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9.日常変遷


    × × × ×


「………はぁ」

 やってしまった。

 硲の夜の暗がりの中、家路を急ぎながらため息が漏れる。過去に根を張る原因は後悔というより諦め。やっぱりこうなったか、という諦観にも似た感情から、俺は肺の中の空気を吐き出す。

 憂鬱だった。

 柄にもなくため息をつく程度には、憂鬱だった。

 いや、落ち着け。あの場ではあれこそが正答。今まで伏せていたカードを切ってしまったのは痛かったが、俺の今後の安全を確保しつつ人殺しに及ばずに済ますに最良の方法、そのためにはあのカードを切る以外には手がなかった。例えそれがこれから先の日常をひっくり返すような要素を孕む何かだったとしても、現状ではまず影響は出るまい。

「………でも異操(イグル)のことだから…どうせ――」

 刑の執行に猶予はつけてくれないだろう。その回答が『考えておいてやる』程度の甘いものだったとしても、おそらく四歩は話が前へと進む。

 まったく――――幼馴染もとんだ厄介ごとを拾ってきたもんだ。


 国立NAS養成科持ち学院、その全てに存在する都市伝説存在、《委員会》。学生NASに降りかかる厄災としてはどっかの組織に恨みを買うのに並んで最上級……いや、向こうはヘッドハンティングしてくれる場合もあるらしいから、どちらかというと問答無用で頭撃ち(ヘッドをハンティング)な《委員会》の方が厄介かもしれない。

 何を隠そうこの俺、穂村渚は入学当時にその当時の生徒副会長から《委員会》らしき組織へと勧誘を受けている。

その要因は明白。いくら成績を底辺に抑える主義の俺とは言え、入試と前評判までは下げようがなかった、それだけである。

俺の育った孤児院は随分と奇特なところで、なんと孤児全員に戦闘訓練を、それも相当高度なレベルの物を受けさせていた。

勉強のための鉛筆よりも武器を握っていた時間の方が、多分長かったと思う。

おかしいとは思わなかったし、周りの孤児も訓練を嫌っているきらいはなかった。その孤児院にいたのはほぼ全員が惨劇孤児。理不尽から親を、それまでの暮らしを、普通という概念を喪失した人間ばかりで、理不尽から脱却するには何が必要かを、よく理解していた。

俺が入ったのは五歳の時、出たのは中学に入ったころ、だったため、鬼のような実力になるのは避けられず、そしてついつい――俺は入試で全力を出した。

目をつけられたのは、ある意味必然だったと思う。

その時点からある程度活動は自重しよう、と考えていた俺の回答は保留。そしてそのままずるずると時間が流れ……今に至る。

「………まったく」

 厄介ごとがこれ以上増えるのは、ごめんだ。

 それ以上に人がこれ以上死ぬのを見るのも……ごめんだ。


 ――――遠い街を幻視する。

 あの三か月で、大勢の人が死んだ。

 あの三か月で、大勢の人を殺した。

 そして俺自身も……おそらくは死んだ。

 あの惨劇の渦中で助け出せたのは、わずかに一人だけ。

 助けたいと願っても、生かしたいと懇願しても。

 俺ごときで届いたのは、一人が限度だった。


「……ただいま」

 考え事をしながら歩いていると、いつの間にか家についていた。

 俺の家は硲市の東側、学園都市として成立する以前から存在した、閑静な住宅街の中にある一軒家である。名義人は俺ではないが、一応の管理人は俺、ということになっている。

「おかえりなさい」

 暖かな色合いの調度で飾られた玄関の俺へ、キッチンから飛んでくる穏やかな女性の声。泉から湧き出る清水のような、激しさではない穏やかな起伏を持つ、聞くものの安堵を誘う声だ。

 習慣的な行動として、足は自然とキッチンへ向かう。

 迎えたのは藤色の着物姿と背に流れる長髪、小柄ながらも芯の通った立ち姿をした、エプロン姿の少女だった。

「ただ今、名織(ナオリ)

「はい、お帰りなさい渚さん。すみません、遅くなる、と聞いていたのでご夕飯、まだなんです……。申し訳ありませんが、しばらくお待ちいただけますか?」

 キッチンスペースで包丁片手に野菜を刻みつつ、申し訳なさそうに柳眉を下げる少女。こちらとしては半端な時間に帰った身、別になくても構わないのだが、やはりそこは譲れない一線らしい。

 少女の名前は蒼帆(アオハタ)名織(ナオリ)

愛用の普段着は着物、性格は気品に溢れ穏やかそのもの、流麗な黒髪と濡れ羽色の双眸が印象的な、俺の幼馴染のひとり。

そして――俺が唯一、あの町から連れ出すことができた人間だ。

キッチンへと足を踏み入れ、定位置に存在する椅子にブレザーを引っ掛ける。

「別に、構わないって。遅れてきたのは俺の方なんだし、いつも通りで」

「いえ、私はこの家の家政婦ですから。渚さんの都合に合わせてご夕飯を用意して差し上げるのは、当然のことです」

 にべもなく言い切る名織に苦笑し、キッチンに隣接したリビングのテーブルにつく。この家に住み始めて五年ほどになるが、その間名織が家政婦として以外の顔を見たことは幼馴染の俺でもほとんどない。

