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第三章 ホワイトエンジェル


   第三章 ホワイトエンジェル


 五分後、小屋の床にはまたあの奇妙な模様が現れていた。ライラックが描いたものだ。ライラックはこの作業をするために邪魔な髪を後ろで一つに束ねていた。

「自分一人が移動するならこんな面倒くさいことはしなくてもいいんだけどな」

 ライラックは額の汗をぬぐって言った。

「何で他人を一緒に運ぶとなるといきなり大変になるのかさっぱり分からない」

「ごめん……」

 リリーは自分も自力で移動できればいいのにと思った。しかし一度も魔法を使ったことのないリリーが今日から突然そんな高度な術が使えるようになる訳はない。

「いや、別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけど……」

 ライラックは突然謝られて戸惑っているようだった。

「そうなの?それならいいけど。あんなこと言ったら誰だってそういうつもりに聞こえるわよ」リリーは口を尖らせた。

「そうか?」ライラックは曖昧に答えてまた床の模様に線を書き加えていった。

リリーは昨日からずっとポケットに入れっぱなしになっていたネックレスを出して首にかけた。今日はなぜかいつもより輝いているように見える。いつも見ていたはずのものだが、このネックレスの持つ意味を知った時から、リリーのこれを見る目も少し変わっていたのかもしれない。

「いいか?」ライラックは束ねていた髪をほどいてまたいつもの髪型に戻っていた。

「うん。」リリーはネックレスをぎゅっと握り締めた。

 次の瞬間、部屋の中は床の模様が放つ白い光で一杯になった。リリーは何が起こるのか見ていたかったが、あまりの眩しさにそれ以上目を開けていることはできなかった。目を閉じる直前、リリーはライラックの背中に、一昨日初めて彼と会った時と同じような翼を見たような気がした。だがリリーがそれを確かめる前に、ライラックの姿も白い光に紛れて見えなくなってしまった。

 リリーの耳にびりびりと布の裂ける音が聞こえてきた。リリーは背中に何か重いものを感じて後ろに倒れこんだ。しかしそれが何なのかは分からなかった。眩しすぎて目を開けることはできなかったし、どっちが前か後ろか上か下かもよく分からなくなっていた。


*          *          *



 リリーは自分の体がふわりと軽くなったような気がした。そして光は徐々に弱くなっていった。リリーは恐る恐る目を開けた。そしてあっと息を呑んだ。

リリーの目の前には、リリーが生まれてから今まで見てきたどんな景色とも似ても似つかない、寂しい風景が広がっていた。まるでモノクロ写真の中に入れられたようで、全く色が感じられない。それにどことなくぼんやりしている。リリーは今の光のせいで自分の目がおかしくなったのかと思ったくらいだ。リリーはとりあえず立ち上がろうとした。だが足で立った瞬間、またバランスを崩してしりもちをついた。

「痛っ……。何だろう、背中に何かあるんだ……」

 リリーは首を回せるだけ回して自分の背中を見ようとした。リリーはあんぐりと口を開けた。

 リリーの背中から生えていたのは、白い翼だった。リリーは手を後ろに回して自分の翼に触れてみた。思ったより温かい。自分は天使なんだと、リリーは実感した。

「ちょっと失敗したな」

 リリーの横で声がした。ライラックだ。ライラックにも翼があるのがリリーにもはっきり見えた。リリーの翼は白かったが、ライラックのは銀色だ。

「ここが天界なの?」

 リリーはもう一度辺りを見回した。やはり霧がかかったようにぼんやりとしていて、自分とライラックの他には何も見えない。天界がこんなところだとは、リリーにはとても信じられなかった。

「……天界は天界だけど……」ライラックは唇を噛んだ。

「天界の端のほうだ」

 端のほうと言われても、自分とライラックしか見えないリリーにはどっちが端でどっちが中心なのか分からない。リリーは立ち上がった。今度は少し体重を前にかけてみた。少しふらついたが、とりあえず転ばずに立つことはできた。だがここの地面は周りの景色と同じで、なんとなくはっきりしない。まるで雲の上を歩いているみたいだ。

「こんなところじゃ魔法は使えないし、歩いていったら一ヶ月はかかるしな」

 ライラックは困り果てたように言った。

「だからといって飛ぶのはごめんだ…………」

 リリーは翼を動かそうとしてみた。だが全然動かない。なぜこんな重いものを使って天使は飛ぶことができるのかリリーには理解できなかった。とりあえず今のリリーにはできないだろう。

「よし、分かった」ライラックは決心したように言った。

「何が?」

「飛んでいくしか方法はない」ライラックはきっぱりと言った。

「でも、私まだ飛べないよ?」

 リリーはもう一度背中に力を入れて翼を動かそうとした。だがやっぱり思い通りには動かない。それどころかこの重さを支えるために背中の筋肉が相当痛くなっていた。歩いて一ヶ月以上かかる距離を飛ぶなんて、どう考えても無理だ。

「だから、つかまれ」

「え?」

 次の瞬間、リリーの足は地面を離れ、ふわりと空中に浮き上がった。気がつくとリリーはライラックに腕をつかまれて宙を飛んでいた。

 それはなんとも奇妙な感覚だった。リリーは飛行機に乗ったことがないので空を飛ぶのはこれが初めてだった。だが飛行機というよりは、ロープウェイのゴンドラになってぶらぶら揺れているみたいだとリリーは思った。リリーは小さい頃、両親と一緒にロープウェイで山を登ったことを思い出した。ロープウェイのゴンドラはただロープに引っかかっているだけだった。幼い日のリリーはもしゴンドラがロープから外れたらと想像していた。ゴンドラが落ちたら、自分達はつかまる物も何もなくただゴンドラと共に落ちていってしまう……。

「落ちる!」リリーは小さい頃と同じように叫んだ。

「落ちても死なない。落ちて死ぬくらいの高さを飛びたかったら自力で飛んでくれ」

 ライラックはなるべく下を見ないようにして言った。

「あ、そっか。高所恐怖症……」

 リリーは下を見下ろした。確かにそんなに高いところを飛んでいるわけではなさそうだ。だがものすごい速さで飛んでいる。リリーは高いことよりも速いことのほうが怖かった。

「でも、天使っていつも飛んでいるのよね? それなら何で高所恐怖症に?」

 リリーはライラックに聞いた。

「落ちた。小さい時……」ライラックの答えは単純だった。

「ふーん……」

 二人はしばらく無言で飛んでいた。リリーは灰色だった世界がだんだん色身を帯びていくのを感じた。周りに建物があるのもだんだん見えてきた。だが大きな建物はあまり多くない。小さい家も壊れかけているものがほとんどだ。

「ねえ、なんでさっきの所はあんなにもやもやしていたの?」

「天界の中心に近づくほど色鮮やかになる。反対に中心から離れれば離れるほど何も感じられなくなるんだ。あんまり離れすぎると何も見えなくなるらしい。行ったことはないけど。そんなところまで行くのは自殺行為だ。さっきも危なかった。あれ以上離れていたら一巻の終わりだ」

「そうなんだ……」

 リリーは何も見えない所に一生閉じ込められていたらと思うとぞっとした。

 今、リリーたちの足元には花畑が広がっていた。大きな向日葵がいくつもリリーたちの方を見上げている。だがその向日葵畑もすぐに見えなくなった。それほど速いスピードで飛んでいたのだ。花畑の次には住宅街があって、小さな公園で子供の天使が五、六人遊んでいるのが見えた。そのうちの一人がリリーたちに気づいて興味津々と言った様子で上を見上げた。

「みてみてー! しるばーえんじぇるさんだー」

 そんな声がリリーたちの後ろから微かに聞こえてきた。リリーは驚いてライラックを見上げた。

「ライラックって有名人なの?」

「俺に聞かれても困る」

 ライラックは蒼い顔をしていた。リリーはそれ以上ライラックに質問するのをやめた。

 もう何時間飛び続けたのか分からなくなった頃、ようやくリリーたちのほかにも空を飛んでいる天使が何人か出てきた。だがどの天使ももっとゆっくりと飛んでいた。リリーは他の天使とぶつかるのではないかと気が気でなかった。しかしいつもぎりぎりのところでライラックがよけるので、何とかぶつからずに済んでいた。しかしリリーはライラックの素早い動きについていくので大変だった。それでなくても半日以上空中にぶら下がっているのは疲れるのだ。

「もっとゆっくり飛べないの?」リリーはヒステリックな声を上げた。

「ばか。これ以上ゆっくり飛んでいたら一週間はかかる」

 びゅうびゅうと唸る風の音で、ライラックの声を聞き取るのはかなり大変だった。リリーも、あと一週間こんな体勢を続けるのは嫌だったのでそれ以上速さのことについては口出ししなかった。

 さらに数時間経った頃、リリーたちの目の前に巨大な黄金の城が現れた。リリーには城に見えたが、本当のところは何なのかよく分からない。だがこんな大きな建物が城でなくてなんだというのだろう。

