、急に馬車全体が斜め下に傾いた。ペガサスが着地のために急降下を始めたのだ。リリーは前につんのめって馬車の壁に鼻をぶつけてしまったが、メイドは特に驚きもせずさっきと同じように座っていた。リリーは何とか体勢を立て直し、再び窓の外へ目を向けた。下に巨大な建物が見える。きっとここが四大天使会議の行われる場所だ。建物の中央は、不思議な光を放っている。見る角度によって色が変わるのだ。あるところからは燃える夕日のような茜色に見え、あるところでは透きとおるような空色だった。また別の場所では全く色のないようにも、鮮やか過ぎるようにも見えた。
その不思議な一角以外の場所は、金銀白黒の四色に塗り分けられていた。建物への入り口も四つに分かれている。リリーはディアマンテタウンの東西南北四つの門を思い出した。この会議場は明らかにディアマンテタウンより小さいが、造りは驚くほど似ている。
リリーたちの乗った馬車は、会議場への白い入り口の前に降り立った。会議が始まるまであと十分だ。リリーは会議に間に合ったことで安心するのと同時に、再び緊張と不安が胸の中に渦巻き始めていた。いよいよ四大天使会議が始まってしまうのだ。息をすることさえままならないリリーをよそに、馬車はぎしぎしいいながら動きを止めた。
「リリー様、どうぞ。お荷物は後からお運びいたします」
もたもたするリリーをメイドが急かした。
「はい……ありがとう」リリーは少し慌てて馬車を降りた。
リリーの心臓は早鐘を打っていた。とうとうこの時が来てしまった。リリーはおなかが痛いと嘘をついて逃げ出したい気分だった。しかし、ホワイトエンジェル家の名前がリリーの双肩にかかっていると思うと、そう簡単に逃げ出すわけにもいかない。リリーはゆっくりと胸一杯に息を吸い込んだ。不安な時はそうしろとポピーがいつも言っていたのだ。リリーはごくりと息を呑み、会議場の中へ足を踏み入れた。
建物の中はホワイトエンジェル家の庭と同じくらい広かった。床と壁は白いつやつやしたタイルでできていて、たくさんの魔法の光がタイルの中に埋め込まれている。そして光と光の間には、数え切れないほどたくさんの肖像画。描かれている人物は、全員が限りなく白に近いブロンドに碧眼、白い翼の女性天使だ。リリーは一番近くに飾られている肖像画に歩み寄り、その下に書かれている名前を読んだ。
アリス・フルール・ド・ホワイト。一九五一―一九九二。八十五代目ホワイトエンジェル家当主。
どうやらここに飾られている肖像画は、歴代のホワイトエンジェル家当主たちのようだ。リリーは白い額縁の中の天使たちにじっと見つめられているような気がして何だか落ち着かなかった。リリーはびくびくしながら、果てしなく長いように思える純白の廊下を進んでいった。
ふいに、廊下の奥からスーツを着た、この建物の管理人らしき天使が数人出てきた。リリーはどうするべきか迷い、その場に立ち尽くした。すると、そのうちの一人がリリーの存在に気がつき、歩み寄ってきた。リリーはなんとか気がついてもらえたことで安心するのと同時に、何を聞かれるのかと少し不安な気持ちで男が近づいてくるのを見ていた。
「お嬢様は……どちらの方でしょうか?」
男は少し気取ったような、独特の話し方で言った。リリーはその男の口調があまり好きにはなれなかった。
「あの、えーっと、私は……」リリーはもごもごと言った。
男はそんなリリーを、軽蔑の混じった視線で見下ろした。
「答えるときは、はっきり答えようね。お譲ちゃん」
リリーは唖然として目の前の男を見つめた。今の言葉は自分に向けられたものなのだろうか。リリーの胸の内から、沸々と怒りの感情が湧き上がってきた。
「私は、リリー・アンジェル・ド・ホワイトです!四大天使会議に出席するために来ました!」
リリーは冷たく言い放つと、突然の鋭い口調に怯んでいる男に最後の一瞥を投げて立ち去った。 一刻も早くこの男から離れたかった。リリーは、メートル先にあった白い扉のところまでつかつかと歩いていくと、ちから任せにドアを引っ張った。
「残り一分よ。危なかったわね」
扉の向こう側から女性の声が聞こえてきた。どこか咎めるような響きの混じったその声に、リリーは思わず後退りした。
「早くしなさいよ。せっかく全員揃ったんだから、早く始めましょう」
リリーは恐る恐るドアの向こう側を覗いた。一番初めにリリーの目に入ったのは、輝く黄金の翼と髪を持つ女性だった。ライラックが話していたジュリアンナ・ゼルダ・ド・ゴールデンとはこの人だろうとリリーは思った。
リリーはそろそろと部屋の中へ入っていった。この部屋こそ、会議場の中心部、四大天使会議の行われる場所なのだ。
