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8.実力差

    × × × ×


「――――死んでも、後悔するんじゃねぇぞ」

 殺劇の開始を告げる言葉と同時、萌木は右手をWIDAへと走らせた。

 右手がWIDAの格納キーを叩く。

 単純な動作、叩くべきは四つのキー。淀みなくたたくその動作は、まさに神速の一言。

 萌木自身が得意とする距離は近中距離。拳銃による基本銃撃戦、陽動と牽制を含めた拳銃格闘戦、クロスレンジにおけるナイフ格闘戦および総合格闘戦、それら全てを高い水準で獲得した彼女にとって、十五メートル以内の距離は必殺の間合い、自らの保有するすべての技術を持って他者を打倒しうる、もっとも的確な間合いだ。

 この距離であれば、逃がさない。

それが一対一となれば、なおのこと。

 かつて孤児院にいた人物たちには及ぶことのないそれらの技術も、一体となって使用されれば無敗の技術となる。振るわれるそれらは身のうちに染みついた必殺の技能、《委員会》内部はおろかプロNASの世界ですらも通用するだけのものであるという自負がある。

 そして……それは自身の思い込みではない。

 キーを叩くその一連の動作はまさに神速。要した時間はわずかに0.2秒、人間の反射に肉薄する極限の速度を持って入力されたキーは刹那の時間でその腸、大振りのオートマグナムを吐き出した。

 射線を合わせ、狙い、引き金を引く。

 0.2秒。さらに重ねた0.2秒。極限まで研ぎ澄まされた技法が可能にする音にさえ肉薄した神速は捉えられることなく猛威を振るい、結果射線上のあらゆる物を破壊の礫で打ち破る。

 が、その直後。

 驚愕と同時に一刹那、時が止まったかのような錯覚に陥った。

 構え駆け出した渚、向けた銃口の先にある距離は、零。

 お互いの微細な表情すらも読み取れるその距離、呼気すら感じられるような近さへと、渚はその身を進めていた。

 とっさに拳銃の狙いをずらす。が、その瞬間再び渚の姿がかき消えた。

 どこ、と探す暇すらない、まさに本能の反射で身をかがめる。

 瞬間、全身の毛が逆立つほどの耳元近くを、白刃が通過した。

 はらはらと幾本かの毛が宙を舞う。乱された髪が左半分の視界をかき乱す。

 左側――――脳に届くよりも先に、左側の足元へと足払いをかける。瞬間視界を黒い影が反転するように横切り、空を切った左足が身を回転させる力として作用し、振り乱された髪が視界を覆って、


「………くっ」

「ちっ………」


 大きく後ろに跳躍し、萌木は渚と距離をとった。

 直後、首筋に感じる鈍痛。思わず手を伸ばすと、首の左側が線上に腫れあがっていた。

 再び対峙した渚の手の中、殺意の光を無造作に放つその刃は、前後が逆。

峰にある刃破断部(エッジブレイカー)に絡まった茶色の髪と、先程の一瞬。

 峰打ち、そう理解するのに一瞬。そして

 ――――本気なら、殺されてた……!

 嫌な汗が湧き上がる。それとは別、全身を駆け抜ける確かな感情は……高揚。何も変わっていない、精細を欠くことも速度を損なうことも膂力を減ずることもなく、萌木自身の成長に合わせたかのような速度で進化を遂げた、その技術、その粋。

 自らを殺しうる人間が、今、目の前に存在しているという実感。

 その事実が、感触が、その実感が、そしてその存在自体が、時噤萌木という人格を過熱し冷却し高揚させ、そして自らの性能の限界までを引きずり出す。

 獣のごとき昂揚の中、萌木は過去を想起する。自分が今まで過ごした孤児院以降の中学時代、学生NASとして人殺しの日々を送る中で、これほどの腕を持つ相手は存在しただろうか、と。

