屋敷
「うわー! すっごいね!」
澄みわたる空を駆けるアイルの上で、エレンはそう感嘆の声を上げた。
両手を一杯に広げ、身体中を掠めていく風と、眼界に広がる景色を満喫している。
その様子は、まるで子供のようで、とても楽しそうなのが伝わった。これだけ喜んでくれると、俺もアイルも嬉しい気持ちになる。
「これなら件の村まですぐだね!」
「あぁ、アイルに任せとけ」
そう言うとアイルは張り切ったように、また一段と強く白き翼で空を掻く。
「ちょっと、翼! 早過ぎだって!」
「自分達のことも考えて欲しいものだ」
しかし、すぐに後方から抗議の声が上がる。
伊吹とマーカスだ。伊吹は妖虎に、マーカスは銀狼に、それぞれ跨がって空を駆けている。どちらも優れた使い魔で、かなりの移動速度を誇る。
だが、流石に天空の覇者たる龍に追いつけるほどではなかった。
「悪い、悪い」
アイルにすこし速度を落とすように伝え、二人との足並みを揃える。
横に並んで初めて気が付いたが、妖虎も銀狼もへとへとだった。アイルに引き離されないようにと、常に全力疾走だったのが災いしたみたいだ。
「まったく! まったく、まったく! 気配りが足りない!」
「あぁ、まったくだ」
「悪かったって。エレンに良いところ見せたかったんだよ」
そう言いつつ、身体を撫でてやるとアイルは控え目に鳴いた。
「でも、本当に速かったよ。景色も最高だし、みんなこんな体験をしてたんだね」
何もかもが初体験とばかりに、エレンはそう語る。
実際のところ、こう言う機会はなかったのだろう。なにせ、エレンの使い魔は兎である。温度を持った雪。その矛盾が見事に成り立つエレンの使い魔は、兎とだけあって移動には向かない。
なので、アイルの背に同乗することになっていた。
「感嘆の気持ちは分かるが、そろそろ気を引き締めたほうがいい」
マーカスはそう言って、進路先を指差した。
空と陸を分かつ地平線。それに浮かび上がる山々と、その麓にひっそりとある一つの小さな村。こうしてみれば何の変哲もない村だが、あの中で狂暴化の脅威が猛威を振るっているかも知れない。
油断は、禁物だ。
「そろそろ降りよう」
山の麓にまで来たところで、使い魔たちの背から降りる。
村へと続く、硬く踏み固められた地面に降り立ち、俺たちは早速道を外れた。
馬鹿正直に真正面から村に入る必要はない。まずは村の様子を見渡せる場所まで移動し、それから潜入に移行する。
そのために木の根や腐葉土で構成された緩やかな斜面を登り、道なき道を切り拓きながら村へと向かう。
「メアリーの話じゃ、男は村長の屋敷に棲み付いてるって行ってたよな」
「うん。一番おっきな家だとも言ってたから、見せばすぐわかるでしょ」
などと話しつつ進んでいると、高い位置から村を見下ろせる都合の良い場所を発見する。
姿勢を低く、誰にも見付からないよう、気取られないよう、細心の注意を払いながら、俺たちは村の全景を視界におさめた。
「……異様だな」
「そうだな。まるで人を見掛けないのは、自分も可笑しいと思う」
この目で見た村の様子は、不気味なほど静けさに満ちていた。言葉を選ばずに言えば、廃れていると言ってもいい。
人の往来は確認できず、そこら中に雑草が放置され、家畜小屋は荒れ放題。もう久しく、なんの手入れもされていない。そんな印象を抱かせる。
よほど、ここの村人が怠惰な人達でもなければ、通常は有り得ないありさまだ。
やはり、異変が起きていることは間違いない。
「村長の屋敷は……あそこかな?」
エレンが指差した先に、一際大きな屋敷が見えた。
他の民家はどれもこぢんまりとしているのに、そこだけが一回りも二回りも、あるいはそれ以上に大きいかも知れない。
村の長の居所としても、旅人を迎え入れる場所としても、相応しい屋敷と思われる。
「それじゃ、屋敷を目指してこのまま……」
