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あのコのソックスを嗅いでいたら人類が滅亡していた

作者: 藍植りん太

 両足の欠損した『彼女』は、今日もベッドの上から僕を見上げる。その嫌悪感を隠そうともしないべっとりとした視線にも、もう慣れてしまった。

「足は痛むか?」

 この質問には特に意味を込めていない。「How do you do?」ってことだ。その挨拶に、『彼女』は持っていた読みかけの文庫本を投擲することで応じた。僕を狙った砲撃は、残念ながら的外れの方向へと飛んでいき、ベッドの周りに乱雑に積み重なった『彼女』が読破済みの書物の山の一部となった。そんな拙い反抗にも一切無反応な僕に、『彼女』は舌打ちを放つと苦々しげに恨み言を零す。

「……痛む足を千切ってったのは誰だったっけ」

『彼女』は僕を視線で押し潰そうとしているのか、目を逸らす気は無いらしい。この生活も随分長くなるが、僕への敵意を保ち続ける精神の強さは尊敬に値するかもしれない。そのまま見詰め合っていても恋が芽生えるようなことはないので、僕の方から顔を背ける。

「昼食だ。昨日はなかなか質の良い鹿が獲れたから、ローストしてみた。あと裏で今朝収穫したトウモロコシを醤油でこんがり。美味いと思う、手前味噌だけど」

 持ってきたトレーをベッド備え付けのテーブルに置く。『彼女』は見ようともしない。

「……食べないなら食道にチューブで直接流し込むぞ」

 餓死を望むのは勝手だが、僕が必要とする限り『彼女』には生きてもらわなくてはならない。

『彼女』は最後に僕の後頭部まで貫くような一瞥を残し、視線を昼食に落とすと、鬱憤を全てぶつけるように荒々しく、手掴みでそれらを喰らっていく。別に構わない。ここにテーブルマナーについて五月蠅く講釈たれる輩は存在しないのだから。ぐっちゃぐっちゃという『彼女』の咀嚼音をBGMに、残りの要件について手早く話してしまおう。

「僕はまたしばらく出る。帰ってきたら採血をしてから傷の具合を診て、消毒と包帯の交換をする。また何冊か新しいの仕入れてきたから、それで暇をつぶしてて。好きだろ、宮部みゆき」

 足元に置いておいた本の束をベッドの上にどさりと乗せる。『彼女』は食べ続けている。

「……じゃ、また後で」

 僕が踵を返して部屋を出ようとすると、背中に何かが当たった。床にトウモロコシの芯が落ちていた。僕は黙って拾い上げる。後で堆肥ポッドに入れておこう。

「今度は命中したな」

「家族に会わせて」

 口の周りの汚れも無視して、『彼女』は力のない早口でそれだけ言った。もう何度言われたか覚えていないほどの要求だ。僕は同じ応えを返す。

「不可能だ」

 そのまま『彼女』の目を見ずに部屋を出た。

 ――そう、不可能なんだよ。

 君はこの先家族にも、親しい友人にも、誰にも会うことは出来ないんだ。

 君は何も知らないけれど。

 何も知らなくていいのだけれど。

 滅んでしまったんだ、人類は。

 今、この地球には、僕と君以外、誰もいないんだよ。




 こんな境遇になって一番身を以て思い知ったのは、人間のしてきたことなんて大自然の中では何の意味も成していなかったということだ。

 僕らが住んでいたこの街もゴーストタウンと化し、今では道路にも草が生え、人間が作り上げた建造物も朽ちていき、墓場の様なサバンナの様な不思議な風景が出来上がりつつある。

 山がそんなに遠くないこともあってか、街中でも様々な動物を見かける。今の僕らにとっては重要なタンパク源だ。地元の暴力団事務所や交番、自衛隊駐屯地から仕入れた火器もあるが、これらは銃弾に限りがある為、クマ等に襲われた際の自衛用として持ち歩くのみで、獲物の狩猟は原始的な罠や、近所の高校の弓道部から拝借した弓で行う。ターゲットに命中するようになるまでには、『彼女』が書店の棚一つ分の小説を読み切るくらいの時間を費やしたが。