会議室は円形の大きな部屋だった。部屋の入り口は四つある。一つは今リリーが入ってきた扉で、百合の紋章が刻まれている。他の三つには、それぞれ剣と炎、鞘から抜かれる剣、盾と剣が刻まれていた。部屋の中央には丸いテーブルと四つの椅子が置かれている。四つのうち三つには、既に天使が座っていた。リリーの席の真正面はホップだ。リリーは知っている顔を見つけて少し安心した。ホップはリリーが入ってきたのに気がつくと、わずかに首を傾けて合図を送ってきた。リリーも頷き返した。
リリーの左側にはさっきの女天使がいた。翼の色から考えると、きっとゴールデンエンジェル家の代表なのだろう。彼女は豪奢な金髪を後ろに振り払いながらじっとリリーのことを見つめていた。
右側に座っているシルバーエンジェルも、興味津々の視線をリリーに送っていた。ライラックの父親だ。しかし、彼はライラックのような長髪ではなかったので、あまり似ている感じはしなかった。
リリーは部屋中の全員に注目されてなんだか落ち着かなかった。リリーはなるべく他の天使を見ないようにして、空いている自分の椅子のところまでそろそろと歩いていくと、静かに腰を下ろした。
「えへん」ジュリアンナ・ゼルダは大きく咳払いをした。
「それでは、ただいまより第十二万六千百二十四回、四大天使会議を始めます。とりあえずこのメンバーでの顔合わせは初めてなので、全員自己紹介と行きましょうか。……では、私からにしましょう。私は」
ジュリアンナはもう一度大きくのどを鳴らすと、真っ直ぐにリリーの方を向いて話し始めた。自己紹介といってもリリー以外の三人は既に顔見知りなので、半分はリリーのためなのだ。
「私はジュリアンナ・ゼルダ・ド・ゴールデン。もちろん正式なゴールデンエンジェル家当主ではありませんが、こうして代理を務めています。ちなみに、今日が誕生日で四十二歳になりますわ」
四十二歳にしてはずいぶん若々しく見えるとリリーは思った。
「おおー」
「おめでとうございます」
他の二人が拍手したので、リリーもそれにならった。ジュリアンナは軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます。次……オズワルトさんお願いできますか?」
「はい」オズワルトと呼ばれたシルバーエンジェルは答えた。
「オズワルト・ライヒアルト・ド・シルバーです。現シルバーエンジェル家当主です。……おほん、最近は体の調子が悪いので以前のようには働けませんが。私も歳ですかな。とりあえずこの四人の中では最年長でしょう……。うぉほん、次は……ホップ君かな?」
「あ、俺ですか」
ホップは驚いたような声を出した。そんなホップの反応に、オズワルドも困惑顔で言葉を返す。
「いや、別にどっちでも構わんのだが……」
「いいえ、大丈夫ですよ。えーと、俺はホップ・ド・ブラックです。まだ親父は生きているのに……しかも俺より元気なくらいなのに、なぜか当主の座を譲られてしまいました。……この中の最年少ではなくなったので良かったです。次、リリー」
三人の視線が再びリリーに集まった。リリーはどぎまぎしながら話し始めた。
「あの、えっと……リリー・アンジェル・ド・ホワイトです。お母さ――いや、あの、母のポピー・ジョヌヴィエーブの代理です。十二……じゃなくて、この前の七月三十一日が誕生日だったから、十三歳?あれ?でも元の世界に帰ったらまた十二歳に……?」
リリーはだんだん頭が混乱してきた。
「まあ、年齢なんて、大体分かればいいのよ」
ジュリアンナは優しく言った。冷たい人かと思っていたけれど、案外いい人なのかもしれない。
「では、本題に入ります。まずは各家の現在の状況を――」
会議はリリーが思っていたよりずっと打ち解けた雰囲気で進んでいった。たまにホップがジョークを飛ばして四人の間に笑いが起きることもあった。しかし、そんな和んだ中でも本来話し合うべき話題が途切れることはなかった。脱線しそうになるたびにジュリアンナが指摘して、会議を仕切ってくれるのだ。オズワルトは、みんなが思いもつかないようなアイデアをたくさん出してくれる。リリーはとりあえず自分の話すことだけで精一杯だったが、思っていたほどひどくはなかった。最初のうちこそつっかえつっかえ話していたものの、慣れてくれば段々ときれいに話せるようになってきた。ホップの冗談に笑う余裕も出てきた。気がつくと、リリーの腕時計は既に四時五分前を指していた。
「あら、今回は少ししゃべり過ぎちゃったわね」
ジュリアンナも自分の腕時計を見ながら言った。
「じゃあ、今日はこの辺で終わりにしましょうか。皆さん、今日決まったことはそれぞれの家に責任を持って伝えて下さい。
