第90話 鉄匙亭と三人部屋の潜入生活
岩の隧道を、荷馬車がゆっくり進んでいく。
隧道の内側は、外よりひんやりしていた。
湿った石と油の匂いに、かすかに鉄の匂いが混ざっている。
側壁には古いレリーフが彫り込まれている。
槍を掲げる兵、旗、剣の列。
どれも『戦って勝つ』ことしか考えてない、単純な願望の絵に見えた。
俺は小さく息を吐く。
――さて。でっち上げられた物語の中に、足を踏み入れちまったな。
ここから先は、『ガルダと王国の戦争物語』の中だ。
誰かさんが勝手に書いた台本の上に、俺たちは足を乗っけようとしている。
本の表紙には、きっとこう書かれてる。
“正義の国ガルダ、侵略王国を打ち倒す!”
あるいは、その逆だ。
どっちにしたって、そこに裸の魔法使いは登場しない。
少なくとも、公式の筋書きには。
『裸の勇者が出てくる本は、ここには無いな』
心の中で、自分にツッコミを入れる。
ここで全裸になってモザイクまで発動したら、物語は一瞬で書き換わる。
戦争より先に、“裸の勇者”の噂が街じゅうを走り回るだろう。
だから、ここでは脱がない。
裸の勇者は、まだ噂話の中だけにいてもらう。
前方の暗がりに、小さな四角が見えた。
出口の光が、ゆっくりと近づいてくる。
◇
出口を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
山の斜面にへばりつくように、砦町が広がっていた。
灰色の石壁と、その上にちょこんと乗った屋根。
あちこちの煙突からは、薄い煙がのぼっている。
見えるのは、鎧姿の兵だけじゃない。
荷車を押す商人、桶を運ぶ子ども、パンを売る屋台。
そこには、鉄を打つ音と、人の笑い声と、ため息が、冷たい空気の中で混ざり合っていた。
「敵の最前線、って感じじゃないわね」
荷台の隙間から外を見ながら、リオナが小さく言う。
「もっと殺伐としてるの想像してたけど」
「気魄ばっかじゃ、腹も膨れねぇんだろ」
俺は頬をかいた。
「王国の街と大して変わらねぇよ。戦争の話が始まるのは、飯を食ったあとだ」
荷馬車は砦の内側の広場に入った。
何台もの荷馬車が並び、兵と役人と荷役が行ったり来たりしている。
広場の端には、飯屋と酒場が合わさった建物。
そのさらに端の、狭い路地の入口に鉄製の看板がぶら下がっていた。
看板には、曲がった匙とベッドの絵。
「あれが“鉄匙亭”だ」
御者台から、バルツの声が降ってくる。
「行商と荷役が寝る安宿だ。飯はそこそこだが腹には溜まる。布団は薄いが雨風はしのげる。三つ並べりゃ、悪くねぇ」
「最後の一言で、纏めたでしょ」
リオナがため息をついた。
◇
鉄匙亭の扉を開けた瞬間、むわっとした空気が押し寄せてきた。
煮込みの匂い、汗と油の匂い。 柱には、何度もぶつかったらしい傷が刻まれている。
「バルツ。また安い手元を連れてきたねぇ」
カウンターの奥から、低い女の声がした。
現れたのは、がっしりした女将だった。
腕まくりした太い腕、腰にぶら下がる布巾、鋭い目つき。
年齢はよく分からないが、『ここ二十年くらい、この店はこの人の顔で成り立ってる』って雰囲気だ。
「安いが、腕は悪くねぇ」
バルツが肩をすくめる。
「荷物持ちと、ちょっとした護衛だ。三人部屋、空いてるか」
「一つだけね」
女将は俺たちを上から下まで眺めた。
「一人は口が減らなそうな女剣士、一人は世間知らずっぽい祈り手崩れ。最後の男は……」
俺と目が合う。
一瞬沈黙したあと。
「……荷物の数すら、ちゃんと数えられるかどうか、怪しい顔だね」
「ちょっと待て」
「数えるのは俺の仕事だ」
バルツが肩を叩いてくる。
「お前は荷物を落とさなきゃ、それでいい」
「納得できるような、できねぇような」
リオナが横でくすっと笑った。
エルナは慌てて頭を下げる。
「ご、ご迷惑にならないようにします……」
「迷惑くらい気にするな。払うものさえ払えるならね」
女将は帳面を出して、鍵を一つ放り投げてよこした。
「二階のいちばん奥。二段ベッドと床。床は冷えるよ。毛布が欲しけりゃ、あと銀貨一枚だ」
「ベッド二段ってことは――」
リオナが鍵を受け取って、こちらを振り返る。
「シゲルは床だよねぇ?」
「即決かよ」
「女二人を床に転がせるほど、あんたの根性は図太くないでしょ?」
「……否定できねぇ」
エルナが、申し訳なさそうに笑った。
「す、すみません。神殿ではちゃんとした部屋があったので、その……」
「いいって。床なら、服置くスペースも広いしな」
「服を置くって、意味が分からないんだけど」
リオナが目を細めた。
さすがに『何か起きても脱げば何とかなる』と今は言えない。
◇
二階のいちばん奥の部屋は、マジで狭かった。
二段ベッドが一つ。
小さな丸椅子が二つ。
足を伸ばせば、すぐ壁だ。
床板は、歩くたびにぎしぎし鳴る。