「あ、そういえば今日、先日注文していらっしゃった9mmパラベラム弾、届いていましたよ。試用品として屈曲弾道弾も付属していましたが――――どうします?」

「屈曲弾道弾……ってまた面倒なモン掴ませたもんだな…公社も」

 ギフトとしてはあまりにも使用困難、明らかに実験動物扱いの待遇に、思わず苦笑が漏れた。

「とりあえず装填、頼んでいいか?」

「と、言われると思ってもうやってあります。屈曲は別にして、全段装弾済みですよ」

「………そりゃありがたい」

 いつものことながら手早さに感服しつつ、食卓上の急須に手をやり、傍らの湯飲みに熱茶を注ぐ。温度は完璧味は良好。相変わらずの家政婦だった。

 そのまま、流れるような手つきで夕食を準備する名織の後姿を眺めることにした。

やはり手馴れているだけあって、その手つきは早く、目線をやる時間は五分程度で終わる。

 見栄えと味とに配慮された盛り付けの和食が並ぶまでに、さらに一分少々。

 手早く片づけを終えた名織がエプロンをほどき席に着くまで待ってから、俺は箸を手に取り手を合わせた。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 いつものやり取りとともに、目の前の和食に舌鼓を打つ。これもいつものことながら、名織の料理、特に家庭的な料理は本当にうまい。

 向かいの席の名織に目をやると、名織は薄い桜色の頬をわずかな笑みでゆるめながら、気品あふれる仕草で焼き魚を解体していた。さして力を籠めている様子がないのに簡単にほぐれていく身。料理のスキルは、こういったところにも発揮されるものなのだろうか。

 ゆったりと茶を含み、ふと、思い出す。

「そういえば、名織。お前、俺がやった銃、どうしてる?」

「えっ。あの銃ですか? 使う機会もないので部屋のタンスの中に入りっぱなしですが……」

「それじゃ護身用の意味がないだろ。賊に入られたりでもしたら、どうする?」

「あっ――申し訳ありません……。個人的に、銃は苦手なものですから……」

 心底申し訳なさそうに名織は目を伏せる。

「今度からは、ちゃんと取り出しやすいところにおいてきます。本当に……申し訳ありません……」

「、いや、そこまで謝る必要はないって。ただ、ちょっと今日あったもんだから心配になってな。今起こってるのは家の中にまで入ってくる手合いじゃないから、別に問題ないと言えばないんだけど……それでもな」

「――――? 何か、新しい事件でも……。あ、そういえば」

 何かを思い出したように、ふ、と名織が顔を上げた。そのまま箸を置き、立ち上がってリビングのサイドボードの引き出しをあける。

「どうした?」

「いえ、今日ちょっと……あっ、これです。はい」

 はい、と差し出されたのは幾通かの手紙だった。公的書簡に用いられる特有の紙の感触。封筒に踊る血のような朱印は『NASL』――――NAS関係者専用文書。

 すでに封の切られている文章を抜き出して、ざっと中に目を通す。情報自体はすでに既出、通り魔関係の注意喚起と推奨対処法のリスト、後は現在判明済みの擁護派・殲滅派の組織拠点一覧だった。

「今朝、ポストの中に入っていたものです。一応、お見せしておこうかと思いまして……」

 どうでしょう? と首を傾げ尋ねる名織。

「情報自体は既出。だけど、この中で『FC(フェイスクラッシャー)』と『肝吸い』だけには気をつけろ。今日の夕方ごろだけど、新入生に犠牲者が出た」

「えっ……もう、ですか…?」

 もう。そう尋ねる名織に、俺はうなずきを返す。新入生の中から早期に死者が出るのは珍しいことではない。実力不足や油断・慢心、犠牲者の出る要素として、新入生は事欠かかず、毎年五月を目安として、新入生の中に確実に犠牲者は出るそうだ。

 そして今日は入学当日。突然のバッドエンドで人生を終了するにしては、いささか以上に悲劇めいた日程だと柄にもなく思案した。

 自然、鋭くなる目を名織へと向ける。

「こいつらは家に入ってくる手合いじゃないけど、買い物とかの時、気を付けといてくれ。一応、俺の方でもちょっとは探り入れてみる」

 その言葉に、名織が隣に立ったまま、心配そうな目を向けてきた。

「そんな――――大丈夫、なんですか?」

「……まあ、今のところは何とも言い難いな」

 まず両者とも手口が余りにも不明瞭すぎる。その上動機と心象――――具体的には『どうしてこの手段で人を殺しているのか』、犯人の人間性が窺えるはずのこの部分が理解不能というのが、手痛い。

 しかし、それでも――――。

「でも心配すんなよ。解決まで持ってこうなんて考えてないし、第一持ってけるような位置に届いてない。それに関係者ってわけでもないから、ヤバそうだったら早めに手、引くって」

「だけど、もし出会ったりなんかしたら……」

 名織の黒の双眸に、わずかな涙が滲む。このままだと泣き出しかねない。危機感から、隣にある髪の上にぽん、と手を乗せた。

「あっ――――」

「安心しろ。無茶はしても、無理はしない。できないようなら手は引く。ちゃんと帰ってくるって」

 撫でるように手を動かす。と、名織はわずかに目を細め、口元を笑みにゆるめた。

「はい……。すみません、出過ぎた真似を……」

 恐縮しきりな様子で脇に除けられた手紙を片付け、名織は自分の席へと戻った。

 先程とは打って変わった恥じらい顔で、それでも背筋だけはちゃんと伸ばして食事を続行する名織に、思わず頬が緩む。日常を痛感する一瞬、快いとも、心地よいとも思える時間。

