第88話 国境のはざまと灰色の荷馬車(後編)
バルツがそう言いかけたときだった。
「開けろーッ! 頼む、子どもだけでも――!」
谷の方から、かすれた叫び声が聞こえた。
全員の視線が、山道の先に向く。
ガルダ側から、よろよろと駆けてくる影があった。
男と女、その間にしがみつく小さな子ども。
背中には小さな荷物。服は粗末で顔色は悪い。
「……難民か」
王国兵が低く呟いた。
家族は、谷の真ん中あたりまで来たところで、ガルダ側の門から怒鳴り声を浴びせられた。
「戻れ! 王国に餌を求めるな!」
「裏切り者は街にも鉱山にも戻れんぞ!」
石門の上から、鎧姿の男たちが口々に罵倒を浴びせる。
その鎧は……確かに軍のものだが、立ち居振る舞いはどこか素人じみていた。
リオナが小声で言う。
「……あれ、自警団上がりね。構えが完全に素人よ」
家族は立ち止まり、振り返る。
男が必死に叫んだ。
「こっちは飯もないんだ! 飢え死にするくらいなら、王国に行かせてくれ!」
「黙れ! 王国に膝を折るつもりか!」
「俺たちはガルダの民だ! 外の奴らに救いを求めるな!」
怒声が飛び交い、空気が一気にきな臭くなる。
「まずいな」
王国兵が舌打ちした。
「こっちが出ていけば、“やっぱり王国が民をさらいに来た”って話になる。かと言って、見捨てりゃ……」
その瞬間、ガルダ側の若い兵が、興奮したように弓を引いた。
「やめろ!」
誰かが止める声を上げたが、遅かった。
弦が鳴り、矢が放たれる。
ヒュン、と音がして――矢は男の肩をかすめた。
血が飛び散り、子どもが悲鳴を上げる。
「っ……!」
エルナが、思わず前に飛び出そうとした。
俺はその腕をつかみ、境界線ぎりぎりのところで止める。
「ここから手前なら“王国側”だ。ここで治せ」
「でも――」
「“国境を越えて救護に来た神官”なんて、向こうの格好のネタだろ」
エルナは一瞬だけ迷って、それでも頷いた。
「……分かりました」
彼女は、境界線のこちら側で膝をつくと、祈りの姿勢を取る。
負傷した男はこちら側に倒れ込むように寄ってきて、地面に手をついた。
「そのまま、動かないでください」
エルナの掌に柔らかな光が宿る。
「癒しの光よ、痛みを洗い流し、傷を閉じて――〈中位治癒〉」
淡い光が男の肩を包み込む。
血が止まり、裂けた肉がゆっくりと塞がっていく。
男は目を見開き、震える声を漏らした。
「……あ、あんた……」
「王国の神官、です」
エルナは穏やかに微笑む。
「でも、ここは“国境”ですから。王国でもガルダでもなく、“通りすがりの旅人が傷を癒やした”と思ってください」
ガルダ側の城門からは、怒鳴り声が再び降ってくる。
「何をしている! 王国の術に頼るな!」
「戻れ! さもなくば二度と門を開かんぞ!」
リオナが、堪えきれないとばかりに一歩前に出た。
関所の兵たちが慌てて止めようとする。
「リオナ!」
「分かってるわよ!」
リオナは剣の柄に手をかけ……そのまま、抜かずに握り締める。
顔だけを上げて、谷の向こうを睨みつけた。
「こっちは矢を一本も番えてないわよ! 勝手にビビって勝手に撃って、その言い草はないんじゃないの!」
怒鳴り返す声は、谷に響き、石門まで届いた。
「ここを戦場にする気はないから、武器を下ろしなさい! あんたたちが次に矢を番えた瞬間、それが“開戦の証拠”になるんだから!」
ガルダ側の兵たちがざわめく。
中には、それでも弓を引き絞りかける者もいたが、年長の兵がその腕をつかんだ。
「やめろ。撃ったら、あいつらの言う通りだ」
緊張が、じわじわと薄れていく。
俺は境界線の上に立ち、両側に向かって声を張った。
「今ここで矢を本気で番えたら、“戦争を始めた国”ってストーリーが完成だ。王国だろうがガルダだろうが、最初に撃った方が“悪役”だ」
谷に、しばしの沈黙が流れた。
やがてガルダ側の城門から、気落ちしたような怒鳴り声が返ってくる。
「……こちらに戻る者は、後で審問にかける! 王国の施しを受けたことを、忘れるなよ!」
強がりとも警告ともつかない声。
門の上の影たちは、やがて姿を引っ込めた。
王国側の兵が、ほう、と大きく息を吐く。
「助かった……。下手をすりゃ、今ので火がついてた」
さっき矢に撃たれかけた家族は、ぼろぼろと涙を流しながら何度も頭を下げた。
「す、すみません……すみません……」
「謝る相手を間違ってるわよ」
リオナが肩をすくめる。
「そのうち、ちゃんと飯が食えるようになるように、こっちはこっちで動くから。今は休みなさい」
