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第二章 ディアマンテタウン


  第二章 ディアマンテタウン



「うわぁ、きれー!」

「そんなこと言ってる場合じゃないってば!」

 リリー・コメット・ライラック・ホップの四人はディアマンテタウンの新しい基地へ行く途中だった。もう四人が出発してから二時間半以上経っていたが、行く先々でリリーが足を止めるので、一行はまだディアマンテタウンに到着できないでいた。

「これかわいいなぁ……」

「いいから早く行け」

 ライラックに背中をつつかれたリリーは名残惜しそうに“かわいい”物の方を振り返った。そのおかげで、リリーは前からよそ見をして歩いてきた同い年くらいの女の子と正面衝突した。

「すみません!」

「ごめんなさい!」

 二人は同時にぺこりと頭を下げると、お互いの顔をまじまじと見つめ、笑い出した。

「わけわかんねぇ」ライラックが呆れたように言った。

「何でもいいけどさ、急ごうぜ」

 さすがのホップもここまで時間が遅れると、ふざけてばかりははいられない。

「あ、うん。じゃあね!」

 リリーは今衝突したばかりの相手に手を振った。

「ばいばーい!」

 相手も陽気に手を振り返した。


「……まったく。いい加減にしろよ」

 ライラックはリリーが足を止める度に言っている。もう今日だけで十回はこのセリフを口にしただろう。だがリリーは怒られているばかりではなく、他にも色々な話を聞いた。例えば、四大天使貴族の仕事の話だ。天使貴族には、東西南北を見張る役目と、天地風水を操る役目が割り当てられているらしい。ゴールデンエンジェルは東を見張り、天を操る。ホワイトエンジェルが北と水、シルバーエンジェルが西と風、ブラックエンジェルが南と地だ。

 リリーは今日一日だけでも覚えきれないくらいたくさんの話を聞いたので、頭が痛くなってきていた。

「なんか甘いもの食べたいなぁ……」

 リリーは他の三人に聞かれないように小さな声で言った。言わないつもりだったのについ口に出してしまったのだ。

 その時ちょうどリリーたちの横をソフトクリームを売っているワゴンが通りがかった。

「あ、あれおいしそ……」

「何回言えば分かるんだよ?」今までは黙って聞き流していたコメットもとうとう怒鳴った。

 リリーはびっくりして急にすたすたと歩き出した。他の三人も歩くスピードを速めた。


「ああ、やっと着いた」

 四人がディアマンテタウンに着いたのは、出発して三時間以上経ってからだった。

「移動魔法が使えれば良かったけど、国境を越えるから使えないしなあ……」

 ホップが面倒くさそうにいった。

「電車にすればよかったのに」とリリーは言ったが、

「デンシャって、何?」とホップに聞き返された。

「あ、そっか。電気がないと電車も作れないんだった」

「デンキ?」ホップは話についていけないようだった。

 ディアマンテタウンは周りをぐるりと高い城壁に囲まれていた。入り口は東西南北に門が四つあるだけだ。それぞれの門から町の中心に向かって道が伸びていて、四つの道が交わるところに王宮があった。

「北と東の門は閉鎖されているんだ」

 南に門から町の中へ入ろうとする人の列に並びながら、ホップが言った。

「なんで?」

「さあ。一応名目上は工事ってことになってるけど、どうせグラナート国への嫌がらせだろ。しかしグラナート国からディアマンテタウンに行こうとするやつがそんなにいたのかどうかも疑問だな。おれはグラナート国民じゃないから分からないけど」

 ホップはまた面倒くさそうに言った。

「あーあ、あの門が使えた頃はもっと早く入れたのに。閉鎖されてからは回り道しなきゃいけないし、おまけにいつも北と東の門をいつも使ってたやつもこっちを使うようになるし時間かかってしょうがない……」

「ああ、それで基地を移……」

「黙れ!」

 ライラックが叫んだ。

 リリーは急に大声を出されたのでびっくりして飛び上がった。周りにいた人々も何事だろうとライラックのほうを振り返った。

「……あ、すみません」

 ライラックは周りの人に謝った。それからリリーのほうを向き直るとほとんど聞き取れないような、しかし荒々しい声で言った。

「大きな声で言うなって、何回も言っただろ?」

「ごめんなさい。つい……」

 さすがにリリーもここまで怒られ続けると、だんだん自分が情けなく思えてきた。

「分かればいい」ライラックはそれ以上リリーを責めようとはしなかった。

 そうこうしているうちに、四人はディアマンテタウンの門をくぐりぬけていた。

「うわぁ、すっごい!」リリーは感心して思わず声を上げた。

 ディアマンテタウンは町全体が巨大なショッピングモールのようだった。大通りに面している店は、ほとんどが洋服やアクセサリーの店かカフェだった。広い道にはクリーム色のレンガが敷きつめてあり、その両わきにはクラシックな黒い街灯が並んでいた。昼間だから明かりは点いていないはずだが、陽の光がガラスに当たってキラキラと輝いているので、まるで光が灯っているように見える。

