第86話 閉ざされた門と臨時キャンプ
リュンドの朝は、山の冷えた空気と、どこか沈んだざわめきで始まった。
宿の窓から外をのぞくと、街道に沿って荷馬車の列がずらりと並んでいるのが見えた。
けど、どれも動いていない。
車輪は止まったまま、荷台の上に布をかけたまま、馬も人も、ただその場に留まっている。
「……あんまり“宿場町らしく”ねぇな」
荷物を背負いながらぼそっと言うと、腰の剣を確かめていたリオナが頷いた。
「行き場をなくした荷馬車の墓場って感じね」
エルナは背負い袋の紐を握りしめ、小さく首をかしげる。
「みなさん、困っている顔をしています……」
俺たちは宿を引き払い、三人で街道へ出た。
◇
街道に出てみると、止まっている荷馬車は思った以上に多かった。
リーベルでも見かけた商人ギルドの紋章入りの荷車もあれば、見慣れない紋章の、ガルダ=インダスト王国系らしい荷車もある。
車輪のそばに腰を下ろしていた中年の商人に、リオナが声をかけた。
「すみません。この列、みんな国境待ちですか?」
「……ああ。待ち続けて、八日目だ」
男は肩をすくめ、ひび割れた手で額をぬぐった。
「ガルダ側の関所が、実質閉鎖だ。荷を入れるどころか、顔を見せるだけで睨まれる」
「事故とか、道が崩れてるとかじゃないんですか?」
エルナが恐る恐る聞くと、商人は苦笑いを浮かべた。
「崩れてんのは道じゃなくて、あっちの連中の頭さ。“王国と帝国は手を組んで、うちの鉱山を丸ごと奪うつもりだ”ってな」
……ああ、身に覚えのあるやり方だ。
「で、その証拠が“戦を終わらせた裸の勇者”ってわけだ」
「はぁ?」
思わず変な声が出た。
商人は俺たちの顔を順番に見て、ニヤリと笑う。
「知らないのか? ガルダで流れてる噂だよ。“王国と帝国が同じ勇者を使っていた。全裸で現れ、敵も味方もまとめて地面ごと叩き割る神の化身だ”ってな」
「……だいぶ盛られてんな」
これじゃあ盛りすぎどころか、別の生き物になってる気がする。
「そんな奴が王国にいるなら、そりゃ警戒もするってもんだろうよ。あいつらには、今は何でも“侵略の予兆”に見えてるようだ」
男はため息をついた。
「ガルダの商隊ですら、戻るときに尋問三回、荷の検査も三回だ。王国の商人なんざ、門の前で追い返されるだけマシって話さ」
「……そうですか。教えてくださってありがとうございます」
エルナが頭を下げると、男は苦笑いをした。
「礼を言われるような話じゃないさ。ただ――」
男は、ほんの少しだけ真面目な声になった。
「裸の勇者の噂まで利用して、誰かが火を焚きつけてる。それだけは間違いねぇだろうな」
誰か。俺は心の中で、名前をひとつだけ思い浮かべた。
『グラナード』
墨塗り全裸三兄弟たちを送り込んできた、あの三等参謀。
場所を変え、看板を変えて、今度は“飢えと恐怖”を燃料にしているらしい。
◇
山道を進んでいくと、やがて広めの平地に出た。
そこは本来ただの休憩所のはずだが、今は木組みの簡易小屋やテントが立ち並び、小さな町のようになっている。
ガルダの紋章を掲げた荷車も、王国の商人ギルドの旗も、雑多に混じり合っていた。
「……臨時キャンプってやつね」
リオナが周囲を見渡す。
「ここから先は、誰も動けないってことか」
焚き火の周りで食事をしている一団に近づくと、ひときわボロい外套を着た男がこちらを見た。
顔つきはガルダ系だが、装飾や紋章は何もつけていない。
「旅人か?」
低い声に、俺はうなずいた。
「西へ抜けたいんだが、止まってる理由を詳しく聞けたら助かる」
「……西へ、ね」
男は少しだけためらってから、空の椀を置いた。
「俺はガルダの商人だ。辛うじて外に出てこられた口だよ。中では、物が減り始めてる」
エルナが身を乗り出す。
「食べ物が、ですか?」
「それも、だが……まずは金属だな。自国の鉱山の産物を、わざわざ国内で抱え込むはめになってる。本来なら外に売って食い物を買うはずの鉱石や金属が、倉庫で眠ってるんだ」
男は、やるせなさを噛みしめるように唇を歪めた。