エルナは、子どもの頭をそっと撫でた。
「もう大丈夫です。ここには、矢は飛んで来ませんから」
少し離れたところで、バルツが腕を組んでその光景を見ていた。
目に浮かぶ色は、さっきよりずっと暗い。
「……これだ」
ぽつりと呟く。
「この張りつめ方だよ。中はもっとひどい。今のは、矢が“たまたま”人から外れただけだ」
◇
陽が落ちた国境詰所の裏手。
荷馬車の影は、焚き火の光から離れている。
そこで、俺たち三人とバルツは、小さな円を作っていた。
「……見ただろ」
バルツが、淡々と口を開いた。
「今日みたいな小競り合いが、あと何回か続いたらどうなるか。誰かが本気で矢を番えて、人が倒れた瞬間、向こうの扇動屋は叫ぶだろう。“ほら見ろ、王国はやっぱり敵だ”ってな」
「グラナードの顔が浮かぶわね」
リオナが、焚き火の残り火をつま先で崩す。
「きっと今頃、“逃げた家族は王国のスパイだ”とか、好き勝手言ってるわ」
「ありそうで嫌だな」
俺は頭をかいた。
「でも、ちょっと分かった。こっちが何か正しい説明を追加しようとするほど、向こうの物語に利用される」
「そういうことだ」
バルツは頷いた。
「だから軍も使節団も、今は打つ手が無い。“王国の姿”が大きければ大きいほど、敵の宣伝屋が喜ぶだけだ」
エルナが、両手を膝の上で組みながら口を開いた。
「……でも、今日のあの家族みたいな人は、ガルダの中にもっとたくさんいるはずです。飢えや不安で、どこに向かえばいいのか分からない人たちが」
「いるだろうな」
バルツはあっさり認める。
「だからって、正面から説教しに行っても無駄だ。物語のど真ん中から“正論”を叫んでも、ただの悪役にされる」
「じゃあ、どうする」
俺が問うと、バルツは荷馬車を親指で指した。
「俺の荷に紛れろ。王国の紋章も旗もなし。肩書きもなし。ただの“胡散臭ぇ旅人兼雇い人”としてなら、門の前まで連れて行ける」
リオナが目を細める。
「あんたにとっても危険じゃない? “王国のスパイを運んだ”って言われかねないのよ」
「もうとっくに、“あいつは両方から金をもらってる裏切り者だ”って噂は流れてるさ」
バルツは肩をすくめた。
「あと一つや二つ悪評が増えたところで、大して変わりゃしねぇよ。それに――」
そこで、ちらりとこちらを見た。
「王国の軍も使節団も動けねぇ状況で、“まともに話ができる奴ら”が中に入る可能性があるなら、賭けてみる価値はある」
「……買い被り過ぎだろ」
「そうか?」
バルツは、焚き火の赤い残り火を見つめながら言った。
「今日、境界線で矢が本気で番えられなかったのは、あんたらがいたからだ。“ここを戦場にする気はねぇ”って顔で立ってた奴がいたから、あっちも一歩踏みとどまった」
リオナが少しだけ照れくさそうに顔をそむける。
「褒めても何も出ないわよ」
「知ってるさ。だから仕事として頼む」
バルツは真面目な顔に戻った。
「明日の夜明け、門番が一番生あくびしてる時間帯に出る。そのときまでに覚悟を決めろ」
エルナが、小さく息を飲む。
「……わたしたちが入ったところで、何ができるか分からないですけど」
「何もできねぇかもしれねぇ」
俺は正直に言った。
「噂を止めるなんて芸当、そうそうできるもんじゃねぇしな。でも、何もしなきゃ、今日みたいな場面が、もっと大きく、もっと血生臭くなっていくだけだ」
エルナは、しばし黙ってから、こくりとうなずいた。
「行きましょう。……飢えて、矢を握るしかないと思ってる人たちに、“他の手”があるってことを、少しでも伝えたいです」
リオナもため息をつきながら、口元だけ笑った。
「ったく、あんたたちといると、楽な仕事は回ってこないのよね。でもまぁ、戦場で矢が飛び交ってるところに突っ込むよりはマシか」
「そうだな。できればこの先も、剣も魔法も使わずに済ませてぇ」
焚き火の赤が、ゆっくりと薄くなる。
「……まぁ、大体そうはならねぇんだろうけどな」
バルツが、鼻で笑った。
「その台詞、今から縁起でもねぇな」
「お守りみたいなもんだよ。期待しなきゃ、ちょっとだけマシに転がるかもしれねぇだろ」
夜の空気が冷え込んでくる。
遠くで、国境の見張りが交代の合図を交わす声が聞こえた。
俺たちはそれぞれ寝床に散る前に、もう一度だけ谷の向こうを見た。
暗闇の中に、閉ざされた石門の影。
あの向こうに、飢えと怒りと不安で煮えている街がある。
「……行こうぜ、明日」
誰にともなく呟いて、俺は荷馬車の影に身を丸めた。
眠りにつく直前、どこか遠くで歯車がきしむ音が、また胸の奥で鳴った気がした。