「夜になると点灯夫が明かりを点けるんだけど、たまに忘れるやつとかサボるやつがいて、その日はすっごく暗くなるんだ」

 街灯に目を奪われているリリーを見て、ホップが街灯についての思い出を話して聞かせた。

「ああ。昔、魔法の恐ろしく下手なやつが点灯夫になっちゃって、爆発したこともあったな……」

 魔法、という言葉に、リリーの心は躍った。

「明かりって魔法で点けるの?」

「ああ。それ以外にどうやって点けるんだ?」ホップはきょとんとした。

 ディアマンテ(ダイヤモンド)という名の通り、本当にキラキラと明るくにぎやかな町だった。


「こっち」

 ディアマンテ城のほうへ歩いていこうとしていたリリーの袖をコメットが引っ張った。他の三人はそっちに進んでいたのに、町に見とれていたリリーは気が付かなかったのだ。

「ごめんなさい!」リリーは自分に呆れた。

「私、田舎生まれだから、なんか珍しくて……」

「君の世界の都会はもっとすごかったぞ」コメットがぼそっと言った。

「え?見たことあるの?」

 四人は愛想の悪そうな肉屋の店主と八百屋で忙しそうに野菜を並べていたおばさんにじろじろ見られながらその前を通り過ぎた。

「一回だけ行った」コメットは思い出したくもないという様子だ。

「どうだった?」リリーは興味津々で聞いた。

「……もう二度と行きたくない」

 リリーは面食らった。リリーにとって都会とは憧れの場所だ。都会に行きたくない人なんていないとリリーは思っていたのだ。

「何で?」

「……だいたい何であんな狭いところにあんなたくさん人が集まるんだよ。もっと広いところはたくさんあるだろ?まあ、ここもそうか」

 コメットはさっきまで歩いていた大通りのほうを振り返った。

「だけど、ここはまだ建物が全部二階か一階建てだろ?あそこは百回以下の建物はない、ってくらいで……」

「ひゃく?」

 リリーは思わず聞き返した。リリーは五階より高い建物を見たことがなかったのだ。

「全部?」

「ああ。上から落ちてき――」

「おいおい、いくらなんでも全部百階建て、ってことはないだろ」

 いきなり後ろから声をかけられ、リリーとコメットはびっくりして振り返った。二人の前を歩いていたライラックとホップも何事だろうと足を止めた。

「何もそんなに身構えなくてもいいじゃないか」

 四人の後ろに立っていたのはライアンだった。

「びっくりした……。」リリーはほっと胸をなでおろした。

「あれ、でもライアンって先行ってるんじゃなかったっけ?」

「あんまり遅いから道に迷ってんじゃないかと思って」ライアンは呆れ顔で言った。

「一体何やってたんだよ。一時間以上遅れてるぞ?」

「いやー、あの……その……まあ、色々あって……」

 リリーは目をそらした。

「ふーん?まあ、何でもいいけど……。行くのにちょっと変な道通るからね。案内するから一回で覚えろよ」

 ライアンは歩き出した。他の四人もそれに続いた。

 新しい基地への道は本当におかしな道だった。一回は猫のように塀の上を渡った。またある時は地下道のような細いコンクリートのトンネルをくぐった。それらの道は大通りの華々しさとは正反対の廃れた雰囲気が漂っていた。

「右、右、左、右、真ん中、左、左、上、真ん中、右、下……」

 リリーが必死で覚えようとしていると、隣にいたライラックに変な顔をされた。

「何やってんだよ?」

「ちょっと話しかけないでよ!えーっと、何だっけ?下の次は……」

「そんなことしなくても覚えられるだろ?」ライラックはますます怪しそうな顔をした。

「え……?」

 確かにリリー以外の三人は何の苦労もなく覚えられているようだ。

「何で覚えられるの?」リリーはヒステリックな声を出した。

「はぁ?普通だろ?」

「着いたよ」前のほうからライアンの声がした。

 そこはさっきリリーたちがライアンと会った場所だった。

「あれ?ここさっきと同じ場所じゃ……?」

 だがよく見ると肉屋と八百屋の間にさっきはなかった小さな建物が現れていた。

「ここだよ」ライアンは新しく現れた建物を指差した。

 新しい基地はレンガ造りの小さくてかわいらしい建物だった。街の雰囲気とは会っているが、やはり基地という感じはあまりしない。

「さっきの道を通らないと見えないように魔法をかけたんだ。」

 ライアンが新しい基地のドアを引きながら言った。

「だから完璧に覚えないと、ちょっとでも間違えたら永遠にたどり着けないからな。」

「えーっ!」リリーは息を呑んだ。「どうしよう、永遠にたどり着けなかったら……」

 ライアンだけは気の毒そうに笑いかけてくれたが、それ以外の三人は「そんなバカな」という顔で基地の中へ入っていってしまった。リリーも慌てて中に入った。

 基地の中はセピア通りの小屋とだいたい同じつくりで、奥の大きな部屋の他に四つ部屋があった。ただ、前より少しは広くなっていた。

「ああ、遅かったな。何があった?」奥の部屋からディモルが顔を突き出して言った。

「いや、なんていうか、亀並みのスピードで歩いてて……」コメットが適当に言い繕った。

「カメ?」

「ま、まあ。それより……」

 リリーは適当に聞き流していた。ふと玄関のほうを振り返ると、ドアのすぐ横に大きな紙の束が置いてあるのが目に入った。

「新聞かな?」

 リリーは一番上の紙を広げた。確かにそれは新聞だった。日付は今日だ。上のほうに飾り文字で“DTN”と書いてあり、その下には剣を片手に、黄金の髪を風になびかせている凛々しい女性の写真が写っていた。


ディアマンテ国軍新最高指揮官 ロメリア・フランチェスカ氏就任

 昨日七月二十五日、ディアマンテ国王は、国軍新最高指揮官にロメリア・フランチェスカを任命すると発表した。フランチェスカ氏は現在二十七歳。女性の将軍の中では最年少である。国軍最高指揮官を女性が務めるのはこれが三回目だ。氏は――――

「ふーん。じゃあ、私達の敵……?」

 リリーはロメリア・フランチェスカの写真をまじまじと見つめた。


 ドーン


 突然窓の外で音がして、基地にいた全員が音のしたほうを振り返った。

「何の音だ?」

 ライアンが窓を開けて外をのぞいた。他の五人も外を見ようと駆け寄る。窓のすぐそこに別の家があったのでほとんど何も見えなかったが、外から歓声とともににぎやかな音楽が部屋の中へ流れ込んできた。