「ったく……だから言ってるだろ? 恐縮しすぎ。同い年なのにそんなんでどうするんだよ」

「いえ、ですが私は家政婦ですし、しがない雇われの身ですので……」

「とはいっても幼馴染だろ? 別に固まらなくてもいいんじゃないか?」

「でも……」

 ポツリ、名織は呟いて。

「私は、渚さんの隣にいられれば何でもいいので……」

「………」

 今度は俺が硬直する番だった。赤面以上の別の感情で、俺の芯が固まったかのような錯覚に陥る。わざとか、わざとなのか。そうだとしたら何たる手練れ。俺を感情で縛りつけるにおいて、名織以上の手合いを俺は知らない。そして今生、知ることもないだろう。まったくもって、恐ろしい幼馴染だった。

 照れ隠しのように、白米を掻き込む。

「……まったく。ほどほどにしてくれよ?」

「あっ……はいっ」

 その一言で、名織の表情が一気に華やいだ。その笑みは撫子。目立つことはなく、自己主張も薄いが、それを見る者の心を和ませ晴れ間を与え庇護欲をかき足られる、そんな笑み。直視できずに思わず目をそらし、


 と――――

「…………」

 ポケットの中の携帯電話が、不吉の胎動を受信した。

 発信元によって、振動のパターンは変えてある。この不整脈のような不規則な振動はまぎれもない、日常や安穏の境界を越えた向こう側、非日常と殺伐の境界の内側に存在する人物からの、知らせ。

 ………思ったよりも、早かったな。

 内心を切り替える。怪訝な目を向ける名織を手で制して携帯電話を取り出し、明かりに満ちたリビングから暗い廊下を通って自室へ。

 携帯電話を見る。『着信 零 異操』

 受話ボタンを、押した。


『――――やあ、穂村君。一日が平穏とは言わずとも無事に終わらせられたこと、まずおめでとう。そして無事に二年生になれたこと、続けておめでとうだ。同じ孤児院出身者として、僕も君は気にかけているのでね。今日一日に起こった何事も、万事何事もなく退けられたようで、なによりだ』


 電話口から吐き出される芝居がかった深い少年の声。俺よりも幼い声の響き、だがそこに秘められた悪意は優に俺を上回る。

「………前口上は結構です、先輩。要件を聞きます。事情は、把握しているんでしょう?」

『やれやれ――つれないな君は。こうして会話を交わすのも数か月ぶりだというのに、随分と冷たいじゃないか』

「不吉しか感じない相手に友好的になれって方が無茶ですよ。今すぐ出家でもしてくれれば、多少は友好的になれるかもしれませんけどね」

『ふふっ……いや、それは遠慮しておこう。僕には僕のスタイルというものがある。崩してまで人一人の友好を稼がねばならぬほど、僕は人間関係に不自由はしていないよ。むしろ不自由なのは君の方なのかな? 孤児院時代から続く縁を今まで引きずっていては、不自由極まりないだろうに』

「………名織のことは、」

 ぎりっ。携帯電話が、手の中で激痛の軋みを訴えた。

「名織のことは……感知しない約束でしょう、先輩」

『ああ。そういえばそうだったね。いいだろう。君がどれだけ不自由であろうと、どれだけ自由であろうと、僕にはさほど関係のないことだ。―――――さて、お望み通り、要件に入ろう』

 挑発的な物言いに、憤怒。見せたそれらの動きに対し、特に同じた様子も見せず、電話口の悪意は話を続ける。地獄街道を行く錯覚。悪魔の招きに従う幻覚。不吉の体現である幻覚を振り払い、俺はただ先を促した。

『聞くところによると穂村君、君はうちの新入りを退けたらしい。これで時噤君は仕事を目撃され目撃者の抹消にも失敗したことになるが――――それはどうでもいい。重要なのは、その相手が君であり、なおかつ君は時噤君に条件を提示したというこの事実だ』

 にやりと、電話が笑ったような気がした。

『「考えておいてやる」――――君はそういったそうだね、穂村君』

「……ええ」

『考えうる限り最良の色よい返事だ、一年間待ち望んだかいはある――――。ああ、今ならば踊れと言われれば踊りだしてしまいそうだ』

「では踊ってください」

『御免こうむるよ。一人で音楽もなしに踊るなど、ただの狂人だ。ジルドレでさえもそんなことは行うまい。歓喜が理解されれば、行動などただの無意味な蠕動だ。だけど……時に無意味だと表も動いてみれば、今この瞬間のような歓喜もありうるわけだ。最高だよ、穂村君。君の回答はまさに理想――――目の前に提示された神の啓示のごとし、だ』

「……………それで、要件は」

『明日、一限目の開始直後に生徒会室に来たまえ。授業などは欠席して構わない。この僕が生徒会の権限を持って君を呼び出したのだ、授業などは些末な問題だよ』

「………そこで、何を」

『決まっているだろう? 穂村君』


 ――――君を、《委員会》に迎え入れる相談だ。


『君が是非を選択することを表明した時点で、君にはそれを決定づける義務がある。それを明日、聞かせてもらおうじゃないか』

「どう答えるかは、わかっているんでしょう?」

『もちろんだとも。だが――その程度を覆せずして何が生徒の長か』

 ではまた明日に会おう。

 そう言い残し、電話は切れた。

「……………」

 暗がりの部屋のベッドの上へ、携帯電話を放り捨てる。

 ため息。そして脱力。言いようのない虚脱感。何かが切り替わり、何かが壊れていく感触。視界にちらつく昏い線。それは俺を縛り上げるかのように、部屋の中へと満ち満ちていた。