 僕らのねぐらである個人病院の裏では、先ほど『彼女』に出したトウモロコシの他、トマトやらジャガイモやら、様々な野菜類を栽培している。来年には稲作に挑戦してみるつもりだ。所有者のいない土地は地球全土に溢れかえっているのだ。

 今日の外出の目的は、生存者の捜索である。

 僕は人類絶滅の原因を知っている。そこから推測するに、ヒトという種はほぼ間違いなく、僕と『彼女』を除いて一体残らず死に絶えているはず。

 しかし昨日の狩りで仕留めた鹿――『彼女』が先程豪快に食い千切っていた肉の元である――を解体中に、その胃の内容物から発見した物が、僕の論理をぐらつかせた。

 紺色のソックスである。

 どう足掻いても人工物であるソックスが鹿の内臓から出てきた――それ自体はどうということはない。その辺の空き家の箪笥を漁れば、持ち主が死んだとも知らず次に足を通される日を待ち続けるソックス達が幾らでも手に入るし、それらを鹿が誤って呑み込んでしまうことも確率的にはあり得ることだ。それが直接生存者の存在を示すことはない。

 だが敢えてここで告白しよう。

 僕はソックスフェチだ。

 女性が履いていたソックスの残り香を嗅ぐのが大好きだ。それも脱ぎたてのソックスを通して吸い込んだ空気を肺一杯に満たした時には、自らの肺胞に羨望を向けてしまう程の愉悦を覚える。何もしなくても足の裏は一日にコップ一杯分の汗を掻くそうだが、真夏の猛暑日に日がな一日歩き続ける持ち主の足を包み切ったソックスを口に含んだ時など、僕を襲った叫び出さずにはいられない程の快感と圧倒的な幸福の濁流に舌と口腔と味覚神経と脳髄が麻痺してしまい、意識を取り戻してからの三日三晩は食事が喉を通らなくなってしまった。

 僕にはドラッグジャンキーの気持ちが理解できる。彼らにとってのヘロイン・モルヒネ・コデイン・ペンタゾシン・マリファナ・ハシッシュ・MDMA・アンフェタミン・コカイン・シンナー・ベンゼン・トルエン・キシレン――それが僕にとってのソックスだ。

 変態と罵られることもあったが、そんなことは些末な問題――否、問題にすらならない偶像だ。ソックスがあれば僕は幸福であり、そこに足を入れる人間の存在など気にしたことも無い。

 だからこそこの現状は地獄だった。僕は生きている。食料もある。武器もある。住処もある。だがソックスが無い。一人を除いた地球上の全女性は土へ還り、残った『彼女』はもう二度とソックスの履けない体。残ったのは未来永劫履かれることのない無数の綺麗なソックス――ゴミの山と言い換えてもいい。履かぬソックスに何の価値があろうか。空っぽのカプセル錠には何の薬効もない。

 鹿の胃の中で、消化されかけの草に塗れたソックスを目にした時も、刹那の間にそれが女性用であると本能が告げた瞬間もそう思った。どうせ未使用品だ。女性の足の皮脂をふんだんに吸い込んだ使用済みの一品であるはずがないと。

 なれど僕の手は独りでにそれに伸びてゆき、ぐちょりと嫌な水音をたてて紺色の布をしっかりと掴んでいた。ソックスを欲するあまり、僕の精神は限界に達していたのだろうか。それとも僕の中に眠る、獲物を求める原始の本能が呼び覚まされたのであろうか。そのまま僕はこれっぽっちも疑問を抱くことなく、ソックスを鼻先に掲げ――

 一息、スン……と嗅いだ――

 咄嗟、至極。

「おォッ……! おぉおォ……ぅあぉおァ……ッ! っぐがッはぇあォ……!? おおおオオォ……ッ!? ぎェッふンぐァああッ!」

 胃液と消化しかけの植物が混じり合った、喉の奥からせり上がる吐瀉物を堪え切れない程の刺激臭が鼻腔に満ちる。だが僕の磨き抜かれた嗅細胞は、そんな麻痺寸前の極限状況においても確かに感じ取っていた。