次の会議は十一月ですね……詳しいことは、一ヶ月くらい前に私のほうから連絡します。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
リリーは、つい十数時間前まで悩みと心配の種だった四大天使会議が、こんなに早く終わってしまうのはなんとも名残惜しい気分になっていた。他の天使貴族の話を聞くのは、嫌なものではない。むしろ、ホワイトエンジェル家では決して聞くことのできない色々な話を聞くことができて楽しかった。例えばシルバーエンジェル家では、全員が幼いうちからヴァイオリンを習わさせられるそうだ。しかし、今までシルバーエンジェル家を専属で教えていたヴァイオリニストが辞めてしまったので、後任を誰にしようか悩んでいるそうだ。リリーは、今度ライラックに会った時には必ずヴァイオリンを弾いて見せてもらおうと心に留めた。
リリーが机の上に散らばった紙の束をまとめていると、リリーの左からジュリアンナが近寄ってきた。リリーは顔を上げた。
「リリー、どうだった?あなたが今日の会議のことをとても心配してるって、ボドワンさんから聞いていたのだけど」ジュリアンナはリリーの顔をのぞきこんだ。
「あの……思っていたより、面白かったです」リリーは正直に答えた。
ジュリアンナは嬉しそうに微笑んだ。
「そう。気に入ってもらえて良かったわ。三ヶ月に一度だけの会議だけど、一ヶ月前から心配していたら、一年の三分の一は不安な気持ちで過ごさなければならないでしょう?」
「はい……」リリーは頷いた。やはりジュリアンナはいい人だったようだ。
「天使貴族の仕事は大変でしょうけど、頑張りなさい。私たちがあってこそ、この世界は成り立っているのよ。もし分からないことがあったら、私や他の二人に何でも聞きなさいね。相談に乗るわ」
彼女のその言葉で、リリーはジュリアンナに一つ聞こうと思っていたことがあったのを思い出した。しかし、リリーはそれを聞くべきか否か迷っている途中だった。初めて会った人なのに、こんなことを聞くのは失礼になるのだろうか……?
「あ、あの……はい。」リリーはそれだけ答えた。
ジュリアンナはにっこり笑って頷いた。
「じゃあ、また。次の会議でね」
そう言うと、ジュリアンナは自分の席の真後ろにある、鞘から抜かれるつり儀が掘られたドアの方へ歩いていった。だんだん自分から遠ざかっていく彼女の姿を、リリーは戸惑いながら見つめていた。このチャンスを逃したら、次にジュリアンナに会えるのは三ヶ月も先だ。
リリーは、ポピーからチャンスの神の話を聞いたことがある。チャンスの神はものすごい速さで走り、しかも頭の後ろには髪の毛が生えていない。自分の前を走り去った後に捕まえようと思っても、髪がないので捕まえられないのだ。
「あの!」リリーは大声を出した。
ちょうど部屋から出ようとして、ドアの取っ手に手をかけていたジュリアンナは、びくっとしてリリーの方を振り向いた。もう部屋には、彼女とリリーしか残っていなかった。
「あ、あの……ごめんなさい」リリーは声のトーンを落とした。
「一つ、お聞きしたいことがあるんですけど……」
「あら、早速質問かしら?」ジュリアンナは面白そうに笑った。
「質問っていうか、何ていうか……」
リリーはぼそりと言った。ホップは、三ヶ月に一度ゴールデンエンジェルに会っていたはずなのに、なぜ一度も聞いてみなかったのだろうか。もしかすると、既に聞いたけれど答えてもらえなかったのかもしれない。リリーはここまで来てもまだ、ジュリアンナに聞きたい気持ちとやめておきたい気持ちの間で揺れていた。しかし、もう引き返すことはできない。つかんでしまったものは、離せないのだ。
「あの」リリーは、サファイアのようなジュリアンナの瞳を真っ直ぐ見上げた。
「ゴールデンエンジェル家に、当主がいなくなってしまったのは……なぜなんですか?」
パーン
乾いた音が部屋中に響き渡った。一体何が起こったのか、リリーにはよく理解できなかった。リリーはジンジン痛む左頬に手を当てた。ジュリアンナはショックを受けたような顔で、ひたすら自分の右手を見つめていた。
「ごめん……なさい。そう、知らなかったんだし……あなたに悪気はなかったのよね?……でも」
ジュリアンナは苦しそうに声を絞り出した。
「今後、その話には一切触れないでちょうだい」
部屋を走り去っていくジュリアンナの姿を、リリーは呆気にとられて見つめていた。殴られたばかりの頬が熱い。熱さを感じるということは、夢ではないはずだ。
十五年前、ゴールデンエンジェル家では一体何が起こっていたのだろうか。突然姿を消したという跡取り息子は、今どこにいるのだろう。リリーは未だ謎に包まれている一人の天使のことに思いを馳せ、その場に立ちつくしていた。
