成熟編
玄関のドアを開けた瞬間。
その一瞬だけ、母の顔にはヒビ割れた泥のような疲れの跡が残る。
透は、その事に気が付いていた。
ある寒い冬の夜。
玄関を開けた母は、部屋の中央で妙なポーズをとっている透を見て破顔した。透は両手をまっすぐ上に伸ばし、奇妙なガニ股で突っ立っている。
「ちょっとぉ! 何そのポーズ!」
「エダナナフシのマネ!」
そう言って、透は虫の演技を続ける。ゆらゆらと、脚の先で地面を確かめるようにしながら、部屋の中を一回り。
「とおる〜」
椅子にへたり込んだ母は、込み上げてくる笑いを抑えようと、何度も短い息を吐く。
「あ、美味しそうな葉っぱだ、むしゃむしゃむしゃ」
「あー、もー、透は天才だよ……。将来は演技の道に進むべきだなぁ……」
蕾が花開くような、母の笑顔が好きだった。
そんな小さな頃の記憶など、今の今まで忘れていた――
* * *
もはや『いつもの場所』となった公園。
健太くんへの演技指導の合間に、一瞬だけ見せた真里の顔には、ヒビ割れた泥のような疲れが見えた。
ベンチにもたれて、今にも眠りにつきそうな半開きの目。透はその顔で、幼い頃のどうでもいい記憶を思い出していた。
「ねえ透! よそ見してないで俺の『木』を見てよ!」
「ああ、ごめん」
「えー……『ここは、しんせいなもりである! たびのものよ、いますぐたちさるのじゃ!』……どう?」
健太くんは両手を空に掲げた。秋の夕暮れは、幾つものアキアカネが空を舞っている。
「もう少し抑揚をつけて。あと『立ち去るのじゃ』のところでは、こんなふうに枝を揺すってみるのはどう?」
「おお! いいじゃん! さすが透!」
はしゃぐ健太くんに苦笑いを見せる透。
その隣に、いつの間にか真里が立っていた。さっきまでこびりついていた泥は、笑顔の膜で覆い隠されている。
「本番、今度の日曜なんです。奥耳さんも応援に来てもらえますか?」
真里は女性にしては背が高く、透とたいして変わらない。そんな彼女がやや上目がちに透を見ている。
「いや、部外者が行っちゃマズイでしょ」
「え、バレないですよ?」
「いやいや、ママ友さん達にバレたら、噂が広まりますし……」
「ママ友、いないですし。あたしこのなりだから、他のお母さん達から敬遠されてて」
このなりと言うのは、黒人とのハーフであるこの容姿の事なのだろうか。
自分が思うよりもずっと、真里は孤独な日々を送っているのかもしれない。誰にも頼れず、子育ての苦難を誰とも分かち合えず――
透は彼女の願いを聞き入れる事にした。
単なる哀れみではない。これはきっと、共感だ。
「ありがとうございます! 健太、奥耳さん観に来てくれるって!!」
「おお! 透、サンキュー!」
手を取り合って跳ねる二人。
透はなぜか、三人目としてこの家族の中に存在する自分の姿を想像してしまい……、その無遠慮さを慌てて振り払った。
* * *
薄暗い体育館は、木材とニスの懐かしい匂いがした。
『この森は〜、不思議な森だ〜。鳥が騒いでいる〜』
主人公の男の子が舞台袖から顔を出し、大袈裟に首を傾げる。
『旅人さん! 早く逃げて! 森が怒ってる!』
小鳥の衣装を着た女の子が数人、旅人の周りを走り回りながら、口々にそう叫ぶ。しかし旅人はそれを振り切って、更に森の奥へと足を進めた。旅人には森の宝を持ち帰るという目的がある。
旅人がその場で歩く演技をすると、背景の方が舞台袖に流れていく。
そして、木の格好をした3人の男の子が現れた。
「あ、健太だ」
真里が透の肩を叩く。
透は小さく頷きながら、不思議な感覚に囚われていた。