 その建物の放つ金色の光は、リリーにフランチェスカ指揮官のことを思い出させた。リリーはまたフランチェスカにずっと見張られているのではないかという恐怖感に襲われた。しかし、いくら人間界で大きな権力を握っているフランチェスカでも、天界までリリーをつけてくることはできないはずだ。昨日読んだ本に、人間は天界に入れないと書いてあった。しかし頭ではそうと分かっていても、背筋の凍るような感覚は拭いきれなかった。

「この建物は何?」リリーは気を紛らわせるためにライラックに聞いてみた。

「ゴールデンエンジェル家の屋敷だよ」

 ライラックは疲れたような声で言った。リリーだけでなくライラックにとっても長時間空を飛び続けるのは大変な仕事なのだろう。

「ゴールデンエンジェルの?」

 ずいぶん立派な屋敷だとリリーは思った。ディアマンテ城の十倍くらいの広さはある。けれど四大天使貴族の屋敷としては普通なのかもしれない。

「他の貴族のお屋敷は?」リリーは遠ざかっていく金色の建物を見つめながら言った。

「今ホワイトエンジェル家の屋敷に向かっている」

 ライラックの答えに、リリーは少なからず緊張した。

「ねえ、私なんて言えば……」

 リリーは言いかけたが、ライラックが右に急旋回したので危うく舌を噛みそうになった。

 ゴールデンエンジェル家の屋敷が他の建物に紛れて見えなくなってからものの五分と経たないうちに、今度は純白の建物がリリーの目の前に現れた。ライラックは急降下した。二人は広い庭の上を通り越し、白い建物の真正面に着地した。

「ここが……」

 リリーはまっすぐに目の前の屋敷を見つめた。

「ホワイトエンジェル家だ」

 リリーの心臓が早鐘を打った。ホワイトエンジェル家の屋敷は白い威厳の光に満ち溢れ、堂々とそこに建っていた。この偉大な屋敷の前で、リリーは自分がどうしようもなくちっぽけで頼りない存在に思えてならなかった。リリーは爪が手のひらに食い込むほどかたく手を握りしめ、ミルクのように真っ白なドアを叩いた。

「ねえ、言葉遣いとか、礼儀作法とか、ちゃんとしてなきゃだめ?」

 リリーは小声で聞いた。

「さあ……最近はそうでもなくなってきてるからな。ホップなんかいい例だ。あいつに対して敬語を使うようなやつは、世界中探したっていないと思う。それに、ホワイトエンジェル家の親子なんかしょっちゅう怒鳴りあいだ」

 リリーはほっとしてため息をついた。

「じゃあ――」

 リリーが何か言う前に、屋敷の扉が中から開けられた。出てきたのは白いエプロンをつけたメイドだった。背中に翼が生えている。

「どちら様でしょうか?」

「はい!」

 リリーは反射的に変な答え方をしてしまった。顔が熱くなるのを感じた。緊張でだんだん目が潤んできた。

「あ、あの、えーっと……私は……」

 リリーは戸惑った。この屋敷の天使たちは自分のことを知っているのだろうか?リリーは不安げにライラックを振り返った。

「ライラック・パーシヴァル・ド・シルバー。ボドワン殿にお取次ぎを」

 リリーの視線に気がついたライラックが後ろから答えた。

「かしこまりました。ではこちらへ」

 リリーが屋敷に入ってまずしたことは、しわだらけになっていたワンピースを伸ばすことだった。この立派な家の中にそんな格好で入ってはいけないと思ったのだ。リリーはもう少しましな服を着てくればよかったと少し後悔した。

 ドアを開けるとまずは玄関ホールがあった。すごく広い。しかも天井は二階まで吹き抜けになっていて、二階の部屋のドアが一階からも見える。床にも純白のカーペットが敷かれている。リリーはあまりの美しさに息を呑んだ。ディアマンテ城の華々しさとも似ているが、あの城とは違う上品さと優美さがこの屋敷にはあった。

「こちらでお待ちください」

 リリーとライラックは別の部屋に案内された。ここもまた広々とした部屋だった。リリーは純白の椅子に腰掛けた。別のメイドが紅茶と角砂糖を持って入ってきた。メイドは白いテーブルにティーカップを二つと砂糖つぼを置くと、丁寧にお辞儀をして部屋を出て行った。リリーは真っ白のティーカップを持ち上げてしげしげと眺めた。

「なにもかも白いのね」

「それがこの家の色だからだろう。家紋と同じようなものだよ」

 ライラックはまだ少し蒼い顔をしていた。リリーは尋ねた。

「ねえ、ライラックが空から落ちたのって、何歳くら……」

 突然バタンと部屋の扉が開く音がして、一人の天使が中に入ってきた。椅子の背にもたれかかっていたリリーは慌てて体を起こした。天使はリリーと同じブロンドの髪に碧の瞳、それに白い翼を持った男だった。天使はまずライラックを見つけ、その向かいに座っているリリーを驚きと興奮の入り混じったような表情でまじまじと見つめた。それから彼はゆっくりと視線をライラックに戻した。

「やあ、ライラック君。すまないね。君の家にもだいぶ迷惑をかけてしまった」

 男はそう言いながらリリーたちの座っているテーブルの方へつかつかと歩いてきた。

「いいえ。天使全員に関わる問題ですから」

 ライラックは素早く立ち上がると、近づいてきた男と握手を交わした。リリーもライラックを真似して立ち上がった。膝がテーブルに当たってティーカップがひっくり返った。

「それでは、そっちの、その子が…………?」

 男はもう一度リリーのほうに目を向けた。リリーは挨拶するべきか迷ったが、結局頭をわずかに傾けるだけにとどめた。

「はい、ポピーさんのお嬢さんです」

 ライラックはそう言ってリリーを紹介した。

「おお!」

 そう言って男はリリーのほうにつかつかと歩いてきた。リリーは今度こそ深々と頭を下げた。

「リリーだね。ライラック君から話は聞いた。私はポピーの父、ボドワンだ」

 リリーはボドワンの顔を見上げた。少し高い鼻、エメラルドの瞳。何もかもポピーにそっくりだ。だがどう見ても三十代くらいにしか思えない。きっと天使は人間よりゆっくり年をとるのだろう。

「あ、えっと、はい。初めまして。ボドワン……おじいさま?」

 リリーは少し迷ってから最後の一言を付け加えた。だが迷いが声に出たのか、語尾が少し上がってしまった。ボドワンは声を上げて笑った。

「いやー、しかし本当に、ポピーが戻ってきたような気分になるな。ああ、それは……」

 ボドワンはリリーのペンダント手を伸ばした。だがそれには触れずにまた引っ込めた。

「たぶん、私はそれに触れることはできないだろう。やってみたこともないけどな。いや、でも死ぬ前に一度触ってみようか。一体どんな災いが我が身に降りかかるのかな?」

 ボドワンはまた盛大に笑った。ちょっと悪戯好きな性格もポピーにそっくりだ。リリーは毎年エイプリルフールにはポピーに悪戯されるので、四月一日は家に帰ってきたらさっさとお風呂に入って寝てしまうことにしていた。それでも今年の四月には、ポピーがベッドの中にびっくり箱を入れていたので、リリーは結局ポピーの思う壺になってしまったのだ。リリーはボドワンと一緒にひとしきり笑った。

