空の色
ゆめは工場のある、大きな大きな街に住んでいました。そこの空はいつも灰色で、暗く濁っていました。
空とは、そういうものだと思っていました。
雲は工場から出る、厚く汚い煙でできていました。お日様はいつも弱々しい、夜に浮かぶ星はくすんだ光を投げかけていました。
全部全部そういうものだと思っていました。
「光化学スモッグ警報が、発令されました。日の光にあたらないように充分注意して、外出は控えて下さい。繰り返します……」
街中にアナウスが響きます。
黒っぽい雲の隙間から太陽は、サンサンと輝いています。
ああ、今日はこんないい天気だというのに、お日様の光は浴びれません。 スモッグは雑巾色の雲の仲間です。特にコウカガクスモッグは危険な連中で、それの出た日にお日様の光を浴びると、ヒフガンという恐ろしい病気にかかるのです。
ゆめは影を作った窓から、恨めしそうに空を仰ぎます。
空を見るのに飽きると、他にすることもなくって、今度は地面を眺めます。
車が行き交う黒いアスファルトと余すとこなく敷き詰められた灰のコンクリートが、茶色の土を覆い隠す地面。ヤカンの口のように透明の湯気が立って、ゆらゆら揺れています。
蜃気楼の歩道の上をどこから現れたのか、黒いえんび服の男の人が歩いています。顔は見えません。
なぜなら顔が隠れるくらいすっぽりと、大きなシルクハットをかぶっているからです。
ゆめの家の前で、男の人は何を思ったのか、かぶっていたシルクハットを取り去ってしまいました。シルクハットを取っても、頭には黒い髪がのっています。顔にはシワがなく、悲しそうな顔をしています。
むわっとした空気が部屋の中に入るのも構わず、ゆめは思わず窓を開けて叫びます。
「お兄さん、ダメだよぅ!帽子をとっちゃいけないよぅ!」
男の人はシルクハットを片手に、丁寧にお辞儀をしました。
「ありがとう、親切なお嬢さん。だけど私は大丈夫」
それから、顔を上げて言います。
「お嬢さん、あなたは、本当の空を、見たことがありますか?」
「見たことあるよ。ほら、今も」
ゆめは上を指差します。すると男の人は顔をしかめ首を振りました。
「あなたは、こんな空が本当の空だと思っているのですか?この空は偽物です。本当の空は、もっと、ずっと美しい。あなたは本当の空を、見たくありませんか?」
ゆめは首を傾げます。ええ?本当の空?
ゆめはこの空しか知りません。だから言いました。
「見てみたい」と。
男の人は大きく頷いて、空っぽのシルクハットを空に掲げました。
たちまち猛烈な風が吹きました。シルクハットから竜巻が生まれたのです。竜巻は空に届き、雲を薙ぎ倒します。切れ切れに小さくなった雲はシルクハットに吸い込まれていきます。風はごうごうと唸りを上げていましたが、空に厚い雲がなくなると止んでいきました。
「お嬢さぁん、これが本当の空ですよぉ。さあさあ、ご覧なさぁい」
窓の向こうから呼びかける明るい声。
ゆめは空が見たくなって、外へ飛び出しました。
空は、ゆめが今まで見たことのない色をしていまいた。青い青い天井は、純白の切れ雲は、まぶしいお日様の光は、ガラスのように澄み渡っていました。ゆめは大きく口を開け、空に見入っていました。
「どうしてこんなに綺麗なの?」
男の人は答えます。
「理由なんかないんですよ、お嬢さん。この空が本当の空なのです。空は元々こういう色をしているのです」
気がつくと、家に篭っていた大人も子供も外に出て、この空を見上げていました。
あまり長いこと眺めていたので、やがて西の空は色を無くしていきます。かと思うと朱や茜や橙に染まり、ゆっくりと落ちてきたお日様が暖かい光を放ちながら、遠くに見える海に沈んでいきました。水面は宝石のようにキラキラ輝いていました。
お日様がいなくなっても、東の空はしばらく青を残していましたが、薄紅になり紫になり、最後は山際を残して暗い紺色になりました。
そのうちに一番星が灯りました。
