夫が戦地から女性を連れて帰ってきたので身を引こうとしたけれど、二人の様子がどうもおかしい
私が生まれたローエル男爵家は、それはそれは貧しい家だった。
商売センス皆無の父、家政の切り盛りにおける節約が下手な母。そのうえ気の優しい二人は、領民からの嘆願があれば、「そうだな。今年は厳しかっただろう」などと言い、税の徴収額もあっさり下げる。
ローエル男爵家がまだ羽振りの良かった時代に建てられた、この大きな屋敷の維持費も問題だった。
「先代先々代が受け継いできた大切な屋敷だ」と言いながら、父は傷んだ箇所をきっちり修繕してまわる。おかげで、うちは常に貧しかった。
そんな貧乏男爵家で育ち、近隣の野山を走り回っていたこの私、ティエナは、子どもの頃から手芸が大好きだった。
母に分けてもらった端切れを重ねて縫い合わせるだけの、質素で控えめな遊び。違う色柄の布を並べ、気の向くまま針を動かすことに、私は夢中になっていた。
やがてハンカチの縁をかがったり、簡単な刺繍を入れたりと、少しずつ形のあるものを作るようになっていった。
十歳を過ぎると、手のひらに収まるくらいの小さな人形まで作れるようになっていた。幼い私は、この人形作りにすっかりのめり込んだ。
高価な本や流行の玩具など買ってはもらえない我が家の中で、これが私の一番の楽しみとなったのだ。
母は私の作る人形を、とても上手だと褒めてくれた。私はそれが嬉しくて、ますます人形作りに没頭するようになっていった。
布を小さく切り分け、同じ形を二枚ぴたりと重ねる。
ずれないように指で押さえながら、細い針で縁を丁寧に縫っていく。
閉じてしまう前に、少しだけ口を残しておき、そこからほぐした綿を押し込む。
指先で形を整えながら、詰めすぎないように、でもへたらないように。
何度も押して確かめ、ようやく納得がいく固さが決まる。
最後の縫い目をきゅっと締めると、手のひらの中にころりとした小さな形が生まれる。それから細い糸で、慎重に顔を縫っていく。
目の位置がほんの少し変わるだけでも、表情ががらりと変わるから面白い。
体や手足も丁寧に作ると、最後は人形の洋服の隅に、自分のイニシャルである「T」を、小さく一文字だけ入れ、完成だ。
十一歳のある日、私は両親に提案した。
「ねぇ、お父様、お母様。このお人形を売ったら、少しは家計の足しにならないかしら?」
私のこの言葉から、ささやかな試みが始まった。
考えた結果、母が友人の雑貨店店主に頼み込み、店の片隅を貸してもらって、私の人形を並べて売ることになったのだ。
誰の目にも留まらないまま終わるかもしれないと思っていたけれど、予想外に反響があり、小さな人形たちは飛ぶように売れていった。
当然大きな稼ぎにはならなかったけれど、爪に火をともすような生活をしていたローエル男爵家にとっては、ありがたい収入源となったのだ。毎日焼き立てのパンを買って食べられるようになった。
そのうち、注文してくれた人やその家族、恋人などに似せたものを作るようになると、私の人形の評判はますます広まった。
毎日小さな人形をせっせと作り続けることが、楽しくてたまらなかった。
けれど、十八歳になった頃、私の人生は一変した。
その日、私を居間に呼び出した父は、やけにそわそわしていた。隣には母もいる。
しばらく両手を揉み合わせたり、肩を揺らしたりしていた父が、ためらいがちに口を開く。
「ティエナ、実はな……お前に縁談が来たんだ。それも、なんと! なんとな? あのノルシェ伯爵家の嫡男、リオン殿とだ」
「……へ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
そんなはずがない。
ノルシェ伯爵家は名の知れた名家だ。
広大な領地を持ち、交易にも長け、財政は余裕たっぷりの。
「……何かの間違いじゃないですか? お父様」
思わずそう言い返してしまうくらいには、現実味がなかった。
そんな私に、父はブンブンと首を振る。
「違うんだ。本当に、お前との縁談を望んでおられるんだよ。ほら、うちは周辺の村や商人との付き合いだけは広いだろう?」
「まぁ、はい」
それはたしかに、その通りだった。
父は頼まれると断れない性格で、気づけばあちこちに小規模な取引先が広がっていた。ごくごく、小規模な。
「ノルシェ伯爵家は領地も財力も申し分ないが、そういった細かな流通先にはあまり強くないらしくてな」
父の言葉に、ほんの少しだけ話が見えてきた。
「つまり……、ノルシェ伯爵家は我が家の持つ細かな販路と繋がりたいと?」
「まさしく。そのために縁を結びたいというお話なのだ」
「……はぁ」
けれどその事情を聞いても、どうも腑に落ちない。ノルシェ伯爵家ともなれば、我が家の持つ小さな小さな流通経路よりもはるかに広い販路や人脈を持っているはずだ。なぜ、わざわざうちなどに……?
訝しくてならないが、目の前の父と母は目をきらきらと輝かせ、私のことを見つめている。
「ど、どうだ? ティエナ。お前が嫌ならば無理にとは言わんが」
「あなたの気持ち次第よ。無理な結婚を強いるわけにはいかないもの。けれど、前向きに考えてみてくれるのなら……」
「もちろん、お受けしましょうよ」
間髪を容れずにそう答えると、両親は心底ほっとした表情になる。
「いいのか? ティエナ」
「ええ。こんな良い縁談が我が家に来るなんて奇跡ですもの。私も婚約者のいないまま、気付けばもうこの年です。この機を逃せば生涯独り身はほぼ確定ですし、ローエル男爵家も永久に貧乏なままですわ」
「ティエナ……」
二人は本棚の奥から先代当主のへそくりを発見した時のように、潤んだ瞳を輝かせ、手を握り合った。
数週間後。ノルシェ伯爵家当主とそのご子息リオン様が、挨拶に来てくださった。
応接間で初めてお顔を見た瞬間、息を呑んだ。
(……なんて綺麗な殿方なのかしら……)
リオン様は漆黒の髪に深く澄んだ青い目の、途方もない美青年だったのだ。
背はすらりと高く、体つきには無駄がない。洗練された身なりは完璧に整っていて、私は激しく気後れしてしまった。
何の変哲もない栗色の髪に、同じ色の瞳。そのうえ特別際立った美しさも持たない私では、とても不釣り合いだと瞬間的に悟った。
ノルシェ伯爵の隣に立つリオン様は、私を一瞥した後、すぐに目を逸らしてしまった。
その表情には親しみも喜びも、何も感じられない。
わずかに下がった口角と、伏せられた切れ長の目に、なんとなくだけど、拒絶の雰囲気を感じた。
(……この婚約を、望んでいらっしゃらないのね)
そう察し、胸がつきりと痛む。
きっと、ノルシェ伯爵が強引に話を進められたのだろう。
たしかにこのお方ならば、貧乏男爵家の地味な私でなくても、もっと素敵なご令嬢方の中からよりどりみどりだったはずだ。
申し訳なさと気まずさで、私ももう彼の方を見ることができなかった。
それでも顔合わせの挨拶は滞りなく済み、それからわずか数ヶ月後、私とリオン様は結婚した。婚約成立から結婚までの早さに戸惑ったけれど、私は十八歳で、リオン様は二十三歳。年齢的に考えれば早すぎるわけではなかった。
自領の軍の指揮官を務める彼のもとへと嫁ぐため、私はノルシェ伯爵領に移り住むことになった。
◇ ◇ ◇
新郎と目の合わない結婚式は淡々と終わり、その後始まった結婚生活は、ぎくしゃくしたものだった。
リオン様は寡黙で、私とほとんど会話をなさらない。
そもそも、食堂以外で顔を合わせることがほとんどない。その唯一の会話の場となるはずの食事時間も、ほとんど無言のまま終わる。
閨さえもなかった。寝室が別なのだ。
リオン様との新婚生活は、ノルシェ伯爵家が所有する屋敷の一つを与えられて始まったのだが、そこに到着した初日に、部屋に案内してくれた屋敷の侍女が言った。
「こちらがティエナ様のお部屋でございます」
「ありがとう。……私個人の部屋?」
「さようでございます」
「……夜は、あの奥の寝台で休めばいいの?」
「はい。そのように仰せつかっております」
「……ありがとう」
こじんまりとしたその寝台は、優しい桃色とベージュの布で統一されていた。掛布の繊細な刺繍や磨き上げられた浮き彫りは手が込んでおり、可憐な見た目とは裏腹に、伯爵家の財力を感じさせる上質なものだった。
だが、どう見てもあの立派な体躯のリオン様とともに眠る寝台ではなかった。
(……どうやら本当に敬遠されているようね)
嫡男でありながら、妻と寝室を別にしたいだなんて、よほど私のことを受け入れられないのだろう。
案の定、その屋敷で暮らしはじめた最初の夜から今日まで、リオン様から閨のお声がかかることはなかった。
それでも私は、どうにか夫に心を開いてもらうため、自分なりに努力することを決意した。
余暇の楽しみにしようと思っていた、大好きだった人形作りも封印した。
(貧乏男爵家の娘である私じゃ、あんな立派な殿方の妻として不釣り合いだもの。リオン様のがっかりするお気持ちも分かるわ。将来の伯爵夫人として、リオン様の妻として、相応しい人間にならなくちゃ……!)
