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第86話 閉ざされた門と臨時キャンプ

 リュンドの朝は、山の冷えた空気と、どこか沈んだざわめきで始まった。


 宿の窓から外をのぞくと、街道に沿って荷馬車の列がずらりと並んでいるのが見えた。

 けど、どれも動いていない。

 車輪は止まったまま、荷台の上に布をかけたまま、馬も人も、ただその場に留まっている。


「……あんまり“宿場町らしく”ねぇな」

 荷物を背負いながらぼそっと言うと、腰の剣を確かめていたリオナが頷いた。

「行き場をなくした荷馬車の墓場って感じね」


 エルナは背負い袋の紐を握りしめ、小さく首をかしげる。

「みなさん、困っている顔をしています……」


 俺たちは宿を引き払い、三人で街道へ出た。



 街道に出てみると、止まっている荷馬車は思った以上に多かった。

 リーベルでも見かけた商人ギルドの紋章入りの荷車もあれば、見慣れない紋章の、ガルダ=インダスト王国系らしい荷車もある。


 車輪のそばに腰を下ろしていた中年の商人に、リオナが声をかけた。

「すみません。この列、みんな国境待ちですか?」


「……ああ。待ち続けて、八日目だ」

 男は肩をすくめ、ひび割れた手で額をぬぐった。


「ガルダ側の関所が、実質閉鎖だ。荷を入れるどころか、顔を見せるだけで睨まれる」


「事故とか、道が崩れてるとかじゃないんですか?」

 エルナが恐る恐る聞くと、商人は苦笑いを浮かべた。


「崩れてんのは道じゃなくて、あっちの連中の頭さ。“王国と帝国は手を組んで、うちの鉱山を丸ごと奪うつもりだ”ってな」


 ……ああ、身に覚えのあるやり方だ。


「で、その証拠が“戦を終わらせた裸の勇者”ってわけだ」


「はぁ?」

 思わず変な声が出た。

 商人は俺たちの顔を順番に見て、ニヤリと笑う。


「知らないのか? ガルダで流れてる噂だよ。“王国と帝国が同じ勇者を使っていた。全裸で現れ、敵も味方もまとめて地面ごと叩き割る神の化身だ”ってな」


「……だいぶ盛られてんな」

 これじゃあ盛りすぎどころか、別の生き物になってる気がする。


「そんな奴が王国にいるなら、そりゃ警戒もするってもんだろうよ。あいつらには、今は何でも“侵略の予兆”に見えてるようだ」


 男はため息をついた。


「ガルダの商隊ですら、戻るときに尋問三回、荷の検査も三回だ。王国の商人なんざ、門の前で追い返されるだけマシって話さ」


「……そうですか。教えてくださってありがとうございます」

 エルナが頭を下げると、男は苦笑いをした。


「礼を言われるような話じゃないさ。ただ――」


 男は、ほんの少しだけ真面目な声になった。

「裸の勇者の噂まで利用して、誰かが火を焚きつけてる。それだけは間違いねぇだろうな」


 誰か。俺は心の中で、名前をひとつだけ思い浮かべた。


『グラナード』


 墨塗り全裸三兄弟たちを送り込んできた、あの三等参謀。

 場所を変え、看板を変えて、今度は“飢えと恐怖”を燃料にしているらしい。



 山道を進んでいくと、やがて広めの平地に出た。

 そこは本来ただの休憩所のはずだが、今は木組みの簡易小屋やテントが立ち並び、小さな町のようになっている。


 ガルダの紋章を掲げた荷車も、王国の商人ギルドの旗も、雑多に混じり合っていた。


「……臨時キャンプってやつね」

 リオナが周囲を見渡す。


「ここから先は、誰も動けないってことか」


 焚き火の周りで食事をしている一団に近づくと、ひときわボロい外套を着た男がこちらを見た。

 顔つきはガルダ系だが、装飾や紋章は何もつけていない。


「旅人か?」


 低い声に、俺はうなずいた。

「西へ抜けたいんだが、止まってる理由を詳しく聞けたら助かる」


「……西へ、ね」

 男は少しだけためらってから、空の椀を置いた。


「俺はガルダの商人だ。辛うじて外に出てこられた口だよ。中では、物が減り始めてる」


 エルナが身を乗り出す。

「食べ物が、ですか?」


「それも、だが……まずは金属だな。自国の鉱山の産物を、わざわざ国内で抱え込むはめになってる。本来なら外に売って食い物を買うはずの鉱石や金属が、倉庫で眠ってるんだ」