「リリー、どうだった?」
リリーが馬車から降りるなり、屋敷の庭で待ち構えていたダニエルが話しかけてきた。リリーは会議の後起こったことへのショックが強すぎて、一瞬何のことを聞かれているのか分からなかった。
「え?何が?」リリーはきょとんと聞き返した。
「四大天使会議のことに決まってるだろ!」ダニエルは待ちきれないように叫んだ。
「ああ、そのことね」
リリーは一瞬迷ってから答えた。
「大丈夫だった、けど……」
「なんだ、良かった。暗い顔してたから失敗したのかと思ったよ。それで、どんなことを話したの?」
リリーは、会議の後に起こったことを全て無視することに決めた。
「えっと、まず自己紹介をしたわ。それから、この前暴風雨を止めたときのことを話して……」
リリーは屋敷の正面扉に向かって歩きながら、会議の内容をダニエルに話して聞かせた。シルバーエンジェル家の天使が、全員ヴァイオリンを習わさせられているという話で、二人は一番盛り上がった。リリーが、今度ライラックに弾いてみせてもらおうと思っている、と話すと、ダニエルは長髪がヴァイオリンを弾く時には邪魔そうだと答えた。
「いいなあ、楽しそうだ。僕も行きたかったよ」ダニエルはため息をついた。
「そんな楽しい話ばかりしていた訳でもないけど、面白かったわ。興味深いというか……。どっちにしろ、私が死なない限りダニエルは行けないけどね」リリーは得意げに言った。
「おいリリー、態度変わりすぎだぞ。昨日まではあんなに嫌がっていたのに――」
「嫌がってなんかないわ。ただ心配だっただけで――」
二人は言い争いながら広い庭を通り抜け、屋敷の前までたどり着いた。しかし、そこから先に進むことはできなかった。
「お前がそこで満足しておけば何も――」
「いい加減にしろ!それとこれとは関係ないだろう?」
屋敷の前では壮絶な争いが起こっていた。ボドワンと、今朝リリーが玄関ホールで見かけたホワイトエンジェル、レオポルドだ。そしてレオポルドの後ろにはなぜか、リリーが初めてホワイトエンジェル家に来た日、ボドワンに講義しようとしていた少女――カロリーヌがいた。リリーは、ボドワンと言い争っているレオポルドが、カロリーヌの父親であるということに今ようやく気がついた。
「そうよ!なんで、なんでお母様を見捨てるなんて、そんな無情なことが……?」
カロリーヌが震える声で呟いた。
「見捨てた?一体誰がルイーズを見捨てたというのだ。私たちだって精一杯の努力は――」
「お前にとっての精一杯はその程度なのか、ボドワン!」レオポルドが吠えた。
「うるさい!何度言えば分かる――」
「ストップ!」
真っ赤な顔で叫んでいたボドワンを、ダニエルが遮った。ボドワンは荒い息でダニエルを見下ろした。
「ダニエル」
ボドワンは唸るように言った。こっちのほうが怒鳴られるよりも数十倍凄恐ろしい。
「お前、今私が何の話を――」
「何の話かは知らないけど」ダニエルは負けじと父親を睨み返した。
「父さんの怒鳴る相手は僕だけで十分だ。ほら、みんな迷惑してる――」
確かに、ボドワンの大声は屋敷の外まで聞こえていたようで、道行く人々も何事だろうと足を止めては、ホワイトエンジェル家のほうを見つめていた。屋敷の中のメイドたちも、窓から首を突き出して庭のほうを見下ろしている。
「ふん」ボドワンは少し冷静になって、レオポルドとカロリーヌの方に向き直った。
「調子に乗るな、レオポルド。いつまでも勝手なことを言って許されるとは思うなよ」
ボドワンはレオポルドに向かって凄みの効いた声で言った。レオポルドは怯むどころかボドワンを睨み返した。
「お前に許しを乞うた覚えはない」
「ふざけたことを言うな。そうやってお前らは自分の罪を一生償おうともせずに――」
「罪を犯したのはお前の方だろう?ふざけているのはどっちだ」
レオポルドはじりじりとボドワンの方へ歩み寄っていった。口論だけで済んでいるのも今のうちかもしれない。リリーははらはらしながら二人の様子を見ていた。さっきまでは父親の側で険悪なオーラを漂わせていたカロリーヌも、この殺気立った状況に気がついたのか、遠くから怯えたように父親を眺めるばかりだった。
「いいか、ボドワン。お前が私たちのことを許そうと許さなかろうと」
レオポルドは、ほとんど聞き取れないような声を唇の端から絞り出した。
「お前たちが一つの命を見捨てたことには変わりがないのだ。お前が――」
レオポルドの言葉の先を、リリーは聞くことができなかった。彼が話し終えるより先に、リリーたちの目の前で巨大な爆発が起こったのだ。リリーとダニエルは数十メートル後ろに吹っ飛んだ。上で見ていたメイドたちの間から悲鳴が起こった。さらにリリーは、前から飛んできたカロリーヌに飛ばされて、後ろにあった林檎の木に頭を嫌というほどぶつけてしまった。リリーは頭の後ろをさすった。今日は殴られたりぶつかられたりと散々な目にあった。もうこれ以上痛い思いをするのはごめんだ。