私はひたすら勉強に明け暮れた。なんせこれまで田舎の貧しい男爵家で育ってきたのだ。社交なんてする余裕はなかったし、高位貴族のマナーも知らない。
リオン様に恥をかかせるものかと、私はあらゆる書物を部屋に持ち込み、がむしゃらに知識を詰め込んだ。
礼儀作法に言葉遣い、会話術。王国史や地理、政治に、貴族家の系譜、関係図。そして家政の切り盛り。学べることは何でも学んでいった。
けれど、リオン様との関係が変わることはなかった。
勇気を出して話しかけようとしても、まるで見えない殻で全身を覆っているかのような彼の固い空気に、心が萎縮してしまう。
迷惑かもしれない。嫌がられるかもしれない。
そう思うと余計に緊張し、喉が干からびたように声が出なくなるのだった。
そんなよそよそしい関係のまま半年ほどが過ぎた頃、事態は一変した。
リオン様が、出征することになったのだ。
北方の国境では、以前から隣国との小さな衝突が絶えなかった。放牧地や交易路を巡る揉め事で、互いに牽制し合う状態が長く続いていたのだ。
それがついに本格的な衝突へと発展し、王国から出兵の命が下った。
ノルシェ伯爵領は前線に近く、リオン様率いる伯爵領の軍は、いち早く戦地に向かうこととなった。
「……そういうわけで、数日以内には発つ」
ある夜の食事の席で、私はリオン様から淡々とした口調で、その話を聞かされた。
目の前が真っ暗になり、その後はもう、何も喉を通らなかった。
自室に戻った私は、体の力が抜けてしまい、そのままソファーへと身を投げだした。
月明かりのぼんやりとした光に青白く照らされた部屋の中で、私はリオン様のことを思った。
(政略結婚とはいえ、せっかく夫婦になったのに……。ほんの少しも心が通うことのないまま、いつ戻るかも分からない夫を見送らなくてはいけないの……?)
寂しくてたまらなくなり、視界が滲む。
認めてほしいと、仲良くなりたいと思い、今日まで頑張ってきたのに。
しばらくそのままぼんやりとしていた私は、やがて気合いを入れて体を起こした。
「……よしっ」
泣いている時間がもったいない。
灯りをつけると、衣装箱の隅にしまい込んでいた木箱を取り出す。
使い込まれたそれを開けると、針や糸、色とりどりの端切れが出てきた。ほぐした綿を詰めた布袋も入っている。
それらの中からいくつかの材料を選んで取り出すと、私は一心不乱にちくちくと縫いはじめた。
嫁いできて以来、一度も使うことのなかった裁縫道具。私の宝物。
リオン様のことだけを思い、私は久しぶりに針を動かすことに没頭した。
その夜は一晩中縫い続け、翌日からも時間を見つけては、気持ちを込めて針を刺した。
リオン様の出立は、あの夕食の日からわずか五日後だった。
屋敷の正門前は、朝から慌ただしかった。
馬が並び、たくさんの荷が積まれ、兵たちが隊列を組みはじめる。
軍装姿で玄関ホールに出てきたリオン様は、勇ましく凛としていて、普段よりもさらに遠い人に感じられた。
待っていた私の横を通り過ぎる時、彼はちらりとこちらに視線を向けた。久しぶりに視線が絡む。
「……すぐに戻る」
短いその言葉に小さく頷き、私は勇気を振り絞って一歩前に出た。
「お、お待ちくださいませ、リオン様」
すでに扉の外に出ていたリオン様はぴたりと立ち止まると、ゆっくりとこちらを振り返る。
深い青色の目が、真っ直ぐに私を見つめた。鼓動が激しすぎて、心臓が口から飛び出しそうだ。
それでも私は、震える両手を彼に差し出した。
後悔を残したくなかったから。
「これを……、お持ちになってくださいませんか。お、お守りですっ」
「……」
リオン様は私の手の中にあるものをしばらく見つめると、黒い革手袋を着けた手をこちらへと伸ばし、受け取ってくれた。
渡したのはもちろん、小さな人形だった。
……リオン様の。
縫いはじめる前、自分を象った人形を作るべきかと、しばらく悩んだ。戦地へ赴く夫へ渡すお守りならば、普通は妻だろう。妻の人形が妥当なはずだ。この妻が、あなた様のお帰りをお待ちしていますよ、だから無事に帰ってきてくださいねと、そんな願いを込め自分を模した人形を渡すべきだ。
だけど、果たしてリオン様は私の人形など喜んでくれるのだろうか。……いや、喜ぶはずがない。会話も閨もしたくない妻なのだ。下手したら受け取ってもらえないかもしれない。そう考えた。
それでも私の思いだけは伝えたいと、迷いを振り切り、彼自身を象った人形を作ったのだ。もはや身代わり人形だ。彼に危険が降りかかった時に、守ってくれるかもしれない。
簡素な軍装の上には、黒いマントを縫い付けた。そのマントの隅には紫色の糸で「T」のイニシャルを入れた。いつもの癖だ。
(軍服の正装は初めて見たわ。マント、勝手に黒だと思い込んでいたけれど、濃紺なのね……)
リオン様はまじまじと人形を見つめている。気まずくて、背中に汗が浮きはじめた。
(い、嫌だったかな、やっぱり。私の縫った人形なんか、持っていきたくなかったかしら……)
子どもっぽかったかな。
場違いすぎたかもしれない。
リオン様が手の中の人形を凝視しているので、もういたたまれなくなってきた。
余計なお世話でしたよね、すみません。そう口にしようとした時だった。
リオン様が人形から目を離し、今度は私の顔を見た。
何か言われるのかと思ったけど、リオン様は何も言わない。
そのまましばらく私の顔を見続け、再び手の中の人形に視線を落とす。そしてもう一度、私の顔を見た。
(……??)