 答えは、否だ。

「両側行きたかったんだけど……やっぱ無理か、お前相手だと」

「は、はは………」

 笑みが止まらない。恐怖と昂揚と興奮。血沸き、肉躍る。常人では不可能な神速での挙動、抜き打ちより早い対峙、それでもなお、渚の狙いで言えば不足なのだ。

「……やっぱり、鈍ってなんかいないじゃない――――」

「まあな。テストとか仕事とか、割とサボってるし」

 あれほどにまで固執していた隠匿を、あっさりと渚は首肯する。

「どうして、なんて聞くなよ。これは殺し合い、終わった後に立ってるのは俺かお前か、そのどっちかだ。そして今ここで、俺は宣誓する」

 再び、彼は身を深く沈めた。先ほどと同じ、神速の歩法の構え。抜き打ちですら間に合わぬ、おそらくは銃弾ですら当たらぬであろう、必殺の挙動の前準備。

「今ここで武器を収めれば、俺は追わない。お前の事情もお前の理由もお前の過去もお前の組織も………一切合切を忘却して元の日常に戻ってやる。ここであった殺し合いも今日話したことも、お前が黙秘すればどこにも流出しないことを契約する。その上での質問だ。………どうする」

 このまま殺し合うのか、はたまたこの夜の出来事をなかったことにするのか。

 絶対的な凍土のような冷たい声で、渚は萌木へと問いかける。

 渚の腕は見た。見せつけられた。抜き打つ銃弾にすら届くその速さ、首に付けられた峰打ちの痣。萌木自身に手を抜いた覚えはない。殺し合うと宣言した以上、そこに甘さの入り込む余地はなく、それ故に萌木が振るった腕は、全力のそれだ。

 だからこそ、端的な事実として理解できる。

 このまま戦えば、十中八九萌木は殺される、と。

 人間として戦えばかなわない、身に着けた拳銃も剣の腕も、渚の前にはかなわない。恐るべきことに、アレはまだ底をみせていないのだ。

 だが、萌木には引けないだけの理由がある。

 だからこそ――――

「…………」

 無言で、萌木はWIDAを叩く。手にした銃を収め、引き抜くのは二本の西洋剣。生まれは中世スイス。形状は両立、片手での扱いに馴染むよう、刀身を切り詰めた異形の私生児(バスタードソード)

 啜った命は幾十幾百、幾多もの戦場を超えて生存を約束した、時噤萌木の近接スタイル。

「………そうかよ」

 身を沈めた姿勢のまま、渚は嘆息する。同時に広がる剣呑な気配。一触即発、白刃を踏むかのような危険な気色の中、じりじりと時間が流れ、

「――――《幻在》」

 渚の呟き、その刹那、その姿が掻き消える。

 無謬の一瞬。時間が、顔を失った。


 渚の体術、その本質は《不可視》。超えるのは光でなく認識、神経という音にも等しい速度に肉薄する挙動、追いつけるわけがないという油断、挙動までの極小の間隙、そこに生じる感覚不能の一瞬を積み上げ、彼は殺戮までの時間を作り出す。

 故にそれは幻。見えていながら見えてない、認識ではなく意識の間隙を突くそれは、まさに幻の体術の名にふさわしいとさえ言えた。

 だからこそ、渚は止められない。極まったそれが生み出す速度は刹那の間とはいえ音にさえ肉薄する。わずか数メートルの距離で、音に追いつくなど不可能だ。

 そう、追いつくのは。

 音とは言えど、空間は飛び越えられない。壁があればぶつかる、穴があれば落ちる。距離は距離として適用され、故にいかな音であろうとも進む物としての束縛からは逃れられない。

 人が、音に追いつけないというのなら。

 やってくる音を、迎え撃てばいい。

 駆けだされるその一瞬、萌木は自らの内側を意識する。日頃は認識の埒外として存在するそこは《黒い火》。皮膚を焼き骨を焦がし血を沸き立たせ無数の屍を焼き焦がす風景の魔性。魔性は魔性としてあるが故に過去でありながら現実を幻想の焔で塗り替える。

 魔性を、肉体へと装填する、

 刹那、掻き消えたその姿がやってくるであろう自分正面へ目がけて、萌木は自らの内側の魔性を炸裂させた。

「なっ……」

 生じるは爆炎。皮膚を焼き骨を焦がし血を沸き立たせ無数の屍を焼き焦がす記憶の風景は、充填された魔性を持って現実の風景へと顕現する。

 事前動作一切なし、硝煙の欠片も匂わせることなく突如出現した火葬場のごとき炎。

 それをかわしたのは、いかなる反射速度の故か。

 呻くような声と同時、渚の体が地を這うように横へと跳んだ。

 直線挙動からの曲線挙動。その動作は幾多の戦場を駆けた萌木の目から見ても、見惚れるほどに速い。このまま螺旋状に距離を詰めたとしても、萌木の首を刈り取るのに五秒とかからないだろう。