 ドーン


「大通りからだ」

 リリーは窓の隙間からわずかに見える空を見つめた。空に紙吹雪が舞っているのが辛うじて視界に入る。

「行くか?」ライラックが窓を離れながら言った。

「ああ」コメットは答える前にもう動き始めていた。

「待って、私も行く」

 リリーは二人の後を追った。コメットとライラックはリリーの足音に気づいて振り返った。

「お前も来るのか?」ライラックが立ち止まって言った。

「だめ?」リリーは恐る恐る二人の顔を見上げた。

「残ってろよ」ライラックが面倒くさそうに言った。

「また大声で色々しゃべられたら困る」

「もう言わないだろ。さっき誰かさんにに怒鳴られたし」

 コメットがからかい口調で言った。

「まあ、それは……」ライラックは言葉をにごした。

 ドーン

「とりあえず、早く行こう」

 コメットは再び歩き出した。ライラックも不機嫌な顔のままそれにならった。リリーも慌ててその後をついていった。

 ドーン

 音の正体は大砲だった。何かを祝っているのか、大通りには人だかりができていた。

「何だ? 祭りでもあるのか?」ライラックが前髪を後ろに振り払って言った。

「新しい指揮官の任命式だよ」隣にいたおじいさんがちっと舌打ちをして言った。

「そんなことも知らないのか?今朝の新聞に書いてあっただろうが?」

「えー、あ、はい。そうですね」

 おじいさんがライラックではなく自分に向かって話すので、リリーは受け答えに困った。振り返るとライラックはおじいさんに話しかけられない距離のところまで逃げていた。

「ったく、新聞も読まないのか。これだから最近の若者は―――」

 おじいさんが最近の若者について文句を並べ立てる前に、リリーはそろそろとライラックのほうに移動した。

「一人で先に逃げないでよ」

 リリーは知らんぷりしているライラックに言った。

「別に逃げたわけではない」

 ライラックはすまして言った。

 その時、通りに集まった人々の中からまた歓声が上がった。通り中に広がっていた人々が、道の中央を空けて左右に分かれる。リリーとライラックも前の人々に押されて少し後ろに下がった。

「あっちから何か来る」

 ライラックが人ごみの上から目を凝らして言った。

「南の門から城の方へ向かっているらしい」

「見えない……」

 リリーは爪先で立って何とか門のほうを見ようとしたが、背の低いリリーには到底見えそうになかった。がんばって背を伸ばしても、ライラックの肩にも及ばない。

 ライラックは聞こえたのか聞こえなかったのか何も答えなかった。

  ドーン

 また音がして、何とかリリーの視界に入る距離まで“何か”が近づいてきた。どうやらディアマンテ国軍が大通りを行進しているらしい。先頭にはディアマンテの国旗を持った兵が二人。そして、その後ろには――――

「あれが新指揮官?」

 ライラックは国旗を持った兵の後ろから、馬に乗ってやって来た金髪の女性を指差した。

「指揮官って、女なのか?」

 馬に乗っているのはさっきリリーが新聞の写真で見たロメリア・フランチェスカだった。写真と違うのは、髪を乱れないように高い位置で一つにまとめていることだ。そのせいか、さっきの写真よりずっと強そうに見える。

 フランチェスカは指揮官らしくきりりと前を向いて行進していた。黄金の髪が陽の光を受けて燦然と輝く。結構すてきな人だとリリーは思った。

「フランチェスカ将軍!」

 リリーの前に立っている男が、フランチェスカの名前を呼んだ。

 フランチェスカはくるりと振り向き一瞬男に笑顔を見せた。明るいブルーの瞳がきらりと輝いた。そしてまたすぐに前を向くと、元の表情に戻った。

 しかしフランチェスカはまたすぐにさっきと同じほうを振り返った。今度は誰も彼女の名前を呼んでいない。しかもその視線は、なぜかリリーの方へ向けられていた。明らかに驚きの表情を浮かべている。だがその時リリーは誰かに頭の上を強く押されて地面にしゃがみこんだ。リリーの視界からフランチェスカは姿を消した。

「な、何……?」

 リリーを押さえつけていたのはライラックだった。上を見上げてフランチェスカが通り過ぎるのを待っている。

「まずいぞ」ライラックが言った。

「どうして?」

「そのぐらい自分で考えろ。あいつはディアマンテ軍の中で最高の地位にあるんだぞ。お前の正体がばれたら何をされるか分からないだろう」

 ライラックはリリーのネックレスに目をやった。

「とりあえず、それはしまっとけ」

「うん……」

 リリーは言われるままにネックレスを外すと静かにポケットの中へすべり込ませた。

 ドドーン

 再び大砲の音がして、人々の間から拍手と歓声が湧き起こった。どうやら指揮官がディアマンテ城前の広場へ到着したらしい。リリーは人々の頭の間から恐る恐る顔を出した。遠くにフランチェスカの輝く金髪が見えた。

「もう戻ろう。たいして面白いものはなかったし……」

 ライラックは前へ前へと押してくる人の流れに逆らって、裏通りのほうへ歩いて行った。

「え、でも、あれ?ちょっと待って!」

 リリーはそこではっと気づいた。慌てて周りをきょろきょろと見回す。

「コメットがいない!」

「はぁ?あ……本当だ……」

 ライラックも気がついていなかったらしい。

「探さないと……!」

 リリーはまだ小さい頃、一度遊園地で迷子になって一日中一人ぼっちでうろうろしていたことがある。それ以来、人とはぐれることに並々ならぬ恐怖感を抱いていた。

 リリーは人込みを掻き分けて城の方へと進んで行った。

「おい!おれ達がはぐれたらもっと大変なことになるぞ!」

 ライラックが叫んだが、リリーの耳には届かなかった。ただでさえ混雑している大通りの中で、小さいリリーの姿はすぐに見えなくなった。

「くそっ……」

 ライラックは悪態をつくと、他の二人を探すために裏通りから広場のほうへと歩き出した。



 リリーは思ったより早く城の前の広場へたどり着いていた。リリー自身はすでに広場まで来ていることに気が付いていなかったが。混んでいるところでは、リリーの小さい体は動きやすくて有利だ。しかし背が低くては見通しがきかないので、今のリリーには周りの背の高い人々がうらやましく思えた。

