第96話 噂の行き先を少し変える手段
鉄匙亭の朝は、いつもとあまり変わらなかった。
焼いたパンの匂い、薄いスープの湯気、木の椅子を引く音。
ただ、やたらとよく聞こえる声がある。
「昨日の瓦版読んだかよ」
「ああ、“勇者が鉄を全部飲み込む”ってやつだろ」
「軍の連中、勇者を斬れば英雄だって騒いでたぞ」
祟りだの、鉄を食うだの、好き勝手言ってくれる。
「……鉄は食わねぇっての」
思わず小さく漏らすと、向かいのリオナがびしっと俺を見た。
「はい、そこ。声が出てる」
「さすがに聞こえてねぇだろ」
「ここまで聞こえたから注意してるの」
ほんの少しだけ眉が寄っている。
その横で、エルナが両手を合わせて小さく笑った。
「でも、昨日より噂が増えてますね」
周りのテーブルから聞こえてくる声に耳を澄ませば、確かにそうだ。
「勇者が来たら、ここの鉄工所も狙われるんじゃねぇか」
「祟りに巻き込まれる前に引っ越した方がいい」
祟ってないし、巻き込みたくもない。
「おう、お前ら」
芋をつぶしていた皿の向こうから、バルツが手を挙げた。
いつもの席に座り、パンをかじりながらこっちを見る。
「昨日の状況だと、瓦版屋の観察は一応終わったって感じだな」
「広場も酒場前も、だいたい分かったわ」
リオナが頷く。
「普通の人、不安そうな人、酔っぱらい、反戦派寄りの人、束買いの少年に、軍服がいる事務所」
「まとめると物騒だな」
俺はスープをひと口飲んでから、言葉を選ぶ。
「今日の仕事は、それをどうエルステンに伝えるかだ」
「瓦版の中身まで全部読み上げる必要はなさそうですね」
エルナがスプーンを置いた。
「“何が書いてあったか”より、“誰がどう語っていたか”を話す方が大事です」
「そうだな」
俺は指を折りながら、頭の中を整理する。
「広場の瓦版屋と客の顔ぶれ。酒場前の客と、危ないこと言ってた連中。束で買ったガキと、その行き先の事務所。それから、瓦版屋の“親切な人たち”って言い方」
「エルステンには、“誰が正しいか”じゃなくて、“人の流れ”を伝える」
リオナが続ける。
「今回はそれで十分でしょ」
「うむ」
バルツはパンをかじり切ると、指についた粉を払った。
「今日の相手はエルステン一人だ。余計な聞き耳はない。遠慮せず、見たもん全部話せ」
「投げっぱなしでいいのか?」
「受け止めるのがあいつの仕事だ」
言われてみればそうだ。
物語を組み立てるのは、あっち側の役目。
俺たちは、その前に転がってる現実という欠片を、せいぜい拾って渡すくらいだ。
「……よし」
皿の芋を片づけて、立ち上がる。
「祟りの勇者の噂より先に、こっちの話を伝えに行くか」
◇
ハルト商会の半地下は、相変わらず薄暗かった。
階段を下りると、机の上に、地図と数枚の紙が広げられている。
エルステンが椅子に座り、顔だけ上げた。
「来たか」
「ああ、来た」
椅子に腰を下ろすと、木の背もたれが少しきしむ。
エルステンは余計な世間話もせず、単刀直入に言った。
「瓦版屋はどうだった」
「賑わってた」
俺は短く答えてから、順番を決める。
「まず広場だ。昼前、人が一番集まる時間帯」
エルステンの視線が、地図の広場の辺りに落ちる。
「瓦版屋は、五十くらいの男だ。木箱を台にして、派手な見出しを並べてた」
「“祟りの勇者”とか“勇者が鉄を飲み込む”とかね」
リオナが言葉を継いだ。
「黒風の残り火だの、好き勝手言ってたわ」
「売れ行きは?」
「悪くなかった」
俺は昨日の光景を思い出す。
「店主や職人っぽい男が“暇つぶし”だって顔で買ってった。主婦たちは、不安そうな顔で“子どもを外で遊ばせて大丈夫か”って話をしてた。兵士は、冗談混じりに勇者を斬るだの何だの言って、面白がって読んでた」
エルステンの指が紙の上をとんとんと叩く。
「瓦版屋本人とは話せたか?」
「少しだけな」
俺は昨日の会話を、できるだけそのままの形で出す。
「“勇者の記事が多いのはなぜか”って聞いたら、“書けば売れるからだ”ってはっきり言った。それから、“軍の偉いさんも、勇者の話は広く知られていいって顔をする”ってぼかした言い方もしてた」