「あ、あの……」
私がおずおずと口を開くと、リオン様はまたも私から目を逸らし、人形を上衣のポケットへそっとしまった。そして小さく頷くと、ぽつりと言った。
「……ありがとう。行ってくる」
「……は、はい。いってらっしゃいませ」
持っていってくださるのだという驚きの中、そう返すのが精一杯だった。
もっと気の利いたことを言いたかったけれど、勇気を使い果たした私には、それが精一杯の言葉だった。
門を出たリオン様が馬に跨り、ほどなくして隊列が動き出す。
馬や荷馬車たちが土を踏む音とともに、リオン様の姿は少しずつ遠ざかっていった。
私はその場に立ったまま、彼の姿が見えなくなるまで、その背中を見送り続けたのだった。
◇ ◇ ◇
戦は長引き、気付けば二年近くもの時が経っていた。
私はリオン様の無事を祈りながら、来る日も来る日も、勉強や屋敷の切り盛りに明け暮れた。
リオン様がお帰りになったら、今度こそもっと夫婦らしく過ごせるようになりたい。
いろいろな他愛もない話ができる関係になれたらいいな。
たとえば……、離れている間、どんな風に過ごしていたのか、とか。
(いや、リオン様はもちろん戦場で戦っておられたわけだから、「何をなさっていましたか?」なんて聞くのは空気読めなさすぎよね。ここは私が話すべきだわ)
私はこんなに成長しましたと、胸を張って言えるようになりたい。そのために頑張らなくちゃ。
リオン様と一緒にお庭を散歩したり、領地を見て回ったり。
そんなことができるようになりたい。
妄想を膨らませ、自分を奮い立たせながら、私は毎日猛烈に勉強した。
二年に及んだ戦は、王国側の勝利で終結した。
国境線はこれまで通り維持され、争いの火種となっていた放牧地や交易路についても、新たに取り決めが交わされた。
北方の守りにあたっていた各領の軍も、ようやく順に帰還を許されることになったらしい。そんな情報が入ってきていた、ある日のことだった。
昼下がり、帳簿とにらめっこをしていた私のもとへ、使用人の男性が息せき切って駆け込んできた。目が血走っている。
「奥様、た、ただいま北方より、早馬が……!」
そこまで聞いた瞬間、心臓が痛いほど大きく跳ね、体が硬直した。
(まさか……、まさか……!)
泣きそうになるのを堪え、私はどうにかよろよろと立ち上がる。
すると、私の顔を見た使用人が、申し訳なさそうな表情で頭をかく。
「あ、いえ、すみません。無事の知らせでございます。ご安心ください」
(……へ?)
「な……なんだ……。そうよね。びっくりしたぁ~」
へなへなと椅子に座り込む私に向かって、使用人がもう一度「すみません」と謝る。
「早馬が来ました。旦那様がお戻りでございます。明日の午前中には到着する見込みだとか」
「え……っ!?」
その言葉に、私はもう一度勢いよく立ち上がる。
(つ……ついに……、ついにリオン様がお戻りに……!!)
心臓はまたたく間に高鳴りはじめ、目の前がきらきらと輝きだす。あんなに嫌われていた夫なのに、帰還すると聞いただけで、どうしてこんなにも胸がときめくのか。我ながら不思議だった。
高揚のまま、私は部屋に控えていた侍女たちに向かって言った。
「い、急いでお迎えの準備をしましょう……! リオン様のお部屋が整っているか、確認しておいてくれる?」
「承知いたしました」
「それから……、屋敷全体の掃除も念入りにするよう伝えて。あ、お帰りになったらすぐに湯浴みができるよう準備も! ……ええと、報告することもまとめておかなくちゃ……!」
「はい、奥様」
目が冴えて一睡もできぬまま、翌朝を迎えることとなった。私は日が昇るより早く寝台を出て、入念な身支度を整えると、二階にある自室から何度も何度も窓の外を見た。朝食も喉を通らず、ほとんど食べられなかった。
そうして、数時間が経ち、お昼近くになった頃。
昨日から続く緊張と興奮で疲れ果て、私は自室のソファーに座ったまま、うたた寝をしてしまった。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
遠雷のような低い音を、耳が拾う。
(……ん……?)
ぼんやりと瞼を開けると、音がだんだんと大きくなっていることに気付く。
地面を叩くようなその音が、何台もの馬車の車輪であることに思い至った瞬間、私は覚醒し、開けたままだった窓へと飛びついた。
「……っ!!」
案の定、数台の馬車が屋敷の門を入ってきたところだった。リオン様だ。リオン様がお帰りになったんだわ。
二年ぶりに、夫が戦地から帰ってきた。
息が苦しくなるほど胸を高鳴らせながら、私はまず、夫の姿を一目見ようと、窓から身を乗り出す勢いで凝視する。
すると、馬車の向こう側から、白馬に跨ったリオン様の姿が現れた。
(……リオン様……! 髪が伸びているわ……)
無事な姿を目にした瞬間、叫びたくなるほどの喜びが、体中を駆け巡った。
風に艶やかに靡くその黒髪は、肩にかかるほどの長さになっていて、顔つきや体格は精悍さを増している。なんだか以前より、色気が漂っている気がした。
(私ったら……。戦場から帰ってきたばかりの夫を見て、一体何を思っているのかしら。さぁ、玄関ポーチに出てお迎えしなきゃ……!)
そう思い、窓から離れようとした、その時だった。
馬から下りたリオン様のそばに、黒馬に乗った騎士が近付いた。
(……桃色の、髪……?)
リオン様の前で下馬し、彼に歩み寄るその人は、随分と小柄だった。
よく見ると、どうやら女性のようだった。それも、かなり若い。
リオン様よりも短い、肩にもつかないピンクブロンド。遠目にも可愛らしい雰囲気のその女性は、リオン様の目の前に立つと、彼を見上げ、何やら親しげに彼に話しかけている。
一緒に到着した他の騎士たちや従者らが慌ただしく動く中、リオン様とピンクブロンドの女性だけは、その場に立ち止まり会話を続けていた。
(一体、どなたなのかしら。ノルシェ伯爵領軍に、あんな方はいなかった気が……。二年前の出立の時には見かけなかったわ)
そんなことを考えながら見つめていると、ふいにその女性が、リオン様に向かって自分の両手を伸ばし、背伸びをする。
そして、彼の両頬を挟むように包み込んだ──。
(……え……?)