「気が合いそうだな」ボドワンは白い歯を見せてにっこり笑った。

「そういえば、あいつはどうした?ダニエルを呼んであったのだが。ああ、君」

 ボドワンはもう一つ紅茶を運んできたメイドを呼び止めた。

「ダニエルは今どこにいるのだ?」

「ダニエル様なら今ご自分のお部屋に……」

「何? 私のところへ来るように言ってあったのだが」

「それが、どうしてもやらなければならないことがあると……」

「ふんっ」ボドワンは大きく鼻を鳴らした。

「何が『どうしてもやらなければならないこと』だ。どうせまたろくでもないことを……」

 ボドワンはさっきと同じようにバタンと勢いよく扉を開けた。そして玄関ホールのところまで進むと吹き抜けになっている二階の天井に向かって怒鳴った。

「おい、ダニエル! 聞こえるか? 聞こえるなら返事をしろ――――」

 バタンとドアの開く音がして、二階から一人の少年が姿を見せた。きっと彼がダニエルだろうとリリーは思った。

「何だよ? うるさいなぁ」

 ダニエルはバルコニーのようになっている二階の廊下から一階のボドワンを見下ろした。

「こっちに来いと言っただろう?今すぐ下りて来い!」

 ボドワンは屋敷中に響くような声で言った。周りにいたメイドたちは慌てて耳をふさぐ。

「はぁ? 何だよ、父さんはいつも自分の心配ばっかりして! こっちの事情も少しは考えろよ!」どうやら叫んでいる少年はボドワンの息子らしい。

「事情って何だ?」

「……っと、締め切りが、近いんだよ!」ダニエルは視線を中に泳がせた。

「それは昨日も聞いた」ボドワンはダニエルを睨みつけた。

「何の締め切りだと聞いているんだ!」

「そっ……そんなの父さんに関係ないだろ!」

「そうか、関係ないのか。それなら下りてくるんだな。何かの締め切りが近かろうがなんだろうが、私には関係ないんだからな。さあ下りて来るんだ!」

 ダニエルはボドワンの勢いに押されて一歩後ろに下がった。それからあきらめたようにぼそりと呟いた。

「……学校の……レポートが」

「はっ!」ボドワンは勝ち誇ったように言った。

「これからはお前に家の仕事を手伝わせるから、宿題を減らすようにお前の担任に言っておいたからな。やる必要はない」

 ダニエルはなぜか急に青ざめた。

「何だ? 嬉しくないのか?」

「いや、もともと宿題が多かったから減らしたって普通だし……それに、僕の担任、怒ると怖いから……」

「何だ、怖いだと?そのくらいで怯えているようでは一人前の天使になれんぞ!」

「……ああ。でもやっぱりやらないと。成績落ちるし……」

「何、成績? そんなものは学校と教師による独断と偏見の産物だ。そんなものを気にしてどうする?」

 二人のやり取りを横で聞いていたリリーは目を見張った。ボドワンは貴族だし、やはり成績を誰よりも重視にすると思っていたのだ。しかしボドワンの言うことも間違っていないとリリーは思った。思い返してみれば、リリーも成績のことでポピーに怒られた記憶はあまりない。

 二人はその後も言い争っていたが、とうとうダニエルが折れたようで、玄関ホールへ下りてきた。

「まったく、この頑固息子め」

 ボドワンは笑顔のまま、ぶすっとしているダニエルの頭をくしゃくしゃと撫でた。実はこの喧嘩を楽しんでいたらしい。

「ほら、ちゃんとお客さんにあいさつしなさい」

 ダニエルは父親にそう言われるまでリリーたちの存在に気づいていなかったようだった。だが、ボドワンの背後に立っているのが誰だか分かると、目を輝かせて嬉しそうに駆け寄ってきた。

「ライラックさん、来てたんですか? ごめんなさい、見苦しいところを見せちゃって……」

「いや、別にいいけど」ライラックはそこで少し声のトーンを落とした。

「本当は部屋で何やってたんだ?」

「えっ? ばれてたの?」

 ダニエルはびくっとして後ろを振り返った。ダニエルの視線の先ではボドワンが手帳に何やら書き付けている。

「まあいいや、父さんにはばれてないみたいだし。じゃあ、今度ライラックさんだけに見せます」

 そういうとダニエルはリリーのほうを向いた。

「こんにちは、えーっと……」

 ダニエルの背後でボドワンがまた笑った。

「リリー、この悪ガキは私の息子、ダニエルだ。今、人間界の天候を操ることができるのはダニエルしかいないからな。暴風雨を止めるために今呼んできたんだ。ダニエル、こちらは昨日話したリリーだ」

「悪ガキはよけいだろ」ダニエルはぎろりと父親を睨みつけた。

「なんだ? 自分はいい子の優等生だとでも言いたいのか?」

「違うよ! それより、昨日の話って何だよ?僕は聞いてないぞ?」

 ボドワンはぽかんと口を開けた。

「何だって? 昨日話しただろう? ホワイトエンジェル家の全員に関わる話だから、この屋敷の半径五十キロメートル以内にいるホワイトエンジェルは、必ず来いと言っただろうが! おかげで散々文句を言われたが……」

「え?」今度はダニエルがぽかんとする番だった。

「あ、あれってそんな大事な話だったの? またいつもの説教かと思っ――」

「ばか者っ!」ボドワンは怒鳴った。

「もしこれで火事でも起きていたらどうするんだ。お前はそれでも部屋の中に閉じこもっているつもりだったのか?」

「……この二人って、いつもこうなの?」

 二人がワーワー言い合っている横で、リリーはライラックにこっそり聞いた。

「ああ。反抗期だな」ライラックは答えた。

「でも、おじいさまはあんまり怒ってなさそうだけど……」

「……とまあ、そんなわけで」

 ダニエルとボドワンはリリーたちのほうを振り返った。どうやら喧嘩は終わったようだ。ダニエルは信じられないという表情でリリーのことを穴が開くほど見つめていた。

「リリー、ダニエルをよろしく頼むぞ」ボドワンはリリーの肩をポンと叩いた。

「はい。…………え?」リリーは訳が分からなくて聞き返した。

「暴風雨を止めるんだろ?」ダニエルはぶっきらぼうに言った。

「うん! でも私、何をすればいいのか分からないんだけど……」

「こっち」

 ダニエルは、リリーに背を向けると玄関ホールの隅のほうへ歩いて行った。リリーは慌ててその後を追った。ホールの一番はじまで来ると、ダニエルは純白のカーペットの隅を持ち上げた。リリーはあっと息を呑んだ。

 カーペットの下から、小さな隠し扉が現れた。取っ手はついていない。床の白い大理石と同じような模様がつけられているので、ちょっと見ただけでは扉があるとは分からない。普段は上にカーペットが敷かれてあるのでなおさらだ。こんなところに隠してあるのだから、何か重要なものがあるに違いないとリリーは思った。

「ここは?」リリーはダニエルを見上げた。

「水を操る部屋だよ。実は僕も聞いて知っているだけで、入ったことはないんだ」ダニエルの口調はさっきよりとげとげしくなくなっていた。今は興味津々で足元の扉を見つめている。

「前ここの部屋で仕事をしていたセドリックさんに、中の様子は聞いたことがある。仕事の話もたくさん聞いた。だから大体は想像で分かるけど、実際に水を動かしたことは一度もないんだ。この扉、開けられないからね。取っ手がないからさ」

「じゃあ、昔はどうやって開けていたの?」

 リリーは少し不安になって聞いた。暴風雨を止めるどころか、部屋にさえ入れないということになったら、それこそ笑いの種になってしまう。

「ああ。それがね」ダニエルは期待に満ちた目でリリーを見つめた。

「セドリックさんは言ってたんだ。他の誰にも開けることができなくても、アリスにだけはこの扉を開けることができた、って。アリスっていうのは僕の母さんさ。昔のホワイトエンジェル家のリーダーだよ。だから、もしかしたら、リリーにはやり方が分かるかもしれない……」

「そんなこと言われても、さっぱり分からないわ」

 困り果てたリリーは、手で床の扉に触れてみた。その瞬間、扉はふっとどこかへ消え去った。

「え?」リリーは驚いて足元を見つめた。

 さっきまで隠し扉があったはずの場所には、地下へつながる暗いトンネルが伸びている。

「すごい!」ダニエルは目を輝かせた。

「なーんだ、簡単だったじゃないか。ただ触れるだけでよかったんだ! ああ、夢にまで見たこの謎の部屋に、とうとう入ることができるんだ! ひゃっほう!」

「ぐずぐずしてると被害が大きくなるぞ」ボドワンが声をかけた。

 リリーとダニエルはびっくりして振り返った。後ろでライラックとボドワンがこちらを見ていることを、すっかり忘れていたのだ。

「じゃあ、行こう。ああ、なんだかワクワクするな……」

 そう言うとダニエルは、トンネルの横に取りつけられている細いはしごを伝って、するすると下に降りていった。

「では、私はこのことを他の天使に知らせてくるとしよう。まあここに残ってみていたい気もするが、ここからでは何も見えないしな」ボドワンは腕を組みながら言った。

「おい、早くしろよ」地下からダニエルの声が上ってきた。

「あ、うん。じゃあ、行ってきます」

「幸運を祈る」

 ボドワンはリリーに背を向けると、嬉しくてたまらないといった様子で玄関ホールを出ていった。ライラックもリリーに親指を立てて見せると、ボドワンの後に続いた。

「リリー、生きてる?」トンネルからまたダニエルの声が響いてきた。

「死んではいないわ!」リリーは叫び返した。

「じゃあ早く降りてきてよ!」

 リリーは大きく深呼吸をすると、地下へと続くはしごをゆっくり降りていった。


 地下室は真っ暗だった。リリーは足元を確かめながらゆっくりと降りていったので、ダニエルに何度も急かされた。リリーはだんだん遠くなって行く玄関ホールの天井を見上げてため息をついた。