「ふうん……。狭いけど、悪くないわ」
リオナが上段のベッドに手をかける。
「外の音はあんまり入ってこないし、誰かが扉開けたらすぐ分かる」
「忍び込むような物好き、そうそういねぇだろ」
「いるとしたら、だいたいあんた絡みでしょ。“裸の勇者”見物とか」
「やめろ」
エルナは、窓から外を覗き見る。
「子どもも、普通に走り回ってますね……。敵の国って言われなかったら、分からないくらいです」
「どこの国でも、腹が減るし、子どもは走るんだろ」
俺は荷物を床の隅に寄せて、伸びをした。
「剣抜いてるやつのほうが、むしろ少ねぇ。作られた物語の上には、こういう日常が積み上がってるんだ」
「……だから、あんたは“物語”をどうにかしたいわけね?」
リオナがベッドの上段に跳び乗りながら言う。
「ああ。できれば、誰も死なねぇ形でな」
そのためにも、今日は絶対脱がない。
ここで一回でも全裸にモザイクを披露したら、潜入した意味がなくなる。
裸の勇者は、噂の中だけで充分だ。
◇
一階に下り食堂の片隅で、バルツと向かい合った。
昼前だってのに、半分以上の席が埋まっている。
夜勤明けの見張り、粉塵まみれの鉱夫、荷役。
パンとスープをすすりながら、あちこちで愚痴が飛び交っていた。
「いいか。今日は“慣れる日”だ」
バルツはパンをちぎりながら言う。
「ここがどんな街で、どんな雰囲気で、どんな話をしてるか。まずはそれを覚えろ。剣を抜くのも、魔法を撃つのも、そのずっと後だ」
「具体的に、どこ行きゃいい?」
「まず、門兵相手の酒場には近づくな」
バルツが顎をカウンターの逆側にしゃくる。
「兵と役人が集まる店は、噂は多いが、余計な耳も多い。よそ者が変な聞き方したら、一発で目をつけられる」
「じゃあ、どこならいいんだ?」
「荷役と職人、鉱夫が集まる飯場だ。仕事の愚痴と財布の話と、ささやかな悪口。ああいう場所の方が、本音が出る」
バルツは窓の外を顎で示した。
「この宿から坂を二つ下りたところに、大きな食堂がある。鉱山の入口が近いから、昼も夜も人がいる」
「そこに行って、耳を澄ませればいいってわけね」
「そうだ。ただし、口は慎重にな」
バルツの目が、少しだけ鋭くなる。
「王国の話題が出ても、お前らからは何も言うな。聞かれたら、“向こうで仕事がなくなったから、こっちに流れてきただけだ”って答えろ」
エルナがまっすぐ頷いた。
「“王城に呼ばれて来ました”なんて、絶対に言いません」
「それを口にした瞬間、この街にいられなくなるからな」
バルツは水を飲み、声を落とした。
「この街には、“戦争をもっと大きくしたい連中”と、“それを嫌がってる連中”の両方がいる。そこの見極めを間違えると、足を掬われる」
「わざわざ戦争を大きくしたがる奴なんて、本当にいんのかよ」
「いるさ。儲かるやつと、地位が上がるやつとな」
バルツは肩をすくめた。
「そういう連中は、“敵が手を出したらしい”って話が大好物だ。王国でも、ガルダでもな」
「……いい話じゃないね」
リオナが、パンを噛みながら眉をひそめる。
「こっちだって、“ガルダが悪い”って話、山ほど聞いてきたし」
「だからこそ、噂話をそのまま信じるな」
バルツが、今度は俺を見た。
「裸の勇者さんよ」
「その呼び方はマジでやめろ」
「噂に振り回される勇者なんざ、洒落にならねぇだろ」
バルツは口の端だけで笑った。
「この国がどんな“裸の勇者”の物語を語ってるか、まずはそれを聞いてこい。味付けの違う話が、山ほど転がってるはずだ」
「噂話の中の俺に、ここで会うってわけか」
「そういうこった」
バルツは立ち上がる。
「昼飯を食ったら行け。坂を二つ下りた先だ。看板にスープ皿とスコップが描いてある」
「了解。さすがに、飯場で裸はダメだろうな」
「当たり前でしょ」
リオナが即答した。
「まず服を脱ごうとする思考をやめなさい」
「努力目標にはしとく」
俺はパンをかじり、冷めかけたスープを飲み込んだ。
――坂を二つ下りた先では、俺の『噂話』がどんな怪物になってるか。
少しだけ、胃のあたりが重くなった。
◇
食堂を出ると、坂の上から鉄を打つ音が聞こえてきた。
子どもたちの笑い声と、荷車の軋む音が、それに混ざる。
「じゃ、行きますか」
リオナが腰の剣を軽く叩く。
「剣は抜かない、魔法も使わない。今日は“聞き役”ね」
「裸にもならねぇ」
「それは基本でしょ」
エルナが、少し不安そうにそれでも笑った。
「が、頑張って“普通の旅人”に見えるようにします……」
「普通の旅人は、裸の勇者の噂聞いても顔色変えねぇからな」
「それ、一番心配なのあんたじゃない?」
リオナのツッコミを背中で受けながら、俺たちは坂を下り始めた。
鉄の国ガルダ。
その腹の中にある飯場で、どんな物語が語られているのか。
俺たちは、それを確かめに行く。