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
自分の見ているものが信じられなかった。
見間違いであってほしかった。けれど、それは紛れもない現実の光景だった。
ピンクブロンドの女性は楽しそうに笑いながら、リオン様の頬に手を添えている。
そして、当のリオン様も。
彼女の手が離れた後のリオン様の表情を見て、私の体から体温が引いていく。
リオン様は、かつて私に一度も見せてくれなかったぎこちない笑顔を、目の前の彼女に向けていたのだ。
少し困っているような、照れているような。
向かいの女性は嬉しそうに何かを口にしながら、可愛らしく何度も頷いている。
そんな二人を呆然と見つめる私の胸に、悲しみと絶望、そして、かつて経験したことのない激しい怒りがふつふつと込み上げてきた。
(……ひどい。こんなのあんまりだわ)
戦地に赴いた夫が、現地で知り合い恋に落ちた女性を伴って帰還したという話は、悲恋ものの小説で何度か読んだことがある。「俺は真実の愛を見つけたんだ。この女性と結婚する」などと言い出すのだ。
どうにもならないもどかしさや、相手を想うがゆえに別れを選ぶヒロインの姿に、絵空事と承知のうえで心を揺さぶられた。
けれど。
実際に自分がその立場に置かれたら、こんなにも苦しく、虚しいものだとは。
だって私は、リオン様が戦地へ旅立ってからというもの、この屋敷を守りながら、毎日毎日彼の帰還を祈り続けてきたのだ。
どうか無事に帰ってきますように。
そう願いながら、必死で不安を押し殺し、再会の日を夢見てきた。
リオン様に相応しい妻となるために。少しでも胸を張って、隣に立てるように。
今度こそ、仲睦まじい夫婦になれるように。
それなのに、私が待ち続けたこの二年間は、一体何だったのだろう。
戦地で命懸けの毎日だったのは分かる。きっと私よりも、はるかに大変だったことも。
(だけど、私はリオン様の妻なのよ。愛されなくても、どうにか距離を縮めたいと、できることは何でもしようと、懸命に頑張ってきたのに……!)
それなのに、ようやく帰還したリオン様は今、ピンクブロンドの愛らしい女性と見つめ合い、微笑み合っている。
私にはただの一度も見せてくれたことのない、優しい眼差しで……。
心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
なんだかもう、何もかもどうでもいいような気分になった。
(……もういいわ。出て行こう)
その決断をしたのも、一瞬だった。
努力をしたのにとか、そんなことは問題じゃない。
私の居場所は、ここにはない。もともとなかったのだ。
リオン様に、こちらへ歩み寄る気持ちがない以上、全ての努力は無駄なものだったのだ。うん。
私は窓から離れ、幸せそうな二人を視界から消した。
そしてそのままズカズカと室内を歩き、クローゼットの中から旅行カバンを引っ張りだす。
そして、嫁いでくる時にローエル男爵家から持ってきたわずかなワンピースや下着、数冊の本、そして唯一の宝物である裁縫箱などを、次々と放り込んでいく。ノルシェ伯爵家に来てから買ってもらったものは、一つも持っていくつもりはなかった。
少ない荷物をあっという間に詰め終わり、私は部屋の扉へと向かう。
両親をがっかりさせてしまうだろうけれど、仕方がない。どうせこのままここにいたって、私は伯爵令息夫人としての役目を果たせる日は来ないのだから。
後継を産むこともないのでは、どのみちいつかは追い出されただろうし。
煮え滾るほどの怒りや、このうえない絶望感を抱えながらも、頭の一部は冷え切っており、妙に冷静だった。
「あ、あの……、ティエナ様? いかがなさいましたか……?」
私の奇怪な行動を壁際で見守っていた侍女が、おずおずとそう声をかけてくる。
私はカバンを手にしたまま、彼女へ顔を向け微笑んだ。
「今日限りでこのノルシェ伯爵家から出て行くわ。今まで良くしてくれて本当にありがとう。元気でね」
呆然と口を開ける侍女を尻目に、私は部屋を後にした。
階段を下り、ホールを抜けて真っ直ぐに玄関扉を目指す。そして何のためらいもなく、私はその重厚な扉を開いた。
すると、数十歩先の方から、リオン様とピンクブロンドの女性が並んでこちらへと歩いてきていた。
目が合った瞬間、リオン様の足が止まる。そしてそれに釣られたように、隣の女性も足を止めた。
「……ティエナ……」
声は聞こえなかったけれど、リオン様の唇は、たしかにそう紡いでいた。ふいに込み上げるものに、視界が揺れる。
それでも私は、足を踏み出した。
旅行カバンを握る手にぐっと力を込め、彼らの方へと真っ直ぐに歩き出す。
二人とも足を止めたまま、目を丸くして私のことを見つめている。
絶対に泣くものかと心に誓い、私は歯を食いしばる。そして二人の方へとずんずん歩いていった。
すぐ目の前まで来た時、リオン様の懐かしい声が聞こえた。
「……ティエナ」
(……声は懐かしいけれど、考えたらこうして名を呼ばれたことさえなかったわね)
どこか冷静な頭でそんなことを考えながら、私は足を止めることなく、二人の横を通り過ぎた。
「お帰りなさいまし。お世話になりました。さようなら」
去り際に、しっかりと捨て台詞を残して。
「……はっ?」
「えっ!?」
背中から、リオン様と女性の素っ頓狂な声が聞こえた。辺りにいる帰還したばかりの他の騎士たちも、皆目を丸くして私の姿を追っている。そんな彼らの間を通り抜け、私は真っ直ぐに門へと向かい、正面の通りを右に曲がった。
「ティ……、ティエナ? どこへ行くんだ!? ティエナ!!」
後方からリオン様の声がかすかに聞こえた。私の姿が見えなくなり、我に返ったのだろうか。追ってこられては面倒だと、私は足を運ぶ速度を速めた。
(ひとまず、実家に帰ろう。お父様もお母様も悲しむだろうけど、しょうがないわ。ちゃんと謝らなきゃね……)
そんなことを考えながらも、脳裏には、あの可愛らしいピンクブロンドの女性を見つめ不器用に微笑むリオン様の眼差しがよぎる。
私にはただの一度も向けられることはなかった、あの優しい眼差しが。
「……っ」
悲しさと悔しさを捨てるように大きく首を振り、私は歩幅を大きくする。案の定、背後からリオン様の声が追ってきた。
「待ってくれティエナ! 一体どこへ向かっているんだ!」
「お待ちくださいませ! ティエナ様ーっ!!」
(……は!?)
鈴を振ったような愛らしい声に驚き、反射的に振り返る。すると、なんとリオン様に付き添うように、あのピンクブロンドの女性までこちらへ向かってくるではないか。
同じような困惑の表情を浮かべ、仲良く早足でやって来る二人。
その姿を見て、私の中の怒りがますます大きく膨らんでいく。どうしようもなく腹が立ち、私は歩調を緩めぬまま彼らに向かって言い捨てた。
「どうぞお気になさらず!! 正式な離縁の手続きにつきましては、後日父からお話しさせていただきますので!! 私に構わず、お二人仲良くお過ごしくださいませ!!」
「っ!? な……、何を言っているんだティエナ!!」
言うだけ言うと、私は再び前を向き、小走りに駆け出した。見え透いた言い訳なんか聞きたくない。女性を伴って帰ってきたことを気まずそうに釈明するリオン様の姿なんて、想像するだけで泣けてくる。
「ティエナ……! な、何か誤解をしている……! 話を聞いてくれ!」
さっきよりも大きなリオン様の声が、耳に届いた。間合いを詰められていると察した私は、辻馬車の乗り場へ向かうことを秒で諦め、勢いよく方向転換し、街道脇に広がる丘へと逃げ込んだ。そして全力で走り出す。
とにかく今は、何も聞きたくない。未練がましい泣き顔も見せたくはない。だってそんなの、悔しいじゃない。
私ばかりがリオン様のことを想い続けていたことを知られるなんて、悔しいじゃないか。
「ティエナ……!? ど、どこに行くつもりだ!! 止まってくれ……!!」
焦るリオン様の声。
それを完全に無視し、私は草が生い茂る丘を一心不乱に駆け続ける。子どもの頃は野山を駆け回っていた田舎の男爵家の娘だ。少しも苦ではない。
「ティエナ!」
「ティエナ様!」
背後から、リオン様と女性の声が飛ぶ。
「待ってくれ……!!」
(待ちませんっ!!)