 パルスが駆ける。神経を、脊髄を、大脳を。

「ああああああああアアアアアアアアアアッ!」

 口から酸っぱい液体が流れ出す。それでも嗅ぐ。一心不乱に、貪り、吸い込み、味わう。

 どろどろと思考を覆う嫌悪感しか感じない悪臭を必死に掻き分ける。湧き出す黒雲の中に体をねじ入れて奥へ進む。少しずつ、少しずつ。その奥の奥の奥の最奥部へ。酸の大海の底に沈む一粒の砂金を拾い上げるように。

 それを可能にしたのは、計り知れぬ執念と、混じりっ気無しのソックスへの愛情であった。

 僕は確信した。

 このソックスはつい最近女性に履かれたものである。

「うあぁ! うあぁ! うあぁ! うあぁ!」

 それは砂漠のオアシス。枯渇した僕のエネルギーを、二度と得られないと思っていた大切な栄養分を存分に満たしてくれる命の泉。

 口からは胃液、鼻からは鼻水、目からは涙を垂れ流して、一切の矜持という物を捨て去り、この広い世界の森羅万象を無視してただソックスのみを認識し、悪徳地頭のように搾り尽くす。

「……っ――……! ――…………っ!」

 僕が正気に戻った時、手の中にあったのはすっかり脱水された片方だけのソックスであった。




 僕が如何に女性のソックスを愛しているかは今はいい。そのソックスが『つい最近女性が履いた物』であることが重要である。

 現在地球上に女性は一人――両足の無い『彼女』だけ――だと思っていた。そうでないとおかしい筈なのだ。僕は人類が滅んだ理由を知っている。もし他にも生き残りがいるのだとすれば……それは僕と同じ種類か、はたまた全く異なる存在か――

「……おや?」

 我に返るとそこには見慣れぬ景色。想定していなかった事態への思考に没頭し過ぎていたのか、僕はいつもの探索ルートからかなり外れた場所に立っていた。ここは隣町だろうか。まだ世界に人類が蔓延っていた頃に僕の行動範囲が狭かったことが災いし、なかなか他の町への探索は進んでいないのが現状だ。ただ僕ら二人が生きるだけなら自分の町だけで事足りるので、積極的に生息域を拡大しようとはしていない。

 とはいえ、来てしまったのだからタダで帰るのはもったいない。せっかくだから軽く散策していこう。

 見たところ、ここは僕らの町から山を挟んで反対側に位置するようで、サバンナ化が左程進行していないようだ。わざわざ狩りに来るほど獲物が豊富なわけでもないだろうし、そこらの民家や店舗から何か使えるものが無いかだけ見て回ろう。沢山発見できれば僥倖。持ち帰れない程なら日を改めて、それ相応の装備でもう一度来ればいい。

 強いて言えば書店を見つけたいところだ。『彼女』は毎日の余暇を読書で埋めるしかないので、すぐに本のストックが切れてしまう。恐らく僕等の町にある書店の本は、あと半年程で消化してしまうのではないか。なので遅かれ早かれ新しい供給先を開拓する必要性はあったのである。世界に現存する本の数には限りがあり、新しく生み出されることは無い為(僕に書く気は無いので)『彼女』の寿命が尽きるのが早いか、ありとあらゆる書物を読み切ってしまうのが早いかのマッチレースとなるわけだが、兎にも角にも目先のストックが欲しい。

 ――などと考えつつ行脚していたら発見した。

 ブックオフを。

「…………」

 ――まあ、『彼女』は、好き嫌いこそあれ、純文学からギャグ漫画まで読みこなす雑読家であるわけだし、問題はない……か。冊数もそこそこあるのでストックにはなる。何はともあれ入ってみるか。電力の供給は無い為自動ドアは動かない。ベルトに括り付けた自作ホルスターから護身用の銃を取り出し、そのグリップでガラスを割って侵入しようとして気が付いた。

 ――既にドアが破られている。

 しかも割れたガラスがまだ散乱している。どう見てもつい先程破壊されたばかりといった様相。

 野生動物でも侵入したのか?