 城までたどり着いたのはいいもののそこにコメットの姿は見当たらなかった。リリーはそれでもかまわず人を押しのけてコメットを探し続けた。

「どこにいるのー……?」

 その時急にリリーの視界が開けた。どうやらリリーは知らず知らずのうちにディアマンテ城の真ん前まで来てしまっていたらしい。リリーはディアマンテ軍指揮官任命式を見守る人々の最前列にいた。リリーは目の前にフランチェスカの姿を見つけてぎくりとした。リリーはフランチェスカの姿を一番見やすい位置にいるのと同時に、フランチェスカからもリリーのことがよく見えるのだ。

「やば……」

 リリーは急いで人込みに紛れ込もうとしたが、間に合わなかった。

 フランチェスカがリリーの姿を見つけて振り返った。まるで金貨の山を見せられたかのような顔をしている。

「ここで待っていろ、すぐ戻る」

 フランチェスカが待機している兵士に向かってそういうのがリリーの耳にも聞こえた。リリーは慌てて広場中にひしめくディアマンテ国民の中へ飛び込んだ。だがもうさっきのようにどんどん進むことはできなかった。国民は少しでも城に近づこうとしているからだ。その上彼らはフランチェスカのためには道を空けるが、リリーのためには空けてくれない。リリーはすぐにフランチェスカにつかまった。

「話がある」

 フランチェスカはリリーにそう言うと、軍服の下に隠してあった大きなフードで豊かな黄金の髪を覆い、裏道へとリリーを引っ張って行った。

 リリーは一刻も早くフランチェスカのそばから逃げ出したかったが、腕をつかまれて身動きが取れないでいた。フランチェスカは女とは思えないような力でリリーを引っ張って行った。さすが軍人だとリリーは感心してしまった。だがすぐに感心している場合ではないと思い直した。

 裏道にはほとんど人がいないだろうとリリーは予想していたが、そうではなかった。任命式を見に来たものの、城に近づき損ねた人々が、大勢そこで暇をつぶしていた。リリーはさっきライラックとはぐれた場所よりだいぶ遠くのほうまで来てしまっているようだ。リリーはそこにいる人々の誰かがフランチェスカを任命式のほうへ連れ戻してくれることを祈ったが、誰もリリーたちのほうを見向きもしなかった。

 大通りから見えないところまで来ると、フランチェスカはリリーのほうを向き直って言った。

「悪かったな。急に連れ出してしまって……だが、どうしても聞きたいことがあったのだ」

 フランチェスカの顔は間近で見るとますます美しかった。リリーは一瞬魅了されそうになったが、すぐに気を取り直した。

「何の用ですか?」

 リリーは精一杯恐い顔でフランチェスカを睨みつけた。

 フランチェスカはまるで見えない手で殴られたかのような顔をした。そしてすぐにさっきとは打って変わって冷たく言い放った。

「名前を教えてくれるか?」

 それはリリーが今一番聞かれたくない質問だった。ホワイトという姓を明かせば、自分がホワイトエンジェルだということをフランチェスカに知られてしまうのだ。

「なぜですか? 急に人の腕をつかんで連れ出して、おまけに名前を聞こうなんて、こんなに無礼な人に私は初めて会いました」

 リリーは言ってから後悔した。いくら憎らしい女でも、国軍の中では最高の地位にある女性だ。侮辱罪で逮捕されたらたまらない。

 フランチェスカのブルーの瞳は怒りに燃え、唇の端がわなわなと震えていた。

「その方が話しやすい。それに、無礼なのはどっちだ」

「そっち」リリーは呟いた。

 フランチェスカはキッとリリーを睨みつけた。

「私の権力を使えば、お前ををどうする事だってできるのだ。今ここでおとなしく名前を吐くか、それとも苦しんでから言いたいか。さあ、今すぐ答えろ」

 リリーにはただフランチェスカを睨みつけることしかできなかった。リリーとフランチェスカでは権力の差がありすぎる。それに、フランチェスカの様子からすると、彼女はリリーの正体を知っているようだ。嘘をついてもすぐにばれるだろう。しかし、本当のことを言うわけにはいかないのだ。

「私の名前? 私はリリー。リリーよ。はい、これで満足?」

 フランチェスカは一瞬眉をひそめたが、すぐに気を取り直して聞き返してきた。

「それだけか?」

 リリーは唇を噛んだ。何があってもこの女にだけは自分がホワイトエンジェルだと明かしてはならない。もう、ここまで来たら嘘をつくしかない。

「……ハートレイ。リリー・ハートレイよ」

 リリーは適当に答えてごまかした。

「ハートレイ?」フランチェスカはあからさまにショックを受けたという顔をした。

「リリー・ハートレイだと?」

「そうよ。悪い?」

 フランチェスカは口をぎゅっときつく結んだ。そして唇の端から声を絞り出した。

「そこまでして嘘を突き通そうとするのなら」フランチェスカは震える声で言った。

「それなりの覚悟はしておけ。私が本気で怒ったら何をするか分からない。言っておくが、お前の本当の名前は大体見当がついている――」

「それなら聞かないで」

 リリーはフランチェスカに背を向けて大通りのほうへ一目散に駆けていった。フランチェスカはショックのあまりリリーのことを追う気力もないようだった。

「碧の瞳……それに、さっきのペンダント……間違いない。いや、でも……」フランチェスカがぶつぶつ言っていたが、リリーの耳には届かなかった。

 リリーは表通りに向かって疾走した。あまりの速さに通りすがりの人たちは振り返ってリリーのほうを見た。リリーは今時分がどこにいるのか分からないので、なかなか大通りまでたどり着くことができなかった。だが、もうフランチェスカに見つかることはないだろう。疲れたリリーは近くの住宅の壁にもたれかかって少し休んだ。