私はさらに速度を上げた。
草をかき分けながら、丘の向こうを目指す。早く振り切りたいけれど、相手は自領の軍を率いる騎士様。さすがに難しいようだ。
(早く諦めて、屋敷に戻ってくれないかしら……。疲れてきたわ……。荷物も重い……!)
そんなことを思いながら、それでも私は止まることなく足を動かし続けた。息が上がって呼吸が苦しい。
すると、その時だった。
後方から、悲鳴のような甲高い声が響いた。
「ティエナ様ぁぁっ!!」
(……え?)
走りながら、思わず振り返る。
そして私は、自分の目を疑った。
ピンクブロンドの女性がリオン様を追い抜き、ものすごい勢いで丘を駆け上がってきているではないか。
「お待ちください!! ティエナ様ぁぁぁーー!!」
(は……早っ!!)
彼女は両手の指先をピンと伸ばして揃え、脇を締めた両腕をブンブンと高速で振りながら、こちらへ向かって全力疾走してくる。
しっかりと私を見定めた彼女の目は、まるで肉食動物のような眼力だ。ほんの一瞬、彼女のその目がキラリと光った。
「お待ちくださぁぁぁい!!」
「ひ……っ、い……いやぁぁっ!!」
俊敏なその動きと、「絶対に捕らえてみせる」と言わんばかりの目つきに、恐怖が込み上げる。彼女は一体、何者なのか。
さっきまでとは全く別の意味での涙をこぼしながら、私は死に物狂いで速度を上げた。
けれど、女性の速さは尋常ではなかった。
真後ろからザザザザッという不気味な音が聞こえた直後、私の体はがっしりと拘束された。
「うぐっ!!」
喉から声が漏れ、私の体は宙を舞う。
「ティエナ!!」
切羽詰まったリオン様の声が、耳に届いた。
地面に叩きつけられる衝撃を覚悟し、息を止めて目を閉じた、次の瞬間。
想像していたよりも鈍い感覚を、体に感じた。
(…………あ、あれ?)
おそるおそる目を開け、首を捻ると、すぐ目の前にピンクブロンドの女性の丸い目があり、視線が絡む。
「ああ、ようございました、ティエナ様……! お怪我はございませんかっ?」
なんと、彼女は私の体をしっかりと抱きかかえたまま、草の上に転がっていたのだ。庇ってもらったおかげで、私にはほとんど衝撃が来なかった。
可憐な女性を下敷きにしてしまっていることに気付き、慌てて身を起こそうとした、その時。
「ティエナ……!」
遅れて駆け付けたリオン様が、私の体を横抱きにして、ふわりと抱え上げたのだ。
「ひゃあっ!」
頭が混乱し、間抜けな声を上げる。
リオン様は私を抱いたまま、草の上にそっと腰を下ろした。
「……怪我はないな? ティエナ」
至近距離でそう尋ねられ、私は思わずコクコクと首を縦に振る。
「ああ……、よかった……」
心底ほっとしたようにそう呟くと、リオン様は膝に乗せた私の体を強く抱きしめた。
彼の激しい鼓動が伝わってきて、全力疾走した直後の自分の鼓動と重なる。
状況を整理する間もなく、すぐそばで女性の溌剌とした声が響いた。
「本当に、ご無事でようございました、ティエナ様」
「……あ、あなたは……?」
首を回し視線を向けると、ピンクブロンドの彼女は一人で体を起こしたようで、目を輝かせて私たちを見つめていた。とても元気そうだ。もう何が何だかさっぱり分からない。
リオン様が真面目な声で言う。
「ティエナ……。落ち着いて、話をしよう」
「……分かりました」
そう答えると、私はリオン様の腕から逃れ、草の上に座り直す。彼は手放し難いとでもいうように、一瞬腕に力を込めたけれど、膝の上に乗ったままなんて絶対に嫌だったので、強引に離れる。
少し距離をとって向かい合う私たちと三角形を描く位置に、ピンクブロンドの女性がさっと座る。拾ってくれたらしい私の旅行カバンを、丁寧な仕草で傍らに置いている。
リオン様は、小さく咳払いをして口を開いた。
「まず……、彼女の名はハリスだ」
「王国軍遊撃隊所属!! アンジー・ハリスです!!」
「ひっ!!」
リオン様が名を紹介した途端、ピンクブロンドの女性が丘に響き渡るほどの声を発し、私は大きく飛び跳ねた。……心臓に悪い。
けれどリオン様は慣れているのか、特に反応は見せず、訥々と語りはじめる。
「ハリスとは、前線付近の砦で出会った」
(……ああ。二人の出会いについての説明が始まっちゃったわ……)
咄嗟にそう思い、指先が冷たくなる。こんな話は、聞きたくない。
けれどもう、走って逃げる気力は残っていなかった。
耳を塞ぎたいのを我慢して、私は少し目を伏せる。
「ある夜だった。見張りの交代を終え、砦の外で星空を眺めていた。その時に……、いつものように、君からもらった人形を、懐から取り出した」
(……え?)
いつものように……?