 いや、ブックオフに動物の餌になるものなどない。わざわざ入口を壊してまで押し入ろうとするだろうか。

 何かが風で飛んできてガラスを割ったのか?

 いや、それにしてはその割った物体が見当たらないのはおかしい。

 ポケットに入れたままのソックスが脳裏をかすめる。僕は銃を握りしめたまま、薄暗い店内へと足を踏み入れた。




 なかなかの大型店舗である。一階が漫画とゲームとCD・DVDコーナー、二階が一般書籍コーナーらしい。

 足音をたてないよう摺り足で進み、息を殺して、自然音ではない何かが聞こえないかと耳を澄ます。

 ……する。聞こえる。隠そうともしていない荒い呼吸音。そしてぱらりとページを捲る音。こちらの接近には気付いていないのか、はたまた分かった上での余裕なのか。

 そいつは少年漫画コーナーに居た。店員も他の客も居ない中で、棚に背中を預けて床に体育座りして、俯いて漫画を読んでいる。髪の長さは肩口程度で、性別は分からない。かなり漫画に熱中している様で、こちらがそろりそろりと接近しても気付かれることは無かった。

 最早法など意味を成さないこの世界。相手だってその気になれば僕を殺すことが出来る。用心するに越したことは無い。

「何者だ」

 僕はそいつに銃を突き付けて問うた。

「…………」

 だがそいつはそのまま漫画から目を離さない。少し呼吸を荒げているが、僕を無視して『HUNTER×HUNTER』を読み耽っている。

「……どうせ永遠に休載だぞ」

「…………」

 一向に変化のない反応。近づいてよく見ると、体格からしてこいつは女のようだ。満足に栄養を取っていないのか、羽織ったぼろぼろのパーカーからは細い首が覗いている。頼りない両の肩が、彼女が必死に息をする度に上下に揺れている。

 ……ふむ。

「抵抗すれば殺す」

 そう釘を刺し、僕は彼女の肩を足でどついて埃だらけの床にすっ転がした。

 初めて彼女の御尊顔を拝見する。酷いものだった。顔の造詣がではない。むしろ美人に属するだろう。しかし僕のようにこの世界に適応出来なかったのか、白い肌は荒れてがさがさ、目は虚ろで、顔色が酷いにもかかわらず顔全体が浮腫(むく)んでいる。典型的な栄養失調の症状だ。

 倒れたままぼーっと僕を見上げる彼女に突き付けていた銃をしまう。こちらに危害を加える程の体力は残っていないだろう。

 そして彼女の軽い左足を掴み上げると、初めて彼女が口を開いた。

「……あなた、幻覚……? 幽霊……?」

「いっそのことそうだったら楽なんだけど」それは僕の本音だった。「一応まだ生きてる」

「私を、犯す気……?」

「僕を満足させるのにセックスは要らん。ソックスで十分」

「……意味わからない」

「分かるように説明する気はない」

 変態趣味を持つ者は、他者の理解を求めない。自己がその範囲内で自らが満足出来る悦楽を得られればそれが至上なのである。したがって僕も彼女に合意を採ることなく、手際よく脱がせた彼女のソックスを自分のポケットへ仕舞う。