今まで自分は『見せる側』として振る舞ってきた。しかし立場が『見る側』に回ると、演技というものはこんなにも感情を揺れ動かすものだと気付く。
期待、不安、喜び、悲しみ――目の前で繰り広げられる演者達の躍動に、自分の感情が揺り動かされている。
まるで温かな波に揺られる様な。
それは、久しぶりに感じた心地良さだった。
初めて神野越人の演技に触れた時も、こんなふうに心が揺れ動いた。そんな事を透は思い出す。
彼の演技に触れて作品の世界に飲まれている間だけは、父だとか、目的だとか、そんなノイズを抜きにして純粋に感動だけを貪る事ができた。
研ぎ澄まされた憧れだけが存在していた。
人を惹きつける、彼の演技に――
体育館の舞台では、三人の『木』が、口々にセリフを述べる。
まだタドタドしい、子供らしい声と振る舞い……。
しかしその姿からは本気の想いが溢れ出ていた。
『ここは神聖な森である! 旅の者よ――今すぐ立ち去るのじゃ!!』
健太くんは、今日まで積み重ねてきた努力を全て、このたった一言の台詞にぶつけてる。
それは観る人によっては、凡庸な演技に見えるかもしれない。端役の度を超えた、凸凹な演技なのかもしれない。
しかし――
透は隣に座る真里を見た。
そこには、両手で口を多い、息子の演技に心を震われる母親の姿があった。
見た事がある。
この顔を――
自分が『なんのために演技をするのか』
透はまだ幼い健太くんの演技の中に、その答えを見つけたような気がした。
それはとても単純な気持ち。
自分の演技で、誰かを幸せにしたい――
* * *
学芸会の数日後、神野越人との対談が某局内のスタジオにて収録された。
薄暗く調整された照明と、青を基調に揃えられた背景と小物。そして画角に対して斜めの角度で、青いソファーに座った二人の俳優。
奥耳透。
そして――神野越人。
薄暗いセットの向こう側では、より暗い世界の中で複数のスタッフ達が蠢いている。
簡単な挨拶を交わした2人は、会話の進行を大まかに記した台本に目を通す。
しかし、この台本にはそこまでこだわらなくてもいいと説明があった。アドリブに限りなく近い会話が生む臨場感が、この番組の醍醐味らしい。
「奥耳くん――今日はよろしく」
神野越人は目下の透に対して深々と頭を下げた。大物俳優とは思えない腰の低さだった。
「よろしくお願いします」
透もまた頭を下げる。
下げながらも、上目で薄闇にぼんやりと浮かぶ神野の顔を覗き見た。
初めて目の当たりにした神野からは、洗練された俳優のみが放つ後光のようなオーラを感じた。
どんな過去を持っていたにせよ、今目の前にいるこの大物俳優は、確かに視聴者を魅了する天性の輝きを背負っていた。
『お前は、俺の、父親なのか?』
そんな呟きが脳内を掠める。
そして――撮影が始まった。
神野は穏やかな口調で、透に俳優になった経緯についての説明を促す。
透は語った。
自分には父親がいない事。
母が身籠った事すら知らず、父は母の元を去った事。
そして、未成年だった母は、貧しい生活の中で、自分を必死に育ててくれた事――
神野はその話に興味深く頷き、時に同情の言葉を述べた。その表情にはなんの曇りも見えない。
『お前は、俺の、父親なのか?』
再び頭の中で声がする。
「もしかしたら、君の父親も……君の活躍を、息子と知らずとも、どこかで応援しているかもしれないね」
「そう、でしょうか……?」
「親子とは、心で通じ合うものだよ」
その言葉で、透の思考が白く染まっていく。
唇が自分のものではないように重くなり、小さく震えはじめる。
言うべきなのか?