 しかし、その疾風のごとき速度も視力には及ばない。

 螺旋を駆け抜けねば切りつけられない渚と。

 ただ見るだけでいい萌木との差では、五秒ではあまりにも長すぎた。

「――――!」

 萌木の目の両目が光る。

 色は血を思わせる懸濁した深紅。奇しくもそれは萌木があの日に見た風景と同じ色。かの風景を再現する魔性は、かの風景と同じ色合いを持って同一の風景を再現する。

 異変までは、0.1秒。

 自らの肉体に高温を感じた瞬間、弾かれたように渚は左へ、螺旋の中心へと跳んだ。

 突然爆ぜる爆炎、が、それでもなお渚の肉体にかかる高温は緩まない。

「――――っ」

 爆炎に浮かんだ渚の顔に、焦りの色が浮かんだ。

 萌木の保有する再誕の異能、《リバース》は銃弾のような飛び道具ではない。その異能は萌木の視界の明暗や距離の遠近によらず、萌木が『見た』と認識したその場所へ、萌木が《死んだ》その瞬間の風景を再現する。

 それ故に、萌木の視界の中にある以上、逃れることはできない。

 ――――殺せる……!

 内心で萌木はそうほくそ笑んだ。

 が、次の瞬間、その笑みは溶解する。

「え」

 眼前の風景は数俊前の再現。渚との距離はすでに必殺、互いの刃圏のその内側。異能の炸裂、その効能の範囲内。

「……なっ…!」

 思わず内側の魔性を収めた。瞬間、渚の白刃が萌木へと延びる。とっさに受け止める西洋剣、受け止め、切り返した二刀を、渚は萌木を飛び越えるほどに跳躍してかわした。

 ―――まずい。

 そう思考するまもなく、萌木は前方へと転がった。

 首筋皮一枚を縦に通過する灼熱。ためらわず振るわれたその刃に戦慄を覚え、立ち上がると同時に背後を振り返り、爆炎を放つ。

 が、その瞬間にはその姿は背後にはない。

 どこへ、と思う。その一瞬。

 首筋に、ぴたりと刃が突き付けられた。

「……………っ」

「……とった」

 突き付ける刃の持ち主、その姿は、足元。

 地を這うような姿勢から急転、跳ね上がった刃が首を上へと貫くような角度で、皮膚一枚を舐める。

 視界の外、武器は届かず、反撃の手管はない。視界を動かすわずかな動作にすら渚は反応し、首筋に突き付けた刃を容赦なく首へと突きこむだろう。

 次は勧告でも警告でもない、待つのは容赦のない、死だ。

「チェックメイト。反撃、逃亡、ともに不可能だ。手中の武器を捨てろ」

「………くっ」

 ――――こいつ……!