 諦めるように、一つ。

 大きく、ため息をついた。


 どうやら――――

 どうやら、俺の日常の形は、ここへきて完全に変性することが、確定してしまったらしい。

「………まったく」

 つぶやきと同時に、俺はベッドへと倒れこんだ。



    × × × × × ×



 ――――あたしは、誰。


 そこは暗がり。そこは混沌。そこは胎内。そこは体内。

 虚無の暗がりであり、絶有の坩堝であり、再誕の袋であり、溶解の胃袋。

 浮かび沈み生まれ死ぬ、矛盾しながら矛盾せず有りながら無く取り込みながら取り込まれる。絶対の有と絶対の無、相容れないものを相容れる形に存在させ、相容れないがために反発し融和する、そんな場所に………あたしはいる。


 ――――あたしは、何。


 その中で、ただ存在しているのは『あたし』。感覚を根拠とすることはできない。全てが存在し全てが存在しないこの場所において、自らの意思が存在する以外の存在証明は不可能だ。

故にあたしは思考することによって自らの存在をこの場所に肯定し、あたしはあたしの意識を此処に立証する。

 それは瓦礫の山の中から、宝珠の原石を見つけ出すに等しい行為だ。


 ――――あたし、は………

    あたしは、どうなった?


 溶けていく。咀嚼されていく。自分という意識が徐々に霞んでいく感覚。少しずつ摩耗していく自我を観測し続けるという狂気じみた行為の中、それでもあたしは不思議と恐怖を感じていなかった。

 ×××からにはこうなるのは節理、因果、必然、運命。

 理屈ではない感覚、卑屈ではない納得を持って喪失は疑問として浮かぶことなく浸透する。ああ、これが《そう》なのか、これほど身近にあったのか、真摯に染み渡る理解の内で、あたしは喪失を肯定する。

 肯定してなお…………あたしは。


 ――――……重い。


 それでもあたしは、混沌の中で思考をやめなかった。

 ………否、やめることができなかった。

 重い。

 意識の片隅が知覚した感覚、それは重さ。

 軽妙な思考を続ける意識に纏わりつくように、周囲を覆う《そこ》から意思に纏うように、重みがしがみついている。

 これは何。あたしは思う。

 これは誰。あたしは想う。

 ――――これは肉体。意思を入れる器。命を満たす杯の淵。

 ――――これは私。私は私。考える者、意識の主。名前は……


 柵内、暦。


 重さの存在が肉体の存在を自覚させ、肉体の存在が生命の存在を肯定する。暗闇の中、閉ざされた知覚を開くことを意識は望み、そしてそれ故に、

 あたしは、目を開く。

 そして、見た。

「…………っ!」


――――暗闇光生命死滅存在非存在熱量冷涼高層低層夢想現実固体液体幻想実像混沌秩序無限有限分断結合集合散会無量有量殺害救済高速低速――――


 これは、なんだ。

 ――――なんだという問いは無意味だ。それは何でもある。

 ここは、どこだ。

 ――――どこだという問いは無意味だ。それはどこでもある。

 今は、いつだ。

 ――――いつだという問いは無意味だ。それはいつでもある。

 どうして、ここにいる。

 ――――どうしてという問いは有意義だ。これは常には在らぬ物。

 あたしは、誰だ。

 ――――誰だという問いこそ正当だ。その問いこそ、己の独立性を肯定する。独立は独立故にこの混沌とした世界においては異物となり、そして異物となるが故に。

 ここに、いられなくなる。

 上へ、下へ、右へ、左へ。

 あらゆる方向へ移動させられながら同時にどこにも移動していないという錯覚。その最中に、あたしは。

 ふと、自らの重みの喪失を錯覚した。



    × × × ×


 目覚めは、長く引き伸ばされる鈍痛だった。

 自然開かれた瞼は不自然な抵抗を持って覚醒を阻害する。のりを引き剥がすにも似た不愉快な感触をこらえ、強引に瞼を開いた。

 見知らぬ木目、ろうそくのような暗い、暖かな橙。

 天井に揺らめく影は、一つ分。見知らぬ影、見知らぬ気配。椅子に座って本でも読んでいるのだろうか、その影は屈んだ姿勢のまま動かない。

「ここ……は……」

 中世の一般家庭、その屋根裏部屋を思わせるような調度の中で残響する呻き、それにこたえるように、天井で揺らめく影が大きく立ち上がった。

「ん……? ――――ちっ。起きたかよ」

 ぶっきらぼうな響きを持つ少女の声。幼げながら込められた感情は強く、波紋の中には苛立ちを含んでいる。かすかな怒気すら感じる不機嫌な声に思わず顔を向けると、そこには濃い紫のポニーテールを背中に揺らす、バーテン服の少女の姿。

「なるほど……確かに並じゃないみたいだね。カノンの『再生』に、あたいの『捕食』――――二つ分で補正して、おまけに優まで絡んでるとは言え、半日かからずに蘇生なんて確かに驚きだ。あいつが目を付けたのも……ふんっ。わからないでも、ないね」

「………なに、を……」

 あたしの問いには答えず、紫の尻尾を揺らしながら少女は身をひるがえした。

「待ってろ。孤実、呼んでくる。――――ああ、あとお友達も連れてきてやるよ。ああ、あとまず言っとくが、動くんじゃないよ」

 バタン。

 冷たく言い残し、それ以降一度も振り返ることもないまま、少女は部屋から出て行った。

 静寂の中、一人残されたあたしは、混濁の中をしばらく漂う。ろうそく揺らめくベッドの上、身を起こしただけのひどく不安定な在り様のまま、現在の自分の位置を思考した。

 ………何が…あったっけ。

 今日は――そう、入学式。朝起きて、おじさんたちが妙に張り切ってて……逃げるみたいに学校へ出て――――。カノン……だっけ。と会って……そだ、学生証――もらったんだっけ。それで放課後になって――――