さり気なく発せられたその言葉に戸惑い、思わず視線を上げる。リオン様と目が合った時、アンジーさんが口を挟んだ。
「ノルシェ様は暇さえあれば、常にお人形を眺めておいででした!」
「え……」
リオン様が眉間に皺を寄せ、アンジーさんをキッと睨む。するとアンジーさんが「しまった」というような顔をして、口を閉じた。
「……それで、その夜。人形を見ていたら、背後からこのハリスが、やけに狼狽えた様子で俺に声をかけてきた。その人形を、どこで購入したのかと」
……どうしてアンジーさんが、私の作った人形のことを気にするのだろう。
何気なく彼女に顔を向けると、視線がぶつかったアンジーさんが目をきらきらと輝かせ、何か言いたげにこちらを見つめてくる。その頬は少し紅潮していた。
何だか気まずくなり、私はそっと視線を外す。
リオン様は話を続けた。
「買ったのではない、これは俺の妻が作り、持たせてくれたものだと答えると、ハリスが突然興奮しはじめた」
「そりゃもちろん興奮します!! だって、だって……、あ、あのお人形の作り主が、奥様だなんておっしゃるんですもの!! 興奮しないはずがないじゃありませんかぁーーっ!!」
目を大きく見開いたアンジーさんが、また前触れもなく大きな声を上げたので、私の心臓は痛いほど跳ねた。この人はとにかく声が大きい。常にお腹から声を出すような訓練でもしているのだろうか。
リオン様が目を閉じ、深く息をつく。
「少し黙っていてくれないか、ハリス。妻とゆっくり話ができない」
「はいっ!! 失礼いたしましたっ!!」
彼の言葉に間髪を容れずにそう答えたアンジーさんは、座ったまますばやく後方に下がると、きりっとした表情で空を見上げ口を引き結んだ。
「……それで、詳しく話を聞いてみると、ハリスも君が作った人形を持っていることが分かったんだ」
「え……っ!? そ、そうなのですか?」
予想外の言葉に驚き、私は再び彼女へと顔を向ける。
するとアンジーさんは少し離れたところから、またも「はいっ!!」と威勢のいい返事をした。
「さようでございます、ティエナ様!! この私も幼少の頃より、あ、あなた様のお作りになられたお人形を、何よりの宝物として肌身離さず持っておりました……! これでございます!!」
そう言いながら、彼女はすばやく懐から取り出したものを、腕を伸ばして高く掲げる。
アンジーさんの手の中にあるのは、灰色の髪のおばあさんを模した人形。
それは紛れもなく、私が作ったものだった。
人形が着ている薄紫色のワンピースの裾に、私が昔から変わらず刺繍している、Tのイニシャルがあった。随分と年季が入っている。
驚きのあまり、私は両手で口元を押さえ、目を丸くした。
「ほ、本当に、私が作った人形だわ……。しかもそれは、だいぶ以前のものよね……?」
「さようでございます!! このお人形は、私が十歳の時に、大好きな祖母が買ってきてくれたものなのです……!」
「お祖母様が?」
「はいっ!!」
問い返す私に、アンジーさんは目を潤ませ、頬をますます赤く染めながら何度も頷く。そして人形を胸にぎゅっと抱き寄せた。
「人よりかなり小さく生まれた私は、赤ん坊の頃からとても病弱で。その頃はもう、元気に過ごせる日なんてほとんどない状態でした。両親は医者から、『この子は成人するまで生き永らえることは難しいだろう』と言われていたそうなのです」
「そ……、そう、なの?」
「はいっ!」
とてもそうは見えない。今目の前で私の作った人形を愛おしげに胸に抱いている彼女は、この上なく健康で元気そうだ。足も尋常じゃなく速いし。
「医者の言葉に、両親は嘆き悲しんでいたそうです。そして、母の母──私の祖母は、足繁く神殿へと通い、毎日祈りを捧げてくれていました。ある時その祖母が、友人に会うために出かけた、とある領地の街の店先で、可愛いお人形たちを見つけました」
その言葉に、私の心臓がまた音を立てる。
(まさか……、母の友人の雑貨店のこと……?)
いつの間にか、私はアンジーさんの話に夢中で聞き入っていた。彼女は当時を思い出しているのか、人形を抱き寄せたままとても優しい表情をしている。
「祖母は店に入り、人形のことを店主の女性に尋ねたそうです。そして、店主の友人の娘さんが手作りしたものだと、最近では注文があれば、実在の人物に似せたものも作っているのだと教えられたそうです。その後の細かいやり取りは分かりませんが、祖母はそのお嬢さんと会い、自分を模したこの人形を作ってもらったのだと話してくれました」
私の脳裏に、一人の穏和なおばあさんの姿が浮かぶ。母に店へと連れて行かれた日に、孫に贈りたいから私の人形を作ってほしいと依頼をされたのだ。私はそのおばあさんのお顔を覚え、数日かけて丁寧に縫ったと記憶している。
後日また雑貨店で落ち合い、出来上がった人形をそのおばあさんに差し出した。
彼女は皺に埋もれるほど目を細め、私の手を握って何度もお礼を言ってくれたのだ。温かい手に照れながら、「こんなにも可愛がられて、きっとこの人のお孫さんはとても幸せだろうな」と思ったことも覚えている。
(そのお孫さんが、アンジーさん……?)
奇跡的な巡り合せに胸がいっぱいになり、私はついさっきまでの騒動も忘れ、彼女の話に聞き入っていた。
「離れたところに住んでいたから、祖母とはしょっちゅう会えるわけではなくて……。祖母は私に、お守りだと言ってこのお人形をくれたのです。息苦しかったり、熱が出たりして、眠れない夜もあるだろうけれど、おばあちゃんがいつでもアンジーのことを見守っているからねって。大丈夫だよって」
「……優しいおばあさまですね」
声が掠れてしまう。なんて素敵な方なのだろう。
アンジーさんは大輪の花のような笑みを浮かべ、へへへと声を出す。
「はい! 体がきつくて、咳も止まらなくて、それなのに両親は仕事でいなくて。そんな怖くて寂しい夜が、たくさんあったんです。でも、両親は私の薬代を稼ぐために必死だったことを知っていたから、家にいてほしいなんて言えなくて。いつもこの祖母のお人形を、自分の顔の真横に置いて眠りました。そしたらまるで、本当に祖母が隣にいるような気持ちになって。……救われました、とても。ありがとうございます、ティエナ様」
「……アンジーさん……」
「あの頃からずっと、私はティエナ様の大ファンなんです! こんな素敵なお人形を作られる方は、きっととても素晴らしい方なのだろうと……!」
そう言ってくれる彼女の真っ直ぐな眼差しは、澄みきっていて、とても美しかった。感情が溢れるように、視界が揺れる。
それをぐっと飲み込み、私もアンジーさんに笑みを向ける。
「……そんな幼少期だったのに、今ではそんなにお元気に……?」
「はいっ! 毎日祖母のお人形とともに寝台の中で過ごしながら、私、心に誓ったんです。両親や祖母を、絶対に安心させてあげるんだって。誰よりも元気になって、めちゃくちゃ元気になって、たくさん働いて楽な暮らしをさせてあげるんだって!」
きりっとした表情で胸を張るアンジーさんには、病の痕跡など微塵も感じない。その得意げな顔に、思わず声が漏れる。
「ふふ……。じゃああなたは、その誓いを遂げたのね。すごいわ。ご両親もおばあさまも、きっと安心なさったでしょうね」
「はい! そりゃあ、もう! あのか弱かった私が、まさか王国軍に入るほど強く逞しくなるとは……って、何度も嬉しそうに言われました。今では別の意味でいろいろと心配をかけてはいますけどね。まぁ、お前の好きに生きなさいって言ってくれるもので。えっへへへ」
(……あ、そうだ)
つい夢中になって聞き入っていたけれど、この人、リオン様と一緒に戦から帰ってきたんだった。
我に返った私は、リオン様に視線を滑らせる。
彼もいつの間にか、アンジーさんの話をただ静かに聞いていた。
私たちの視線が自分に移動したことに気付くと、リオン様が再びゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……そういうわけなんだ。ようやく帰還できることになった時、ハリスがどうしても、我が軍に同行し、ノルシェ伯爵領に行きたいと言い出した。ぜひ君に会い、直接礼を言わせてほしいと」
「…………そ、そういうこと、だったの、ですね……?」
全身がじんわりと熱を帯びる。
もしかして私は、とんでもない勘違いをし、突っ走ってしまったのでは……?
(い、いや、ちょっと待って。でもさっき、この二人は見つめ合って、微笑み合ってなかったっけ……?)
脳内が大混乱に陥り、自分が今どんな感情でいればいいのかも分からない。
おろおろしていると、アンジーさんがむふふふと妙な声を出して笑い出す。
「そうなんですぅ。やっとティエナ様にお会いしてお礼を言うという夢が叶いました! 駐屯地では私たち、お互いに大好きなティエナ様の話をすることで意気投合して、とても盛り上がりまして。戦の合間、束の間の休息の時間を、ティエナ様について語り合うことで気力を漲らせていたのですっ!」
(……え??)