「“今、鉄を手放せば、王国と帝国に武器を渡すことになる”ってな。だから輸出を止める。結果として、食料を買う金も減る」
悪循環、というやつだ。
「王都レルクでは、“王国と帝国が食料輸出を止めて、ガルダを弱らせてから攻めてくる”って噂も出てる」
「こっちは逆に、“ガルダが鉱物で王国の首を締めにきてる”って言ってるんだがな」
俺が溜息混じりに言うと、男は肩をすくめた。
「向こうの工房じゃ、もっと物騒な話も出てるさ。いずれ王国の旗か帝国の旗がレルクに翻る。その前に山を封鎖して、奴らを閉め出せってな」
リオナが顔をしかめた。
「工房がそう言ってるんですか?」
「工房と、その周りを固めてる自警団だ。最近は“武器を持った市民部隊”みたいなのが増えてる。王の軍じゃなく、街ごとの“守る者”って言い方をしてるが……」
男は首を振った。
「……飢える前に誰か殴りたい連中の集まりだよ」
エルナは黙り込んだまま、ぎゅっと手を握りしめている。
俺は黙って、焚き火の火の粉を目で追った。
「噂を振りまいてる奴の姿を見たことは?」
リオナが核心を突く。
「黒いコートを着た、痩せた男だ。名前は名乗らないが、“軍のことに詳しいらしい”って評判だな」
男は遠くを見る目になった。
「集会のときは、いつも同じ話をする。“王国と帝国は手を組んだ。次の相手はここだ。何もしない王と、事なかれを望む神官には任せるな”」
――はい、確定。
「……グラナードだろうな」
思わず口に出すと、男がこちらを見た。
「知っているのか?」
「こっちで似たようなことをやってた元帝国参謀だよ。墨塗りの変な勇者を量産したりしてな」
あの悪夢のような全裸三人組たちが頭をよぎり、思わず額を押さえた。
「今度は墨じゃなくて、飢えと不安を塗りたくってるってわけか……」
リオナは苛立ち半分で吐き捨てる。
「どっちにしろ、ろくでもないわね」
男は俺たちをしばらく見つめ、それから小さく笑った。
「お前たち、王国軍の差し金じゃないな?」
「まぁ、そう思ってもらった方が楽だ」
肩をすくめると、男は頷いた。
「そういう“よく分からない奴ら”の方が、中に入れる可能性はある。王国の旗を背負ってる使者は、門前払いだ」
そう言って、彼は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「向こうの話はした。無茶はするな。……ガルダの中で、飢えて死ぬ奴が一人でも減ればいいがな」
◇
キャンプのさらに先、山のくびれを抜けたところに、国境の関所があった。
王国側の小さな詰所と、谷を挟んだ向こうにそびえる石造りの門。
ガルダ側の城門は固く閉ざされていて、その上には弓兵が並んでいる。
俺たちが近づこうとすると、王国側の兵士が慌てて手を広げた。
「おい、そこまでだ! これ以上は近づくな!」
「ただの通行人も駄目なんですか?」
リオナが尋ねると、兵士は苦い顔をした。
「ガルダ側から矢文が来てる。“王国使節および軍関係者の通行は一切認めない”とな」
「俺たち、軍人じゃねぇけど」
「“武装した王国人”は全部ひっくるめて同じだ。それに、お前らの顔は城の連中が覚えてる。“帝国との戦を止めた勇者”が来たなんて知れたら、それこそ向こうの宣伝屋の餌だろう」
兵士は肩をすくめた。
「“勇者を送り込んで内側から国を乗っ取ろうとしている”とか、好き勝手に言われるのがオチだ」
「……確かに、グラナードが喜びそうなネタだな」
俺が額をかくと、エルナが心配そうに関所の向こうを見上げた。
そのとき、谷の向こうから怒鳴り声が飛んできた。
「王国の犬ども、ここから引き返せ!」
ガルダ側の城門の上で、鎧を着た兵士がこちらを指さしている。
「我らの鉱山も食卓も、お前たちのものにはならない! 偽りの和平に騙されぬぞ!」
口上がやけに整っているあたり、グラナードの入れ知恵だろう。
リオナが小声で呟く。
「……完全に洗脳されてるわね、あれ」
エルナは、胸の前で祈りの形をつくったまま、目を伏せる。
「争いの前触れにしか聞こえません……」
