偶然いっしょになる人。
湖畔での動物大集結事件から数日。
私はすっかり日常に戻っていた――戻っていた、はずだった。
「今日は街へ出ましょう。気分転換も必要よ」
母の一言で、久しぶりに屋敷の外へ出ることになった。
護衛、侍女、そして過剰なほどの警戒態勢。
いわゆる「過保護三点セット」完備である。
街は春の陽気に満ちていた。
焼き菓子の甘い匂い、花屋の鮮やかな店先。
平和だ。今度こそ平和だと、信じたい。
「リナ様、お足元にお気をつけください」
侍女の声に頷きながら歩いていると、ふと視線を感じた。
粘りつくような、静かで、それでいて深い視線。
吸い寄せられるように振り向いた瞬間、私は「彼」と目が合った。
「あ……」
黒髪の青年。ルシアンと同じくらいの年頃だろうか。
整った顔立ちをしているが、どこか印象が薄い。
人混みに紛れれば一瞬で見失いそうな、奇妙なほど希薄な存在感。
彼は、ほんのわずかに首を傾けた。
「……失礼。驚かせてしまいましたか」
声は凪いだ海のように穏やかだ。
「いえ、大丈夫です。……どこかでお会いしましたかしら?」
自分でも分からない。
初対面のはずなのに、皮膚の内側がざわつくような妙な既視感がある。
「いいえ。ですが、先日湖畔で……」
湖畔。
その単語が耳に届いた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
「偶然、近くを通りかかりまして。あまりに賑やかでしたので」
「賑やか。……ああ、あの動物王国状態のことですか」
「動物に好かれていらっしゃるのですね」
彼は笑った。
柔らかいが、鏡の表面のように底の読めない笑み。
「そんなつもりはないんですけど。……みんな、勝手に集まってきちゃって」
「ええ。勝手に」
繰り返されたその言葉に、わずかな引っかかりを覚える。
「偶然というのは、面白いものです。こうして街でも、またお会いできるのですから」
偶然。本当に、そうだろうか。
「……あなたは、どなた?」
問いかけると、彼は一歩だけ距離を詰めた。
護衛の騎士が鋭く身構える。
「ただの通りすがりですよ。ですが、もしまたお会いできたなら――その時は、きちんと名乗りましょう」
「また、って」
「ええ。偶然は、重なるものですから」
ぞくりと背筋を冷たいものが這い上がる。
その瞬間、どこからか突風が吹き抜けた。
視界を遮る人波。
瞬き一つする間に、青年の姿は掻き消えていた。
「……今の方は?」
侍女の不安げな問いに、私は曖昧に答える。
「知らない人。たぶん、ただの偶然よ」
そう言いながらも、胸の奥の違和感は消えてくれない。
その日の帰り道。
「今日は、誰かと話したか?」
何気ない調子で尋ねてきたのはルシアンだった。
いつの間に合流していたのか、神出鬼没ぶりがもはや怖い。
「え? ああ、街でちょっとだけ。偶然、いっしょになった人がいて」
ぴたり、と世界の空気が凍りついた。
「……偶然?」
声は穏やかだ。
だが、その瞳はまったく笑っていない。
「うん。湖畔にもいたらしいの。動物が集まってたのを見てたって言ってたわ」
ほんの一瞬。本当に呼吸を忘れるほどの一瞬だけ。
彼の瞳の奥で、何かが冷たく鋭く弾けたのを、私は確かに見た。
「そうか。……偶然か」
それだけなのに、背筋に嫌な予感が走り抜ける。
その夜。
月の光も届かない深い闇の中で、
一人の男が音もなく地面に押さえつけられていたことを、私は知らない。
「偶然、だと?」
低く、地の底から響くような声。
それは笑っているようにも聞こえたが、そこには一切の温度が存在しなかった。