 男は、やるせなさを噛みしめるように唇を歪めた。


「“今、鉄を手放せば、王国と帝国に武器を渡すことになる”ってな。だから輸出を止める。結果として、食料を買う金も減る」


 悪循環、というやつだ。


「王都レルクでは、“王国と帝国が食料輸出を止めて、ガルダを弱らせてから攻めてくる”って噂も出てる」


「こっちは逆に、“ガルダが鉱物で王国の首を締めにきてる”って言ってるんだがな」


 俺が溜息混じりに言うと、男は肩をすくめた。


「向こうの工房じゃ、もっと物騒な話も出てるさ。いずれ王国の旗か帝国の旗がレルクに翻る。その前に山を封鎖して、奴らを閉め出せってな」


 リオナが顔をしかめた。

「工房がそう言ってるんですか?」


「工房と、その周りを固めてる自警団だ。最近は“武器を持った市民部隊”みたいなのが増えてる。王の軍じゃなく、街ごとの“守る者”って言い方をしてるが……」


 男は首を振った。


「……飢える前に誰か殴りたい連中の集まりだよ」


 エルナは黙り込んだまま、ぎゅっと手を握りしめている。

 俺は黙って、焚き火の火の粉を目で追った。


「噂を振りまいてる奴の姿を見たことは?」

 リオナが核心を突く。


「黒いコートを着た、痩せた男だ。名前は名乗らないが、“軍のことに詳しいらしい”って評判だな」


 男は遠くを見る目になった。


「集会のときは、いつも同じ話をする。“王国と帝国は手を組んだ。次の相手はここだ。何もしない王と、事なかれを望む神官には任せるな”」


 ――はい、確定。


「……グラナードだろうな」

 思わず口に出すと、男がこちらを見た。


「知っているのか?」


「こっちで似たようなことをやってた元帝国参謀だよ。墨塗りの変な勇者を量産したりしてな」

 あの悪夢のような全裸三人組たちが頭をよぎり、思わず額を押さえた。


「今度は墨じゃなくて、飢えと不安を塗りたくってるってわけか……」


 リオナは苛立ち半分で吐き捨てる。

「どっちにしろ、ろくでもないわね」


 男は俺たちをしばらく見つめ、それから小さく笑った。

「お前たち、王国軍の差し金じゃないな?」


「まぁ、そう思ってもらった方が楽だ」


 肩をすくめると、男は頷いた。

「そういう“よく分からない奴ら”の方が、中に入れる可能性はある。王国の旗を背負ってる使者は、門前払いだ」


 そう言って、彼は立ち上がり、軽く頭を下げた。

「向こうの話はした。無茶はするな。……ガルダの中で、飢えて死ぬ奴が一人でも減ればいいがな」



 キャンプのさらに先、山のくびれを抜けたところに、国境の関所があった。


 王国側の小さな詰所と、谷を挟んだ向こうにそびえる石造りの門。

 ガルダ側の城門は固く閉ざされていて、その上には弓兵が並んでいる。


 俺たちが近づこうとすると、王国側の兵士が慌てて手を広げた。

「おい、そこまでだ! これ以上は近づくな!」


「ただの通行人も駄目なんですか?」


 リオナが尋ねると、兵士は苦い顔をした。


「ガルダ側から矢文が来てる。“王国使節および軍関係者の通行は一切認めない”とな」


「俺たち、軍人じゃねぇけど」


「“武装した王国人”は全部ひっくるめて同じだ。それに、お前らの顔は城の連中が覚えてる。“帝国との戦を止めた勇者”が来たなんて知れたら、それこそ向こうの宣伝屋の餌だろう」