「早く!」ダニエルが今日だけで五度目の言葉を叫んだ。

「分かった!」リリーはあきらめて、一段飛ばしではしごを駆け下りて行った。

「あっ!」

 リリーは急いだせいでうっかりはしごを踏み外しそうになった。だが両手ではしごにしがみついたのでなんとか落ちずにすんだ。

「リリー?大丈夫?」下からまたダニエルの声がした。

「大丈夫よ。やっぱりゆっくり行ったほうがいいみたい。暗くてよく見えないんだもの」

 リリーは急いで体勢を整えた。

「ああ、そうか。ちょっと待ってて」ダニエルが言った。

 リリーは何が起こるのだろうと足元の暗闇を見つめた。しかし何も起こらない。リリーはまた一段ずつはしごを降りはじめた。すると、下のほうから柔らかい光がリリーの足元を照らし出した。最初は豆電球くらいの小さな光だったが、だんだんと広がっていきとうとうリリーの頭の上まではっきり見えるほどになった。下を見下ろすと、ダニエルの姿が小さく見えた。もうトンネルの終わりまでそう長くはないだろう。リリーははしごを二段飛ばしでするすると降りていった。

 はしごを降りた先には、廊下のような通路がどこまでも続いていた。暗いので良く見えないが、けっこう長そうだ。

「一体何時間かかったんだよ」リリーが下につくなり、ダニエルが文句を言った。

「さあ。十分の一時間くらいかしら?」

 リリーは上の空で答えた。それよりも自分たちを照らしているこの光のほうが気になっていた。

「この光、ダニエルが出したの?」

「そうだよ。それ以外に誰がいるんだ?もしかして僕の後ろに怪しい奴でもいるのか?」

「どうやって出したの?」リリーは目をキラキラさせて聞いた。

「どうやって、って……普通できるだろ?」ダニエルは困惑顔で言った。

「私、魔法を使ったことがないのよ」リリーは言った。

「え、使ったことないの?なんで?」ダニエルは目を丸くした。

「ああ、でもそのほうが幸せかもしれない。学校の魔法の授業がどれだけ面倒くさいことか !まあ、実技は楽しいけどね。でもさあ、魔法理論のテストなんてやった日には死ぬぜ!」

「学校で魔法の授業なんてやるの? 知らなかったわ!」リリーは目を輝かせた。

「いいなあ……私なんて数学とか電流とか、そんなのばっかり」

「数学は僕たちもやるよ」ダニエルは憂鬱そうに言った。「でも、やっぱり一番難しいのは魔法理論だよ。理論が通用しない相手にわざわざ難しいこと言わなくたっていいのにさ。それにしても、魔法を使ったことがない人がいるとはなぁ……」

 リリーは肩を落とした。数日前までのリリーにとって魔法とは、夢と想像の中でしか使うことのできない存在だったのだ。まるで自分は落ちこぼれの生徒みたいだ、とリリーは思った。

「ああ、やっぱりあの時コメットに魔法一つぐらい教わっておけばよかった。魔法ってとっても便利なのね……」リリーは少し後悔した。

「コメットって誰?」ダニエルが聞いた。

「うーんとね、私が今ここにいるのは、もともとはコメットとライアンのせいなのよ。私はもともと、魔法の存在しない世界に住んでいたの。それでね――――」

 リリーはダニエルに、歩きながらこの三日間で自分の身に起こったことを話して聞かせた。ポピーと間違えて知らない場所に連れてこられたこと。そこで知った自分の正体、人間の戦争と天使のこと。

「じゃあ、ポピーさんもそのパラレルワールドに住んでるんだ。僕たちホワイトエンジェルは、もう十五年間もポピーさんの居場所を探し続けていたんだぜ。僕はもう死んじゃったのかと思ってたよ。でもまさかそんなところにいるなんてなあ」

「ええ。でも私、分からないの。なぜお母さんがホワイトエンジェル家を飛び出してきたのか。叔母さんと喧嘩した、って話は聞いたことがあるんだけど……。ダニエル、知ってる?」

「うーん」ダニエルは考え込むような顔をした

「僕はまだその頃生まれていなかったからよく分からないけど。聞いた話だと、十五年前、ポピーさんとルイーズって人の間で権力争いがあったらしいんだ。もちろん、ホワイトエンジェル家の正当な跡継ぎはポピーさんだったはずなんだよ。でも、ルイーズっていうホワイトエンジェルが――彼女は、僕の母さんの妹なんだけど――母さんが死んじゃった後でなぜか急にでしゃばってきて、ホワイトエンジェル家のリーダーになるためにポピーさんを無実の罪で訴えたんだ。その後ポピーさんは突然姿を消した。家宝のペンダントを持ったまま。僕の父さんがルイーズの言っていたことは全部嘘だったってばらしちゃったから、彼女は全部の天使から非難されるようになった。結局ルイーズは伝染病にかかって死んじゃった。まあ、自業自得だろ」

 リリーは何も言わずに黙ってその話を聞いていた。口を開く気になれなかったのだ。ポピーとは十二年間親子として、同じ屋根の下で暮らしてきたはずだった。ポピーからはリリーが生まれる前の話も何度か聞いたし、彼女のことはそれなりに理解しているつもりだった。しかし、自分は何も分かっていなかったのだと、リリーは思い知らされた。生まれたときからずっとポピーと一緒に暮らしてきたリリーよりも、何年も会っていないダニエルのほうが、ポピーについて知っていたことが、リリーにはショックだったのだ。

 廊下は永遠に続くのではないかと思われるほど長かった。リリーとダニエルは無言のまま歩き続けた。二人の足音だけが暗い廊下の中で静かに響く。リリーは、足元でゆらゆらと不気味にゆれる二つの影をぼんやりと眺めた。色々な考えが、リリーの頭の中を次々に駆け巡っていった。お父さんはこのことを知っていたのだろうか?それとも、お父さんも天使だったの?なぜお母さんは自分が天使だと話してくれなかったのだろう。

 リリーはそのことが一番悲しかった。話してくれてもよかったのに。リリーは頭を振った。もうやめよう、考えるのは……。そのかわり、家に帰ったら真っ先に、なぜ教えてくれなかったのかとポピーに聞こう。リリーはそう胸に誓った。

「ここだ!」

 ダニエルの興奮気味の声が聞こえて、リリーは顔を上げた。二人の目の前に、白い扉が立ちふさがっていた。上のほうに百合の紋章が彫ってある。

「これは何かしら?」リリーは手を伸ばしてドアに彫られた百合の花を指でなぞった。

「ホワイトエンジェル家の家紋だよ」ダニエルが言った。

「そうなの。まるで王家の紋章みたい」

「あれは昔の王様が、僕たちホワイトエンジェルの紋章を真似しただけなんだよ」

 そう言ってダニエルがドアノブを回すのを、リリーはじっと見守っていた。ダニエルはゆっくり扉を押した。しかし扉は、ドンと鈍い音を立てただけで、開こうとはしなかった。

「押してだめなら引けってことか?」

 しかし、引いてみても扉は頑なに開こうとしない。リリーがやっても同じことだった。

「ちくしょう、どうなってるんだよっ」ダニエルは扉を思い切り蹴飛ばした。

「鍵がかかっているのよ」リリーはドアノブの少し上にある、小さな鍵穴を指差した。

「本当だ。それで開かなかったのか」

「ダニエル、鍵、持っているの?」

「えっ、僕……待てよ、持ってるかもしれない!」

 ダニエルはがさごそとポケットを探った。彼はポケットに入っている他の色々なものをリリーに見られまいと苦労して、鍵の束を取り出した。

「セドリックさんが、一昨年この仕事を辞める前に僕に預けたんだ」

 ダニエルは十個以上ある鍵を、順番に鍵穴に差し込んでいった。七つ目の鍵を差し込んだ時、カチリと澄んだ音がして鍵が開いた。

「やった、開いたぞ!」

 ダニエルはもう一度ドアを引いた。リリーはワクワクしてドアを見つめた。だがそれでも扉は開かない。

「あれ、おかしいな……」

 ダニエルは扉をガタガタとゆすった。しかし何も起こらない。

「貸して。私がやってみる」

 今度はリリーがドアを引こうとした。すると、リリーがドアノブに触れた瞬間、さっきの隠し扉と同じようにドアは跡形もなく消え去った。ダニエルは目を丸くした。

「ああ、リーダーの特権か。さっきの隠し扉も僕には開けられなかったし」

 ダニエルはがっかりしたような顔をした。リリーは慌てて言った。

「とりあえず、中に入ってみましょうよ」

 しかし言ってみたのはいいものの、この先に進む勇気はリリーになかった。扉の向こうは真っ暗闇で、本当に何も見えなかった。ダニエルが作った魔法の光も、ドアの向こうの闇に吸い込まれてその先を照らし出すことはできなかった。なんとなく不気味な雰囲気が漂っている。

