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第90話 鉄匙亭と三人部屋の潜入生活

 岩の隧道を、荷馬車がゆっくり進んでいく。


 隧道の内側は、外よりひんやりしていた。

 湿った石と油の匂いに、かすかに鉄の匂いが混ざっている。


 側壁には古いレリーフが彫り込まれている。

 槍を掲げる兵、旗、剣の列。

 どれも『戦って勝つ』ことしか考えてない、単純な願望の絵に見えた。


 俺は小さく息を吐く。

 ――さて。でっち上げられた物語の中に、足を踏み入れちまったな。


 ここから先は、『ガルダと王国の戦争物語』の中だ。

 誰かさんが勝手に書いた台本の上に、俺たちは足を乗っけようとしている。


 本の表紙には、きっとこう書かれてる。

 “正義の国ガルダ、侵略王国を打ち倒す!”

 あるいは、その逆だ。


 どっちにしたって、そこに裸の魔法使いは登場しない。

 少なくとも、公式の筋書きには。


『裸の勇者が出てくる本は、ここには無いな』

 心の中で、自分にツッコミを入れる。


 ここで全裸になってモザイクまで発動したら、物語は一瞬で書き換わる。

 戦争より先に、“裸の勇者”の噂が街じゅうを走り回るだろう。

 だから、ここでは脱がない。

 裸の勇者は、まだ噂話の中だけにいてもらう。


 前方の暗がりに、小さな四角が見えた。

 出口の光が、ゆっくりと近づいてくる。



 出口を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。


 山の斜面にへばりつくように、砦町が広がっていた。

 灰色の石壁と、その上にちょこんと乗った屋根。

 あちこちの煙突からは、薄い煙がのぼっている。


 見えるのは、鎧姿の兵だけじゃない。

 荷車を押す商人、桶を運ぶ子ども、パンを売る屋台。


 そこには、鉄を打つ音と、人の笑い声と、ため息が、冷たい空気の中で混ざり合っていた。


「敵の最前線、って感じじゃないわね」

 荷台の隙間から外を見ながら、リオナが小さく言う。


「もっと殺伐としてるの想像してたけど」


「気魄ばっかじゃ、腹も膨れねぇんだろ」

 俺は頬をかいた。


「王国の街と大して変わらねぇよ。戦争の話が始まるのは、飯を食ったあとだ」


 荷馬車は砦の内側の広場に入った。

 何台もの荷馬車が並び、兵と役人と荷役が行ったり来たりしている。


 広場の端には、飯屋と酒場が合わさった建物。

 そのさらに端の、狭い路地の入口に鉄製の看板がぶら下がっていた。


 看板には、曲がった匙とベッドの絵。


「あれが“鉄匙亭”だ」

 御者台から、バルツの声が降ってくる。


「行商と荷役が寝る安宿だ。飯はそこそこだが腹には溜まる。布団は薄いが雨風はしのげる。三つ並べりゃ、悪くねぇ」


「最後の一言で、纏めたでしょ」

 リオナがため息をついた。



 鉄匙亭の扉を開けた瞬間、むわっとした空気が押し寄せてきた。


 煮込みの匂い、汗と油の匂い。  柱には、何度もぶつかったらしい傷が刻まれている。


「バルツ。また安い手元を連れてきたねぇ」

 カウンターの奥から、低い女の声がした。


 現れたのは、がっしりした女将だった。

 腕まくりした太い腕、腰にぶら下がる布巾、鋭い目つき。

 年齢はよく分からないが、『ここ二十年くらい、この店はこの人の顔で成り立ってる』って雰囲気だ。


「安いが、腕は悪くねぇ」

 バルツが肩をすくめる。


「荷物持ちと、ちょっとした護衛だ。三人部屋、空いてるか」


「一つだけね」

 女将は俺たちを上から下まで眺めた。


「一人は口が減らなそうな女剣士、一人は世間知らずっぽい祈り手崩れ。最後の男は……」

 俺と目が合う。


 一瞬沈黙したあと。

「……荷物の数すら、ちゃんと数えられるかどうか、怪しい顔だね」


「ちょっと待て」


「数えるのは俺の仕事だ」

 バルツが肩を叩いてくる。


「お前は荷物を落とさなきゃ、それでいい」


「納得できるような、できねぇような」


 リオナが横でくすっと笑った。

 エルナは慌てて頭を下げる。

「ご、ご迷惑にならないようにします……」


「迷惑くらい気にするな。払うものさえ払えるならね」


 女将は帳面を出して、鍵を一つ放り投げてよこした。

「二階のいちばん奥。二段ベッドと床。床は冷えるよ。毛布が欲しけりゃ、あと銀貨一枚だ」


「ベッド二段ってことは――」

 リオナが鍵を受け取って、こちらを振り返る。


「シゲルは床だよねぇ?」


「即決かよ」


「女二人を床に転がせるほど、あんたの根性は図太くないでしょ?」


「……否定できねぇ」


 エルナが、申し訳なさそうに笑った。

「す、すみません。神殿ではちゃんとした部屋があったので、その……」


「いいって。床なら、服置くスペースも広いしな」


「服を置くって、意味が分からないんだけど」

 リオナが目を細めた。

 さすがに『何か起きても脱げば何とかなる』と今は言えない。



 二階のいちばん奥の部屋は、マジで狭かった。


 二段ベッドが一つ。

 小さな丸椅子が二つ。

 足を伸ばせば、すぐ壁だ。


