逃げた先が、異世界だった。
あの日、どうしてあんなにも必死に逃げていたのか。
思い出すたびに、指先がかすかに震える。
始まりは、擦り減った日常の延長線上だった。
満員電車の湿った空気。
不機嫌を撒き散らす同僚の視線。
押し付けられた残業。
日付を越えても止まらない時計の針。
「……疲れた」
吐き出した溜息は、夜の闇に吸い込まれて消えた。
早く帰って、推しの声を聴いて、現実を忘れたかった。
ただそれだけの、ささやかな平和。
それが、「彼」の出現で音を立てて崩壊した。
――「おかえり!」
自室のドアを開けた瞬間、弾んだ声が鼓膜を震わせる。
脳が、現実を拒んだ。
なぜ、施錠していたはずの部屋に見知らぬ男が立っているのか。
なぜ、初対面の私に親しげな笑みを向けているのか。
「だれ……?」
震える声が、空気を切る。
その直後。
男の瞳の奥で、何かが弾けた。
生存本能が叫ぶ。
逃げろ。
今すぐ。
「たすけて! だれかっ! お願いします!!」
夜の住宅街。
街灯が心細く照らすアスファルトを、なりふり構わず駆け抜ける。
背後から、執拗な足音が迫る。
「なぜ逃げるんだ! 待てよ!!」
怒鳴り声に混じる、異常なまでの親密さ。
それが何より恐ろしい。
喉の奥が焼けるように熱い。
視界が涙で滲む。
深夜の交番は無人で、コンビニの明かりさえ遠い。
心臓が、耳元で破裂しそうに跳ねる。
……っ。
逃げ場を探して駆け込んだ階段。
焦りに足が縺れ、靴の裏が虚空を蹴った。
待って。
あんまりじゃない?
視界が反転する。
重力が、ふっと消えた。
激しい衝撃。
そして、意識は深い闇へと沈んでいった。
――体の奥から、じわりと疼く痛み。
「……っ」
重い瞼を、無理やり押し上げる。
視界は霞み、焦点が合わない。
すぐ耳元で、掠れた声が弾けた。
「リナ! リナ! ああ神様、よかった……っ」
温かい腕に、壊れ物のように抱き締められる。
嗅ぎ慣れないハーブの香り。
他人の体温。
「心配したんだぞ……。治癒魔術師が、手遅れだなんて言うから……っ」
低く震える声。
胸元に押しつけられた頬が、じわりと濡れる。
鼻を啜る音。
必死に私を呼ぶ声。
ぼやけた視界の先には、見たこともない意匠の服を纏った男女。
「……あの、どちらさま、ですか……?」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
……。
――。
それからは、嵐のような騒がしさだった。
白衣に似たローブを纏う治癒魔術師。
鋭く放たれる質問。
「……リナ、です」
「ここがどこか、は……わかりません」
答えるたび、魔術師の表情が驚愕と困惑に塗り替えられていく。
押し殺したような声が、低く響いた。
「……つまり、娘は別人格だと?」
それに応じる声は、静かすぎるほど静かだった。
「……そう判断せざるを得ません」
神妙な空気。
次の瞬間、室内を切り裂く声が落ちる。
「他言無用だ。娘は生きている。……いいな?」
誰も反論しない。
この人が“父”なのだと、遅れて理解する。
鏡の中に映っていたのは、私であって私ではない、知らない少女。
「万が一、このことが発覚すれば……リナ、あなたは王国の研究対象として捕らえられ、二度と……」
続きを聞かなくても分かった。
自由を奪われるか。
解剖台に乗せられるか。
檻の中で一生を終えるか。
(え、嘘でしょ。命からがら逃げてきたのに、次もハードモード確定なわけ!?)
それでも内心で突っ込めるのは、この両親が私を守ろうとしてくれているからだ。
理解した。
生き延びる道は、ただ一つ。
私は今日から、記憶を失った「リナ」として、この見知らぬ世界を歩むしかない。
逃げた先が、異世界だった。
けれど私は、まだ知らなかった。
この世界でも、逃げ続けることになるなんて。