リリーは、恐る恐る涙で霞んだ目を開けた。最初に目に入ったのは、恐れおののいたような表情でリリーのことを見下ろしている、カロリーヌの姿だった。カロリーヌはリリーと目が合うと、少しでも早くリリーから離れたいとでも言うかのように、ものすごい速さで走っていってしまった。リリーは、なぜ自分がそんな目で見られたのか理解できなかった。カロリーヌとは口を利いたこともないはずだ。それとも、リリーの知らないうちにどこかで会っていたのだろうか。リリーはこの一ヶ月のことを振り返ってみたが、どこにも思い当たる節はなかった。
リリーは、走り去るカロリーヌをただ呆然と見つめていた。彼女の走っていく先にはレオポルドがいた。彼も今の衝撃で飛ばされたようだ。リリーは、ボドワンがどこにいるのかと庭中を見回した。しかし、意外なことにボドワンは、さっきと同じ屋敷の前に突っ立っていた。彼は飛ばされなかったようだ。リリーは、それを見てようやく今の状況が理解できた。さっきの爆発を起こしたのはボドワンだ。レオポルドを自分から引き離すために魔法で風を起こし、リリーたちもその巻き添えになってしまったのだ。
レオポルドは素早く立ち上がった。今の爆風のせいで、ほぼ白に近いブロンドの髪が見事なまでに後ろへ流されている。氷のように冷たい目をしたレオポルドは、まるで獲物を狙うライオンのように一人で突っ立っていた。
「貴様には、魔法を使う際の常識というものが欠如しているようだな。ボドワン」
レオポルドは囁くような、しかし屋敷中の天使が耳をそばだてずに入られないくらいぞっとする声で言った。
「貴様は一体、どのような教育を受けてきたのだ?自分の気に入らない相手は、手当たりしだい魔法で攻撃しろとでも?ずいぶんと野蛮だな。人間界に乱暴な奴が増えてきているというのも、お前のその思考が伝染したからなのではないか?デメトル大陸では、戦場で攻撃的な魔法を使ってはならないと決めなければならなかったのだ。少し前までは、そんなことも常識の範囲内だったのにな。事の発端が、ボドワン、貴様だったとは。残念なことだ。天使のすることとは思えん」
「黙れ」ボドワンが唸った。
「大嘘つきめが。せっかく口を持って生まれてきたのだから、もっと有効なことに使え。お前らは嘘しか言うことができないのか?それなら嘘つき村へでも行けばいい。ここはお前の村かと聞いて、いいえと答えられたらそこが嘘つき村だ。レオポルド、私は止めないぞ」
「……嘘つき村とはまた幼稚な。貴様の頭の中は一体どうなっているのだ」
レオポルドとボドワンは互いに睨み合いながら少しずつ歩み寄っていく。リリーたちの周りの空気がぴんと張り詰めた。
「お前こそ、罪のない人間達を騙しよって。常識あるものの行動とは思えん――」
「そうとは知らずに口にしてしまった嘘が、罪になるとでも言うのか。貴様――」
二人の叱声と共に、レオポルドの掌から炎が、ボドワンの手からは水が、一斉に吹き出した。二つはちょうど両者の真ん中でぶつかり、真っ白の水蒸気がもくもくと立ち昇った。屋敷の中からメイドの悲鳴が上がった。
「あーあ、何やってんだよ、二人とも――」
リリーの隣で一部始終を見ていたダニエルは、慌ててボドワンを止めに走ろうとした。しかし、今やレオポルドもボドワンもそこらじゅうに炎と水をぶちまけてしまっている。無闇に近づくのは危険だ。
「危ない!」
カロリーヌにぶつかられて倒れたままだったリリーは、走り出したダニエルに向かって片脚を突き出した。足を取られたダニエルは、前方に派手に吹っ飛んでしまった。
「おい、何すんだよ――」ダニエルはリリーに噛み付いた。
直後、二人の頭上をレオポルドの炎が猛スピードで通過した。リリーの背後に生えていた林檎の木はたちまち炎上した。リリーは慌てて、炎の柱と化した木から飛び退いた。
「ちくしょう、危ないだろ!僕たちに当たったらどうするんだよ!大の大人がすることじゃな――」
立ち上がって吼えたダニエルの顔を、ボドワンの水が直撃した。林檎の木がジューと音を立てた。
「伏せてろ!」
ボドワンが、激しい水流に押されて再び倒れたダニエルに向かって怒鳴った。ダニエルはぶつぶつ文句を言っていたが、おとなしく地面に頭をつけた。リリーもできるだけ身を低く屈めた。
二人の争いはさらにエスカレートしていった。それぞれの攻撃は、相手を攻めるのと同時に防御の役割も果たしている。二人が魔法を止めれば全て終わるのに、先に止めたほうは確実に被害を受けることになるのだ。