 床板は、歩くたびにぎしぎし鳴る。


「ふうん……。狭いけど、悪くないわ」

 リオナが上段のベッドに手をかける。


「外の音はあんまり入ってこないし、誰かが扉開けたらすぐ分かる」


「忍び込むような物好き、そうそういねぇだろ」


「いるとしたら、だいたいあんた絡みでしょ。“裸の勇者”見物とか」


「やめろ」


 エルナは、窓から外を覗き見る。

「子どもも、普通に走り回ってますね……。敵の国って言われなかったら、分からないくらいです」


「どこの国でも、腹が減るし、子どもは走るんだろ」


 俺は荷物を床の隅に寄せて、伸びをした。

「剣抜いてるやつのほうが、むしろ少ねぇ。作られた物語の上には、こういう日常が積み上がってるんだ」


「……だから、あんたは“物語”をどうにかしたいわけね?」

 リオナがベッドの上段に跳び乗りながら言う。


「ああ。できれば、誰も死なねぇ形でな」


 そのためにも、今日は絶対脱がない。

 ここで一回でも全裸にモザイクを披露したら、潜入した意味がなくなる。


 裸の勇者は、噂の中だけで充分だ。



 一階に下り食堂の片隅で、バルツと向かい合った。


 昼前だってのに、半分以上の席が埋まっている。

 夜勤明けの見張り、粉塵まみれの鉱夫、荷役。

 パンとスープをすすりながら、あちこちで愚痴が飛び交っていた。


「いいか。今日は“慣れる日”だ」

 バルツはパンをちぎりながら言う。


「ここがどんな街で、どんな雰囲気で、どんな話をしてるか。まずはそれを覚えろ。剣を抜くのも、魔法を撃つのも、そのずっと後だ」


「具体的に、どこ行きゃいい?」


「まず、門兵相手の酒場には近づくな」

 バルツが顎をカウンターの逆側にしゃくる。


「兵と役人が集まる店は、噂は多いが、余計な耳も多い。よそ者が変な聞き方したら、一発で目をつけられる」


「じゃあ、どこならいいんだ?」


「荷役と職人、鉱夫が集まる飯場だ。仕事の愚痴と財布の話と、ささやかな悪口。ああいう場所の方が、本音が出る」


 バルツは窓の外を顎で示した。


「この宿から坂を二つ下りたところに、大きな食堂がある。鉱山の入口が近いから、昼も夜も人がいる」


「そこに行って、耳を澄ませればいいってわけね」


「そうだ。ただし、口は慎重にな」

 バルツの目が、少しだけ鋭くなる。


「王国の話題が出ても、お前らからは何も言うな。聞かれたら、“向こうで仕事がなくなったから、こっちに流れてきただけだ”って答えろ」


 エルナがまっすぐ頷いた。

「“王城に呼ばれて来ました”なんて、絶対に言いません」


「それを口にした瞬間、この街にいられなくなるからな」

 バルツは水を飲み、声を落とした。


「この街には、“戦争をもっと大きくしたい連中”と、“それを嫌がってる連中”の両方がいる。そこの見極めを間違えると、足を掬われる」


「わざわざ戦争を大きくしたがる奴なんて、本当にいんのかよ」


「いるさ。儲かるやつと、地位が上がるやつとな」

 バルツは肩をすくめた。


「そういう連中は、“敵が手を出したらしい”って話が大好物だ。王国でも、ガルダでもな」


「……いい話じゃないね」

 リオナが、パンを噛みながら眉をひそめる。


「こっちだって、“ガルダが悪い”って話、山ほど聞いてきたし」


「だからこそ、噂話をそのまま信じるな」


 バルツが、今度は俺を見た。

「裸の勇者さんよ」


「その呼び方はマジでやめろ」


「噂に振り回される勇者なんざ、洒落にならねぇだろ」

 バルツは口の端だけで笑った。


「この国がどんな“裸の勇者”の物語を語ってるか、まずはそれを聞いてこい。味付けの違う話が、山ほど転がってるはずだ」


「噂話の中の俺に、ここで会うってわけか」


「そういうこった」

 バルツは立ち上がる。


「昼飯を食ったら行け。坂を二つ下りた先だ。看板にスープ皿とスコップが描いてある」


「了解。さすがに、飯場で裸はダメだろうな」


「当たり前でしょ」

 リオナが即答した。


「まず服を脱ごうとする思考をやめなさい」


「努力目標にはしとく」

 俺はパンをかじり、冷めかけたスープを飲み込んだ。


 ――坂を二つ下りた先では、俺の『噂話』がどんな怪物になってるか。

 少しだけ、胃のあたりが重くなった。



 食堂を出ると、坂の上から鉄を打つ音が聞こえてきた。

 子どもたちの笑い声と、荷車の軋む音が、それに混ざる。


「じゃ、行きますか」

 リオナが腰の剣を軽く叩く。


「剣は抜かない、魔法も使わない。今日は“聞き役”ね」


「裸にもならねぇ」


「それは基本でしょ」


 エルナが、少し不安そうにそれでも笑った。

「が、頑張って“普通の旅人”に見えるようにします……」


「普通の旅人は、裸の勇者の噂聞いても顔色変えねぇからな」


「それ、一番心配なのあんたじゃない?」

 リオナのツッコミを背中で受けながら、俺たちは坂を下り始めた。


 鉄の国ガルダ。

 その腹の中にある飯場で、どんな物語が語られているのか。


 俺たちは、それを確かめに行く。

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