第87話 国境のはざまと灰色の荷馬車(前編)
朝、煙の匂いで目が覚めた。
昨日の夜に使った小さな焚き火は、ほとんど灰になっている。
山の空気は冷たく澄んでいて、息を吐くと白くなった。
臨時キャンプのざわめきは、まだ本格的には動き出していない。
荷車の軋む音と、遠くで誰かが鍋をかき混ぜる音がする程度だ。
「……おはよ」
外套にくるまっていたリオナが、もぞもぞと身を起こした。
エルナも少し遅れて身体を起こし、眠たげに目をこする。
「今日、どうするんだっけ……?」
「どうするかよく考えた」
俺は焚き火に細い枝をくべて、残った火種を起こした。
ぱち、と小さな火の粉が跳ねる。
「三人で正面からガルダの門をこじ開けるわけにはいかねぇ。いまは国境の状況をよく知る者に知恵を借りよう」
「つまり?」
「もう一回、関所の連中とちゃんと話してみる。正面突破が無理なら、山越えの旧道とか、獣道とか……“地元の裏道”の話を聞くしかねぇだろ」
リオナがあくびを噛み殺して、肩を回した。
「まあ、確かに。あの兵士たち、昨日は“とにかく止める”だけで精一杯って感じだったしね。少し落ち着いた頭で話せば、出てくる情報も変わるか」
「わたしも、もう少し詳しく聞きたいです」
エルナが膝の上で手を組んだ。
「ガルダの中で、教会や救済所がどうなっているのか……兵士さんたちなら、断片でも知っているかもしれません」
「ってわけで」
俺は立ち上がり、外套の裾を払った。
「朝飯食ったら、もう一度関所だ。昨日“これ以上近づくな”って怒鳴ってた連中に、今度は落ち着いて話を聞く」
「……怒鳴られっぱなしで終わるのは、確かにムカつくしね」
リオナが立ち上がり、腰の剣を確かめる。
「じゃ、さっさと行きましょ。向こうも暇じゃないだろうし」
◇
パンをかじって簡単に腹を満たし、俺たちは臨時キャンプを後にした。
昨日通った山道を、逆方向にもう一度登る。
崖沿いの細い道を抜けると、見覚えのある景色が現れた。
谷のこちら側には、王国側の小さな詰所。
向こう側には、灰色の岩山に食い込むように建てられたガルダの石造りの門。
その上には、昨日と同じように弓兵の影が並んでいる。
「……二回目なのに、歓迎ムードゼロね」
「歓迎されたらされたで、逆に怖ぇけどな」
詰所に近づくと、見張り台の兵士がこちらに気づいた。
昨日、真っ先に俺たちを止めた兵士だ。
「おい……またお前らか」
兵士は呆れたように眉をひそめ、それでも手を挙げて合図した。
「昨日、“あんまり目立つ動きはするな”って言ったの、覚えてるか?」
「覚えてる。だから今日は、“目立たない相談”に来た」
俺がそう答えると、兵士は一瞬ぽかんとした顔になり、それから小さくため息をついた。
「……嫌なタイプの勇者だなお前。話を聞く気はあるみたいだが」
詰所の前まで行くと、別の兵士たちも顔を出した。
皆、昨日より少しだけ表情が柔らかい。
「で、何しに来た。門はまだ開かねぇぞ」
「門をこじ開けてくれとは言わねぇよ」
俺は肩をすくめた。
「こっちも軍でも使節団でもねぇ。ただ、中に入って話を聞きたいだけだ。正面から無理なら、山の裏道でも、古い荷物道でもいい。“ガルダが昔から使ってる抜け道”を知らねぇかと思ってな」
兵士たちが顔を見合わせる。
「……表でその話を続けるのは、あんまりよくねぇな」
ひげ面の兵士がぼそりと呟いた。
「おい、お前ら。こっちは見張ってろ。勇者サマとその仲間は、裏に回して話を聞く」
「了解」
手短に指示を飛ばすと、彼は俺たちを顎で示した。
「こっちだ。表で“裏道の話”なんかしてたら、それこそ向こうに聞かれて一発で疑われる」
詰所の脇の細い通路を抜ける。
谷風が少し和らぎ、石垣に囲まれた狭い裏庭に出た。
そこは、風音も無く嘘みたいに静かな場所だった。
粗末な詰所と薪置き場、その横に、傾きかけた小屋がひとつ。
俺たちはそこで、王国兵たちと一緒に腰を下ろしていた。
「悪いな、止めちまって」
さっき俺たちの前に立ちふさがったひげ面が、気まずそうに頭をかく。
「向こうがあの調子でな。お前らをあの門の真正面に立たせたら、いつ矢が飛んでくるか分からねぇ」
「気持ちは分かるわ」
リオナが、壁にもたれながら腕を組む。
「でも、こっちは矢なんか番えてないのに、あっちは完全に戦争前夜のテンションね」
ひげ面は苦笑いした。