 リリーの頭の中にはたくさんの考えが渦巻いていた。一番気がかりなのは自分がホワイトエンジェルだということをフランチェスカに知られてしまったらしいことだが、フランチェスカが覚悟しておけと言ったこともリリーの頭にひっかかっていた。上を見上げると、建物の隙間から鉛色の空が覗いていた。まるでリリーの不安な気持ちを映しているかのようだった。



「おい、お前……」

 大通りに出た瞬間、リリーはまたもや誰かに腕をつかまれた。リリーは反射的にその手を振り払った。だが相手が誰だか分かると少し安心した。

「ライラック! よかった……」

 ライラックは大きくため息をついた。

「まったく、もとはといえばお前のせいだろう。もう自分勝手な行動はやめろ」

 ライラックはうんざりしたように言った

「ごめんなさい……」リリーは今日何回目かの同じセリフを口にした。

「私、小さい時遊園地で迷子になって、一日中一人ぼっちだったことがあって……それ以来、人とはぐれることが妙に怖くなっちゃって……」

「それにしては、俺とはすぐはぐれたな」

「ごめん」リリーはうつむいた。

「それより、コメット見つかった?」

「ああ、いたよ。こっちだ」

 ライラックはリリーを裏道へと導いた。リリーは一瞬戸惑ったが、もうディアマンテ城からはずいぶん離れていたので、フランチェスカに見つかることはないだろうと思い素直にその後をついていった。



コメットは基地のある通りのすぐ近くに座り込んでいた。

「え、ちょっと、どうしたの?」

 リリーは思わず青ざめているコメットに向かって言った。

「いや、別になんでもないけど……ちょっと気分悪くなって……」

 コメットは弱々しく答えた。

「え? なんで?」

「こいつ、人込みで酔うんだよ」

 ライラックが横から言った。

「え? 酔うって、乗り物酔いとか船酔いみたいに?」

「ああ。小さい時からずっとそうだ」

「そうなんだ。私も船酔いはするけど……。ライラックは酔わないよね?」

 ライラックは頷いた。

「ああ、酔うことはない。でも……」

「でも、何?」

「ライラックは高所恐怖症だよな?」

 今度はコメットが言った。

「えっ、そうなの? 意外! ライラックって怖いものなしかと思ってた!」

「欠点のない人間はいない」

 コメットが呟いた。

「え?」

「昔ライアンが言ってたんだ。なんか、お父さんの口癖だったとか何とか」

「ふーん」リリーは微笑んだ。

「いい言葉ね」

「そうか?」ライラックが反論した。

「おれは、なんだか『欠点をなくすのは無理だ』って言われたみたいで嫌だけど」

「どんな性格でも欠点になったり長所になったりするってことだろ」

 コメットはそう言うと、ふらふらと立ち上がった。

「大丈夫?」

「うん、もう大丈夫だと思う」

 コメットは近くの家のレンガの壁にもたれかかってしばらくじっとしていたが、気分の悪いのはだいぶおさまったようだった。

「さっきはやたら大きい音がしたから何かと思って見に来たけど、そんなに面白いものじゃなかったな……。それより、見たか?あの指揮官、女だぞ?」

 ライラックのその言葉で、リリーはフランチェスカ指揮官と言い争ったことを思い出した。

「あのね、私、指揮官と話した……」

「え?」ライラックが聞き返した。

「指揮官って、あの……」

「ロメリア・フランチェスカ。女のよ」

 リリーはそこでもう一つ忘れかけていたことを思い出した。

『それなりの覚悟はしておけ。私が本気で怒ったら何をするか分からない』

 リリーは突然フランチェスカにずっと見張られているような恐怖に陥って、周囲を見回した。しかし、リリーの見える範囲にはフランチェスカの姿はなかった。

「本当か? 何を話したんだ?」

 ライラックの声でリリーは我に返った。

「えーっと、なんていうか、名前を聞かれた……」

「くそっ、やはりばれていたのか?」ライラックは悪態をついた。

「それで、何て答えたんだ?」

「リリー・ハートレイだって言ったの。でも」リリーの胸にまた不安が広がった。

「そう言ったら、あの女が、『お前の本当の名前は大体見当ついてる』だって……」

 ライラックは考え込むような表情になった。

「多分あいつは、お前のことをポピー・ホワイトだと思っているんだろう。……しかし、ホワイトエンジェルであることに変わりはない。もし告げ口されたら――――」

「あいつは言わないさ」コメットはやんわりとライラックの言葉を否定した。

「あの女がまだ今より位が低かった頃、三回あったんだ。あいつが自信満々で軍に提出した情報が、実はディアマンテ軍を混乱あせるための偽の情報だった、ってことが。そのうち二回は正しい情報を軍が知っていたから良かったけど、一回は本当に騙されかかって大変なことになった。それ以来あいつから情報提供をすることは滅多になくなったらしい」

「そうなのか?それでよく最高指揮官になれたな」ライラックは不満そうな表情だ。

 その時リリーの頬に何かがぽつりと落ちてきた。

「あれ、雨……?」

 しばらくすると雨が激しく降り始めた。大通りにいた大勢の人々は、急ぎ足で家に向かうか、近くの店の中に逃げ込んだ。リリー達もまた基地への奇妙な道をたどりはじめた。リリーは二人の後ろで懸命に道を覚えようとしたが、やはりどうも上手く行かなかった。

 リリーたちはずぶぬれになって基地へ帰ってきた……はずだった。少なくともリリーはそうだった。だがリリーが濡れたまま震えている間に、コメットとライラックの体はまるで雨なんか最初から降っていなかったかのように乾いていた。