 織瑚が誘拐されて、

 電話に案内されるままに、喫茶店の前に向かって――――

 そしてそこで、あたしは―――――


「っっぅっ……ぇっ……」

 猛烈な吐き気に襲われ、身を覆う毛布へと突っ伏した。胃の腑どころか五臓六腑のすべてが搾り上げられるかのような、鮮烈すぎる嘔吐感。それでも胃の内容物が吐き散らされることはなく、何かが詰まったような不快な空えずきだけが、ひたすらに口から洩れていく。

 口の端から垂れ堕ちた唾液が、毛布の上にぬらりと線を引く。

 荒れる呼吸に呼応し、心臓が早鐘を打つ。

 それでもなお不足、それでもなお恐怖。あたしの体感した事実を打ち消し、今ここにいるという実感を獲得するには、不快極まりないこの吐き気でさえも足りなかった。

 忘れもしない、忘れられるわけもない。つい数時間前、眠っていれば軽々に過ぎ去ってしまうような、矢に例えるもおこがましいほどの短時間前に。


 あたしは、死んだのだ。


「――――はぁっ……はぁっ……」

 頭蓋が砕ける感触を覚えている。片目が圧搾される感覚を覚えている。哺乳類には許されぬ高みから自由落下する風のはためき、重力の因果の感触、肌に纏わりつくような大気の重みと、頭にたたきつけられる地面の硬さ。自らが体感したその全ての瞬間という瞬間を、間違いなくあたしという個人は記憶している。

 あんまりな事実、そしてあまりの、おぞましさ。

 生命を弄ぶような苦痛ではない、生きながらにして体感する死の感触に、二度吐き気を覚える。顔面の左半分を覆う布の感触はおそらく包帯。どうして自分が生きているのか、どうして死んでいないのか、そんなことは今はどうでもいい。今はただ、自分が一度死んだという事実が、そして体感した死の内容こそが、あまりのもおぞましくてしょうがない――――。


「ううううっうううぅぅぅ――――ぁっ!」

 おぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましいおぞましい。

 体の中にもう一本腕が増えたような異様な感触が腸を這いあがってくる。外へ出ることを望む胎児のように、あたしという殻の内側を引っ掻いてくる。

 視界が歪む。暗転しそうになる。

 暗闇の中へ再び落ちそうになる世界。しかしそれはごめんだ。今落ちれば再びあの暗がりに舞い戻る気がする。それだけは、それだけはごめんだ。縋るようにあたりを見回す。と、ベッド脇の小机、その上に、あたしの荷物が置かれているのが目に入った。

 ベレッタM90_two。

 その小脇には、愛用の伸縮型ステンレスロッド

 よすがを求めて手を伸ばす。自己の感覚すら曖昧な嘔吐感の中、武器の実感は何よりの助けとなるだろう。だが、この姿勢から手を届かせるには水差しが邪魔だ。押しのけるように指先で押す。――動かない。中に入った水が重すぎる。重みが邪魔だ、どけ。どけ、どけ――――――


 どれぐらいそうしていただろうか。

 視界の端で、ドアが開く音がした。


「あら……目覚めた、って聞いてたからこうなることは予想できてたけど、ここまでひどいのは予想外ね。大丈夫?」


 ひらひらと、百合の花が揺れるような不吉と儚さを両立させる声が届く。誰、と思うのは一瞬後。吐き気を堪えながら右手のドアへと目を向ける。

 そこに死の兆しを体現したような、白がいた。

「………いい顔になったわね、ふふふ…」

 嘲笑のように口元を歪めながら死兆の白――孤実先輩は、悠然とした仕草でベッド脇の椅子へと歩み寄る。私服なのだろう、骨のような肢体を喪服を思わせる漆黒のゴシックドレスで覆ったその姿はさながら葬儀に参列する黒点の乙女そのものであり、歩み寄る優雅な仕草は忍び寄る死神を連想させるほどに生気がなかった。

 射抜くような紅の眼に見つめられる感触を覚えながら、内側の吐き気を抑え込むように呼吸を深くし、身を起こした。

 ………大丈夫。目をそらせさえすれば、案外なんてことない。

 深く息を吸い込み、強引に吐き気を抑え込んだ。

「――――あら、存外大丈夫なようね……。それにしても予想外よ。ここまで早いのもそうだけど、こうも適応まで早いとはね。素質があるのは会った時からなんとなくわかってたけど、まさか一日足らずで適応されるなんて考えてもなかったわ、ふふふ……」

 ベッド脇の椅子の上で、人形のような優雅さで孤実先輩は不吉に笑った。

「それで? 新しく生まれ変わった気分は……どうかしら?」

「新しく……生ま、れ……?」

 吐き気の残滓を堪えながら、手の甲で口元を拭う。

 理解不能の困惑の表情をしていたのだろう、孤実先輩は口元に手をやり上品に、再び不吉を表現する。

「わけがわからないのも無理はないわ。あなたはつい数時間前に、生死の概念を飛び越えた境地にいたんですもの……。半生を賭した苦行でもたどり着くことのできない生命の極致、万物の深奥、原初の混沌――――すべての人間が望み、望まれる究極の場所に、あなたはいたの」

 かたり、と優雅な仕草で孤実先輩が立ち上がる。低い身長、少女然とした装い。小柄な体躯が見つめる先は、自然あたしの目線に一致する。

「万象の終局、それが死。死は、万象の終局故にすべての事象を内包する。内包する事象は事象が事象であるが故のすべてに拡散し収束し謳歌する。だから――――あそこにはすべてがあるの」

「あの………いったい、何の話を――」

「あなたも『視た』でしょう? あの……すべてが混ざり合った矛盾と調和の混濁」

「………っ!」

 理解が脳裏に広がった。

 確かに、あたしは見た。あの暗がり、あの深奥。自分がなんなのかわからなくなる理解不能の調和の混濁で、あらゆる事象と矛盾しながら調和する、言葉にはできない存在を。孤実先輩の言葉に従うのならばあれは『死』。だけど、言葉以前の感覚として理解できる。あれは、『死』ですら内包している。滅びと始まりの起点であり終点にして存在しながら存在しない、究極の二分である『有無』ですらもあの中の一部でしかない、と。

 そしておそらく、それは混沌ですらない。

 言葉では決して表現できぬ混沌にして秩序。

 確かに、あたしはそれを『視た』……!