つらつらと喋る彼女が何気なく発したその言葉に、私はきょとんとする。
「……お互いに大好きな……?」
そう口にしながら、リオン様の顔を見る。
すると彼は、唇を引き結び私を見つめたまま、その端整な顔をどんどん真っ赤に染めていった。
(リ、リオン様……?)
かつて見たことのない、大きな動揺を浮かべるリオン様の、真っ赤なお顔。
見ているうちになぜだか私まで体が熱くなり、頬が熱を帯びはじめる。
しばらく見つめ合い固まっていると、リオン様の方が観念したように口を開いた。
「……俺たちの結婚は……、俺が父に懇願したんだ。どうしても、相手は君がいいと」
(……え……っ)
呻くような声でそう言うと、リオン様は耐えきれないとばかりに私から視線を逸らし、俯いた。その額に汗の粒が光っている。
「二十歳頃、俺はノルシェ伯爵領から物資の輸送や兵の移動をする際、何度かローエル男爵領を通っていた。その際、君の姿を見かけていたんだ」
「っ!! わ、私を、ですか……?」
思わず上擦った声でそう問い返す。リオン様は目を逸らしたまま、気まずそうに小さく頷いた。
そんなこと、全然知らなかった。一体いつ見られていたのだろう。
ドキドキしながら続きを待っていると、リオン様がまた口を開く。
「ある日、通りかかった街道沿いの広場にふと目を向けた時、子どもたちに囲まれてしゃがみ込んでいる女性が目にとまった。泣いている子どもを宥めたり、ほつれた人形を直してやったり……。それ以来、見かけるたびにその人はいつも、小さな子どもたちの世話をしていた」
彼の言葉を聞きながら、ローエル男爵領で過ごしていた日々のことを思い出す。
母と一緒に、雑貨店に人形を持っていった帰りに、私はよく広場に立ち寄っていた。
そのうちに顔見知りになる子どもたちができて、私は試作品のお人形を配ってあげたり、一緒に遊んであげたりしていたのだ。
街道を通る隊列を見ることはあった。騎士や荷馬車が連なり、大通りを通っていくのを。
(その中に、リオン様がいたこともあったの……? まさか、見られていただなんて……)
不思議な気持ちで見つめていると、リオン様は下を向いたまま、少し表情を和らげる。
「身なりを見れば、さほど裕福な家のご令嬢ではないのだろうと察した。だが、天真爛漫に子どもたちに笑いかけていた君のことが、無性に気になって仕方がなかったんだ。……綺麗な人だと思ったよ」
「……っ!」
さらりと言われたその言葉に、息が止まった。
(き……、綺麗……? 私が?)
リオン様の口から、そんなことを言われるだなんて。
私の動揺になど気付かない様子のリオン様は、話を続ける。
アンジーさんも、いつの間にか食い入るようにリオン様のことを見つめ、真剣な顔で話を聞いていた。
「ノルシェ伯爵家の嫡男という肩書きや、見目や財産だけに興味を示し俺のそばに寄ってきていた貴族令嬢たちとは、まるで雰囲気が違った。見栄も打算もない君の朗らかな笑顔に、いつしか俺は心を奪われていた」
(……リオン様……)
初めて聞く、リオン様の気持ち。
ほんの少し、分かる気がした。
裕福なノルシェ伯爵家の、これほど見目麗しい嫡男だ。きっとリオン様自身を見て心を通わせようとすることなく、彼の肩書きや財力を目当てに近付いてくる人が何人もいたのだろう。
それはきっと、とても虚しいものだったに違いない。
「結婚を渋り続ける俺と、強引に婚約者を決めようとする父は、その話になると何度も対立した。ある日俺は、ついに勇気を出して打ち明けたんだ。……ローエル男爵領の令嬢を、妻にしたい、と……。そ、その頃にはもう、広場で見かけていたその女性が、かの家の令嬢だということは、調べて分かっていたから……」
そう打ち明けるリオン様の声は徐々に小さくなっていく。耳まで真っ赤に染めた彼の額には、汗の粒がびっしりと浮いていた。その汗はついに、こめかみを通って一筋流れ落ちる。動揺がすごい。
あ然として見つめていると、リオン様がちらりとこちらを見た。
目が合った私たちは、お互い唇を引き結び、固まる。
彼の照れが私にも伝染し、二人して不自然に強張ったまま、どちらからともなくそっと視線を逸らした。
この眩しい見目からは想像もつかなかったけれど、どうやらリオン様は、全く女性慣れしていない初心なお方らしい。
すると、その時。
アンジーさんが見かねたように口を開いた。
「お分かりいただけましたでしょうか!? ティエナ様! ノルシェ様はただただ、一途に! 健気に! ひたむきに! ティエナ様のことだけを、想い続けておられたのでございます!」
「っ!?」
「だ……、黙ってくれ! ハリス!」
リオン様が焦った様子でアンジーさんの方を向き、大きな声を上げる。けれど、無視しているのか聞こえていないのか、アンジーさんは私だけを見つめ、感情のこもった声で語り続ける。
「大輪の薔薇が咲き誇る庭園に背を向け、道端の野花だけを見つめ続けるように! きらびやかな宝石箱を閉じ、河原で拾った石ころだけを大事に握りしめるように! 豪華な料理がずらりと並んでいるのに、なぜか一番端に置かれた素朴な芋料理だけを食べるように! ノルシェ様は、ご自分にすり寄ってくる高貴なご令嬢方など見向きもせず、ただティエナ様にだけ、お心を向けておいでだったのです……!!」
(……石ころ……。い、芋料理……?)
複雑な気持ちになるが、アンジーさんに悪意は微塵もない。その証拠に、私を見つめる彼女の瞳は澄みきって、輝いている。
リオン様が困りきった表情で、私に再び視線を向けた。
どうしようもなく照れてしまい、私は誤魔化すように反論した。
「だ、だってさっき……、なんだかすごく、親密なご様子だったじゃありませんか……! 門のところでです! ふ、二人で見つめ合って、アンジーさんが、リオン様の頬に手を……」
「……っ、見られていたのか……。すまない……」
リオン様がぎょっとしたように頬を引きつらせ、項垂れる。
アンジーさんまで口元をあわあわと震わせはじめた。
「ひぇぇっ! もっ、申し訳ございません、ティエナ様……! あれはノルシェ様がティエナ様に、優しい笑顔を向けて再会のご挨拶をするための練習だったのでございます!!」
「……練習……?」
思わず眉をひそめる。口を開こうとするリオン様より早く、アンジーさんが再び話しはじめた。
「だってどんなに練習しても、ノルシェ様の引きつった笑顔があまりにも不自然で、不気味だったものですから……! これじゃ逆に、ティエナ様に嫌われてしまうのではと心配で。お会いする前に、最終確認をしていたのです! ノルシェ様のほっぺたを、こう、グイーッと持ち上げて」
(あ……、あれは笑顔の練習だったの!?)