「待ってくれ。あそこに井戸が見える。まずは確証を得よう」
井戸には件の黒い藻がある。
時期的に見て、井戸の中は繁殖した藻に汚染され切っているころだ。
マーカスの提案通り、その事実を確認するため俺たちは村へと下る。
身を潜め、息を殺し、誰にも見付からないように村を進み、井戸にまで辿り着く。そうして周りに人気がないうちに、井戸の水を汲み上げた。
すると、やはりと言うべきか、真っ黒に染まった井戸水が上がって来た。
「これで確定、だね。こんなに黒くなってるってことは、もう」
「あぁ、相当、毒素に犯されてるな」
もともと少量だったと思われる黒い藻が、これほど繁殖して水質を汚染している。
もし村の井戸水に、水源に、生命線に、こんな異変が現れていたら、まずレストガンのギルドに報告されるはず。けれど、今までそのような報告はなかった。
つまり、すでに村人たちには判断が付かないんだ。
水の色が透明か黒か、その違いに気付けないほど精神を毒素に汚染されている。
「でも、本当に何者なんだろうね。その旅人の男の人は」
「今は考えても仕様がないさ。とにかく、村長の屋敷に向かおう。男を捕えれば、自ずとわかることだ」
俺たちは互いに頷き会って、村長の屋敷を目指す。
村の縁をなぞるように移動し、建物の影に隠れながら移動する。
「――メアリー」
その最中、不意に聞こえる誰かの声と、メアリーの名前。
俺たちはすぐに足を止めて、耳を澄ませた。
「あぁ、メアリー。またニンジンを残して。そんなんじゃあ大きくなれないわよ」
どうやらその声は、いま身を隠している建物から聞こえるようだった。
そっと、気取られないように窓を覗いてみると、一人の女性がほかに誰もいない食卓に座っているのが見えた。
彼女――メアリーの母親の前にある空席には、汚れた皿と、乱雑に切り刻まれた赤茶色のニンジンと思しき物体がある。
恐らく、腐っているのだろう。
それにここに居るはずのないメアリーに話し掛けているあたり、幻覚を見ている可能性もある。
「……はやく、どうにかしないと」
事は一刻を争う。
黒い藻が関係していることが明らかになった段階で、一度ギルドに戻ることも考えた。
だが、この現状を見て、そんな悠長なことは言っていられなくなった。
ギルドと村の往復に、ギルドが動くまでの準備時間。
それを考慮すると、このままこの四人で村長の屋敷に忍び込んだほうがいい。
あの精神汚染の深度から見るに、もういつ巨大化しても可笑しくない。
だから、この先にいるであろう旅人の男を拘束し、解毒剤を手に入れる。毒と解毒剤は共にあるのが基本だ。それで救えるのは少数だろうが、全滅するより遥かにマシだろう。
場合によっては、それすらも間に合わないかも知れない。そうなった時は俺たちがメアリーの家族を、この手で始末しなければならない。
その覚悟も、しておかなくちゃあな。
「急ごう」
現状の深刻さを再認識し、俺たちは村長の屋敷へと急いだ。
「――よし、いくぞ」
村長の屋敷と思われる建物に到着し、その裏手から潜入を試みる。
裏戸に鍵は掛かっていなかった。
そのため、非常に素早く屋敷に入り込むことが出来た。
「手分けして探し出す。怪しい奴を見掛けたら、有無を言わせず拘束するんだ。そいつが村長でも、村人でも。どうせ、もう話が通じるような相手じゃあない。殺さなけりゃそれでいい」
俺たちと鉢合わせた村人や村長には悪いが、こちらも悠長にはしていられない。
出会い頭に、速攻で、最速で、拘束および気絶させる。相手が誰だろうとだ。
殺さないだけ、死なないだけ、幸運だと思ってもらうしかない。
「自分とエレンは二階を探す。翼と伊吹は――」
「一階だな」
「じゃあ、気を付けてね」
「マーカスくんとエレンくんもね」
二手に別れ、この広い屋敷の捜索を開始する。
旅人に扮した謎の男と、毒素の解毒剤を求めて。