 兵士は肩をすくめた。


「“勇者を送り込んで内側から国を乗っ取ろうとしている”とか、好き勝手に言われるのがオチだ」


「……確かに、グラナードが喜びそうなネタだな」


 俺が額をかくと、エルナが心配そうに関所の向こうを見上げた。


 そのとき、谷の向こうから怒鳴り声が飛んできた。

「王国の犬ども、ここから引き返せ!」


 ガルダ側の城門の上で、鎧を着た兵士がこちらを指さしている。

「我らの鉱山も食卓も、お前たちのものにはならない!  偽りの和平に騙されぬぞ!」


 口上がやけに整っているあたり、グラナードの入れ知恵だろう。


 リオナが小声で呟く。

「……完全に洗脳されてるわね、あれ」


 エルナは、胸の前で祈りの形をつくったまま、目を伏せる。

「争いの前触れにしか聞こえません……」


 王国側の兵士が、ため息をついた。

「こっちから“違う”と言えば言うほど、“やっぱり図星を突かれて焦っている”ってことになるんだとよ」


「噂ってのは、本当に厄介だな」

 俺は城門を見上げる。

 閉ざされた門。

 こちらを疑いと敵意の目で見下ろす兵士たち。


 ここで軍を動かせば、まさにグラナードの思うツボだ。

 動かなくても、ガルダの中で飢えと怒りが溜まれば、いつか爆発する。


 どっちに転んでも、放っておいていい話じゃねぇ。



 日が山の向こうに沈みかけた頃、俺たちは臨時キャンプの外れに小さな焚き火を起こした。


 火に鍋をかけ、簡単なスープを作りながら、三人で丸く座る。


「正面は、完全に塞がれてるわね」

 リオナが木の枝で薪をつつく。


「王国の使節として動くルートは、ゼロと見ていい」


「軍を動かしたら、“やっぱり侵略の意思あり”って言われますしね」

 エルナの声は沈んでいた。


「大使を何人送っても、“圧力をかけに来た”としか受け取ってもらえないかもしれません」


「かといって、何もしないで黙ってりゃ、ガルダの中で飢えが広がる」

 スープから立ち上る匂いを吸い込みながら、俺は火を見つめた。


「飢えた街で扇動屋が敵を決めたら、そいつに向かって真っ直ぐ突っ込んでいくだけだ。その先には、王国と帝国が並んでる」


「……戦争の火種を育ててるようなものね」

 リオナは、何本かの枝を火の中に投げ込んだ。


「で、その薪をくべてるのがグラナードってわけだ」


 エルナは両手を膝の上で組み、しばらく黙っていた。

 やがて、小さな声で言う。

「王様もおっしゃっていました。“軍を送ったら、それだけで相手の物語に乗せられる”って」


「物語、か」


 俺はスプーンで鍋を混ぜた。

 表面に映る火が、ゆらゆら揺れる。


「だったら、こっちも“別の物語”を持ち込むしかねぇな」


 リオナが顔を上げる。

「どういう意味?」


「王国の使者としてじゃなく、ただの人間として中に入る」

 自分で言いながら、苦笑いが漏れた。


「俺たち三人で動けば、軍でも使節団でもねぇ。せいぜい“変な旅人”だろ。グラナードの話に乗りたくない奴らに、“別の選択肢”を見せる」


「……あんた、また単身で突っ込む気?」

 リオナの目がじっとこちらを射抜く。


 俺は両手を上げた。

「単身って言ってねぇだろ。三人だ、三人」


「でも、王国の旗も紋章も持たずに入るってことは、“勝手に入りました”ってことよ?」


「その方が、話を聞いてもらいやすい奴らもいるさ」


 エルナが、少しだけ迷うように目を伏せ、それから顔を上げた。

「わたしは……行きたいです」


 俺とリオナの視線が、エルナに向く。


「戦争になる前に、何とかできるなら、その方がずっといい。飢えた人たちを見て、“じゃあ祈りましょう”だけで終わるのは、やっぱり嫌です」


「エルナらしいな」


 リオナが小さく笑い、それからため息を一つ。


「どうせ止めても無駄でしょ、シゲルは」


「よく分かってんな」


「一応、言っておくわよ」

 リオナは俺の額を指先で小突いた。


「あたしたちが三人で動くのは、“戦にならないようにするため”だからね。『いざとなったら裸で暴れれば何とかなる』って発想は、禁止」


「そんな雑なこと考えてねぇよ」

 ……たぶん。


 エルナが、くすっと笑った。

「でも、最悪の最悪になったら……きっとまた、シゲルさんが脱ぐんですよね」


「そこでさらっと言うな」


 火のはぜる音が、三人の笑いに重なった。


 笑いながらも、胸の奥はやっぱり少し重い。

 戦を止めたあとに、今度は戦の種を潰しに行く。

 どう考えても、楽な道じゃねぇ。


 けど――あのジジイに高みから笑われるくらいなら、自分で動いた方がまだマシだ。


 焚き火の火が小さくなっていく。

 鍋のスープを分け合いながら、俺は暗くなりかけた空を見上げた。


「……ガルダの中で、まだ“笑える奴ら”が残ってるうちに、片付けねぇとな」


 星は、まだ霞んで見えなかった。

 けれど、どこかで歯車がきしみ始めている音だけは、胸のあたりで妙にはっきり響いていた。

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