ふいに、屋敷の門の前へ一人の少女(少なくともリリーにはそう見えた)が姿を現した。少女は、屋敷の庭で起こっている光景を目の当たりにし、慌てたように小さな白い翼を振るわせた。
「レオポルド!」
少女のような天使は、可愛らしい声で叫んだ。彼女の声は、庭からの騒音にかき消されてあっという間に聞こえなくなった。
しかし次の瞬間、信じられないことが起こった。なんと、レオポルドの手から激しく噴出していた炎が嘘のように消えてしまったのだ。反応が遅れたボドワンの手から、大量の水が滝のようにレオポルドの上へ降り注いだ。しかし、レオポルドはそれを避けることもせずに、ただひたすら屋敷の門の辺りを見つめていた。
「――ル……ミシェル?」
レオポルドは呆然とした顔でうわ言のように呟いた。乱れた髪から水のしずくが次から次へと流れ落ちた。
「レオポルド!」
天使はもう一度レオポルドの名前を呼ぶと、一目散に屋敷の庭を駆け抜けた。白いドレスが風に乗ってふわふわと揺れた。ひたすらに走り続ける彼女を、レオポルドはただ呆然と見つめているだけだった。
「ル……いや……ミ、シェル?なぜ……?」
レオポルドは、ものすごい速さで駆け寄ってきた天使を見て、放心したように言った。
「ああ、良かった、レオポルド……」
ミシェルはレオポルドの側までやってくると、息を弾ませて言った。
「驚いたわ。あのね、シャルルが昼寝から覚めたあとで、ぐずりはじめちゃったの。だから、この近くへ来たのよ……レオポルドの顔を見ればシャルルも泣き止むんじゃないかと思って。そしたら――」ミシェルは大きな瞳でレオポルドを見つめた。
「一体、何が――?」
「見ての通りだ」レオポルドは吐き捨てるように言った。
「ボドワンは私の話を聞こうともしない。これ以上何を言っても無駄だ。早く帰ろう。シャルルが待っているんだろう?」
「え?ええ……」
ミシェルは納得が行かないような顔をしていたが、レオポルドがそう言うと渋々といった様子で頷いた。レオポルドは一刻も早く屋敷から離れたいとでも言うように、どかどかと大股で屋敷の庭を横切っていった。ミシェルとカロリーヌが慌ててその後を追った。
リリーは、少し前まであんなに殺気立っていたレオポルドが、なぜミシェルの一言であんなに大人しくなったのか分からなかった。隣で体を起こしたダニエルも、戸惑いをありありと顔に浮かべていた。
「まったく、どこまでも自分勝手な奴め」
ボドワンは捨て台詞を吐くと、ぷいと顔を背けて屋敷の中へ入っていってしまった。黒い焦げ跡と水溜りで散々な状態になっている広い庭には、リリーとダニエルが二人で取り残された。
「今……何があったの?」
リリーはバタンと大きな音を立てて閉まった屋敷の扉を見つめた。
「僕に聞かれたって良く分かんないよ。前にも一回こういうことがあったから、それと同じようなことだと思うな……その時はここまでひどく無かったんだけどね」
ダニエルは深刻な表情でリリーのほうを振り向いた。
「今夜はあんまり父さんに話しかけないほうがいいよ。たぶんすごくイライラしてると思うから。弦楽五重奏が来た時みたいにね」
ダニエルの言ったことは嘘ではなかった。その夜、ボドワンは夕食の席に姿を見せなかった。そのせいもあり、リリーはあまり夕食をたくさん食べる気にはなれなかった。
今日はリリーの心配していた四大天使会議の日だったので、屋敷のシェフが気を利かせてリリーの好物をたくさん並べてくれているようだった。リリーは、食べなければ失礼だと思い、自分の前に出されたものはとりあえず全部飲み込んだが、砂を噛むような気分だった。
「私が今朝玄関ホールに下りていったときも、あのレオポルドって人とお祖父様が、言い争いみたいなことをやってたのよ」
夕食後、リリーとダニエルはリリーの部屋に集まり、レオポルドとボドワンのことについてもう一度話し合っていた。リリーの体は今日一日の仕事でくたくたに疲れていたが、こうにも考えることがたくさんあると、そう簡単には眠れない。
「え?朝からレオポルドがいたの?」ダニエルは素っ頓狂な声を上げた。
「ええ、実はそうなの。それに、朝もやっぱり険悪な感じだった。私が降りて行ったらなんでもない風を装っていたけど」リリーは思い出しながら答えた。
「ふうん。でもまあ、昔からあいつは、あんまり父さんと仲良しって感じじゃなかったから、今日あんなことになったのもおかしくはないよな」
ダニエルは妙に納得したような顔で言った。
「あれ?そうだったの?なんで?」
