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恋愛小説のはずでした

婚約破棄を宣言されましたので、拍手しました。会場中がつられて拍手したので、これは祝福ということでよろしいですね?

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/26


 卒業を祝う夜会の、ちょうど楽団が息を継いだところだった。


「クラリス・ヴェルネイユ公爵令嬢」


 王太子ジルベール殿下が、わたくしの名を呼んだ。


 姓まで付けてお呼びになるのは、公の宣言をなさるときだけだ。だから何が来るのかは分かった。分かったので、わたくしは手にしていたグラスを、近くの卓へ置いた。


 両手を空けておきたかったのである。


「そなたとの婚約を、破棄する」


 広間の音が、綺麗に消えた。


 三百人ほどいたと思う。全員が息を止めたので、蝋燭の芯が鳴る音まで聞こえた。


「理由をお聞かせいただけますか」


「そなたは完璧だ。何一つ欠けていない。だが、私はミレーヌを選ぶ」


 殿下の半歩後ろで、ミレーヌ・オルコット伯爵令嬢が、頬を染めて目を伏せた。伏せながら、扇の上からこちらを見ていらしたので、伏せる意味はあまりなかったと思う。


「殿下はわたくしを、器としてご覧になっていたのですね」


「言葉を選べ」


「失礼いたしました。では、選び直します」


 わたくしは一歩、前へ出た。


 殿下が身構えたのが分かった。おそらく、罵倒か、涙か、証拠の書類でも出てくると思われたのだろう。近衛の方々の手が、わずかに動いた。


 わたくしは、両手を胸の高さまで上げた。


 そして、叩いた。


 ――ぱち。


 乾いた音が、静まり返った広間の天井まで届いた。


 ――ぱち。ぱち。


 わたくしは、微笑みを崩さずに拍手を続けた。祝いの席で貴婦人がする、あの控えた拍手である。速すぎず、大きすぎず、けれど確かに聞こえる速さ。


 三百人が、わたくしを見ていた。


 殿下も、わたくしを見ていた。


「……何の真似だ」


 わたくしは答えなかった。答える必要がなかった。


 なぜなら、別の手が、広間の右手から重なったからである。


 ――ぱち、ぱち。


 若い男の手だった。


 貴族というものは、場に合わせる生き物である。


 わたくしどもは、意味の分からぬ拍手が起きたとき、まず「叩かぬこと」を恐れるように育てられる。祝いの場で手を止めている者は、無礼か、無知か、あるいは反意を持つ者だ。だから分からぬときは、とりあえず叩く。理由は後で誰かに聞く。