続いて二番星、三番星……気がつけば数えきれない星々に囲まれていました。澄みきった星の光に、ゆめは思わず手を伸ばしました。
無数の星が渦を描いて回り出した頃、黒いシルクハットが音を立てて震えました。
男の人は「もういいだろう」と呟いて、再びシルクハットを掲げました。
帽子の口から煙のようにもくもくと、捕われていた汚い色の雲が溢れました。雲は天に舞い上がり、星の光を覆い隠してしまいました。
「なんてことするんだ!」
空を眺めていた人たちは口々の罵り、叫びます。けれど男の人は、残念そうに首を振りました。
「仕方ないのです。この帽子はスモッグを、半日しか留めることができません」
人垣を掻き分けて、髭を蓄えた市長が前に進み出ました。
「それならお願いです。その帽子にスモッグを閉じ込めて、半日の間にどこか遠くへ行って下さい」
いい考えだと、手を叩いて囃す人もいました。しかし男の人は恐い顔で睨みます。
「そんなことしても三日もしない内に、この空は汚れるでしょう。
第一あなたは他の場所にいる人から、空を奪うつもりですか?なんて身勝手だ」
責められた市長は、顔を真っ赤にうろたえました。
「それなら、こうしましょう」
街一番の太っちょのお金持ちが、みんなの前に進み出ました。
「あなたは街に滞在して、毎日雲を取り込むのです。そうすれば私たちはあの空を、半日おきに見ることができる。そのかわり、必要なものはこちらで用意します。お金も好きなだけ支払いましょう」
男の人は深く深くため息をつきました。
「私はそんなもの、いりません」
そして皆に向かって声を張り上げます。
「聞いて下さい。美しいあの空を汚したのは、あなたたちです。あの空をもう一度見たいなら、他にすべきことがあります」
男の人はゆめに別れを告げると、星明かりのない夜の闇へと消えました。
‡ ‡ ‡
家に帰った街の人たちはめいめい頭を抱えました。すべきことって?
太っちょのお金持ちは、名高い研究者を雇いました。彼は黒い煙を少なくする煙突を発明しました。
それでも煙はなくなりません。
そこで髭を蓄えた市長は、「要る時以外は工場を使わない」という法律を決めました。そうしてしばらくすると、嫌な色の煙はぐんぐん減っていきました。
ゆめは今日も空を見上げます。まだまだ時間はかかるけど、見る度に少しずつ、少しずつ、あの空の色に近づいている気がします。 いつかまた会えたら……。今度はこの空を本当の空だと、言ってくれるでしょうか。この空を美しいと、言ってくれるでしょうか。ゆめはそんな日を今か今かと待っています。
見上げた空は青色です。
今夜も、綺麗な夜空になりそうです。
私は、コンビニもないような小さな山間の村で育ちました。車の往来も殆どなくて、堂々と道路で寝転がれるような、過疎の田舎です。四十人に及ばない同級生は保育園から中学まで同じクラスで、幼なじみなんて特別だとは思いません。
中学の時に赴任してきた理科教師が言いました。ここの空は綺麗だ、と。
天体観測が好きな父は、私に空を見上げることを教えてくれました。だから私はその時、空が綺麗なのは当たり前だと思ったのです。
もちろんそんな田舎に高校なんてありませんから、中学を卒業した私は朝早く夜遅く電車で通いました。
ある日駅まで自転車を漕ぎながら、何気なく空を見上げました。
私は衝撃を受けました。
星光は萎んで、濁っています。小さな星は闇に掻き消され、存在などしていないかのよう。天の川なんて、見る影もない。
泣きそうでした。こんなのが空?
何より衝撃だったのが、そこにいる人たちがそれを当たり前のものとして受け入れていたことです。
そうかこの人たちは、こんな空の下で生きているのか。これを全てだと思って、死んでいくのか。そう思うと、悲しくなりました。
今、環境は悪化し続けています。子供たちの多くは、空の色を知らずにいます。私たちは、子供たちに本当の空を残すことができるでしょうか?