「ダニエル、先に行って見てきてよ」リリーは一歩後ろに下がって言った。

「ええっ、何で僕なんだよ? そこはレディー・ファーストだろ?」

 ダニエルも怯えたような声を出した。リリーは首を振った。

「だって私、中がどうなっているのか分からないもの。ダニエルは知ってるんでしょ? そのセドリックさんとかに聞いたんじゃないの?」リリーは必死で理由を探して言った。

「まあ、それもそうだな……」ダニエルは言い返すことができないようだった。

「お願い!後で何でも言うこと聞くから!」

 ダニエルは黙って行く手の暗闇を見つめた。リリーははらはらしてダニエルの答えを待った。

「……分かったよ。仕方ないな、行ってやるよ!」ダニエルは渋々承知した。

「ありがとう」

 リリーは安心してその場にへなへなと崩れ落ちた。昔から暗いところはあまり得意ではないのだ。

 ダニエルはそろそろとドアの向こうへ進んで行った。ダニエルの姿が暗闇に飲み込まれていくのを、リリーはその場にうずくまったまま静かに見守っていた。やがて、ダニエルの姿は完全に見えなくなってしまった。リリーは立ち上がって、闇の中に呼びかけた。

「ダニエル、大丈夫?」

「真っ暗で何も見えないよー!」ダニエルの声が遠くからかすかに聞こえてきた。

 リリーはそこに突っ立ったまま考えを巡らせた。もし自分もこの暗闇の中へ入っていって、そのまま二人とも出てこられなくなったら……。考えただけでも恐ろしい。カーペットの下の隠し扉は、リリーにしか開けられない。誰もリリーたちのことを助けに来ることはできないのだ。

 しかし、リリーは自分の周りがだんだん暗くなってきていることに気がついた。ダニエルの作り出した光の余韻がまだ少しリリーの周りにも残っていたが、やがてこの光も消えてしまうだろう。そうなったら、リリーも玄関ホールまで戻れるのかどうか分からない。

 リリーは頭を抱えた。ダニエルの後に続いてこの不気味な空間に進むか、それとも暗闇の中玄関ホールまで戻って助けを呼ぶか。

 その時、ドアの向こうから悲鳴が上がった。リリーは飛び上がった。

「ダニエル? どうしたの?」リリーは暗闇に向かって精一杯大きな声で叫んだ。

「リリー、早く来て!」ダニエルの慌てたような声が返ってきた。

「一体何があったの?」

「いいから、早く!」

 すでにリリーの心から迷いは消え去っていた。リリーは覚悟を決め、暗黒の空間へと足を踏み入れた。


「……あれ?」

 リリーがドアの向こう側へ入った瞬間、今まで暗闇だったはずの場所が一転して眩しいほどの白い光で満たされた。リリーは目が光に慣れるまではまともにものを見ることすらできなかった。リリーは目を覆った指の間から、恐る恐る部屋の中を見回した。

 そこは、白い円形の部屋になっていた。部屋の中央部には何か模型のような、重要そうな物が置いてある。その他にも、リリーには何なのかよく分からない器具や薬品のようなものが目に入った。だがそれらを見るのは後回しだ。リリーはダニエルの姿を探した。だが部屋の中の物が多すぎて、ダニエルの姿はまるで見当たらない。リリーは呼びかけた。

「ダニエル、どこにいるの?」

「ここだよ!」

 リリーは声のしたほうに向かって恐々近づいていった。ダニエルが悲鳴を上げたのだから、何か恐ろしい罠でも仕掛けてあったのかもしれない。しかしリリーがゆっくりと歩き始めても、特に何かが起こる気配はなかった。リリーはそれでもあくまで慎重に、部屋の中央部に足を進めた。

「リリー?」

 ふいに、部屋の中央に置かれた模型の影から、ダニエルが顔を覗かせた。

「ダニエル! なんだ、びっくりしたじゃない。急に悲鳴なんか上げるから――」

「そりゃあびっくりするよ! 暗闇で急にこんな風にされたら――」ダニエルが抗議した。

「こんな風ってどんな風?」リリーは聞き返した。

「こんな風さ!」ダニエルは自分の足元を指差した。

 リリーは面食らった。ダニエルの足に鎖がぐるぐる巻きになっているのだ。

「何なの、これ? ダニエルが自分でやったの?」

「僕がやる訳ないだろ! 僕に聞くなよ。急にどっからか湧いてきたんだ」

 リリーはその鎖をほどこうと手を伸ばした。リリーが鎖に手を触れると、鎖はまたもや溶けるようにどこかへ消えていってしまった。

「ありがと」ダニエルは足をさすって顔をしかめた。

「何であんなことになったの?」リリーは聞いた。

「さあ、僕にも分からないよ。でもたぶん、リリーがいない時に勝手に入っちゃいけなかったんだよ」ダニエルは大げさにため息をついた。

「それに、君が入ってきたら急に部屋が明るくなったじゃないか。結局、リリーが先に入れば良かったんだよ。まったく、暗闇の中で急に何かが足に巻きついてきたらどんな気持ちがするか、考えてもみてくれよ。……たぶん五年分くらい寿命が縮んだな」

「ごめん。全然知らなかったから」リリーは申し訳なさそうに言った。

「いや、もういいよ。過ぎたことだし」ダニエルは立ち上がって周囲を見回した。「それより、早く暴風雨を止めないと、だよな。僕たちがこうしてしゃべっている間に犠牲者が出たら困るし」

「うん」リリーはダニエルにそれほど責められなかったので少しほっとしていた。

「ダニエル、どうやればいいのか分かるの?」

「うーん」ダニエルは鍵の束を指でくるくる回しながら言った。

「セドリックさんに教えてもらったけど、やったことはないからなあ……。でも、やるしかないだろ」

 ダニエルはまたがさごそとポケットの中を探って、今度は小さなノートを取り出した。

「いつでも見られるように、ここに書いておいたんだ」

 ダニエルは誇らしげに、リリーの目の前へその小さなノートを突き出した。それからぱらぱらとページをめくって、何かをぶつぶつと呟いた。

「……えーっと、『人間界の窓』ってのは……これだろ。それから、戸棚の上から二段目、右から三つ目の箱……」

 ダニエルは部屋中を走り回って、仕事に必要なものをかき集めてきた。それから、集めてきたものを使って、模型のような物の周りに不思議な模様を描き始めた。どうやら魔法陣の一種のようだが、リリーが目にしたことのある移動用の魔法陣とは全く違うものだ。リリーは一度、手伝おうかと申し出てみたが、かえって迷惑だからとダニエルは断った。そこでリリーは部屋の隅で、ダニエルのすることの一部始終を、おとなしく座って眺めていた。

「……よし、準備完了だ」

 三十分以上経った後、ダニエルはようやくそう言った。リリーは立ち上がると、ダニエルの建っている部屋の中央へ駆け寄った。

「これは、『人間界の窓』っていうんだ」ダニエルは模型を指差した。

「ここから人間界の様子を見ることができる」

 リリーは人間界の窓を覗き込んだ。細かいところまでよく作られた、人間界の縮小模型だ。リリーの元いた世界とよく似ている。今までこの世界の地図や模型という物を見たことがなかったリリーは、少なからず驚いた。

 淡い碧色の海の上には、大きく分けて三つの大陸が浮かんでいる。それぞれの大陸の名前が、模型の上で煙のように漂っていた。一番西の小さな大陸はセレネ。真ん中の巨大な大陸はデメテル。そして、最も東がアポロだ。リリーはデメテル大陸の上に『グラナート』『ディアマンテ王国』という文字が漂っているのを見つけた。どうやら、グラナートやディアマンテは、このデメテル大陸に存在しているようだ。

「えーっと、そうしたら……どうすればいいんだ?ああ、そうだ。これは昔セドリックさんと一緒に練習したやつだ……」

 ダニエルは、人間界の窓の周りに自分で描いた円の上に立つと、リリーには全く理解できない言葉で呪文を唱え始めた。リリーは初めのうち、ダニエルが発する言葉を何とか聞き取ろうと耳を傾けていたが、さっぱり分からないので途中でやめてしまった。

 かわりにリリーは人間界の窓の様子をじっと観察した。まるで空から全世界を見下ろしているみたいだ、とリリーは思った。人間界の窓はどんなに細かいところまでも、限りなく精密に作られている。普通の人間にこのようなものを作ることは不可能に近い。

 リリーはディアマンテ王国の中心に、黄金のディアマンテ城が輝いているのを見つけた。この広い大陸じゅうをみても、これほど強い輝きを放っている建物はごく少数だ。大陸中の城を見てまわっても、ディアマンテ城ほど豪華で巨大な城は珍しいだろう。しかし、そのディアマンテ城でさえ、全世界(この場合リリーの元いた世界は含まないが)から見れば、ちっぽけなものだ。ちょっと手を突っ込めば簡単に握りつぶせてしまいそうだ。もちろん、リリーはそんなことを本気でやろうとはちっとも思わなかったが。

 そうこうしているうちに、ダニエルは呪文を読み終えた。それと同時に、人間界の窓の中に、白い雲が目に見える形で現れた。リリーが見ていると、雲はディアマンテ城より少し西の辺りに雨を降らせた後、目にも止まらぬ速さで去って行った。その後も、雲は消えたり現れたりを何度も繰り返す。雨が降ると、その水は川に流れ込み、海へと消えていく。所々で洪水が起こっているのもリリーは二、三回見かけた。