 二つになった。


 三つ、四つ。


 そこで数えるのをやめた。堰が切れるのと同じだったからである。


 十人が叩けば、隣の卓が叩く。隣が叩けば、その隣は叩かぬわけにいかない。広間の音は、みるみる厚くなった。


 万雷の拍手、というものを、わたくしは初めてこの目で見た。


 シャンデリアの飾りが細かく震えていた。


「待て」


 殿下の声は、拍手に完全に呑まれた。


「待てと言っている!」


 届かない。三百人の手のほうが、王太子の喉より強い。


 わたくしは拍手を続けながら、殿下の顔を見ていた。


 殿下は聡明な方である。だから、ご自分が何に嵌まったのかを、この十数秒でお分かりになったはずだ。


 この拍手を止めるには、こう仰らねばならない。


 ――静まれ。私の宣言は、祝福に値するものではない。


 王太子が、自らの公の宣言を、公の場で、自ら格下げする。


 あるいは、こうも仰れる。


 ――静まれ。この女の拍手には意味がない。


 だがそれは、釣られて叩いてしまった三百人に向かって、「そなたらは意味も分からず手を叩く愚か者だ」と告げることになる。


 どちらを選んでも、失うものはわたくしではない。


 殿下は、口を開き、閉じた。


 もう一度開き、また閉じた。


 その間、拍手は続いていた。


 やがて楽団の指揮者が――彼が悪いのではない、彼は職務に忠実なだけである――祝いの拍手だと判断して、祝典の短い旋律を弾き始めた。


 拍手に楽が乗った。これでもう、誰の目にも祝いの場になった。


 わたくしは手を止め、裾を持って、深く礼をした。


「――おめでとうございます、殿下。ミレーヌ様」


 拍手が、いっそう大きくなった。


 ミレーヌ様が、青い顔で殿下の袖を引いていらした。何かを囁いておられたが、拍手のせいで聞こえない。おそらく「これは違います」とでも仰りたかったのだと思う。


 違わない。もう違わないのだ。


 三百人が祝った婚約破棄は、祝福された婚約破棄である。


 わたくしに落ち度はなく、殿下に非もなく、ミレーヌ様は正式に祝われた王太子の選択となった。


 ――つまり、誰も、この件をもう一度蒸し返せない。


「本日はよき日でございました」


 わたくしはそう申し上げて、退がった。


 背中で、拍手はまだ続いていた。



 控えの間でコートを受け取っていると、廊下の向こうから足音が来た。


 近衛の礼装の若い男だ。金の飾り紐に、まだ慣れていない立ち方をしている。ノエル・アシャール子爵令息。殿下の護衛につく前に、二年ほど父の領地の警備にいた方だと記憶している。


「ヴェルネイユ公爵令嬢」


「アシャール卿」


 彼は少し困った顔をして、それから自分の右手を見た。


「最初に重ねてくださったのは、あなたですね」


「……お一人では、足りませんでしたので」


「足りない」


「あなたの拍手は、速さが完璧でした。ですが、一人では祝いになりません。三人からです。三人集まれば、あとは自分で転がる」


 わたくしは、この方を見上げた。


「では、もうお一方は」


「隣にいた同僚に頼みました。何も説明していません。『叩け』と言っただけです」


「よく叩いてくださいましたね」


「軍では、理由を聞かずに動く訓練をしておりますので」


 わたくしは笑ってしまった。今夜、初めて表情を崩した。


「アシャール卿。あなたは、わたくしが何をしようとしていたか、あの一瞬で分かったのですか」


「いえ」


 彼は正直に首を振った。


「分かりませんでした。ただ、あなたが両手を空けたのが見えました」


「グラスを置いたのを、ご覧に」


「はい。何かをなさるおつもりだと思いました。そして――」


 彼は言葉を探して、少し黙った。


「あなたが、笑っておられたので。あれは、負けた人の顔ではありませんでした」


 わたくしは、コートの襟を直した。手が少し震えていたので、直す仕事があってよかったと思った。


「アシャール卿。近衛のお勤めは、何時まででしょう」


「本日は、宴の終わりまでです」


「では、終わりましたら」


 わたくしは彼に、公爵令嬢としてではなく、拍手をした女として言った。


「そのご同僚に、お礼を申し上げたいので。連れて来てくださいますか」


「……喜んで」


 広間からは、まだ楽が聞こえていた。


 祝いの旋律である。


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― 新着の感想 ―
おお。貴族社会のやり方だ! 王太子の「下手すれば愚鈍だと罵られる」選択を無理やり祝福しているように思わせる方面へ軌道修正。 あとはお話の通りですね。クラリス嬢は婚約を破棄されましたが、「ジルベール王…
これ本当に破棄するとか止めるとかでなく立場を残しておこう…とか思っていた可能性はありますよね。側妃にさせられる可能性もぶった切ったし、覇気は確実だし、良かったね!!ということで。 もう戻せねーぞこの野…
>そなたは完璧だ。何一つ欠けていない。 >証拠の書類でも出てくると思われたのだろう。 これだけだと気分で婚約者を変えた暗愚になっちゃうので、この後に主人公が何をしても封殺して大義名分を掲げる準備がし…
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