避暑地で婚約者も一緒に
翌朝。
避暑地の爽やかな空気と共に目覚める――はずだった。
しかし、私の視界に最初に飛び込んできたのは。
窓際に佇む、長く、美しい黒い影だった。
「……なんでいるの、そこに」
「避暑に来たと言ったはずだが。忘れたのか?」
さらりと返される。
ルシアンが躊躇いなくカーテンを開け放つと、朝の光が部屋いっぱいに溢れた。逆光の中に立つ彼は、銀髪が淡く煌めき、まるでこの洋館の真の主であるかのような静謐を纏っている。
……いや、違う。ここ、私の部屋。
「ここ、私の私室なんだけど」
「知っている」
「知っていて、無断で入っているのね?」
「安全確認だ。不備はない」
安全確認という名の不法侵入である。
ベッドから半身を起こした私を、彼は冷徹な紫の瞳でじっと観察する。
「顔色は良好。脈拍、やや上昇。瞳孔の反応も昨夜より僅かに鋭いな」
「起き抜けに婚約者が仁王立ちしてたら、誰だって動悸くらいするわよ!」
「……興奮状態も正常範囲内だな」
メモを取るな。
これ見よがしにノートを広げるな。
朝一番から婚約者を被験者扱いするな。
「ねぇ、せめてノックくらいしてよ」
「した。三回ほど」
「嘘でしょ。私、一回も聞いてないわよ」
「返答がなかったから入った。緊急事態の可能性を考慮しての判断だ」
それは私が熟睡していただけだ。
完全に「ルシアンの正論」という名の鈍器で殴られている。
朝食の席。
驚くべきことに、両親は当たり前のような顔でルシアンの存在を受け入れていた。
「遠路ご苦労だったな、ルシアン君。馬の交代も迅速だったと聞いたよ」
「いえ。すべてはリナの療養のためですので。当然の務めです」
父が満足そうに頷き、母が優雅に紅茶を口にする。
「ふふ、若いって素晴らしいわね。愛の力は距離をも凌駕するのね」
何がだ。
昨日の今日で、完全に「公認の同行者」という空気が出来上がっている。
私は左右を両親に固められ、正面にはルシアンという鉄壁の包囲網の真っ只中で、黙々とパンをかじるしかなかった。
「今日は、川のさらに上流へ行こうと思っている」
父の提案に、私の瞳が思わず輝く。
「いいですね! 昨日よりもさらに水が澄んで、絶景のはずだわ!」
「俺も同行する」
即答。
「……川釣りだよ? 危険なんてないからね!分かってる?」
「わかっている」
その言い方が、まるで「危険は排除済みだ」とでも言いたげで。
川辺。
陽光が水面に反射し、きらきらと白く弾けている。高原の風は軽く、森の香りを含んでいて、深呼吸するだけで胸の奥が澄んでいく。
私は靴を脱ぎ、そっと素足を水に浸した。
「冷たっ……! でも、最高に気持ちいい……」
川の流れは透明で、指先を撫でるように通り過ぎていく。水底の小石が淡く光り、流れに揺れる水草が静かに揺れていた。
「体温低下速度、正常。皮膚の魔力伝導率も安定している」
「測るな。浸かってるだけなんだから」
いつの間にか、彼は隣にいる。
呼吸が届くほど隣に。
距離は常に半歩。
これが彼の言う「ニコイチ理論」の実践らしい。物理的に離れるという概念が、彼の辞書から消えている。
川魚たちは、今日も今日とてやる気満々で私の足元に押し寄せてくる。
「ねぇ、これ絶対におかしいわよね? 魚が足に突撃してくるんだけど」
「異常だな」
あっさり同意。
「やはり高原の魔力濃度が、君に呼応して――」
「頼むから、一度くらいロマンチックな休暇を楽しませて!」
その時だった。
背後に広がる深い森の奥から、微かなざわめきが走る。
ほんの一瞬。
山の空気が、鋭い針で刺したように張り詰めた。
ルシアンの視線が、ゆっくりと、しかし確実に森の奥へと注がれる。
私の肩に添えられていた彼の指先に、僅かに力がこもった。
「……ルシアン? どうかしたの?」
「……何でもない」
即答。
だが、その紫の瞳は確実に何かを捉えていた。
風が止む。
水面の反射が、一瞬だけ鈍くなる。
森の奥で、見えない何かが、こちらを測るように息を潜める。
穏やかに微笑むルシアンの背後で、冷たい殺気が音もなく膨れ上がる。
それは風に溶け、森に溶ける。
だが、確かにそこにある。
私はまだ、それを高原の冷たい空気のせいだと信じていた。




