リナと名乗る幼馴染。
あの日。
僕の目の前で、リナが血に染まった瞬間から。
世界は、色を失った。
ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
伸ばした手は届かず。
胃の奥が焼けるような無力感。
喉を掻き毟りたくなるほどの恐怖。
このまま、失うかもしれない。
その可能性だけが、脳裏にこびりついた。
助かったと聞いたとき。
安堵で膝から崩れ落ちそうになった。
会いたかった。
すぐに。
今すぐに。
けれど。
「記憶喪失」
その診断が、僕を足止めした。
――そして。
ようやく再会した彼女は。
「リナ! やっと……やっと回復したのか!」
駆け寄った僕を。
困惑したように、見上げた。
「あ……えっと、初めまして……?」
時間が、止まる。
「……そうか。本当に、記憶喪失なんだね」
違う。
目の前にいるのは。
僕の知っているリナではない。
「ルシアンだ。リナ、君の幼馴染だよ」
「幼馴染、さん……その、また仲良くしてくれますか?」
他人行儀な距離。
丁寧な言葉。
「僕のこと……本当に、何も覚えてないの?」
「ごめんなさい……」
伏せられた視線。
空気が、ひりつく。
魔力の流れ。
纏う色。
波長。
すべてが、違う。
まるで。
リナの姿をした、別の誰か。
「いいよ。じゃあ、思い出せるように、これからいっぱい一緒にいよう。ね?」
そう言いながら。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
「うん! ありがとう、ルシアンくん」
くん。
その響きに、わずかな違和感。
――その日から。
僕は“観察”を始めた。
観察という名目で、傍にいることを選んだ。
調べれば調べるほど。
違和感は確信へ変わっていく。
好きだった菓子を出しても、首を傾げる。
苦手だった野菜を、平然と口にする。
笑い方。
仕草。
歩幅。
すべてが、違う。
「ルシアンくん! 見て! すっごく大きな鳥が空を飛んでるよ!」
「……あれは鳥じゃない。ワイバーンだよ」
「わお! ファンタジー!」
屈託のない笑顔。
はしゃぐ声。
知らない反応。
「これ、すごい!」
「……魔力を通せば飛ぶ玩具だよ」
目を輝かせる。
無邪気だ。
こんな顔を、リナはしただろうか。
一緒に過ごす時間が増えるたび。
僕の中で凍っていた“リナ”が。
目の前の“彼女”に、静かに塗り替えられていく。
もし。
もし彼女が“治って”しまったら。
今の彼女は、どこへ消える?
胸が、ざわつく。
――夕方。
忘れ物を取りに邸へ戻った時だった。
静まり返った廊下。
開いた扉の隙間から、低い声が漏れる。
「いつまで、あの身体に宿ってくれるのかわからない……」
「二度と、娘を死なせたくないんだ」
「魔術師へ相談すべきか?」
「駄目よ! リナの身体を研究者たちに奪われてしまうわ。……二番目のリナも、どうなるか……」
宿っている。
二番目の、リナ。
背中を、冷たいものが這い上がる。
脳裏に浮かぶのは。
先ほどまで隣で笑っていた顔。
無防備な笑み。
はしゃぐ声。
あの、屈託のない目。
胸の奥で、何かが静かに決壊した。
守るべきは。
“戻るかもしれない誰か”ではない。
今、ここにいる彼女だ。
「……今のリナを守らなくちゃ」
零れた声は、低い。
思った以上に、低い。
もし彼女が。
この身体に宿る、別の魂だというのなら。
消える可能性があるのなら。
僕は。
何を優先する?
答えは、もう出ている。
このとき。
僕が思い浮かべていたのは。
幼馴染のリナではなかった。
今、笑っている彼女だった。