 ただこれを嗜むのは後だ。早急に確認すべき事柄がある。

 彼女の痩せ細った右足を持ち上げる。

「…………」

 まだ恥ずかしいという感情は持ち合わせているのか、彼女が身じろぎをする。けれども僕を振りほどける程の力は無く、片手で彼女を制すことが出来た。

 さて……。

 彼女の足――その爪先を目線の高さまで掲げ、よく観察する。泥と垢とホコリで汚れた指の間。そこにサインを探す。

「……あなたは、生き残り……?」

 抵抗は諦めたのか、彼女から会話のキャッチボールを投げかけられた。僕は作業を続けながら投げ返す。

「僕がゾンビか何かなら、このまま足を食い千切ってるぞ」

「…………なんで私……生き残っちゃったんだろう……」

 彼女の声が掠れる。

「……何が起きたのか、なんにも分からないうちにみんな死んじゃって…………私も死んじゃうのかなって……震えてるうちに、誰もいなくなってた……」

 呼吸がさらに乱れる。

「どうしたらいいか分かんなくて……実家のあるこの町まで歩いて来たけど…………やっぱり誰もいなくて……家族も、友達も……」

 涙は枯れ果て零れない。

「何が起きたの……なんでみんな…………何がみんなを殺したの……何が…………」

「細菌だよ」

「え……」

「それは図鑑を捲れば必ず載っているような、誰にもよく知られ、研究もし尽された細菌だった。だけどもある日のこと、そいつはある所で突然変異を起こした。食物、空気、水、飛沫、血液、母乳……あらゆる経路で感染し、それまで有効だった薬剤は何一つ効かず、一度(ひとたび)侵されれば致死率は一〇〇%。器官という器官を蝕まれ息絶えるのを待つのみ――七〇億人を殺し切るのに、そう長くはかからなかった」

「――…………じゃあなんで」

「とある理由から、意図せず僕にはその殺戮細菌に対する抗体が備わっていた。感染しても発症はしない。恐らく君もそうなんだろう。理由は恐らく……いや、その追究は後だ。今君に必要なのは、細菌への抵抗方法だ」

「え……」

「見ろ」

 彼女の爪先、指の間の一点を指差す。

「白いカビの様な発疹が出ている。感染の初期症状だ。これが三日程で全身に広がり、死に至る。栄養失調によって免疫力が低下し、今まで抑えられていた発症が進んでしまったんだろう」

「……死ぬの? 私も」

「……心なしか嬉しそうに見えるな」

「だって……一緒に生きたいと思ってた人……みんな死んじゃったし…………これ以上生きてる意味ないし……」

「君には無いかもしれないが僕にはある」

 僕は背負っていたザックから、赤い液体で満たされた小さな薬瓶を取り出す。

「これを飲め。それで君の寿命は延びる」

「何それ……薬は効かないんじゃなかったの……」

「そもそも君には抗体がある。栄養状態さえマシになれば症状の進行は抑制出来る。だが飢餓状態の人間にいきなり多量の養分を摂取させるのは逆に危険だ。ゆっくり体を慣れさせていく必要があり、それをやっていれば今度は細菌に手遅れなまでに侵されてしまう」

「だめじゃん……」

「そこで、これだ」

 僕は薬瓶を左右に揺らす。

「これは薬ではない。細菌に対する抗力を一時的に上げる特製ドリンクといったところだ。これで症状を抑えながら体力の回復を目指す。僕は成功した。もし君が僕と同じなら、同じように成功するはずだ」

「…………」

「さて、どうするよ。死にたがりさん。絶望の淵からダイヴ・トゥ・ブルーしかけてた君に、一本の希望をちらつかせてやったわけだが――掴んでみるか?」

「……私は生きてる」

「辛うじてな」

「あなたも生きてる……」

「生き地獄だったがな」

「なら……他にも生きてる人がいても、おかしくない……」

「それはどうかな。無いと思うけど」

本当はもう一人いるわけだが。

「私だってあなたの想定外なんでしょ……?」

「…………ふむ」

「だから……ッ!」

 彼女は僕の手から瓶を受け取ろうとするが、もう腕を上げる力も残っていないらしい。

「そのまま口を開けろ。流し込んでやる」

 彼女は大人しく、僅かに唇を開いた。薬瓶の蓋を取り、中身を少しずつ乾いた舌の上に垂らしていく。彼女は何度もむせながら、数ccの液体をたっぷり時間をかけて飲み干した。