「情報源は?」
「“親切な人たち”だそうだ」
エルナが、その話を続ける。
「勇者がどこで何をしたとか、黒風がどう動いたとか、詳しい話を持ってきてくれる人たちがいる、と」
「顔ぶれはだいたい決まってる、とも言ってた」
俺は付け足す。
「名前は出さなかったが、視線の先に軍服姿が一人立ってた。広場の端で、様子を眺めてた」
「ふむ」
エルステンは目を細め、地図の外れに小さな印をつけた。
「酒場前は?」
「もっとひどかったわね」
リオナが、少しだけ肩をすくめる。
「夕方前、瓦版屋は酒場の前に移動してた。見出しは少し言い回しを変えただけ。中身はだいたい同じ」
「客層が違った」
俺は言った。
「酒場から出てきた男たちが、瓦版を肴にして盛り上がってた。“勇者が全部壊してくれりゃ楽だ”だの、“そしたら仕事しなくて済む”だの」
「仕事がなくなったら酒も飲めないくせに」
リオナが静かに付け足す。
「反戦派寄りの人たちもいました」
エルナの声が少し低くなる。
「“勇者がガルダを壊せば戦が止まるかもしれない”とか、“軍も王もまとめて吹き飛ばしてほしい”とか。瓦版を、そういう話の材料にしてました」
「あとは、束買いだな」
俺は最後の一つを出す。
「十歳くらいの少年が、瓦版を二十部まとめて買ってた。瓦版屋も“今日は二十だ”って、慣れたやり取りをしてた」
「行き先は?」
俺は地図を指す。
「二階建ての事務所みてぇな建物だ。看板はあったが、何の変哲もない名前だ。ただ、入口には軍服姿が二人立ってた。中にも軍人らしい影がちらっと見えた」
「軍の建物そのものというより、“軍と仕事している場所”って感じでした」
エルナが、昨日の印象を言葉にする。
「瓦版を束で買って、あそこからどこかに配っているんだと思います」
エルステンはしばらく黙り、指で地図の空白をなぞった。
それから、静かに言う。
「つまり――」
机の上に並んだ紙が、ゆっくり整理されていく。
「瓦版屋は“噂の出口”だ。情報を持ち込む“入口”がいて、束で買って配る“配布役”がいる」
「そういうことになるな」
俺は頷く。
「広場の軍服、酒場前の客、事務所の出入り。全部合わせると、“軍の中のどこかの部署”が絡んでてもおかしくねぇ」
「反戦派も、瓦版を自分たちの都合で使おうとしてる」
リオナが付け足す。
「戦を止めたいんじゃなくて、“体制を壊したい”方に噂を引っぱってる感じ」
「一つの噂を、違う連中が違う方向に引っ張り合っているわけか」
エルステンは、紙束を指で押さえた。
「勇者の祟りで鉄工所が焼かれた。勇者が来れば戦が終わる。勇者を斬れば英雄になれる。どれも、“勇者”の意思とは無関係に、勝手に歩き回ってる」
「こっちは鉄工所なんざ焼いてねぇし、戦を終わらせられる責任もねぇよ」
つい本音が漏れる。
「むしろ巻き込まれたくはねぇ」
「でも、王国でも似たようなことはありましたよね」
エルナが、俺の方を見た。
「黒風の時も、誰かが“勇者様が全部片づけてくれる”って噂を広げようとしていた」
「ああ」
俺は短く答えた。
「王国側でも、勇者だの神だの言って話を作りたがる連中はいた。“勇者頼み”にした方が、自分で動かなくて済むからな」
「さて」
エルステンが椅子にもたれ、軽く息を吐いた。
「お前たちの報告を聞いて、一つだけはっきりした」
「何だ」
「今ここで、瓦版屋を叩いたり、あの事務所に喧嘩を売ったりしたら――」
エルステンの口元が、少しだけ歪む。
「瓦版の新しい材料になる」
たしかに。
「ああ、想像できるわね」
リオナが苦々しく笑った。
「“勇者の仲間が瓦版屋を襲撃”とか、“勇者派の破壊工作”とか」
「そういう見出しは、またよく売れる」
エルステンは淡々と言う。
「だから、瓦版屋は叩かない。事務所にも手を出さない」
「じゃあ、何をする」
俺の問いに、エルステンは机の引き出しから数枚の紙を取り出した。
「別の筋から、別の話を流す」