「半年だ。半年、ずっとあの調子なんだよ。使節団を三度、軍じゃなく文官だけで送っても、全部“門前払い”だ。矢は――かろうじてまだ、人には当ててないがな」
半年。戦でもないのに、ずっと火薬庫の上で暮らしてるようなもんだ。
「こっちから矢を撃ったことは?」
「ねぇよ。撃った瞬間、“王国が先に攻撃した”って物語が完成しちまう。あっちの宣伝屋が、待ち構えてるだろうさ」
ひげ面は、谷の向こうの石門を顎で示した。
「前はな、あそこに立ってたのは“軍の兵士”だった。最近は、鎧だけ借りた“工房の兄ちゃん”や、街の自警団が混じってる。目が違う」
「目?」
「“仕事で立ってる兵士”の目じゃねぇ。“いつでも殴りてぇ奴”の目だ」
その言い方には、うんざりとした疲労がにじんでいた。
エルナが、不安げに小さく首をかしげる。
「国境で、衝突は……?」
「ギリギリで踏みとどまってる。こっちは陛下から“矢を番えたら負けだと思え”って言われてるからな」
ひげ面は肩をすくめた。
「問題は、我慢比べしてる間に、中の飢えが進むことだ。腹が減った奴は短気になる。短気な奴に武器を持たせりゃ、何が起きるか――」
そこまで言って、兵は言葉を切った。
「……そうだ。夕刻になりゃ、一台だけ、向こうから来る荷馬車がある。あいつだけはガルダの検問を通れる、“特例”だ」
リオナが眉を上げる。
「特例?」
「どこの旗も掲げねぇ、境界稼業の商人だ。俺らにとっちゃ“胡散臭ぇ奴”だが、現状、一番ガルダに近い人間でもある」
ひげ面は、斜面の方をちらりと見る。
「そろそろ来る時間だ。……お前ら、話してみるか?」
◇
日が山の肩にかかりはじめた頃、軋む車輪の音が谷に響いた。
灰色の帆布をかぶせた荷馬車が、一台。
国の紋章も、ギルドの旗も立てていない、地味な荷馬車だ。
御者台には、三十代半ばくらいの男がひとり。
痩せぎすで、外套はよく見れば高品質だが目立たない色。
ただ、その目だけは、荷物と人を同じように値踏みするような、鋭い光をしていた。
「来たな、バルツ」
王国兵が声をかけると、男は軽く手を挙げた。
「今日も“王国の犬”と“山の向こうの狂信者”、両方に吠えられる仕事だ。楽じゃねぇよ」
皮肉っぽく言いながら、俺たちの方を一瞥する。
「……見ねぇ顔だな。旅人か?」
「半分旅人、お使い半分ってとこだ」
俺がそう答えると、男は片眉を上げた。
「王城に呼ばれて西に来る“ただの旅人”なんて、俺は知らねぇな」
まあ、その通りだ。
リオナが苦笑いを浮かべる。
「勘が鋭いわね」
「国境で長く商売してると、勘だけが取り柄になるんだよ」
男――バルツは、馬をなだめながら続けた。
「俺はガルダの商人ギルドにも、王国の商人ギルドにも属してねぇ。どっちの“正式な保護”も受けちゃいない。だから……どっちからも“ギリギリ許されてる”」
「境界稼業、ってやつか」
「そういうことだ。ガルダ側の検問は、“王国の旗や紋章を持ってない奴”“純粋に物資だけ運んでる奴”だけ、通してる。俺は、ただの“しぶとい運び屋”って扱いだ」
バルツは、御者台から軽やかに飛び降りると、俺たちを順番に見た。
「……で、お前らは何者だ?」
エルナが言葉を選びながら答える。
「王国の“正式な使者”では……ありません。ただ、戦が始まる前に、できることを探しに来た人間です」
「真面目だな」
バルツは小さく笑った。
「中の話は、ある程度聞いてるんだろ? 工房と自警団が武器を構えて、王と神官は板挟み。飢えか恐怖か、どっちが先に爆発するかって状況だ」
「……まぁな」
俺はうなずく。
「詳しい状況は、ガルダの商人から聞いた。今、俺たちが欲しいのは“どうやれば中に入れるか”って情報だ」
「素直で助かる」
バルツは、石門の方を顎で示した。
「あの門を正面から叩けば、“やっぱり侵略しに来た”って話になる。派手な使節団も軍も、今のガルダにとっちゃ“筋書き通り”だ。だったら、筋書きの外側から入るしかねぇ」
リオナが目を細める。
「あんたの荷に紛れろ、ってこと?」
「話が早くて助かるよ、お嬢さん」
バルツの口元が、わずかに緩んだ。
「俺の荷馬車には、時々“雇い人”が乗る。荷の積み下ろしを手伝ったり、道中の護衛をしたりな。王国の旗も紋章もつけず、ただの“賃金の安い手”として門をくぐる分には、検問もそこまで目を光らせちゃいない」
「危険じゃねぇのか?」
「国境を越える時点で危険だよ。ただ、軍服より旅装の方が、矢の的になりづらいってだけだ」
バルツがそう言いかけたときだった。




