婚約者とニコイチ
バタン、と閉めた扉の向こうで、静かな気配が一歩、こちらへ近づいた。
「リナ。開けてくれ」
穏やかだ。その声は、深いたまり水のようにどこまでも穏やかだ。
だからこそ、本能が警鐘を鳴らす。
「ここ、王都から離れた避暑地なんだけど!? なんでいるのよ!?」
「婚約者が避暑地に行くと聞いて、追いかけてこない理由がどこにある?」
寸分の隙もない正論が返ってくるのが、心底腹立たしい。
「あるわよ! 普通は『家族水入らずだし、お邪魔かな』って遠慮するものなの!」
「遠慮?」
扉一枚隔てた向こう側で、わずかに空気が冷える。
「君の体調は現在、表面的には安定している。だが、環境が変われば変数は飛躍的に増える。高原特有の魔力濃度、気圧、さらには先日報告のあった動物の異常行動……」
……出た。
「今回の避暑は療養の一環だろう? ならば、魔導師である俺が同行するのは極めて合理的な判断だ」
「合理的」という言葉ほど、ロマンチックな休暇の響きを殺す単語がこの世にあるだろうか。
「今は元気なの! 川釣りも楽しんだし、なんなら巨大な猪まで出たんだから!」
「猪?」
一拍、沈黙が落ちる。
「……詳しく聞こうか」
やばい、食いつかれた。そこを掘り下げられると、話がどんどん物騒な方向へ飛躍してしまう。
「……とにかく! 今は家族水入らずの大事な時間なの。帰って!」
扉越しに、彼の気配がさらに近づく。ノブに手が触れられた。
「家族水入らず、か」
低く、咀嚼するように繰り返される声音。
「ならば問うが。リナ、俺は何だ?」
「……婚約者、でしょ」
「なら、家族候補だ。……いや、家族と同義だな」
さらりと戸籍の壁を飛び越えないでほしい。
「俺は君の『外側』にいる存在ではない。最初から、君の内側にいる」
心臓が、どくりと大きく跳ねた。
扉一枚隔てているはずなのに、彼の吐息がすぐそばにあるような錯覚に陥る。
「開けろ、リナ。別に、怒ってはいない」
その直後。
「――今は、な」
怖い。本気で怖い。
私は震える手で、ゆっくりとノブを回した。
カチャ、と乾いた音が響く。
扉の向こうに立っていたのは、旅装も解かぬままのルシアンだった。
漆黒の外套には、長距離を駆けてきた証である埃がわずかに残っている。
だが、その美貌はいつも通り完璧に整っていた。整いすぎていて、逆に人間味が薄い。
「……馬、何頭潰してここまで来たの?」
「潰してはいない。一頭が限界を迎える前に乗り換えただけだ。交代制だよ」
聞き方が悪かった。
彼は動物を虐待するタイプではない。ただ自分の体力を無限だと思っているタイプなのだ。
「で? 私の様子を見に来ただけなの?」
「それもある」
それ“も”?
「それ以外は?」
彼は一歩、部屋へと踏み込んだ。
淀みなく、迷いなく。そこが当然の居場所であるかのように。
「高原で、不穏な気配があった」
一瞬で、室内の温度が下がった気がした。
「些細な違和感だ。だが、君の周囲で起きる『些細』を、俺は決して無視しない」
脳裏をよぎるのは、昼間の騎士の、一瞬だけ熱を帯びた奇妙な視線。
「俺のいない場所で、君に触れようとする者がいる。……それは、俺が許可していない」
穏やかすぎる声が、重い鎖のように全身へ絡みつく。
「ちょっと待って、ルシアン。許可って何よ」
「君の安全と保存に関わるすべての事象だ」
即答。一切の迷いなし。
「だから、今回の避暑には俺も同行する。被験者の観測は継続だ」
「夏休みなのに!?」
「夏だからこそだ。環境変化、動物の異常反応、そして不快な対人接触。サンプルは多い方がいい」
完全に研究者の顔をしている。
「ねぇ、婚約者の役割って、そういうものだっけ?」
「君とニコイチになる役割だろう?」
さらりと特大の爆弾。
「ニコイチ……?」
「片方が不安定なら、もう片方が補い、固定する。常に同じ座標に存在する。極めて合理的だろう」
合理的、再び。
「……私に拒否権は?」
「あるよ」
ほんの一瞬、彼が優しく目を細める。
「だが、それが採用される保証はどこにもない」
最悪だ。自由が砂のように指の間からこぼれていく。
それなのに。
これほどまでに徹底的に管理され、逃げ場を塞がれているのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。
「……じゃあせめて、川釣りくらいは普通にさせて」
「次回は俺もやる。君の隣で、釣り竿を構えよう」
「そうじゃないのよ」
ため息と同時に、彼の手が私の手首を捕らえた。
強くはない。
だが、絶対に逃がさないという意志だけは、はっきりと伝わる。
「リナ。俺は、君を失う可能性を、この世界から一つ残らず排除する」
冗談も、慈悲もない瞳。
高原の涼しい風が、開け放たれた窓から吹き込む。
その風に乗って、どこか遠くで、もう一つの視線が静かに凍りついた。
私は、まだ気づいていない。