「えっ、どうやったの?」リリーはコメットに聞いた。

「え?ああ」コメットは一瞬きょとんとしたが、濡れたままのリリーを見て納得した。

「魔法だよ」

 あまりにも当たり前すぎてコメットはリリーの質問の意味が分からなかったらしい。コメットは手をリリーに向けてほんのわずかに動かした。リリーは自分の体が軽くなったような気がして、すぐに暖かくなった。あっという間にリリーの体は乾いていた。

「すごい、全然濡れてない!」

 リリーは自分の洋服を触ってみた。洗濯から上がったばかりのように乾いている。

「普通だろ?」

 コメットはまた不思議そうな顔をした。きっとリリーが服を乾燥機に突っ込むような調子で乾かすことができるのだろう。

「魔法を使うのに、杖とか呪文とかはいらないの?」リリーは目を輝かせて聞いた。

「杖は……種族によって色々だな。昔はこのあたりでも使われていたらしいけど、最近は見かけない。北でトナカイの群れと暮らしている人々は使うらしいけど、見たことはないな……」

「じゃあ呪文は?」

「慣れればいらない。いちいち呪文なんか唱えてたらうるさいだろ?」

「それもそうね」リリーはなんとなく納得させられた。

「じゃあ、中央公園でやってたのは?あれも呪文いらないの?」

「中央公園?……ああ、異世界移動の呪文か。あれは呪文を使った。というより、あれを呪文なしで使ったという話は聞いたことがない」

「そんなに難しい魔法なの?」

「ああ、難しいほうだと思う」

「それってもしかして、自分の腕前を自慢してるのか?」

 いつの間にか奥の部屋から出てきていたホップが言った。別に嫌そうな顔はしていないから、ただ単純にコメットをからかいたかっただけなのだろう。ホップが出てきた奥の部屋のほうを見ると、ライラックがディモルに何かを話しているのが見えた。だが何を話しているのかはリリーのところまでは聞こえてこなかった。多分今見てきたことを話しているのだろうとリリーは想像した。

「別にそういうわけじゃない」リリーの横でコメットが言った。

「ただ日常的な魔法じゃないし、使おうとするやつが少ないから難しく感じるだけだ。いや、魔法以前に異世界の存在も知らない人のほうが多い」

 リリーはその説明に驚いた。この世界の人間はいつでも好きな時にリリーの住んでいた世界へ来ることができるのだとばかり思っていたからだ。リリーは他にもどんな魔法があるのか聞いてみたかったが、リリーが口を開くか開かないかのうちに、話を終えたディモルとライラックが部屋から出てきたので、聞くことはできなかった。



 雨は一日中降り続いた。

 リリーは新しい基地の中を探検していた。他の五人はなにやら話し合ったり調べたりしていたが、リリーにはよく分からなかった。それに傘を持っていないので、外に出ることもできなかったのだ。たとえ傘を持っていたとしても、リリーは土砂降りの雨の中へ出て行く気になれなかったかもしれない。

 今は基地として使われているこの建物には、昔人が住んでいたような跡が残っていた。四つある部屋のうち一つはユニットバスで、ところどころタイルにひびが入ったり汚れたりしていたが、その割にはきれいに見えた。以前住んでいた人が少し直していったのかもしれない。もう一つの部屋は寝室で、ベッドが置いてあった。リリーはなぜ前の住居者がベッドが置きっ放しにしていったのかと不思議に思ったが、よく見るとベッドの脚は床にくっついていて運べないようになっていた。もともとベッドの取り付けてある家だったようだ。

 他の二つの部屋のうち一つは、ただの何も置いていない正方形の小さな部屋だった。リリーは一回この部屋に入ってみたが、すぐに耐えられなくなって出てきた。それほどつまらない部屋だったのだ。しかも、壁に触れると手に静電気が流れるような感覚が走った。しかし、この世界には電気が存在しないはずなので、なぜそんなことが起こるのかリリーには分からなかった。

 最後のドアの先にも部屋があるのだとリリーは思いこんでいたが、部屋ではなかった。扉を開けると、その先には下り階段が続いていた。中へ入ろうと足を空中へ出していたリリーは、危うく階段から転げ落ちそうになった。たまたま通りがかったコメットがリリーの腕をつかんでくれていなかったら、確実に怪我をしていただろう。

「なんでこんなところに階段があるの?」リリーはコメットに聞いた。

「知らないけど」コメットは肩をすくめた。「さっき行ったら本が山積みになってた」

 リリーは階段の下に行ってみたかったが、中は暗いのでとても入れそうな状態ではなかった。たとえ下りられたとしても、この暗い中で本を読むのは不可能に近いだろう。リリーは魔法で光を呼び出すことができたらどんなにいいだろうと思った。しかしリリーはそのやり方を知らなかったし、他の五人にも教えてもらえそうな状況ではなかった。だがチャンスがあれば教えてもらってコメットの言っていた本を読みにいこうと思った。この世界の本にはどんなことが書いてあるのか気になった。もしかしたら、魔法の使い方が書いてあるかもしれない。

 そうこうしているうちに空は暗くなってきた。空を覆っている雨雲のせいで陰気になっていた町が、より一層深い闇に沈んだ。リリーは寝室らしき部屋のベッドに寝転んで窓の外をぼんやりと眺めていたが、急に外からオレンジ色の光が差し込んできて、あまりの眩しさに目を覆った。見ると、点灯夫と思われるレインコートを着た男が、通り中に並んでいる街灯に明かりを灯して回っていた。土砂降りの雨のせいで道に少し水が溜まっていたので、男は長靴をはいて仕事をしていた。リリーは街灯が爆発するのを少し期待していたが、残念ながらこの点灯夫は魔法を使うのがそれほど下手ではないようで、呪文を唱えなくても街灯に灯を点けることができていた。点灯夫は全部の街灯に明かりを灯し終えると、別の通りへ行ってしまったので、リリーはそれ以上その男を観察していることはできなかった。リリーはまた外の通りをぼんやり眺め、昨日と今日で見たこと聞いたことを頭の中で思い返していた。