「過去十五年間の雲の動きだよ」

 ダニエルもリリーと同じように、じっと人間界の窓を見入っていた。

「うわ、ひどいな……」

 やがて雲の動きはだんだんゆるやかになり、とうとう止まったように見えた。実際には完全に動きがなくなったわけではなく、現在の人間界と同じスピードで動いているだけだ。しかし、十五年間の様子をわずか五分程度に早送りで見てしまったリリーやダニエルにとっては、ほとんど止まっているようにしか見えなかった。

 グラナート北部の上空に目を向けて、リリーはぎょっとした。黒い巨大な雨雲が、そこでぐるぐると渦を巻いていたのだ。雲が時折白く光って見えるのは、雷だろうか。

 セピア通りは、グラナート南部のセピア地方――つまり、比較的ディアマンテに近いところに位置する。だから雨もそれほどひどくはなかったが、ライラックの言っていたとおり、もっと北の地域では大きな被害が出ているようだ。今まで見てきた十五年間の中でも、何度か洪水は起こっているようだったが、今回はその比ではない。リリーはグラナートから目を離し、もっと南部の国々に視線を移した。こちらの方にはほとんど雲がない。ましてや雨など少しも降っている様子はないのだ。五分前に人間界の窓を見たとき(つまり十五年前)には青々としていた草原が、干からびて砂漠と化している。

「うーん、そうだなあ……」

 ダニエルもリリーと同じように、グラナートの雨雲と南部の砂漠を交互に見比べていた。

「じゃあ、この辺の雨雲を――」ダニエルはグラナートの上にある黒い雲を指差した。

「――こっちに移すっていうのでいいかな?」ダニエルは砂漠の上で手をひらひら振った。

 リリーは目を瞬いた。

「ううん、別に、私はいいと思うけど……なんで私に聞くの?」リリーは首を傾げた。

「一応、当主様の許可は取らないとね。今度は天井からナイフが落ちてきました、なんてことになったらたまらないよ」

「えっ、ナイフ?」

 リリーはぎょっとして思わず天井を見上げた。そんなリリーを見て、ダニエルは声を上げて笑う。

「冗談だよ、冗談!」

「なんだ、そうだったの。本気にしちゃったじゃない」リリーは胸をなでおろした。

「悪かったよ、変なたとえで。それより、こっちを早くやらないと」

 ダニエルは再び人間界の窓の方を見た。

「僕たち、時間がかかり過ぎているよ。もう地下に降りてから確実に一時間半は経ってる」

 リリーは自分の腕時計に目をやった。なんと、六時数秒前で止まっている。

「あれ?」リリーは首をかしげた。

「おかしいわ。この前電池を換えたばかりなのに……」

「デンチって何?」ダニエルは眉をひそめて聞き返した。

「時計を動かすものよ」リリーは説明するのが面倒くさいので、曖昧に答えておいた。

「そういえば、セピア通りの時計塔はどうやって動いていたのかしら? グラナートに電気はないはずなのに……」

「はぁ? 動かない時計だったら意味がないだろ。それに、時計はちゃんと動くように時計技師の人が魔法をかけるから動くんじゃないの?」ダニエルはごく普通の調子で言った。

「へぇ、そうなんだ!」

 リリーは驚いた。魔法で時計を動かすことができるとは思ってもみなかったのだ。

「でも、下手な時計技師が作った時計は、一ヶ月も持たないよ。すぐに止まったり壊れたりするんだ」ダニエルは親切に説明した。

「僕の腕時計は産まれた時にもらったから、もう十五年は確実に経っているけど、まだちゃんと動いているよ。ルノー・エロワっていう、有名な時計技師が作ったやつだからね」

「じゃあ、ダニエルは十五歳なのね。私より三つ年上だわ」

「ああ、そうだな」

 ダニエルは再び小さなノートを開いた。指で文字をなぞって読んでいる。

「えーっと、雲を分散させる……あった、これだ」

 ダニエルはノートの同じ場所を二、三回読んで頭に入れると、ノートをポケットに戻して、人間界の窓のほうへ向き直った。

「ここで見ていてもいい?」リリーはダニエルに聞いた。

「うん、いいよ」

 ダニエルは軽く頷くと、グラナート上空に手をかざした。リリーは何が起こるのかとドキドキしてその様子を見つめていた。だが、しばらくの間、何も起こらなかった。

 リリーはだんだん心配になってきた。しかしダニエルは真剣な表情だ。リリーは辛抱強く雨雲を見つめ続けた。

 すると、一時でも意識がそれてしまっては分からなくなるほどゆっくりと、渦を巻いていた雲が千切れていった。一つの大きな黒い雲は、まず二つに、それから幾つもの小さな雲になって、デメテル大陸の上を飛んでいく。

「よかった……」

 リリーはほっとしてダニエルを見上げた。ダニエルはまだ雲に神経を集中させている。まだ仕事は終わっていないのだ。ダニエルは、グラナートの上に置いていた手を、ゆっくりと大陸の南側へ移動させていった。細かい雲たちが、ダニエルの手の方向へおとなしくついて行く。

 リリーは黙ってその様子を眺めていた。


        *        *        *


「あら、どうしたのかしら」

 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨を降らせ続けていた雨雲は、目に追えないほどの速さで空を駆け抜けていっていた。セピア通りの花屋「イリス」の二階から、エレオノラは狐につままれたような顔で、呆然と空を眺めていた。

 グラナート北部の町、アベーテでは、すでに百二十世帯が暴風雨による被害を受け、非難していると聞いた。各地で洪水も起こっているようだ。

 それほどまでに暴れまわっていた雨雲が、いっせいに表情を変えてグラナートを離れていくのだ。一体、どうしたというのだろう。

「ディモルに言わなくちゃ。どこにいるのかしら? ……あら、そういえば下でお花のお世話をしてくれているのだったわ。ディモル!」

 エレオノラは窓に背を向け。一階の花屋へと繋がる階段を駆け下りた。

「あなた、空を見て! 雲が――――」

 エレオノラは花屋に入るなりそう叫んだ。今日の店は休みなので、客に聞かれる心配もなかったが、もし開店中にこんな失敗をしてしまったらと思い、慌てて口を閉じる。

 ディモルはエレオノラに言われる前から窓の外を見上げていた。彼は、エレオノラが下りてきたことに気がつくと振り向いた。エレオノラは夫のところへ駆け下りていった。

「どうした、エレオノラ?」ディモルが言った。

「雲が、南へ流れていくわ。すごい速さで。なぜかしら?」

 ディモルはじっと鉛色の雲を見つめた。

「リリーだ……」

「え? 何?」エレオノラは聞きかえした。

「きっと、天使のおかげだろう」ディモルは言い直した。

 エレオノラはぱっと顔を輝かせた。

「まあ!じゃあ、天使は私たちのことを見捨てないでいて下さったのね!良かった」

 エレオノラはほっと安堵の息をついた。

「この二ヶ月間、本当に毎日雨の日ばかりでとても困っていたのよ。洗濯物が乾かないし、野菜の不作で食べ物の値段が上がるでしょう。だから、一昨日やっと晴れたときはとても嬉しかったの。ようやく夏らしくなったと思って。でも、昨日からは暴風雨でしょう。私、もしかしてグラナート国は天使に見捨てられたんじゃないかと思って、心配で心配で……いつディアマンテから攻めてこられるかも分からないのに……」

 ディモルは優しく微笑んだ。

「大丈夫だよ。もう心配しなくていい。それより、アベーテの人たちの無事を祈ろう」

 荒れ狂っていた空は、ほんの数十分で澄み切った青空に変わった。ディモルとエレオノラは二人並んで明るい空を見上げていた。他の家からもたくさんの人々が窓の外を見上げ、指差し、囁きあう。また、すっきりと晴れた、この国の夏が戻ってくる……。

 どの窓からのぞく顔も、今の空と同じように、希望と期待に満ち溢れていた。



       *       *       *



 雲を大陸の端まで移動させるのに、結局六時間以上かかった。リリーはへとへとになったダニエルを支えて、やっとの思いで部屋から出た。だが、部屋から出た瞬間、辺りは真っ暗になった。ホワイトエンジェル家の家宝を持つリリーが部屋から出てしまったので、部屋から明かりが消えたのだ。リリーは思わず息を呑んだ。

「どうしよう、ダニエル?また光を出せる?」

 リリーは半分眠りかけているダニエルにすがる思いで聞いた。

「えー?僕、もう魔法使いたくないよ。ここで一回寝てから帰ろうよ……」

 ダニエルは寝ぼけて言った。

「だめよ。こんな寒いところで寝てたら風邪を引くもの」

 リリーは頭を抱えた。ダニエルが光を出してくれなければ前へ進めない。リリー一人だけなら手探りで進むことができたかもしれないが、ダニエルを支えながらでは無理だろう。しかし、ここでダニエルが回復するまで待っているというのもなんだか怖い。こうなったら、採るべき道は一つしかない。