「………ふふふ」

 満足げに、少女を纏った不吉が笑む。

「いいものを、見たみたいね」

「………っ」

 怖気の走る肉体を、堪えるように抱いた。

 ………あれが、死…。

 形容しがたい現象の坩堝。死ですら内包する絶対の存在にして非存在。

 あと少しで、あたしは『アレ』に触れてしまうところだった。

 触れて、そしてその末に溶けてしまうところだった。

「………っ!」

 再び走った怖気を抑え込むように、全身を力で抑え込んだ。

 そんなあたしを案ずるように、孤実先輩があたしの肩に触れた。

「大丈夫よ、そんなに怯えなくてもいいわ。あなたは今生きてるんだし、傷自体も治癒が大方終わってるから、また死ぬようなこともないわ。何しろ《リバース》……そう簡単には、死ねないわよ」

「リ……バー、ス……」

 肩に触れる骨のような手指の感触を思いながら、音をなぞる。

「それって、都市伝説、の……?」

「ええ、そうよ。《白夜の大惨劇》以降世界中で囁かれる実在する都市伝説、その一つ。ある日突然超常を宿す異能者――――いいえ、正確には再誕者、って呼んだ方がいいわね」

 楽しげに言い、孤実先輩はあたしの隣へと優雅に腰かけた。

「さて、少し――――お話しましょうか」




 再誕者――――リバース。

 それは文字通り、何らかの理由で一度死亡した人間が、死を知覚した上で蘇生した者を差す。

 考えうる起源として最も有力なのは二十数年前に生じた原初の惨劇、《白昼の大惨劇》。その最深部にいながらにして後日救助がやってくるまで生存していた、NASの原型ともいえる五人の少年少女が発端だという。以来散発的に世界全土でその存在が認められていながら、その存在はあくまで都市伝説とされ、世間においては眉唾物、影に隠れた存在でしかありえなかった。

 因果どころか節理まで捻じ曲げるこの存在がどうして生じるのか、それは今のところわかっていない。が、そこにはどうやら素養のようなものが存在するらしく、必ずしも死亡したからと言ってリバースとして復活するというわけではない、という。


「仮説の中で有力なのが、死の濃度。大量の人間が死んだ、たくさんの死に触れた人が死んだ。――――そんな風に、いろいろな死に触れて、内包する死の濃度が濃くなった人ほど、再誕しやすいらしいわ」


 それはさながら死に作られ、死に至る街道。それは無数の死によって形作られ、深奥へと人を招く、狂気の旅路。

 そしてもっとも重要な事実は、再誕者がすべての場合において、何らかの超常的な能力を獲得し、再誕するということ。

 曰く、ユング派心理学においてすべての人間は無意識の才深奥において同一である、という。すべてが集った集合無意識の海、世界すら内包し拒絶する絶無の極有、そこに存在する全ての断片を奪い取るように獲得し、彼らは帰還する。


「全能は神ではなく、神ですら内包する滅び――死そのものにある。一度死に浸った意識はそこから死の一部を奪い取って、戻ってくるのよ。言ってみれば神様からの簒奪ね。ありとあらゆる事象が通じる終結から、一部を奪ってやってくる。世界は現象で、奪ってくるのは世界から。だから略奪品は、必然現象になるの……理解できた?」

「……そんな、こと………信じられません」

 死? 起源? 再誕者? 集合無意識? そんなことがあり得るわけがない。ここは現実、人が人を殺し人が人を殺す、そんなありふれた終わりで満ちた現実だ。なのに異能の話で、それがあたしの中にもあるだなんて言いぐさ――――これじゃあ、まるで漫画か何かの中みたいだ。

 頑ななあたしを余所に、孤実先輩は優雅に笑んだままだった。

「信じられないのも無理はないわね……ふふふ。でもそれだと、あなたはどうやって死んだのかしら? いまあたしの手の中で起こっている異常なことは、一体なんなのかしら?」

「それは……え……?」

 ちらりと目をやった孤実先輩の手中を見て、絶句した。


 骨を思わせる手の中に、炎が踊っている。


 蛇のような奇跡の炎が弧を、円を、螺旋を描いて舞い踊る。火球という単純な形ではないそれは、明らかに他者の意志の介在した炎の小劇場。

 操れる由もない事象が踊る手の中、それを、あたしは呆然と見つめ――――

「……ふふ。綺麗でしょう?」

ぐっ、と孤実先輩が拳を握る。橙の光を照らす高温の塊は白百合のような白い手指に煤の一つも残すことなく、隙間から火の粉を挙げて消えうせた。

「まあ、これは一例ね。あなたを殺したアレもそう。やろうと思えば私も彼も、NASの一個中隊ぐらいは瞬殺できるわ。それほどの物なのよ、リバースっていうのは」

 それは道理から外れた人間が持つ、道理を覆す異能。超常にして弔常、異能にして忌能、まがい物ではない真正、生命の終着点に触れたものだけが入手しうる――それは、世界の道理そのもの。