 日がすっかり暮れるまでリリーは待ってみたが、やはり雨は止まなかった。それどころか雨足はだんだん強くなってきているようだ。リリーはもうセピア通りに帰らなければと思い、ベッドの置いてある部屋を出た。ホップとライラックは既に帰ってしまったようだった。リリーは部屋を出てすぐのところにいたディモルに、傘があるかどうか聞いてみた。

「カサ?」ディモルは眉をひそめた。

「かっぱの間違いじゃないのか?」

「河童? 妖怪の?」リリーも聞き返した。

「雨がっぱだよ。レインコートのことだ。魔法で防水した布で作ったコート」

 どうやらこの世界に傘は存在しないようだった。そういえばリリーはこの世界でまだ一度も傘を見かけていない。さっきの点灯夫もレインコートを着ていたし、昼間雨が降り出したときも傘を開く人は一人もいなかった。皆建物の中に入るか、フードをかぶるなどして雨をしのいでいた。ただ単に傘を持っていないというわけではないらしい。

 ディモルはどこからか一枚のレインコートを引っ張り出してきてくれた。リリーには少し大きくてぶかぶかだったが、魔法のかかったコートを着ていると思うとリリーはわくわくした。その時、本の置いてある部屋への階段から、コメットが出てきた。

「ああ、帰るのか」レインコートを着たリリーを見つけてコメットが言った。

「うん。あ、そうだ」リリーは急にあることを思い出した。

「今度、魔法を教えて!」

「……別にいいけど」コメットは答えた。「何で急にそんなこと言い出したんだ?」

「その部屋の本を読みに行きたいの」

 リリーはコメットが今出てきたばかりのドアを指差した。

「本ならセピア通りのほうにも少し残っているかもしれない」

 ディモルが突然思い出したように言った。

「えっ、本当?」リリーは目を輝かせた。「じゃあ、探してみる! ありがとう」

 リリーは二人に手を振って基地を後にした。

 夜のディアマンテタウンは昼間とはまた少し違った雰囲気が漂っていた。雨の成果人通りも少なかったが、リリーはまたここでフランチェスカ指揮官とばったり会ってしまったら嫌なので、フードを深くかぶり、顔を見られないようにして歩いた。しかし目の下までフードを下ろしたせいで、前に何があるのかほとんど見えていなかった。リリーは通りにある黒い街灯の一本にぶつかって派手に転んでしまった。地面に薄く溜まっていた雨水が当たりに飛び散った。

「おやおや、お嬢さん、大丈夫かい?なんだ、子供じゃないか。こんな時間に一人で何しているの?ちょっとあそこまで来なさい――――」通りがかった誰かがリリーに声をかけた。

「だ、だ、大丈夫です!」

 リリーは慌ててそう言うと、走って逃げた。フランチェスカかと思ったのだ。しかし振り返ってよく見ると、それはパトロール中の警官だった。リリーはすこし走る速度をゆるめ、前が見えるところまでフードを上げた。

 南の門は全く人気がなかった。昼間、フランチェスカ指揮官の任命式を一目見ようと詰め掛けていた人々は、皆帰ってしまったようだ。人がいないとこの門はすごく大きく、恐ろしく見えた。リリーは急にこの門が壊れて自分の上に落ちてくるのではないかという恐怖に駆られて、急いでその下を潜り抜けた。しかし後から振り返ってみてみても門は壊れていなかったのでリリーはほっとした。

 セピア通りへの帰り道は、来る時よりも長く感じられた。標識が立ててあったので道に迷うことはなかったが、リリーはどこまで歩いても戻れないのではないかという気がしてきた。来る時にはいちいち振り返ってみていた店のショーウィンドウにも、リリーはもう興味を失っていた。店に並べられたかわいらしい品物よりも、天使のことやフランチェスカ指揮官のことのほうがリリーにとっては重要になっていたのだ。やっとのことでセピア通りにたどりついた時には、リリーは身も心もくたくたに疲れ果てていた。

「ただいま」

 旧基地のドアを開けながら、いつもの習慣でリリーはで言ってしまった。もちろん基地の中には誰もいないので、返事はない。リリーは少し寂しい気持ちで新しい“家”のなかに入った。リリーは疲れきっていたのですぐにでも玄関で眠ってしまいたかったが、なんと家屋の部屋までよろよろと歩いていき、濡れたレインコートを椅子の背にかけた。このコートは初めのうちこそちゃんと防水されていたものの、国境を越えた辺りからだんだん防水効果が薄れてきていた。たぶん魔力が弱まってきているのだろうとリリーは思った。リリーの靴も水浸しだった。リリーはとりあえず靴と靴下だけ脱ぐと、ソファに倒れこんだ。この家にはベッドがないので寝られる場所はソファしかなかったのだ。リリーは倒れるのとほぼ同時に眠りに落ちた。ディモルの言っていた本のことはすっかり忘れていた。


「はくしょん!」

 自分のくしゃみでリリーは目を覚ました。濡れた服のまま毛布も何もかけずに眠ったので体が冷え切っていた。リリーはゆっくり体を起こした。家の中は静かだった。ただ屋根を打つ雨の音だけが淡々と響いていた。リリーは雨漏りしてくるのではないかと心配になった。何しろこんなに古い小屋だ。いつ屋根が壊れても不思議ではない。しかしこの家は見かけよりずっと丈夫にできているようで、どこにも水のたれているところはなかった。数日前はただ古いだけと思っていたこの小屋に、リリーはだんだん愛着がわいてきていた。