王国側の兵士が、ため息をついた。
「こっちから“違う”と言えば言うほど、“やっぱり図星を突かれて焦っている”ってことになるんだとよ」
「噂ってのは、本当に厄介だな」
俺は城門を見上げる。
閉ざされた門。
こちらを疑いと敵意の目で見下ろす兵士たち。
ここで軍を動かせば、まさにグラナードの思うツボだ。
動かなくても、ガルダの中で飢えと怒りが溜まれば、いつか爆発する。
どっちに転んでも、放っておいていい話じゃねぇ。
◇
日が山の向こうに沈みかけた頃、俺たちは臨時キャンプの外れに小さな焚き火を起こした。
火に鍋をかけ、簡単なスープを作りながら、三人で丸く座る。
「正面は、完全に塞がれてるわね」
リオナが木の枝で薪をつつく。
「王国の使節として動くルートは、ゼロと見ていい」
「軍を動かしたら、“やっぱり侵略の意思あり”って言われますしね」
エルナの声は沈んでいた。
「大使を何人送っても、“圧力をかけに来た”としか受け取ってもらえないかもしれません」
「かといって、何もしないで黙ってりゃ、ガルダの中で飢えが広がる」
スープから立ち上る匂いを吸い込みながら、俺は火を見つめた。
「飢えた街で扇動屋が敵を決めたら、そいつに向かって真っ直ぐ突っ込んでいくだけだ。その先には、王国と帝国が並んでる」
「……戦争の火種を育ててるようなものね」
リオナは、何本かの枝を火の中に投げ込んだ。
「で、その薪をくべてるのがグラナードってわけだ」
エルナは両手を膝の上で組み、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言う。
「王様もおっしゃっていました。“軍を送ったら、それだけで相手の物語に乗せられる”って」
「物語、か」
俺はスプーンで鍋を混ぜた。
表面に映る火が、ゆらゆら揺れる。
「だったら、こっちも“別の物語”を持ち込むしかねぇな」
リオナが顔を上げる。
「どういう意味?」
「王国の使者としてじゃなく、ただの人間として中に入る」
自分で言いながら、苦笑いが漏れた。
「俺たち三人で動けば、軍でも使節団でもねぇ。せいぜい“変な旅人”だろ。グラナードの話に乗りたくない奴らに、“別の選択肢”を見せる」
「……あんた、また単身で突っ込む気?」
リオナの目がじっとこちらを射抜く。
俺は両手を上げた。
「単身って言ってねぇだろ。三人だ、三人」
「でも、王国の旗も紋章も持たずに入るってことは、“勝手に入りました”ってことよ?」
「その方が、話を聞いてもらいやすい奴らもいるさ」
エルナが、少しだけ迷うように目を伏せ、それから顔を上げた。
「わたしは……行きたいです」
俺とリオナの視線が、エルナに向く。
「戦争になる前に、何とかできるなら、その方がずっといい。飢えた人たちを見て、“じゃあ祈りましょう”だけで終わるのは、やっぱり嫌です」
「エルナらしいな」
リオナが小さく笑い、それからため息を一つ。
「どうせ止めても無駄でしょ、シゲルは」
「よく分かってんな」
「一応、言っておくわよ」
リオナは俺の額を指先で小突いた。
「あたしたちが三人で動くのは、“戦にならないようにするため”だからね。『いざとなったら裸で暴れれば何とかなる』って発想は、禁止」
「そんな雑なこと考えてねぇよ」
……たぶん。
エルナが、くすっと笑った。
「でも、最悪の最悪になったら……きっとまた、シゲルさんが脱ぐんですよね」
「そこでさらっと言うな」
火のはぜる音が、三人の笑いに重なった。
笑いながらも、胸の奥はやっぱり少し重い。
戦を止めたあとに、今度は戦の種を潰しに行く。
どう考えても、楽な道じゃねぇ。
けど――あのジジイに高みから笑われるくらいなら、自分で動いた方がまだマシだ。
焚き火の火が小さくなっていく。
鍋のスープを分け合いながら、俺は暗くなりかけた空を見上げた。
「……ガルダの中で、まだ“笑える奴ら”が残ってるうちに、片付けねぇとな」
星は、まだ霞んで見えなかった。
けれど、どこかで歯車がきしみ始めている音だけは、胸のあたりで妙にはっきり響いていた。