「味がしない……」

しかし彼女はほんの少し目を細め――

「でもなんか……懐かしい匂いがする……」

「……そ」

 僕はザックを体の前面に掛け直し、空いた背中に彼女を負ぶった。あちこちの骨が飛び出てごつごつしている。

「このまま僕の住処まで運ぶから。動くと落とすからじっとしてろよ」

「うん……」

 僕は笑みを抑えられなかった。彼女を背負っていなければスキップでも始めたい気分だ。理由は明白。

 これでソックスの安定供給が見込めるではないか。

 もし彼女が生き残ることを拒んでも、僕は無理やり液体を飲ませるつもりだった。彼女はまさに、砂漠のど真ん中で見つけた潤沢なオアシスに違いなかったのだから。




 彼女はミヤコと名乗った。

 経過は順調だった。彼女は賭けに勝ったのだ。症状の進行は収まり、点滴で栄養補給をしながら体調も徐々に回復し、流動食も食べることが出来るようになった。そろそろリハビリを始めてもいいかもしれない、そう思い出した頃に、事件は起きた。

「……誰?」

 ミヤコは好奇心の強い女だった。動けるようになったばかりだというのに、手すりを頼りに屋内を歩き回っていた。

そして自ずと辿り着いてしまう。『彼女』の病室に。

「もう一人生き残りがいるなんて、あいつは言ってなかった……」

 ミヤコに『彼女』の事は教えていない。同様に『彼女』にもミヤコの事は秘匿してある。余計な諍いを生まない為に、余計な情報は渡さぬようにしていた。だがそれが裏目に出てしまった。

 知らぬ事を知りたいと思うのは、人間の(さが)だ。

「寝てるの……?」

『彼女』はすやすやと眠っていた。『彼女』が出来るのは、ベッドの上で寝るか食べるか本を読むかしかない。

「髪が長い……女の子?」

「――ミヤコ!? なんでここにいる!?」

 僕がその場面を視認した時にはもう手遅れで――しかも運の悪いことに、僕の大声で『彼女』が目を覚ましてしまった。

 目が合う二人。

 そのまま数秒、時が静止したかのような沈黙が流れ、最初にミヤコが――

「……カナデ?」

 と問うと、『彼女』も――

「……お姉ちゃん?」

 と問い返した。

「ミヤコ! こっちへ来いッ!」

 僕は無理やりミヤコを部屋から引きずり出す。まだ全快とはいかぬ彼女を動かすのは簡単だった。

 二人は放心状態だった。しかし僕が完全にミヤコを部屋の外へ放り出し、病室のドアを強く閉めると、『彼女』はその音で我に返った。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 助けて! その変態男、私を誘拐してここに監禁してるの! 逃げられないように私の両足を切ってずっと閉じ込めてるの! 助けてお姉ちゃん! 帰りたいよ! 私帰りたいよ! お姉ちゃんお姉ちゃん! ねえお姉ちゃん! 助けてよ! ここから出してよ!」

