いつから知ってたの?
熊の咆哮は、数分後には嘘のような静寂へと変わっていた。
父と騎士たちの連携は完璧だった。
巨躯は地に伏し、森は何事もなかったかのように平穏な風を取り戻す。
鼻腔を突く生々しい血の匂いと、どこまでも残酷に突き抜ける高原の青い空。
その青が、網膜を刺すほどに、やけに澄みすぎていた。
「リナ……大丈夫か?」
「ちょっと、びっくりしたけど……大丈夫よ」
そう答えた自分の声が、やけに遠い。
まるで深い水の底から、水面へ向かって叫んでいるような感覚だった。
足元が、ぐらりと揺れる。
視界の端から、どろりと濃密な闇が侵食してくる。
――冷たい。
それが、私の意識が最後に捉えた、この世界の温度だった。
◇
次に目を開けた時、天井が頼りなく揺れていた。
いや、揺れているのは天井ではない。私の意識の輪郭だ。
全身が、内側から焼かれるように熱い。
喉は砂漠のように乾き、肺に滑り込む空気ですら剃刀のように鋭い痛みを伴う。
それなのに、指先ひとつ動かす力も残っていない。
私の身体は、すでに私の所有物ではないかのようだった。
誰かが、私の名前を呼んでいる。
「リナ……」
低く、掠れた、祈りのような声。
額に触れる布が何度も取り替えられているのがわかる。
ずっと握りしめられている手の温度だけが、やけに現実的で、痛いほどに熱い。
「今の君が、消えてしまうのが怖い。……リナ。魂を繋ぎ止める方法が、この世界に必ずあるはずだ。禁忌だろうと、俺が必ず見つけ出す」
魂を、繋ぎ止める……?
朦朧とする意識の奥で、胸のどこかが軋んだ。
ルシアン。
あなた、いつから知っていたの?
それとも、最初から気づいていたの?
私が、あなたの知っていた「本来のリナ」ではないことに。
その空っぽの器に、どこからか紛れ込んだ「別の誰か」であることに。
問いは、答えを得る前に、熱の中に溶けていく。
意識が、再び沈んでいく。
光も届かない、暗く深い水の底へ。