アンジーさんがさきほどの仕草を再現するように、人形を手にしたまま自分の両手を宙で上向きに動かしている。
「ティエナ様を好きすぎて意識するあまり、どうしても優しく話しかけることができないと、ノルシェ様は悶々としておられて……。この戦から帰ったら、絶対に仲睦まじい夫婦として過ごすのだと。そのために、自然な笑顔と温かい言葉を、毎日ティエナ様に……」
「もういい、ハリス。ちょっと黙っていてくれ。自分の気持ちは、自分で話したい。……悪いが、もっと離れていてくれないか」
ついにリオン様がそう口を挟むと、アンジーさんはすばやく「承知しました!」と答え、さらに後方へと下がっていく。
それを見届けたリオン様は、赤い顔のまま申し訳なさそうに私に向き合った。
「……すまない。俺に経験値が足りないばかりに、君に余計な心の負担を負わせてしまった……」
「……わ、私の方こそ、とんだ早とちりを……」
「君は何も悪くない」
カッとなって屋敷を飛び出し、まっしぐらに丘まで逃げてきた自分の行動を思い気まずさを覚える私に、リオン様が間髪を容れずにそう言ってくれる。
そして彼は、突然凛々しい表情になると、真正面から私を見つめた。
その深く澄んだ青い目に心臓が跳ねた瞬間、リオン様は少し掠れた声で言った。
「君が好きだよ、ティエナ。君が俺を知るずっと前から、俺の心には、君がいた。この二年間も、君を想わなかった日は一日だってない。……どうか、今日からはこの俺と、本当の夫婦になってくれないか……?」
「……リオン様……」
真摯な眼差しとその言葉が、胸の奥にゆっくりと溶けていく。視界が揺れ、込み上げる熱いものが眦を伝った。
「……はい。もちろんです。よ、よろしくお願いします……」
少しの恥ずかしさと、胸いっぱいに広がる喜びに、答える声が上擦った。
リオン様がほっとしたように笑みを浮かべる。
その笑顔は眩しいほど美しくて、私は照れを隠すように目を逸らし、言葉を続けた。
「ご無事に帰ってきてくださって、本当に嬉しいです」
すると彼は、懐にそっと手を差し入れた。
「この人形が、戦場で俺の身を守っていてくれたのかもしれない」
取り出したのは、二年前の出立の時に、私が贈った彼の人形。
リオン様とともに戦場で過ごし、過酷な日々を乗り越えてきたであろうそれは、すっかり色が変わり、ところどころほつれていた。
それに気付き、涙の粒がまた頬を伝う。
「大事に持っていてくださって、ありがとうございます、リオン様。……ふふ。でも、だいぶ古くなって、汚れてしまっています。新しいものを、作り直しますね」
「いや、これがいい」
リオン様はそう言うと、座ったまま少しずつ、私の方へと近付いてくる。
「君が初めて俺にくれた、大切な贈り物だ」
そう言いながら手を伸ばし、私の頬を拭ってくれた。
そんな優しい言葉を与えられれば、ますます感極まって喉の奥が震える。
「……ただ、その、頼みがあるのだが」
すぐそばで私を見つめるリオン様が、迷いを見せつつもぽつりとそう言った。
「何でもおっしゃってくださいませ、リオン様」
そう答えると、彼はほんの少しの間唇を引き結び、再び口を開いた。
「今度は、君を模した人形を、俺のために作ってくれないか? この人形と、対になるようなものを」
「……私の?」
改まって「頼みがある」なんて言われ、一体何だろうと思ったけれど、まさか人形のことだとは。
見つめると、リオン様は気恥ずかしげに目を逸らす。
「いや、受け取った時から思っていたんだ。嬉しかったが、なぜ君じゃなくて、俺の人形なのだと。……どうせなら、その……、君のものがほしい、のだが……」
(……あ……)
出立の日、玄関ホールで人形を手渡した時のリオン様の反応をふと思い出す。
私の顔と人形を何度も見比べ、何か言いたげな様子だったけれど、そういうことだったのか。
胸に広がる喜びは、もう体中を巡るほど膨れ上がっていて。
私は満面の笑みで頷いたのだった。
「もちろんです、リオン様」
三人並んで、丘から屋敷まで戻る途中、アンジーさんがにこにこしながら人懐っこい口調で言った。
「では、せっかくですので、本日からしばらくノルシェ様のお屋敷に滞在させていただいてもよろしいですかっ!?」
その言葉に、リオン様はぎょっとした様子で彼女を睨みつける。
「だ……っ、ダメに決まっているだろう!! 何を考えているんだ君は!!」
「ええ!? なんでダメなんですか!? あんなに大きなお屋敷なのにぃ……。一部屋くらい貸してくださいよぉ。地下の物置きとかでもいいですから! せっかく憧れのティエナ様ともお会いできたんですよぉ? ゆっくりお話しさせていただきたいです~」
アンジーさんが駄々っ子のようにそうねだる。戦地から真っ直ぐここへとやって来たのだ。疲れているだろうし、数日間屋敷に滞在してもらうくらいいいのではないか。そう思ったけれど、リオン様は頑なに拒絶している。
「ダメだと言っている! ご、ご両親だって心配しているだろう。早く帰ってやれ」
「や、大丈夫ですよ。ちゃんと無事だって手紙出してますし」
「そっ……、そういう問題じゃない!! いいからすぐに帰るんだ!!」
「どうしてですか!! ひどいですノルシェ様!! ティエナ様との再会に向けて、あんなに一緒に作戦を練ってさしあげたのに!」
「それは感謝しているが! ……だから、その……、わ、分かるだろう!?」
口を挟むこともできず、私は内心ハラハラしながら二人の口論を見守っていた。
けれどふと、アンジーさんがハッとした顔をして口元を手で押さえた。
「……あ!! そうですよね!! 大変失礼いたしました、私ったら……! そりゃあ二年ぶりに再会した溺愛奥様と、心置きなく熱烈な夜を過ごされたいに決まっていますよね!?」
「「っ!?」」
その言葉に、私は思わず足を止めてしまった。
リオン様もぎょっとしたようにアンジーさんを見て、それから私に視線を移す。
私の顔が熱くなるとともに、リオン様の顔も一瞬にして真っ赤に染まった。
アンジーさんは一人で笑いながら、大きな声で喋り続けている。
「あっはは! すみません私ったら、本当に気が利かなくて。そうですよね。地下の物置きだろうがどこだろうが、客人がいると思えば、寝台でいろいろなことをゆっくりできるはずがございませんよね!?」
「だっ! 黙れハリス!!」
ついにリオン様がアンジーさんを怒鳴りつけた。
その夜、私たちはたくさん話をし、たくさん見つめ合い、笑い合った。
何もかもが不慣れで、照れくさかった。
私たちは夫婦でありながら、一緒の時間を過ごしたことさえ、ほとんどなかったのだから。
かすかに触れては照れ、目が合っては逸らし、そんなことを繰り返しながら、少しずつ、ゆっくりと、距離を縮めていく。
そうして長い夜が終わる頃、私たちはようやく、本当の意味での夫婦になっていたのだった。
ノルシェ伯爵領の宿に数日間滞在し、あちこち観光までしてすっかり満足したアンジーさんは、ようやく自分の家へと帰っていった。「ティエナ様、また遊びに来てもよろしいですかっ!?」と大きな声で言う彼女に、私はもちろん頷いた。
今度彼女が来るまでに、アンジーさんの人形を作っておいてあげようと思う。
私たち夫婦の寝室には今、真新しい私の小さな人形と、すっかりくたびれたリオン様の人形が、仲良く並んで飾られている。
─── end ───
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