婚約破棄を宣言されましたので、拍手しました。会場中がつられて拍手したので、これは祝福ということでよろしいですね?
卒業を祝う夜会の、ちょうど楽団が息を継いだところだった。
「クラリス・ヴェルネイユ公爵令嬢」
王太子ジルベール殿下が、わたくしの名を呼んだ。
姓まで付けてお呼びになるのは、公の宣言をなさるときだけだ。だから何が来るのかは分かった。分かったので、わたくしは手にしていたグラスを、近くの卓へ置いた。
両手を空けておきたかったのである。
「そなたとの婚約を、破棄する」
広間の音が、綺麗に消えた。
三百人ほどいたと思う。全員が息を止めたので、蝋燭の芯が鳴る音まで聞こえた。
「理由をお聞かせいただけますか」
「そなたは完璧だ。何一つ欠けていない。だが、私はミレーヌを選ぶ」
殿下の半歩後ろで、ミレーヌ・オルコット伯爵令嬢が、頬を染めて目を伏せた。伏せながら、扇の上からこちらを見ていらしたので、伏せる意味はあまりなかったと思う。
「殿下はわたくしを、器としてご覧になっていたのですね」
「言葉を選べ」
「失礼いたしました。では、選び直します」
わたくしは一歩、前へ出た。
殿下が身構えたのが分かった。おそらく、罵倒か、涙か、証拠の書類でも出てくると思われたのだろう。近衛の方々の手が、わずかに動いた。
わたくしは、両手を胸の高さまで上げた。
そして、叩いた。
――ぱち。
乾いた音が、静まり返った広間の天井まで届いた。
――ぱち。ぱち。
わたくしは、微笑みを崩さずに拍手を続けた。祝いの席で貴婦人がする、あの控えた拍手である。速すぎず、大きすぎず、けれど確かに聞こえる速さ。
三百人が、わたくしを見ていた。
殿下も、わたくしを見ていた。
「……何の真似だ」
わたくしは答えなかった。答える必要がなかった。
なぜなら、別の手が、広間の右手から重なったからである。
――ぱち、ぱち。
若い男の手だった。
貴族というものは、場に合わせる生き物である。
わたくしどもは、意味の分からぬ拍手が起きたとき、まず「叩かぬこと」を恐れるように育てられる。祝いの場で手を止めている者は、無礼か、無知か、あるいは反意を持つ者だ。だから分からぬときは、とりあえず叩く。理由は後で誰かに聞く。
二つになった。
三つ、四つ。
そこで数えるのをやめた。堰が切れるのと同じだったからである。
十人が叩けば、隣の卓が叩く。隣が叩けば、その隣は叩かぬわけにいかない。広間の音は、みるみる厚くなった。
万雷の拍手、というものを、わたくしは初めてこの目で見た。
シャンデリアの飾りが細かく震えていた。
「待て」
殿下の声は、拍手に完全に呑まれた。
「待てと言っている!」
届かない。三百人の手のほうが、王太子の喉より強い。
わたくしは拍手を続けながら、殿下の顔を見ていた。
殿下は聡明な方である。だから、ご自分が何に嵌まったのかを、この十数秒でお分かりになったはずだ。
この拍手を止めるには、こう仰らねばならない。
――静まれ。私の宣言は、祝福に値するものではない。
王太子が、自らの公の宣言を、公の場で、自ら格下げする。
あるいは、こうも仰れる。
――静まれ。この女の拍手には意味がない。
だがそれは、釣られて叩いてしまった三百人に向かって、「そなたらは意味も分からず手を叩く愚か者だ」と告げることになる。
どちらを選んでも、失うものはわたくしではない。
殿下は、口を開き、閉じた。
もう一度開き、また閉じた。
その間、拍手は続いていた。
やがて楽団の指揮者が――彼が悪いのではない、彼は職務に忠実なだけである――祝いの拍手だと判断して、祝典の短い旋律を弾き始めた。
拍手に楽が乗った。これでもう、誰の目にも祝いの場になった。
わたくしは手を止め、裾を持って、深く礼をした。
「――おめでとうございます、殿下。ミレーヌ様」
拍手が、いっそう大きくなった。
ミレーヌ様が、青い顔で殿下の袖を引いていらした。何かを囁いておられたが、拍手のせいで聞こえない。おそらく「これは違います」とでも仰りたかったのだと思う。
違わない。もう違わないのだ。
三百人が祝った婚約破棄は、祝福された婚約破棄である。
わたくしに落ち度はなく、殿下に非もなく、ミレーヌ様は正式に祝われた王太子の選択となった。
――つまり、誰も、この件をもう一度蒸し返せない。
「本日はよき日でございました」
わたくしはそう申し上げて、退がった。
背中で、拍手はまだ続いていた。
◇
控えの間でコートを受け取っていると、廊下の向こうから足音が来た。
近衛の礼装の若い男だ。金の飾り紐に、まだ慣れていない立ち方をしている。ノエル・アシャール子爵令息。殿下の護衛につく前に、二年ほど父の領地の警備にいた方だと記憶している。
「ヴェルネイユ公爵令嬢」
「アシャール卿」
彼は少し困った顔をして、それから自分の右手を見た。
「最初に重ねてくださったのは、あなたですね」
「……お一人では、足りませんでしたので」
「足りない」
「あなたの拍手は、速さが完璧でした。ですが、一人では祝いになりません。三人からです。三人集まれば、あとは自分で転がる」
わたくしは、この方を見上げた。
「では、もうお一方は」
「隣にいた同僚に頼みました。何も説明していません。『叩け』と言っただけです」
「よく叩いてくださいましたね」
「軍では、理由を聞かずに動く訓練をしておりますので」
わたくしは笑ってしまった。今夜、初めて表情を崩した。
「アシャール卿。あなたは、わたくしが何をしようとしていたか、あの一瞬で分かったのですか」
「いえ」
彼は正直に首を振った。
「分かりませんでした。ただ、あなたが両手を空けたのが見えました」
「グラスを置いたのを、ご覧に」
「はい。何かをなさるおつもりだと思いました。そして――」
彼は言葉を探して、少し黙った。
「あなたが、笑っておられたので。あれは、負けた人の顔ではありませんでした」
わたくしは、コートの襟を直した。手が少し震えていたので、直す仕事があってよかったと思った。
「アシャール卿。近衛のお勤めは、何時まででしょう」
「本日は、宴の終わりまでです」
「では、終わりましたら」
わたくしは彼に、公爵令嬢としてではなく、拍手をした女として言った。
「そのご同僚に、お礼を申し上げたいので。連れて来てくださいますか」
「……喜んで」
広間からは、まだ楽が聞こえていた。
祝いの旋律である。
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