「…………どういうことよ」

 ミヤコは僕を見上げて睨みつける。

「説明して、くれるんでしょうね」

「……ここではまずい」

 僕はそのままミヤコを引っ張っていった。




「まさか君達が姉妹だったとは思わなかったよ」

 病棟の反対側――ミヤコの病室までやってきて、僕は彼女をベッドに座らせた。

「まず何から情報開示すべきか……」

「カナデの言ってたことは本当なの?」

 ミヤコは真っ直ぐ僕を見詰めてくる。誤魔化しなど効かないぞ、というメッセージが込められていそうだ。なら正直に吐くしかあるまい。

「概ね事実だ」

「……!」

「『彼女』――カナデをここに連れてきたのは僕だし、閉じ込めているのも僕だ。両足を切断したのも僕。そして言うまでもなく、僕が変態なのはご存じの通り」

「なにそれ……ふざけるのも大概に――」

「おいおい、まさか僕の事を善良で無害で平和な、十把一絡げのただの一般的な変態だとでも思い込んでいたのか? それは大いなる勘違いだ」

 僕はベッドから伸びたミヤコの足を手に取り、そのまま顔の位置まで持ち上げて、履かれたままのソックスに鼻を付け、一気に吸い上げる。

 脳内麻薬が溢れんばかりに流れ出し、立ち眩みする程の快楽が僕を襲う。

 既に僕の性癖にも慣れ、表情を全く変えないミヤコに高らかに言い渡す。

「僕はモノスゴイ変態なんだよ」

「……じゃあモノスゴイ変態さん、聞かせてよ。全部」

「君のソックスはなかなかに上物だ。蔵一番のワインの栓を抜き、その芳醇な香りに神の国を想うフランス貴族の気持ちが僕にはよく理解できる。それに免じて教えてあげるよ」

 ああ、気持ちいなあ。

「そもそも僕にこの細菌に対する免疫があったのは何故か。それは僕がずっと前から、長期間に渡って、感染しない程度にほんの少量ずつ、この細菌を摂取し続けていたからだ。僕の白血球はこの細菌を徐々に理解し、戦う術を身に着けていった。結果、この大パンデミックを僕は生き残った」

 くらくらしてくる。

「では僕はどこからこの細菌を摂取していたか。そんなの君にも分かるだろう。そう、ソックスだよ。当然僕はずっと昔からソックスを貪り続けていた。でもね、僕は意外と一途な男なんだ。一人の女性のソックスを、長い間愛好し、摂取し続けていた」

 ミヤコの爪先がぴくんと跳ねた。

「予想は出来たと思うが、それが君の妹――カナデだよ」

「…………」

「彼女のソックスは本当に……いや、今はよそう。そうだね、そろそろ、この単語を出せば伏線が繋がる、そんなキーワードを発表しようか」

 どうしようもなく笑顔になってしまうな。もう自分のキャラクター性というものを忘れてしまった。こちらが僕の素であることも真実なのだけれど。

「突然変異を起こし、人類を破滅に追いやった細菌とは白癬(はくせん)(きん)だ。水虫と言い換えた方が分かりやすいか?」

「水虫? ヒトは水虫で滅んだっていうの?」

「まあ、水虫というのはあくまで白癬菌が足の角質に住み着いた場合を言うのだが……そういった理解で問題はない」

「ちょっと待って……じゃあ、これって……この事態って…………全部――」

「そうさ」


 人類絶滅の原因は、カナデの足の水虫なのだよ。


「理解したか? 僕が『彼女』に行った行為の理由を。『彼女』の足の角質で白癬菌は殺人生物へと突然変異し、全世界に散らばっていった。『彼女』自身も抗体を持っていたからすぐに死にはしなかった。しかし僕が『彼女』を発見した時にはもう菌は『彼女』の太ももにまで達していて、意識も無く危険な状態だった。苦悩したよ。僕は『彼女』のソックスが生き甲斐だったから、脚の切断という決断には苦痛を要した。だが『彼女』には生きていてもらわなければならなかった」

 ミヤコのソックスを脱がせ、足を観察する。白癬菌の進行跡は、以前見た場所で止まっている。

「僕が君を発見した時に飲ませた液体を覚えているか? あれはカナデの血液だよ。僕も自身の病状の進行を抑える為、『彼女』の血液が必要だった。『彼女』には出来る限り恵まれた生活を提供できたつもりだったけど、年頃の女性は難しい」

 ミヤコの右足を離し、今度は左足に履いたソックスを撫でる。

「『彼女』に真実を教えなかったのは、知ってしまったら自分の責任を必要以上に感じてしまい自らを執拗に追い込んでしまうのではないかという親切心からさ。優しいだろう、僕は。『彼女』はまだこの建物の外では、昔通りの何気ない日常が繰り広げられていると思い込んでいるよ。ここから逃げ出したがっているようだけど、実際はここにいるのが一番健康で文化的に生活できる道だというのに」