「もう、いいわよ。私が光を出すから」リリーは覚悟を決めた。

「どうやってやるのか教えて」

 リリーはドキドキしながら答えを待った。さっきダニエルに聞いたときは、そんなに詳しく教えてもらえなかったのだ。

 しかし、ダニエルは何も答えなかった。どうやら眠ってしまっているようだ。リリーは、やっぱりコメットに光の魔法を教えてもらっておけば良かったと後悔した。

「っとね……んばぁす……」ダニエルがむにゃむにゃと言った。

「え?何?」

 リリーはダニエルに聞き返した。しかしダニエルはまた静かに寝息をたてはじめている。どうやら寝言だったようだ。リリーはダニエルの体を思い切り揺さぶった。

「ダニエル!起きて、教えてよ――」

 ダニエルはバチッと目を開けると、間髪入れずに言い返した。

「だから、アンバースだってば!」

 リリーはダニエルが突然大声を出したので思わず後退りした。

「なんだ、起きてたの……」リリーはため息をついた。

「アンバース、って何?」

 ダニエルはうんざりしたような顔をした。

「だから、光を出すための呪文さ。もう何年も呪文なしでやってたから、思い出すの大変だったんだぞ……」ダニエルはそれだけ言うとまたすぐに眠ってしまった。

「ふーん。アンバース、ね。変な呪文……」

 リリーは何度か声に出してその不思議な呪文を唱えてみた。しかし何も起こらない。

「リリーさ、ちゃんと光を出そうとしてないだろ?イメージしないとだめだよ。みたいなことを、昔父さんが言ってたな……」ダニエルは目を片方だけ開けて言った。

「はい、ダニエル先生」

 リリーは目を閉じて、自分が明かりを手に持っているところを想像してみた。これは、さっきダニエルが光を出すところを見ているので、意外と簡単だった。問題は。このイメージを現実にできるかどうかだ。

「アンバース」

 リリーの手のひらからほんの一瞬、暖かい光が漏れた。しかし、それはまたすぐに消えてしまった。リリーはつかの間喜んだが、その気持ちは見る見るうちにしぼんでいった。

「あっ……今一瞬できたのに……」

「イメージが小さすぎるんだよ。もっとスケールをでっかく、真夏の真っ昼間みたいなイメージを持たないと。ただでさえイメージの十分の一くらいしかできないんだから」

 横からダニエルが言った。

 リリーはダニエルに言われたとおり、もっと壮大な光が、自分の見渡す限りを全て満たしているような光景を想像しようとした。真っ先にリリーの頭に浮かんできたのは、大きな向日葵畑に、白い太陽の光がさんさんと降り注いでいるところだった。リリーは自分に言い聞かせた。私は今、夏の向日葵畑にいる。遠くで輝く太陽の明るい光を、両手を広げて仰ぎ見ている――――

「アンバース!」

 リリーは、真っ暗だったまぶたの裏に、向日葵色の明るい光が映るのを感じた。目を開けると、リリーの手のひらが放つ光が、廊下の数十メートル先までを鮮やかに照らし出していた。隣で寝ていたダニエルも体を起こした。リリーの作り出した強烈な光のおかげで目が覚めたようだ。

「リリー」ダニエルはまるで幻か何かを見るような目つきでリリーに問いかけた。

「君、初めて魔法を使ったんだよね?」

「そうよ。そんなことで嘘をついたって意味ないじゃない」

 リリーがこれほどまでに大きな光を作り出したことには、リリー自身が一番驚いていた。初めて魔法を使ったことに対するショックと感動で、リリーの体は少し震えていた。リリーは自分を落ち着かせようと、深く息を吸ったり吐いたりを繰り返していた。

「じゃあ、僕もリリーも今日は新しく何かを始める日だったんだな。おめでとう、リリー」

 ダニエルはどこか挑戦的な目つきでリリーに言った。リリーも笑顔で言葉を返した。

「ありがとう。ダニエルも、お仕事お疲れ様」

「うん、疲れた。早く寝たい」

 ダニエルは欠伸をした。リリーはダニエルが眠らないうちに戻らなければと、慌てて廊下を歩き始めた。ダニエルもよたよたとその後をついてきた。

 だが、二人が歩き始めて五分と経たないうちに、地上へ繋がるはしごが二人の目の前に現れた。リリーは面食らった。数時間前このはしごを降りてきたときは、ここから人間界の窓のある部屋まで何十分もかかったはずなのだ。

「さっきはもっと遠かったわよね?」リリーは確かめるように聞いた。

「ああ。きっと、十五年間もほったらかしにしてたから、部屋が怒ってたんだよ。だけど今日僕たちが仕事を再開したから、また廊下を短くしてくれたんだ……」

 ダニエルの説明は明らかにおかしいのに、なぜか説得力があった。この世界では部屋や廊下も自由に意思をもてるのかもしれない、とリリーは思った。もしかしたら、科学界の部屋や廊下も実は色々なことを考えていたのかもしれない。

 リリーはダニエルの後に続いてはしごを登っていった。リリーはずっと薄暗い地下室にいたせいか、地上がやけに懐かしいものに思えてきた。まだホワイトエンジェル家へ足を踏み入れた時から十時間ほどしか経っていないのに、もう何年もここで過ごしてきたような気分になる。

 二人は無言のまま長い長いはしごを登り続けた。リリーが出した光のおかげで、来る時よりは短く感じたが、それでもリリーたちを疲れさせるには十分な長さだった。

「もう嫌だ!」終わりまで後十メートルというところで、ダニエルが喚いた。

「疲れたよ!はしごはまだ僕たちのことを許していないみたいだ……」

「ダニエル、もうちょっとだから!」リリーは頭上を見上げた。

「ほら、もう扉が見えるから……」

「早く部屋に帰って寝たいよー」

 ダニエルはまたぶつぶつ言いながら、はしごの最後の数十段を登りきった。リリーはとりあえずダニエルがはしごの途中で眠ってしまわなかったので安心した。

「リリー、早く扉を開けてよ」

 上からダニエルの文句が降ってきた。リリーは慌ててはしごを登った。

「ちょっと待ってて。今開けるわ」

 リリーはしたから手を伸ばして扉に触れた。すると、入ったときと同じように扉は消え去った。ダニエルはまるでマラソンを完走した選手のように疲れきった様子で穴から這い出ていった。

「ああ、疲れた……もうやだ……」弱々しい声が、穴の外から聞こえてきた。

 しかし、ダニエルのぶつぶつ言う声は、玄関ホールからの大歓声に飲み込まれてしまった。リリーも何事だろうと素早く穴から抜け出した。リリーが玄関ホールへ出た瞬間、地下への扉はまた最初と同じように塞がれてしまった。リリーは自分の足元で、ダニエルが力尽きたように倒れているのを見つけた。

「帰ってきた!」

「おい、帰って来たぞ!」

 玄関ホールには、たくさんの天使たちがひしめき合っていた。貴族らしい優雅な衣装や、色とりどりのドレスに身を包んでいる天使たち。全員が白い翼に碧色の目をしている。みんなホワイトエンジェル家の天使だ。

 興味津々でリリーたちの方へ近づこうとするホワイトエンジェルをかきわけ、一人の男がリリーたちの目の前に飛び出してきた。

「ダニエル!」

 男はリリーの横で眠りこけているダニエルを床から引き離すと、がたがたと揺さぶった。

「ダニエル、やったな! まさか俺が生きている間にお前がやってくれるとは……! 正直俺は、もうこの家はだめなのかと諦めかけていたんだ……。本当によくやったよ。俺の人生の中で、最高の瞬間さ。いや、それはないか」

「セ、セドリッ……クさん?」ダニエルは目を閉じたまま寝ぼけた声を出した。

「あれ?遠くに行ってたんじゃないの?」

「戻ってきたんだよ。昨日、同じ所の研究者たちに話をつけてきて、今日は一日中飛びっぱなしだった」

 玄関ホールに散らばっていたホワイトエンジェルたちは、いつの間にかリリーたちの周りに集まってきていた。全員の目がリリーとダニエルの方を向いている。そして、その中からまた一人の男が飛び出してきた。ボドワンだ。

「ああ、ダニエル、わが息子よ!」ボドワンはセドリックの腕からダニエルを奪った。

「父さんはお前が生まれてから今までで、これほどお前を誇りに思ったことはないぞ!