リリーは身を乗り出した。自分の知らないことならとにかく何でも聞きたい気分だった。リリーがホワイトエンジェル家にやってきてからもう一ヶ月が経つが、何しろリリーは今まで仕事を覚え、貴族の生活に慣れるのが精一杯だったのだ。ホワイトエンジェル家で昔何があったのかとか、誰が誰の子どもだとかいう類のことに関しては、全く知らないと言っても過言ではないくらいだった。
「だってさ、ルイーズが――ルイーズっていうのは僕の叔母さんだよ――その人が、ホワイトエンジェル家当主の座を奪い取ろうとしていた話はしたよね?」
「うん、聞いた。それで、私のお母さんが科学界へ逃げて……」
「そう、その話だよ。それで、ポピーさんがいなくなっちゃった後、父さんが裁判みたいなのを起こしたんだ。僕はまだやっと一歳になるかならないかくらいの歳だったから、あんまり記憶にないんだけどさ。それで、ルイーズがポピーさんに散々罪を着せていたのが、実は全部嘘だったんだって、みんなにばれちゃったんだ。でも結局ルイーズは、牢獄の中で病気にかかって死んじゃった。それで、レオポルドは裁判を起こした父さんとか、牢獄から逃げたポピーさんとかをずっと恨んでるんだ」
「ちょっと待って」リリーはダニエルの言った事を理解するのに少し時間がかかった。
「それじゃあ、レオポルドとルイーズはどういう関係なの?他人?」
「ああ、ごめん。言い忘れてた」ダニエルは淡い色のの髪をくしゃくしゃと掻いた。
「レオポルドとルイーズは夫婦さ。カロリーヌは二人の子ども」
「え? じゃあ、あのミシェルって人は? あの人もレオポルドとルイーズの子ども?」
ダニエルは声を上げて笑った。
「やっぱり、そう見えるよね。でも、なんとミシェルさんはレオポルドの再婚者なんだよ。あの人はそれなりにいい人だと思うよ。小さい頃は面白い話をたくさん聞かせてもらったし」
「よく分からなくなってきた」リリーは顔をしかめた。
「まあ、とりあえず、なぜレオポルドがお祖父さまを憎んでいるのかは分かったわ。それから、カロリーヌが私を見て怖がっていたのは……きっと、私のせいで、そのルイーズって母親と同じ目に合わされると思っているのよ」
「カロリーヌがリリーのことを怖がってるって?本当か?君はそんな強そうには見えないけどな」
リリーは恐い顔でダニエルを睨みつけた。ダニエルは笑いこけた。
「でも、カロリーヌのことは別にいいの。私の思い違いかもしれないもの。ただ、一つ分からないのは、レオポルドが『命を見捨てた』とか言っていたことね。別にお祖父さまは、そのルイーズとかいう人を死刑にした訳ではないんでしょう?」
「ああ。父さんはただ、ポピーさんが無実だったって証明して見せただけだよ。ものすごく起こってたけどね。基本的に、天使は身内同士の争いに甘いんだ。そこに人間が関わってくるとえらい事になるんだけどさ。何しろ、人間を傷つけたとなると、天使を傷つけた時より刑が倍増するんだ。いや、もっとかな……?」
「それならなぜ――?」言いかけてリリーは口をつぐんだ。誰かが外から部屋のドアを叩いている。
「誰かしら?」
「僕に聞くなよ」
リリーは仕方なく立ち上がってドアのほうへと歩いていった。その途中でリリーは、床に落ちていた本につまずいて危うく転びそうになった。この数日間とても片付けなどする気になれなかったリリーの部屋は、結構散らかっていたのだ。それに加え、いつもは掃除に来てくれていたメイドもリリーの不機嫌を感じ取り何位置か掃除に来るのを控えていたのだ。そのせいか、部屋の隅においてある小さな白いごみ箱は、何だかよく分からない落書きの紙であふれかえっている。リリーがため息混じりに分厚い本を本棚に戻していると、もう一度ノックの音が聞こえた。
「はい! ちょっと待って……」
リリーはさっき描いていたレオポルドやルイーズの人物関係図を、ぐしゃっと丸めてごみ箱に押し込もうとした。しかし、既にごみ箱は新たなごみを受け入れられない状態になっている。リリーは紙を部屋着のポケットに突っ込んだ。
三度目のノックが聞こえた。リリーはやっとドアを引いた。
「あの、待たせてごめんなさい。誰……」
ドアの向こう側に立っていたのは、険悪な顔をしたボドワンだった。リリーはあまりの恐ろしさに思わず後退りした。
「ダニエルはここにいるな?」ボドワンは静かに言った。その静けさが逆に恐ろしい。
「は、はい。いますけど……」
リリーは、後ろで眉をひそめているダニエルの方を振り返った。ダニエルは困ったように、リリーとボドワンの顔を交互に見比べた。
「ダニエル、来い!」
ボドワンはいつもの怒鳴り声で言った。部屋の奥でダニエルがぎくりと身を震わせるのが、リリーにも分かった。
ダニエルは、少しでも説教の始まる時間を遅らせたいとでも言うかのように、そろそろとドアの方へ向かって歩いてきた。ボドワンはぎろりとダニエルを睨んだ。