 さてさて、と僕はミヤコの左足の親指をソックス越しにぱくりと咥える。

「一方的にべらべら話して申し訳ない。ここから先は君に直接的に関わる話だから安心してくれよ。僕の事情は粗方話した。もう分ったろう? 君の存在のイレギュラーさが。僕が『彼女』と僕以外の生存者を見越していなかった訳を」

 ミヤコの足が震えている。

「この変異した白癬菌の抗体を持つには、カナデのように自分の体で奴らが育つか、僕のように長期間に渡り直接菌を摂取し続けるかしかない。では、君は――」

 ミヤコの足が冷や汗をかいている。

「君はカナデの血液を摂取して、一時的に抗体が力を盛り返した……僕と同じように」

 ミヤコの足がピンと緊張している。

「君はカナデの――実の妹のソックスを堪能していたんじゃないのかい?」

「ち、ちが……」

「君はさっき僕をなんて呼んだかな。そうか君も僕と同類なんだね」


「よろしくね、モノスゴイ変態さん」


「今の話、本当?」

 背後で声がした。

「人間はみんな死んじゃって……私の水虫菌が原因で……私がみんなを…………お父さんやお母さんやルミちゃんやクミコやタツヤくんや……私が、殺したんだ」

ここまで腕だけで這ってきたのか、カナデが病室のドアを開けてそこに居た。

「カナデッ!」

 ミヤコが立ち上がり、カナデに駆け寄ろうとする。

「あなたが気に病む必要なんてない! あなたは――」

「近寄らないで!」

 しかしカナデの一喝によって彼女は凍りついた。

「お姉ちゃん……お姉ちゃんなのに、私のソックスでそんなことしてたんだ……」

「わ……私は、ただ、あなたの、こ、事が……」

「気持ち悪い……最悪……」

 そして、おそらく過度な興奮状態にあるカナデは、ミヤコに止めを刺す。


「みんなの代わりに、お姉ちゃんが死ねば良かったのに」


「カ……ナデ……」

 カナデは僕と、そしてミヤコに全く同じ侮蔑の視線を向け、再び両腕のみで這って行く。もうミヤコに追う気力は無かった。

「これが変態へ向けられる一般的な感情だ」

「殺して……私を殺してよ」

 ミヤコは振り返らない。構わず続ける。

「死ぬのは簡単だが、考えてもみろ。変態とはなんだ。正常とはなんだ」

「何の話よ……私はもう何も聞きたくない……聞きたくないよ……」

「世間一般で言われる常識に則ることが正常。そこから逸脱する者が変態。そういうことだ」

「だから私もあなたも変態だってことに変わりは――」


「世間ってなんだ?」


「……!」

「この世界に人間は三人。僕と、ミヤコと、カナデだけ。それが今の『世間』だよ。一般常識というものが、世間の多数派の動向で決まるのなら……」

「…………私たちは――」

「そうともミヤコ。正常なのは僕達だ。人間はソックスを愛する生物。それこそがこの世界の新常識。紛うことなき真実なんだ」

「私たちは……生きていて良いの?」

「僕らマジョリティを否定するマイノリティな輩なんて、変態だと罵って排斥してやればいい。奴らがしてきたようにね」

「私と……一緒に生きてくれるの?」

「言ったろう。僕は一途なんだ。もう君以外のソックスに食指が動くことは無い」

「……ずっと……ずっと後ろめたく生きてきた。一人で放浪していた時も、これは神様の罰なんじゃないかって思ってた。どんな時も私の両肩には罪の重みがのしかかってた……知らなかったよ」

 ミヤコは微笑んだ。

 心からの喜びに満ちた、本当に美しい本物の笑顔。

「世界に認められるって、こんなに嬉しくて素晴らしいことなんだね!」

「ああ、これは神罰なんかじゃない。選民なんだよ」

 こんなにも世界が美しくなった。

 僕等二人は、今日も、明日も、明後日も。

 未来永劫、世界で一番、正常だ。


(了)

 大学一年の頃の「シリアスな笑い」を追求した作品です。ちなみに僕はソックスには興味ありません。太ももの方が好きです。

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