紙には、短い一文と宛名だけが書かれている。
「鉄工所の親方。鉄の街道の改修を仕切っている責任者。それから、鉄を扱う商人たちの何人かだ」
「紹介状?」
「ああ」
エルステンは頷いた。
「これを見せれば、“話の相手になる”という顔はしてくれる。そこで、お前たちにはこう聞いてきてほしい」
視線が、まっすぐ俺に向いた。
「“勇者の祟り”だの何だの言われてる場所で、本当は何が起きているのか」
「鉄工所で?」
「鉄工所で、鉄の街道で、噂の元に触ってる人間の口からだ」
エルステンは、紙を一枚ずつ俺たちの前に置いていく。
「鉄工所の連中に、“一番困る話は何か”を聞け。戦か、噂か、鉄不足か、それとも別の何かか」
「……噂が一番困る、って答えもありそうね」
リオナが紙を手に取る。
「“勇者の祟りで仕事が止まってる”なんて言われたら、新しい仕事も遠ざかるだろうし」
「“祟りも戦も関係ねぇ、ただ炉が古くて危ねぇだけだ”って話もあるかもしれねぇ」
エルナも紙を見ながら言う。
「でも、それが本当なら、本当だと言ってもらった方がいいですね」
「そういうことだ」
エルステンは、机の上の瓦版を指で弾いた。
「勇者の物語に何かを足すつもりはない。代わりに、“勇者以外の現場の話”を混ぜてやる」
「つまり、“祟りの勇者”の話をでかくするんじゃなくて、“困ってる人間の話”を増やすってことか」
「ああ」
エルステンの目が細くなる。
「噂は止められない。だったら、そこに混ざる別の物語を用意するしかない」
それは、妙にしっくりくる言い方だった。
「分かった」
俺は紙をたたんで懐にしまう。
「鉄工所に行って、“いま困ってるのは何なのか”を見てくる」
「勇者であってほしくねぇな」
バルツがぼそっと言う。
「勇者なんぞに食われたら、鉄もたまったもんじゃない」
「食わねぇって言ってんだろ」
思わず言い返すと、エルステンがわずかに肩を震わせた。
「……まあいい」
短く笑ったあと、いつもの調子に戻る。
「鉄匙亭はそのまま拠点にしておけ。鉄工所はこの砦町の外れだ。道は悪くない。明日、明後日くらいかけて、じっくり見てこい」
「了解」
椅子から立ち上がると、足に少しだけ気持の重さが乗った。
やることは増える一方だ。
それでも、まだ脱いでない分だけ、気楽と言えば楽かもしれない。
◇
夜の鉄匙亭の部屋は、いつも通り狭かった。
荷物は隅に寄せてある。
二段ベッドと、床に敷いた毛布一枚。
俺はその毛布を足で踏まないように伸ばしながら、ため息をひとつついた。
「明日は鉄工所、ね」
ベッドの端でリオナが腰を回す。
「噂、鉄、道、瓦版、今度は工場。やること増えてるわよ、あんた」
「脱ぐよりはマシだろ」
返してから、少し考える。
「……いや、どっちが楽かは微妙か」
「少なくとも、鉄工所で全裸になられたら、本気で怒るからね」
「ならねぇよ」
即答する。
炉の前で脱いだら、祟りどころかただの馬鹿だ。
荷物を整えていたエルナが、こちらを振り向いた。
「でも、現場の人の話を聞くのって、嫌いじゃないです」
「そうか?」
「はい。祈りの言葉より、こういう方が、今の私には合ってる気がします」
その顔は、少しだけ晴れやかだった。
教会から遣わされた祈り手見習いが、鉄工所の親方と話しに行く。
変な話だが、悪くない絵面でもある。
「……そうだな」
俺は毛布の上に腰を下ろし、背を伸ばした。
王国側でも、ガルダ側でも、俺は噂と現実の間をうろうろしてる。
どっちの国の味方ってわけでもないが、どっちの国の人間にも嘘はつきたくない。
勇者の祟りなんて、やった覚えはない。
でも、“鉄を叩いてる人間が困ってる”って話なら、耳を貸す価値はある。
「祟りの勇者なんかよりよ」
天井を見上げながら、ぽつりと言う。
「鉄を叩いてる人間の話の方が、よっぽど重てぇ」
「だから、明日はそっちを聞きに行く」
それだけだ。
そんなふうに心の中で区切りをつけて、毛布に身を横たえた。
外から聞こえてくる笑い声と、遠い鍛冶場の金属音が、少しだけ混ざって聞こえた気がした。