「これは一体、何の真似だ?」
ボドワンは、焼け焦げだらけになってしまった服のポケットから一枚の紙を取り出すと、ダニエルの目の前に突きつけた。
「え、何?」
リリーはダニエルの後ろから紙を覗き込もうと背伸びをした。しかし、リリーが内容を理解できないでいるうちに、ダニエルは父親の手からその紙をひったくった。紙の端が破れて、ボドワンの手の中には小さな三角形の切れ端だけが残された。
「ど、どこでこれを……」
ダニエルは青い顔で、ボドワンから奪い取った紙をぐしゃぐしゃと丸めた。
「お前の部屋の前だ」ボドワンは全く動じる様子も見せずに、淡々とそう告げた。
「先月、お前がずっと部屋に閉じこもっていたのはそれか? お前という奴は、一体――」
「どうせ『勉強さぼって遊んでるんじゃない』とか言うんだろ!」ダニエルは怒鳴った。
「でも、でも――父さんの目にどう映るかは知らないけど、父さんにとっては遊びに見えるのかもしれないけどさ――だけど、それがただの遊びじゃない人だっているんだ――僕は、僕にとっては――」
「誰が遊びだと言った?」
ボドワンの予想外の答えに、ダニエルは続きの言葉を失ってしまったのか、ただ口をパクパクさせるだけだった。
「私はそんなことを言うためにわざわざ来たのではない! 何だ、お前は、遊んでいたから怒られるとでも思ったのか? 私がいつお前のすること為すことを遊びだと言った? 遊びだと思っていたのはお前の方だろうが!」
ボドワンは、手に持った紙の切れ端を床に投げ捨てた。
「やりたいことがあるならば、堂々とそれをすればいいだろう! それをわざわざ、学校の宿題だ、レポートだなどと……!いいか――」
ボドワンは真剣な表情で言った。いつもの怒鳴り合いの時には決して見せない顔だった。
「人生は長いし、何があるかわからない。時には、嘘をつかなければならないこともあるかもしれない。しかし、それはほんの極稀な、限られた場合だけのことだ。こんなつまらないことのために軽々しく嘘をつくんじゃない。どんなに誠実な人間だって、人の信用を得るのはすごく難しいんだぞ。そうやって、苦労して得た信頼だって、たった一回のくだらない嘘で簡単に壊れてしまうんだからな。いいか。お前の姉さんは、自分の叔母がついた嘘のせいで牢獄に送られたんだ。これ以上、家族の中で騙しあうようなことがあってはならない。分かったか?」
「うん……」ダニエルは床に向かって呟いた。
「それに、私は別に、お前が勉強しないからといって怒るつもりはないぞ。他にやりたいことがあるなら、それをやればいい。それに、お前がそれを作っていたことだって立派な勉強じゃないか」
「……うん」きつく握り締められていたダニエルの拳が、少しだけ緩んだ。
「今日は……」ボドワンは少しだけダニエルから視線をずらした。
「さっきは、お前がいてくれてよかった。もしあの時お前に止められていなかったら、もっとひどいことになっていたかもしれん――」
庭での言い争いのことだろうと、リリーにはすぐに察しがついた。ダニエルは驚いたように顔を上げた。
「あれも、元々は嘘から始まった争いだ……。とにかく、お前のおかげで助かったよ。ありがとう」
ダニエルの手から、ぐしゃぐしゃに丸められた紙がこぼれ落ちた。紙はボドワンの足元まで転がっていった。ボドワンは屈んでその紙を拾うと、綺麗に広げてもう一度良く眺めた。
「うむ――なかなかやるじゃないか。来年も頑張れよ」
「ん」ダニエルは短く答えた。
ボドワンは手に持った紙をダニエルに差し出した。ダニエルはそれを受け取ると、きちんと四つに畳んでポケットにしまった。最後にボドワンはぽん、とダニエルの頭に手を載せ、部屋を出て行った。ダニエルは片方の手をポケットに突っ込んだまま、何も言わずにその後姿を見送った。
「その紙、何だったの?」
リリーは、相変わらず突っ立ったままのダニエルの背中に声をかけた。
「え?」ダニエルはかすれた声で答えた。
「ああ……」
ずっと俯いていたせいか、ダニエルの顔は前髪に覆い隠されていて、表情は見えない。もしかしたら、わざとリリーに顔を見せないようにしているのかもしれない。
「美術展に応募した時の応募通知」ダニエルは早口でそう呟いた。
「僕、もう部屋に帰る。おやすみ」
「え?ああ、うん。おやすみ」
ダニエルは静かに部屋を出て行った。後に残されたリリーは、ベッドの上に横になり、今日一日のことを思い返していた。
『いいか。お前の姉さんは、自分の叔母がついた嘘のせいで牢獄に送られたんだ』
『そうとは知らずに口にしてしまった嘘が、罪になるとでも言うのか』
リリーには、全てをうまく繋げることができなかった。リリーはそれ以上考えるのを止めて、静かに眠りに着いた。