少女
黒衣の男と遭遇してから、数日の時が経った。
ギルドに持ち帰ったサンプルは、すでに報告書を添えて提出した後である。
そんな折り、ラーティスさんからの呼び出しで、俺達四人は揃ってギルドに顔を出していた。
「キミ達が持ち帰ったサンプルを解析した結果だが……」
紳士然とした壮年の男性であるラーティスさんは、手元の資料に目を落としつつ言う。
「あの黒い水の正体は、一種の藻だそうだ」
「藻? 藻ってあの緑色の」
よく夏の過ぎたプールで見掛ける、あの?
「そう、その藻だ。正確には微生物らしいけどね」
微生物。その集合体、ということか。
それで川が、水が、黒く染まっているように見えた。夥しい量の微生物が一塊となり、川を流れたり、遡ったりしていた訳だ。
表の世界では考えられない話だな。
「この黒い藻は、水中の魔素を取り込んで毒素を排出する質の悪い奴でね。その毒素と同じ成分が、キミ達が持ち帰った魔物のサンプル。具体的には、血中から検出された」
藻が排出する毒素を何らかの方法で摂取した魔物が狂暴化し、後に巨大化する。
黒衣の男が魔物をある程度、操って見せたのも。この黒い藻が関係しているとみていい。
にわかには信じがたい話だが、今現在の判断材料で推測するに、それ以上のものは浮かんでこない。
「キミ達と遭遇した男は、何らかの方法でこの黒い藻を操り、魔物を狂暴化させていた。ここまでは確定した事実だ。まだ理由や動機は判然としないけれどね」
奴はあの時、いずれ知れることだ、と言っていた。
いつか事が露見するとしりつつ、それでもなお行動を起こす。
それは最初から、目的を果たすまで止めるつもりはない、ということ。
あの日以来、狂暴化した魔物の事件は減少傾向にある。
と、言っても微々たるものだが、今まで増える一方だった現状が見かけだけでも改善したことに変わりはない。それを喜んだり、一息をついたりする人達もいる。
けれど、俺達はとてもそう言う気分にはなれなかった。
「なんにせよ。今までわからなかったことが随分と判明したよ。毒素については前々から検出されてはいたんだが、こいつが一体なんの毒素なのかは、ついぞ分からず終いだったからね。いやーよかった、よかった。これで男を捕まえられていたら、言うことなしだったのにね」
ぐさりと、言葉が胸に突き刺さる。
「あの……ホント、すみませんでした。取り逃がしちゃって」
「え? あっ――す、すまない。キミを責めているんじゃあないんだよ? 新人にしてはよくやったほうさ。生きて、情報を届けてくれただけでも御の字だ」
「そう言って貰えると、助かります」
優しい言葉が胸に染みるが、やはり気にしてしまうのが正直なところだ。
「キミ達には期待しているよ。これからも頑張って」
「はい、ありがとうございます」
情報共有が終わり、退室するラーティスさんを見送る。
ばたんと音を立てて扉がしまると、胸中にため込んでいた色々を、一気に吐き出した。
「そう気を落とさないの、翼」
「そうだよ。翼くんだけの所為じゃあない。僕たち全員の責任だよ」
「自分達ももう少し速く魔物を処理できていればと思っている。翼と同じくらいにね」
「あぁ、ありがとう。みんな」
伊吹たちの励ましの言葉を受け取り、気を取り直すように両手で顔を叩く。
若干の痛みと衝撃で自分に喝を入れ、挫けそうになった心を立て直した。
「よし、立ち直った」
「それでこそ翼だよ」
暗い感情に整理がつき、俺達もこの部屋を退室する。
「これからどうする? 今日はもう予定ないよね? みんな」
エレンの言う通り、今日の予定はこれで終わりだ。
情報を掴んだ功績を労って、という名目で俺達には休暇が与えられている。
「折角だから、みんなで街を巡ってみるのはどうだろう? 自分が道案内をしよう」
「そいつはいいな。俺もここに来て日が浅いし、まだ街と迷路の区別がついてないんだ」
マーカスの提案に賛同しつつ、ギルドの長い廊下を歩き終える。
辿り着いた大広間を、そのまま横断するようにして渡り、外へと続く扉に手を掛けた。
「――きゃっ」
すると、腹部の辺りに軽い衝撃を受け、その後に微かな悲鳴が上がる。
「子供?」
何事かと思えば、目の前に尻餅をついた子供がいた。
まだ年端もいかない少女だ。
どうやら此処に入ろうとした拍子に、運悪くぶつかってしまったらしい。
「大丈夫か?」
そう声をかけつつ、手を差し伸べて少女を立ち上がらせる。
「泣かなかったな、偉い……ぞ」
怪我はないかと頭の天辺から視線を下げていると、気が付く。
視線を下げた先、少女の足に靴がない。裸足のまま、しかも長距離を歩いて来たのか、幾つもの生傷が走っている。
はっとなって、もう一度少女の服装を注意深くみると、所々が汚れていたり、破けていたりしている。
幸い、少女自身に大きな怪我はないようだが。
「どうかした?」
俺の様子に違和を感じたのか、そう伊吹が覗き込んでくる。
「伊吹。たしかギルドの中に医務室があったよな?」
「うん? うん、あったと思うけど」
それを聞いて、俺は少女を抱き上げる。
「案内してくれ。いますぐに」
少女をみて、その小さな足を見て、伊吹は何があったのかをすぐに察する。
後ろの二人にも見えたようで、すぐに医務室へと誘導してくれた。
「――これでよしっと。もう入ってもいいわよー」
ギルドの医務室を統括する女医のアンリ・セルオールさんの声が、廊下に響く。
それを耳にして廊下で待機していた男組の三人は、医務室へと足を踏み入れた。
「とりあえずの処置は終わったわ。すこし安静にしていれば、すぐに良くなる」
「そうですか」
アンリさんから、少女にへと視線を向ける。
真新しい衣服に身を包み、両足を包帯でぐるぐる巻きにされた少女。いまは落ち着いているようだが、じっと俯いているようだ。隣にいる伊吹に見向きもしない。
「この子、かなりの長距離を歩いて来たみたいね。それも裸足で。すごく痛かったでしょうに。それなのに消毒液が染みても、泣き言一つ言わなかったわ」
こんなに小さな子が、親も連れずにたった一人で長距離を。
子供が、少女が、出来るようなことじゃあない。それでもやって退けたなら、それはそうしなければならない理由があったからだ。
「それで、話は聞けたんですか?」
そう問いかけたエレンに対し、アンリさんは首を横に振った。
「いいえ、まだ何も。話したがらないのよ、声が出ないほど憔悴し切っている訳でもないのに」
そうと聞いて、今一度、少女を見やる。
「……よし」
ゆっくりと足を進めて、少女の元へと向かう。
「よう、俺の名前は桐生翼って言うんだ。キミの名前は? なんて言うんだ?」
膝を折り、目線の高さを同じにし、目と目を合わせてそう問いかける。
声音は努めて優しくし、身体から余計な力も抜いた。
とにかく、警戒心を抱かせないように、気を遣いながら問いかける。
「言いたくないか? それじゃあ……なにか俺達にして欲しいことは?」
少女はギルドに入ろうとしていた。つまり、ここに用があったと言うこと。
そう問うと、少女は微かにだが口を開く。
何かを喋ろうとしてくれる。
「た……て……」
それは徐々にはっきりと紡がれた。
「たす、けて……」
年端もいかない少女から、決して聞きたくないような言葉を。
「おとうさんと、おかあさんを、たすけて」
涙ながらに請う、助けを。