言うべきだろう。
今ここで――
『お前が、俺の、父親なんだろう?』と……。
重たい唇が、ゆっくりと動く。
心臓の鼓動がうるさい。
この一言で、巨岩のような疑念の氷塊が、溶け始めるかもしれない。
芸能界という、煌びやかな世界からの『追放』と引き換えに……。
この、長年の呪縛から……。
その刹那――
光の向こうから突然現れた保科真里の手が、光に背を向ける透の手を掴んだ。
『行かないで――』
温かな手だった。
『だって、あなたの演技に、あたし達は救われたんですから』
やわらかな声。
心臓の音が、徐々に小さくなっていく。
「父親――」透は静かに語り出した。「私は、ずっと父親の影を追っていました」
その言葉にただならぬものを感じ、神野は眉を上げる。
「父親との再会が、自分の中で最も大事な目的でした。父に会い、母の死を伝え、自分の存在を突きつける……それが、自分の生きる意味でもありました」
透は細く長い息を吐く。
神野は小さく頷く。
「でも、今はそうじゃない。僕はどうやら、この『演技』の世界の深みに、嵌ってしまったらしい」
膝の前で硬く握った両手を震わせる。
「自分の演技で、救われた人がいる。勇気をもらえた人がいる。父親がいない、今じゃ母親もいない、こんな孤独な僕の演技でも、救える人がいる」
そして、真っ直ぐな目で、神野越人を見た。
「目的はなんであれ……神野越人さん、貴方を見続け、貴方に憧れ続けた結果――僕はその場所に辿り着くことが出来たんだと思います」
あなたが父親であろうと、なかろうと、もはや自分には関係ない。
なぜなら、あなたを抜けたその先にあるものに、自分は気づく事が出来たから。
神野は一瞬だけ眉を寄せる。
しかし透の視線を受け止め、再び小さく頷いた。
「ひとつ、聞いてもいいかな?」
「はい」
「君にとって、『演技』とは、何かな?」
その答えは、揺れ動く水面のようなものだった。
時に凪ぎ、時に乱れ、時に何かを映し出す。
しかし今なら、言える言葉は、一つだけだ。
「大切な人を、幸せに出来るものです」
* * *
日曜日の午後。
前日のドラマ撮影が深夜に及んだ透は、眠気がたっぷりと染み込んだ重たい頭をガシガシと掻いて、洗面所の前で簡単な身支度をする。
売れはじめの俳優とはいえ、オフの日はただのだらしない独り身男性だ。
歯を磨いて、インスタントコーヒーで喉を潤す。炊飯器に残ったご飯をレンジで温め、納豆をかけて平らげる。
服を着替えて外に出ると、秋は既に冬へと傾きかけていた。再び部屋に戻って、厚手のカーディガンを羽織ってから外に出た。
図書館に返却する本を入れたトートバッグが、歩調に合わせてゆらゆらと揺れる。
坂道を下り、今度は上り坂に入った。
日の当たる坂道は暖かく、透はカーディガンの重さを実感し、着てきた事を後悔する。
もう少しだ。
この坂を上りきれば――
「透ー! 何へばってんだよ!」
公園から響く、甲高い男の子の声。
「透さん、がんばれー!」
励ますような、少し揶揄うような、女性の声。
透はその二つの声に苦笑いで返し、もはやただの重りでしかなくなったカーディガンを脱いで、小脇に抱える。
暗い石の下で蠢いていたハサミムシは、日の光に向かって歩き出した。
【完】
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございました(*´Д`*)
書いたことのない『芸能界』『演技』のお話で、ちょくちょく調べながら書きましたが、変なところあるかも……。気になるところありましたら、すみません。
透の演技に対する考え方。
父親に会う為の単なる手段から、演技を始めた理由に気付き、自分なりのやり甲斐に気付き、父親への執着と決別する。その辺の変化が上手く描写出来てたら嬉しいです(^◇^;)
どんな分野の仕事でも、長く続けられる原動力は、自分以外の『誰か』に対しての価値を感じられるからなのかなと思います。幕田のようなリーマンも、芸能人も、そこは一緒なのかなーって思って書きました。
いでっち51号さんの『推しが子』と合わせて読むと、古本都紙魚くんがなぜこのような脚本を書いたのか、より深く感じられるかな? と思います。
まあ、そんな感じです……(*´Д`*)
【舞台裏】
倉木「お疲れ様でした」
古本「うへへ……お疲れ様です」
倉木「あのー、一つ気になったんですけど」
古本「うへ?」
倉木「野田さんがスタジオ入りした日、何かありました? 野田さん、なんか涙ぐんでたから……」
古本「いえ、なにも」
倉木「うーんその顔、怪しいなぁ……」
古本「ふへへ」
スタッフ「古本さん、倉木さん! ロケバス出ますよ!」
倉木「……行きますか」
古本「はい……。あ、あの!」
倉木「うん?」
古本「今日の打ち上げの後、その……僕、スズムシが綺麗に鳴く場所、知ってて……それで……その……」
倉木「えっと、あのー……古本さん? それで、の先もしっかり言ってくださいよ」
古本「それで……その、一緒に、聴きに行きませんか……?」
倉木「……」
古本「倉木さん?」
倉木「……まあまあ、及第点ってところですね。その、仕方ないから行ってあげます」
古木「ふへぇ……。あれ? 倉木さん、なんで急に早足になるんですか?」
倉木「えっとその……バスに遅れるからです! 早くしないと乗り遅れますよ!」
古木「うへぇ」
真っ赤な顔の倉木と、困った顔の古本を乗せて、バスは走り出す。