「父さ……ん?」

 ダニエルは目をこすりながら言った。目の前にセドリックとボドワンの顔を見つけると、ダニエルは顔をほころばせた。

「父さん……セドリックさん……僕、やったよ……」

「よしよし。よくやったから、まだ寝るな」

 セドリックはそう言ってダニエルを立ち上がらせた。ボドワンは玄関ホールの天使たちに向かって、パンパンと手を打った。ざわざわとしていたホワイトエンジェルたちは、一斉に口を閉じた。ボドワンはコホンと咳払いをした。

「えー、昨日、今日と私からの緊急招集に応えてくれてありがとう。昨日も話したように――昨日来られなかった者もきっと他の者に聞いていることとは思うが――わがホワイトエンジェル家は、この十五年間、当主のいない状態が続いてきた。私の娘……本来ならこの家の跡を継ぐはずだったポピー・ジョヌヴィエーブが牢獄の中で姿を消してから……。これ以上探しようがないというほど天界も人間界も隅々まで探し回った。しかし、ポピーは見つからなかった。私たちホワイトエンジェル家の人間はもうあきらめかけていた。二度とわが家にあのような時代が戻ってくることはないのかと。しかし、あきらめるのはまだ早い。ポピーの居場所を突き止めてくれた者がいるのだ」

 集まったホワイトエンジェルたちが少しざわついた。

「突き止めてくれた天使とは誰だったのかしら?

「私はシルバーエンジェル家のお若い方だと聞きましたが」

「ミシェルさんは『天使ではなく人間だった』と話しておられましたわ」

「あいつはいつも少しおかしなことを言う……」

「えー、パパ、ブラックエンジェルのひとじゃなかったの? あのおもしろいひと、一回会ったことあるよ」

「シャルル、パパじゃなくてお父様って呼ぶのよ」

「はい。お姉さま」

 ボドワンはもう一度手を叩いて天使たちを静めさせた。ホールにいる全員が再びボドワンに注目した。

「えーと、どこまで話したかな。ああ、そうだ。ポピーの居場所は分かったが、残念ながらポピーをここへ連れて来ることはできなかったのだ。しかし、ここにいるリリーは」

 天使たちの視線が一斉にボドワンからリリーへと移った。リリーは少し落ち着かない気分になった。

「彼女は、ポピーの娘だ。皆も知っている通り、ホワイトエンジェル家に限らず四大天使貴族の家では、当主不在の場合、当主から各家の家宝を託されたものが一切の権限を引き継ぐことになっている。そして、家宝は当主とその子供にしか手にすることが許されていない。というわけで、当分の間ホワイトエンジェル家はリリー・アンジェル・ド・ホワイトを当主代理とし、十五年間凍結されていた業務を復活させていきたいと思っている。これで四大天使会議にも正式なリーダーが出席できることになる。今までは私が出ていたので色々と迷惑をかけることもあったのでな。もちろん、迷惑をかけた相手は貴族に限らないが」

「ああ、俺もあの研究所に入りたての頃は、同僚に散々言われたぜ。ホワイトエンジェル家は最近どうかしてる、ってな!慣れてきたらそれもなくなったが」

 セドリックが子供っぽく笑って言った。

「それでさあ、みんな、聞いてくれよ。笑っちゃうぜ。そいつが言うには……」

 しかし、そいつが何と言ったのかリリーは知ることができなかった。途中でボドワンがさえぎったからだ。

「……研究所の話はまた後でじっくり聞かせてもらうことにしよう、セドリック。実は、我々四大天使貴族の影響は天界だけにとどまらず、人間界にまでその波が及んでいる。ホワイトエンジェル家が水のエネルギーをコントロールすることができなくなってしまったため、人間界では洪水や水の事故が多発しているという話を何度も聞いた。今も、人間界で暴れていたハリケーンをダニエルが止めてきたところだ……」天使たちの視線が今度はダニエルへと移った。ダニエルは急に注目されたのに驚いて、少しどぎまぎしているようだ。

「おい、しっかりしろよ!」

 セドリックが、バンッと音を立ててダニエルの背中を叩いた。天使たちは一斉に笑い出した。リリーも一緒に笑った。ダニエルは痛そうに背中をさすり、ぶすっとした顔をセドリックに向けていたが、大笑いしているホワイトエンジェルたちにつられて一瞬頬が緩んでしまった。慌てて不機嫌な表情を取り繕うダニエルを見て、天使の笑い声はさらに大きくなった。

 ボドワンの三度目の合図と共に、最後までくすくす笑っていたホワイトエンジェルも笑うのを止めた。しかし、どの天使もさっきより楽しげな顔をしているように見える。

「そういうわけなので、私としてはなるべく早く全ての活動を再開したほうがいいと思っている。何か意見のあるものはいるか?」

 しーんと静まり返った天使たちの間から、十六、七歳くらいの女の子がまっすぐ手を挙げた。ホールにいる全員が彼女に注目する、手を挙げたのは彼女一人だけだったのだ。天使たちはひそひそ声でなにやら囁き合っていたが、リリーの耳には何を話しているのか全く分からなかった。

 少女は口を開いた。

 しかし、少女が話し出す前に、彼女の父親がそれを止めた。少女の父親は、自分の娘に向かって何かを耳打ちした。少女は一瞬何か言いたげな顔をしたが、おとなしく口を閉じた。

「何だ、カロリーヌ? 言いたいことがあるなら今のうちに言ってくれ。後で言われても困るからな」ボドワンが言った。

 カロリーヌは首を横に振った。

「いいです。大したことではありません」カロリーヌはうつむいた。

「どうせ、もう終わったことだし」

 少女はぼそりと付け加えた。天使たちのざわめきが、より一層大きくなった。

「なぜみんな、こんなに騒いでいるの?あの人は何も言ってないのに……」

 リリーはダニエルに耳打ちした。

「だって、カロリーヌは――――」

 ダニエルも囁き返した。しかし、そこでボドワンが四回目の拍手をしたので、カロリーヌが何なのかリリーは聞くことができなかった。

「他に何かあるものはいないか?今日以降質問は受け付けないぞ」

 ボドワンは集まった天使たちを見渡したが、誰も声を上げないので話を続けた。

「それでは皆、十五年前の役割を思い出してくれ。今日はもう時間が遅い。明日から全ての活動を再開することにする―――」

 リリーはダニエルの高級そうな腕時計を覗き込んだ。針は十一時を指している。

「今日は何日?」リリーはダニエルに聞いた。

「えーっと、昨日が二十八日だったから、二十九日じゃないかな。ああ、でもあと半時間で三十日か」

「地下にずっといたから時間の感覚が狂ったみたい。なんだか頭がぼーっとするの」

 リリーは急に強い眠気に襲われた。天界やホワイトエンジェル家や、新しく目にしたものへの緊張がほぐれてきたからかもしれない。考えてみれば、リリーは昨日の朝くしゃみで目を覚ました時から一睡もしていないのだ。二十八日の夕方に天界へ来てから、丸一日ライラックと共に飛び続け、その後はダニエルと地下へもぐっていた。目の前で不思議なことが次から次へと起こるので、リリーは眠るのをすっかり忘れていたのだ。

「早く……寝たいな……」リリーは目をこすった。

「僕もだよ」ダニエルは大欠伸をした。

 リリーとダニエル以外のホワイトエンジェルは、少し離れたところでボドワンと共になにやら話し合っていた。リリーは、ホールの隅からメイドの天使が一人、静かに出てくるのを見つけた。メイドはリリーたちのいるほうへしずしずと歩いてきた。

「リリー様、ダニエル様、お部屋へどうぞ」

「ああ、もう寝ていいの?」ダニエルは嬉しそうな声を出した。

「あの、すみません」リリーは立ち去ろうとしていたメイドを呼び止めた。

「私の部屋って、どこだか分からないんですけど」

「……申し訳御座いません。ご案内いたします」メイドは深々とお辞儀をした。

「いえ、あの……ありがとうございます」

 リリーとダニエルはメイドの後について階段を上った。ダニエルは上りながら何度も欠伸をしていた。よほど疲れているようだ。

 二階の部屋はほとんどが寝室になっている。リリーは重いまぶたを閉じないように自分に言い聞かせながら歩き続けた。短い距離のはずなのに、今のリリーにとっては果てしなく長い道に思える。

 ダニエルの部屋は階段のすぐ横にあるので、リリーよりダニエルの方が数十秒早く部屋へたどり着いた。

「おやすみ」

 そう言うなりダニエルは倒れこむようにして自分の部屋の中へ飛び込んでいった。

「……おやすみ」

 リリーがそう言った時、ダニエルは既に小さく寝息を立てていた。

「リリー様のお部屋はこちらです」

 メイドはダニエルの三つ隣の部屋を手で指し示した。リリーは欠伸を噛み殺した。

「……あ……りがとう……ございます……」

「おやすみなさいませ」

 メイドはもう一度深々と頭を下げると、階段のほうへ戻っていった。

 リリーはドアを開けた。中は清潔で居心地のよさそうな部屋だった。部屋には興味深げなものがたくさん置いてあったが、リリーの目にはふかふかの白いベッドしか映っていなかった。

 リリーは最後の力を振り絞って、ベッドの方へよろよろと歩いていった。そのまま布団の上に倒れこむなり、リリーは眠りに落ちた。


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