 道理そのものを宿した少女は不敵に笑み、再びその矮躯を部屋の中へと踊らせる。

 楽しげに、心から楽しげに、白色の先輩はろうそく明りの中で笑った。

「わかってくれたかしら? これがあなたの踏み入った世界。あなたのこれから歩いていく世界の人間。死と隣り合わせではない抱き合わせの中で生き続ける、異能と超常の魔窟よ」

 ふふふふふ――――

 笑い声が、脳内で残響する。

 理解しがたい情報、咀嚼しがたい知識。脳裏で渦巻くそれらの感触にわずかの吐き気にも似た感覚を覚える。常識が瓦解していく確かな実感と、狂気じみた世界が浸透していく違和感。ベッドの上はまるで牢獄のような境界。常識、狂気、嫌疑、理解。せめぎ合うそれらの感覚の中、唯一腹の中の違和感だけが正気のよすがだ。

「………でも…」

 絞り出すように、かろうじて言葉を口にする。

「…でも、あたしがそうなったっていう保障が、どこにも……、あっ!」

 口にして、そして気付いた。

「織瑚――――は」

 そう、あたしは確かにウタタネ――――おそらくはFC事件の黒幕であろう人物から織瑚を誘拐されたと伝えられ、呼び出された先で宙に浮かび……殺された。

 それはいい。――いいや、よくはないが、少なくとも過ぎた事実だ。

 重要なのは、織瑚。あたしを殺すことを最初から目的としていたのだとすれば、ウタタネにとって織瑚はすでに用済みになっている。誘拐において人質を返すことはリスクの塊を返却するに等しい。目的がただあたしの殺害にあったのなら――――もう、織瑚は殺害されていてもおかしくない。

 布団を跳ね除ける。ふらつく体を強引に立ち上がらせ、傍らの机上のロッドへ手を伸ばす。

「あらあら、どこへ行くつもりなの? 再生は間に合ってるけど、まだ完全に癒着してるわけじゃないから、動かないに越したことはないわよ?」

「ご心配ありがとうございます。でも、あたし行かなきゃ。友達がFCに誘拐されてるんです。先輩も知ってるでしょう? 人質の周辺人物の殺害を目的とした場合の対応マニュアル」

 暇つぶしに中学の頃知った知識を確認していた昼間だ。

 曰く、『周辺人物の殺害を目的としていた場合、人質救出を目的とする場合は対象殺害の十二時間以内に状況を終了せよ。それ以上の時間経過が存在した場合、人質はすでに破棄されたものと思考、以降は同マニュアルの第四項に従うべし』。

 今が何時なのかはわからない。けど、少なくともまだ十二時間は経っていないはずだ。仮にFCの目的があたしの殺害にあるとすれば、あたしが生きていると知ったらきっと殺しに来る。

「あたしを囮にすれば、きっと出てくると思います。先輩、助力、お願いできますか? あたしじゃあ、多分無理なんで……」

 壁に掛けられていた防弾制服を羽織り、ロッドを収める。銃は――――置いて行こう。どうもまだ平衡感覚に違和感がある。もとから苦手な銃を使いこなす自信はない。

「あ、無理だったら無理でいいです。あたしも一応今日なり立てとはいえNASなんで、いざとなったら一人でもやりますから。の、前にここ、どこなんです? あ、あとあたしの携帯壊れちゃったんで、できれば電話も貸していただけると………」

「ふふ、ねえあなた、少し落ち着いたらどう? 大丈夫よそんなに焦らなくて。お友達も無事だし、彼があなたを狙うこともない。彼の目的はあなたが再誕したことで、もう完了してるわ」

 窘めるような孤実先輩の、言葉。

 その中に含まれていた毒の気配に、思わず装備を整える手を、止めた。

「………どういう、意味なんですか……?」

 織瑚が無事だと断定できるような要素はあたしにはない。FCは謎に謎が重なっているような不可思議な通り魔の一種で、その尻尾を踏んだNASですらもいない、と公式データにはあった。だけど孤実先輩はその目的を知っているという。知っていて、なおかつその目的が終わっていることも理解しているという。

 先程の言葉の端々に滲んだ、違和感が脳裏を差す。


 ――――どうして、先輩はあたしが飛んだことを知っていた?


 あの人知を覆す異常な死に方を、状況を見れば想像すらできないような死の現場を。

 これじゃあまるで、

 まるで先輩がFC事件の黒幕と共謀しているかのような――


「どう意味かって?」

 心から楽しげな笑みのまま、少女然とした骨がこちらに紅の眼を向ける。先天的な色素欠乏、色の異常が生んだその目は肉の色が透けた赤。生命そのものを案じさせる紅の深淵を、針のようなまつ毛が輪郭を歪めた。

「そのままの意味よ。彼はあなたを殺さないし、お友達を殺すつもりもない。だからあなたが出ていく必要もなければ、私が協力する必要もない………そういうことよ」

「だから……どうしてそう断言できるんです?」

「それも、簡単な話よ」


 ――――そうするように命令したの、私だから………


「っ!」

「理解したかしら? うふふふふ………」

 笑みの途絶は待たない。言葉の理解も待たない。目の前の人間が誰なのか、それを理解した瞬間、あたしの体は傍らの銃へ飛びつくように手を伸ばし、

「おっと」

「……っ、ぁっ!」

 キンッ、という音。穿たれる音。それと同時に手の甲を冷たい痛みが霞め、その手が銃に届く寸前で停止した。

 傍らの水差しの首を切り落としてテーブルに突き刺さる、一本の投擲用(スローイング)ナイフ。

 切り落としたガラスの断面は怜悧の一言。一切余計な罅を走らせることなく、一切余計な破壊を行うことなく、ただその細い首を切り落として投げつけたその技量は、その奥にある確かな実力を窺わせるには十分すぎた。