 内心で歯をかみしめる。この期に及んで、渚は萌木を生かすつもりか、と。

 西洋剣を手放す。渚の足が刃を蹴り飛ばし、背後へと金属音が響いた。

「これで残りは拳銃二つと《リバース》だけ……。この距離じゃどっちも無意味だ。お前の負けだよ、萌木」

「……だったら、殺しなさいよ」

「どうして」

「どうしてって……当たり前じゃない。殺し合いなら、敗者は死ぬものでしょ?」

 殺し合いの末の両者生存に対する当たり前の口上に、渚は呆れたような声を返した。

「あのな……お前は殺されたいのかよ」

「何言ってるの……。そんなわけ、あるわけないじゃない」

「ああ、だろうな。俺も殺したくない。なら、それでいいじゃねぇか」

 言葉と同時、あっさりと、あまりにもあっさりとした仕草で、渚は首筋に突き付けた刃を引いた。

 突然すぎるその行為に呆然とする萌木。それを余所に、渚は手中のバタフライナイフを片手で滑らかに納刀し、ポケットへと収める。

「まったく……余計なとこで余計な運動させやがって。時間食わなかったからいいものの、遅れてたらまた名織が何言ってくることやら……まったく」

 心底嫌になる、といった様子で萌木の背後へとまわり、足元の西洋剣を拾い上げ、柄を突き返した。

「ほら、返す。手入れ、しとけよ」

「……あんた…正気…?」

「正気も正気、明日の予定が気になるぐらいには正気だよ。ああ、それも言ってみりゃ正気じゃないか。養成科の鬼訓練を忘却できるなんて、正気の沙汰じゃない」

 くすくす、と渚は笑った。

 その自然さに、ようやく萌木の驚愕も晴れる。目の前にいる先程まで殺し合った相手は、もうすでにその事実を終わったものと考え、日常の中に帰依しつつある、と。

 だからこそ、萌木はもう一度同じ質問を繰り返す。殺し合いという生命の究極を乗り越えてなお日常、その感性が、その心情が、その理性が、萌木には全く理解できなかったからだ。

「あなた……正気なの?」

 二度のその問いかけに、不可解に渚は眉根を寄せた。そのまま一秒ほど、考えるように表情を固め、ああ、と納得したようにうなずく。

「そういえばそうだったか。まったく、正気だとか狂気だとか、忘れてると不便だないろいろと……。まあ、その問いに答えておくと、俺は間違いなく正気だ。傷つけば痛いし殺されるのは嫌だし、死んでるのを見るのは辛い。それを正気じゃないっていうならお前が狂気だな」

「だったら! どうして私を生かしておくの!」

「決まってるだろ。俺は殺したくなくて、お前は殺されたくない。利害が一致してるのに殺すなんて、時間と余力の無駄だからだ」

 すんなりと、彼は答えた。

 その自然さ、その素直さにしばし呆然と、彼女は立ち尽くす。

「なによ……それ。自分が殺されるかもしれないのにそれでも殺したくないなんて、どこの平和呆け――――」

 否、と。途中まで口にして萌木は踏みとどまった。

 先程、彼は言った。正気や狂気を忘れていると不便だと。つまり彼の中では正気や狂気といった概念は忘却されていてしかるべき概念であり、相手がどちらに属するものであろうと、気にもならない、ということだ。

 正気、狂気を区別しない。正気は生かすもので、狂気は殺すもの。それらを区分せず同一の概念にとどめ置き、あまつさえ忘却するということは畢竟、彼にとって生かすことも殺すことも同列であることを意味する。

 それは殺すことも殺されることも日常であるということで。

 そして日常の裏にある人の悪意を当然として受け入れるということで。

 それはつまり、彼が誰よりも闘争の中に身を置いているという証明に、他ならない。

 だから萌木を生かすのも、また殺しにかかってくることを当たり前と認識しているからで――――

「――――あなた、まさか……」

 それが当たり前でなかった三年前、当たり前となってしまった今。両者を隔てる究極的なまでの境界線に、萌木は心当たりがあった。

「あなた――――まさかあの《大葬儀》に…?」

 そうであってほしくない、そんな祈りを込めた萌木の問いは、

「ああ、いた」

 あっさりと首肯した渚によって、祈りもろとも解消された。

 虚脱する。その直後、納得する。実力、無気力、殺し合いに対する軽さ、それらすべてに、今ここで回答が明示された。

《大葬儀》、遡ること二年前に発生した空前絶後の大惨劇。町一つに住む住人すべてがただの通り魔を発端として恐慌状態に陥り、その結果生まれてしまった無差別的な連鎖殺人事件。述べ被害者数二十七万二千七百余、公式発表生存者数わずか二百九十一。パニックの拡大防止のために殺人公社はその周囲を《リバース》動員によって壁で覆い、内側に残った五万数千を見捨てた。

 そして、その内側にいたというのであるのならば。

 それは狂気の溶鉱炉の蠱毒の内側と言っても、差し支えない。

 理解と驚愕、恐怖と憐憫、入り混じった感情によって動けない萌木を余所に、渚は背を向けて歩き出した。

「待っ――――」

「ああ、あと《委員会》のトップに穂村渚からの伝言だ。『考えといてやる』ってな」

「……え、ええ………でも…」

 どうして、という声は、発されなかった。

 落ちたと思っていた幼馴染、そのあまりの高さに、萌木は押しつぶされ、ただ見送るしか残された手段は存在しなかった。


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