 雨は降れば降るほど強くなってきているようだった。風も出てきていて、強く風が吹くたび小屋の窓がガタガタいった。リリーは昨日ディモルに教えてもらった本のことを思い出し、探してみることにした。本はすぐに見つかった。部屋の隅に置いてあるダンボールに何冊もの本が詰められていたのだ。リリーはその中でも一番薄くて読みやすそうな本を選んだ。何しろ見つけた中で一番大きな本は、十センチくらいの厚さがあったのだ。もしかしたら辞書か事典のようなものだったのかもしれない。とにかくリリーはそんなに重い本を読む気にはなれなかったので、一ページもめくらないうちにそのほかの本と一緒にダンボールの中に戻した。

 リリーの選んだ本は、魔法についての本だった。リリーはわくわくしながら読み進めた。実際のところ、リリーは魔法が何なのかまだよく分かっていなかったのだ。リリーたちで言う科学のように一般的なもの、と言われてもいまいちピンとこない。その本で説明されていたのは、人類が魔法を使い始めたのはいつ頃かとか、動物にも魔法は使えるかといったことだった。著者のルイス・ガウディによれば、人類が魔法を使い始めたのは火を使い始めたのと同じ頃らしい。これは、人類が始めて使った魔法が火を熾す魔法だったと考えられることからだ、とその本には書いてあった。人間の子供がまず初めに覚える魔法は、この火を熾す魔法が圧倒的に多いらしい。しかし、子供勝手にこの魔法を使い、誤って他のものを燃やしたり火事になったりといったことが起きないように、水を出す魔法を先に教える親も多いそうだ。リリーは自分もこの火を熾す魔法なら使えるかももしれないと思ったが、もし失敗して火事になったら大変なのでやめておいた。それ以前にリリーはどうやってその魔法を使うのかを知らない。

 人類と魔法の話よりもっと興味深かったのは、動物の使う魔法の話だ。圓限界では魔法を使える動物は少ないが、天界に棲む動物――例えば、ペガサスやドラゴンなど――は、人間や天使の使う魔法には劣るが、ほとんどが魔法を使えると考えられているそうだ。天界、という言葉を見つけてリリーの心は躍った。リリーは天界のことについて魔法と同じくらい興味を持っていたのだ。しかしこの本の著者も人間なので天界に行ったことはないから、あくまで推測だと書いてあった。だが人間界の魔法を使える動物の先祖をたどっていくと、天界から人間界へ下りてきた動物であることが多いらしい。また動物の中にはその動物にしか使えない魔力を持つものもいる。例えば人魚は、歌で人を惑わすことができる。ユニコーンは、自分の角で突いた相手の能力の一部を、自分のものにすることができる。リリーにとっては動物が魔法を使えると言うこと自体驚きだったが、動物しか使えない魔法もあるとは信じられなかった。しかしよく考えれば人間より人魚やユニコーンの方が魔力を持っていそうな気がする。だがリリーのもといた世界とこの世界の人間は少し違うかもしれないのでよく分からない。

 リリーは一時間経つか経たないかのうちにこの本を読み終えてしまった。これにはリリー自身が一番驚いた。リリーはもともとあまり本が好きな方ではなかった。気が乗れば読むこともあったが、夏休みの宿題で読書が出ると、たいてい最後の日に泣きながら読んでいた(しかも字はほとんど読まないで絵だけ見ていた)。だから字ばかりの本を一時間かからず読み終えるなどと言うことは、リリーの人生で初めてと言っても嘘ではないくらいだった。それほどこの本は面白かったのだ。ディモルやコメットたちのように、この世界で生まれ育った人にとってはただの退屈な説明文に見えるかもしれないが、リリーにとっては謎めいたものだった魔法の秘密が解き明かされていくようで十分面白かった。

 リリーは窓の外を見上げた。空は相変わらず灰色一色だ。もう地面に十センチ以上水が溜まっている。このまま雨が降り続けたら、たとえ雨漏りしなかったとしても家の中が水浸しになるだろう。

 リリーは一昨日ディモルにいわれたことを思い出した。

『――ひどい飢饉や不作が起きないように天候を操るのは、天を操るゴールデンエンジェルと水を操るホワイトエンジェルの仕事だったのだ。しかしその二人が姿を消してからというもの、天候を管理する天使のところへ命令が下らなってしまった。だから多雨で植物が病気になったり、逆に乾燥して育たなくなったりといったことが多発しているのだ――』

 もしかしてこの雨は自分が止めなければならないのではないか。リリーの頭をそんな考えがよぎった。

  その時、小屋のドアを誰かがノックする音が聞こえた。

「はーい!」

 リリーはドアのところへ駆けていき、慎重にドアを開けた。フランチェスカ指揮官に脅された時から、誰かが自分の後をつけてきているのではないかとびくびくしていたのだ。だが、ドアの隙間から見えたのは、フランチェスカの姿ではなかった。リリーはほっとした。

「ライラック!良かった、あの女が来たのかと思った……」

 ライラックは通りに誰もいないかどうか注意深く見回した。

「入ってもいいか?話があるんだ。」

「いいわよ。今ね、本を読んでいたところなの。一時間で一冊読んじゃった……」

 リリーは住み始めて一日目の家にライラックを案内した。ライラックは小屋の扉を静かに閉めた。

「それで、話って何?」

「リリー」ライラックは深刻な表情で言った。

「計画が変わった」

「え? 何の?」

 ライラックは窓の外を指差した。

「この雨だ。もうこの辺りでも相当水が溜まってきているだろう?」

「そうだね。まだ一日しか降っていないのに、こんなひどい雨初めて」リリーは頷いた。

「ここはまだいいほうだ」ライラックは重々しく言った。

「グラナート北部のほうに暴風雨が上陸したようなんだ。もうすごい被害が出ている。風のほうはシルバーエンジェルがどうにかできるけれど、雨は……」

「ホワイトエンジェルがやれ、ってことね」

「まあ、そういうことだな」

 リリーはもう一度窓の外の暗い空を見上げた。そして心を決めた。

「どうやって天界に行くの?」



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