 ごとり。

 テーブルの上に切り落とされた水差しの首が、落ちる。

 眼前、対峙する先輩の手には、いつ取り出されたのか更なる投擲用のナイフがあった。

「言わなくても、分るわよね? 容赦はしないわ。リバースって、死に難いし」

 次に妙な行動を起こせば、『水差し』になるのはあたしである、と孤実先輩は言外に忠告する。言われずとも理解した。何が起こったのか理解できないほどの神速で投擲されたナイフ、その妙。それだけの技量があれば、あたしが反応する前にあたしを『水差し』にするのは容易である、と。

「………あたしを、どうするつもりですか」

 せめてもの抵抗、射抜く視線に全力の敵意をこめて、孤実先輩をにらみつける。

「別に、どうもしないわ。強いて言うのなら――――私の《集団(クラスタ)》に新戦力として入団してもらうこと、それから今私たちが首を突っ込んでる事件の解決に手を貸してもらうこと。これぐらいかしらね」

「………首を縦に振ると、思ってるんですか。こんなことしといて」

「一筋縄ではいかないっていうのは承知してるわ。それに――――仕方がなかったとはいえ強引にリバースにしたのは私たちだもの。それについては謝るわ、ごめんなさい。だけど、これは必要だったの。無用に被害を広げないためにも、ね……」

 それに、と孤実先輩は手の中のナイフを弄びながら続けた。

「あなたも、私が必要なはずよ。あなたが内側に宿した現象がなんなのか、それをどう制御していいのか――――あなたは、知らないもの」

「………っ、確かに、それはそうだけど――――」

 そんなもの、と言いかけて違和感を覚える。

 水差しの中、確かに入っていたはず水が、ないのだ。

 そればかりか、同じ机の上にある銃が濡れた形跡もなく、中に残っていたはずの水も一滴たりとも存在していない。瞬間移動でもしたかのように、忽然と、水差しから水が消えうせている。

 どこへ、と思う一瞬。孤実先輩がにやりと、楽しげに口の端を歪めた。そして指差す。

「――――上?」

 疑問符を浮かべながらも、首を晒さないようにしつつ天井付近を窺う。

 そして、絶句した。

 水はあった。確かにあった。瞬間移動でも神隠しでもなく、確かに物理的な移動を行った結果として、確かにそれはそこにあった。

 だけど、これはなんだ? 確かにこの形状になるのも、条件がそろえばこうなるのも理解はできる。だが、どうしてこれが今こうなっている? どうしてこの場で、水がこんな風になっている?

 天井付近、そこにあった水は、『球形』をしていた。

 静電気で張り付く風船のように天井へ張り付く水。そこは支える物もなく、満たして置くものもない。そればかりか、ここは重力下だ。無重力空間ならば興味を覚えこそすれ不思議には思わなかっただろう。だが、今ここでこの形を見せられるのは、話がおかしい。これは、あってはならないのだ。

 水がまるで無重力空間であるかのように、宙を浮遊するそのさまなど、決して。

 決してこの場では、あってはならないのだ――――


「あと、聞いてもいいかしら?」

 驚愕から立ち返り、テーブルから離れるようにして孤実先輩と対峙する。わけがわからない、どうしてこんなことが起こる? まるで魔界にでも迷い込んだような感覚だ。混乱を隠せないあたしへ、さらなる言葉が投げかけられる。

「あなたの眼の色だけど――――」

 するり、と孤実先輩がポケットからアンティークに飾り付けられた折り畳み式の手鏡を取り出し、

「――――どうして、そんなにきれいな金色なのかしら?」

 あたしに向かって、投げ渡した。

 もう何も考えられない。投げ渡された高級感あふれるその手鏡を開き、見慣れた顔を映す。

「っっっ!」

 声にならない叫びとともに、思わず手鏡を取り落した。

 眩暈がする。視界が回転する。どうしてこうなっているのかどうしてああなっていたのかがわからない。いや、ならどうして今こう見えているのだろう。当たり前が当たり前でない常識が常識でない。もう何を考えていいのか、わからない。


 ――――鏡に映った目の色は、《朝日の金色》。

 黒であったはずの眼の色は、まるで猫のように爛々とろうそく明りの中で光を放っていた。

 そして………鏡に映った自分の顔。


 その左半分は、眼球を覆うようにして完全に包帯で覆われていた。


 見えている。確かに両目とも、あたしの視界は存在している。手を左目に伸ばす。そこにある感触は肌ではない包帯。開いているはずの眼球の表面をなでると鈍痛とともに感じるのは包帯表面のざらついた布地の感触。眼球表面をなでるように確かに視界の中には指がある。なのにその指は包帯の表面にしか触れていなくて、だけど視界には指の存在がちゃんとあって、包帯を圧迫すると押し返してくる感触は柔らかな球形の凸面ではなく凹面で、つまりことはあたしの眼は片方つぶれているということで、なのにあたしはこうして見えている。理解が及ばない感覚が追いつかない感性が死にそうだ。

 もう、わけがわからない。

 眩むように視界が淡い白に覆われた。

 肉体が平衡感覚を喪失し、足元が揺らいだ。

 完全に視界が白に覆われる、その一瞬。


 あたしは、水が叩きつけられたかのような音が響いたのを、確かにこの耳で聞き取った。


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