第84話 西へ向かう道で
王都の朝は、やけに澄んでいた。
昨日までと同じ街並みなのに、今日からここをしばらく離れると思うと、空の色まで少し違って見える。
城門を出ると、いつもの街道が西へまっすぐ伸びていた。
石畳は途中までで、そこから先は土の道に変わる。
荷馬車の車輪の跡が幾重にも刻まれている。
「じゃ、しばらくお別れね、王都」
リオナが大きく伸びをすると、腰の剣がカチャリと鳴る。
「またすぐ戻ってくることになるかも知れねぇけどな」
俺が言うと、エルナは小さく笑った。
「戻ってくるときには、ガルダの人たちも笑っているといいですね」
そうなってくれりゃ、俺としても脱がずに済む確率が上がる。
……口に出すと縁起が悪い気がして、黙っておいた。
◇
西へ向かう街道は、予想よりにぎやかだった。
荷馬車の列、行商人、旅芸人らしき一座までいる。
戦の気配はどこにもない。
「意外と、普通ね」
リオナが前を歩く荷馬車を眺めながら言う。
「ガルダとの交易が止まってるわりには、って意味か?」
「そう。“物が足りない”って感じには見えないわ」
エルナが首をかしげる。
「王都で見た鍛冶屋さんたちは、かなり困ってましたけど……」
「王都と地方じゃ、影響の出方も違うってことだろ。ここらはまだ“これから”なんだろうな」
そんな話をしていると、前を行く荷馬車の御者が振り向いた。
「おい、あんたらもリュンドまでかい?」
「ああ、そうだ。隣、歩いてもいいか?」
「好きにしな。盗賊が出るほど物もねぇが、話し相手くらいは歓迎するぜ」
俺たちは馬車の横に並んで歩いた。
御者は日焼けした中年で、馬車には布に包まれた荷物が積まれている。
「どこから来たんだ?」
「王都だ。そっちは?」
「東の港町さ。いつもなら、この先で王都行きの荷とすれ違うんだがな」
男は肩をすくめる。
「ここ半年、さっぱりだ。銀もルミナ鋼も来ねぇ。こっちからも、食い物を運べねぇ」
「ガルダ側の事情って、どのくらい伝わってるんですか?」
エルナが控えめに尋ねると、御者は少し顔をしかめた。
「へんな噂ばっかりさ。“王国と帝国が手を組んで、ガルダを飲み込む”だの、“山の向こうにでかい軍勢が集まってる”だの」
「見た人はいるのか?」
俺が問うと、男は鼻で笑った。
「いねぇよ。“聞いた話だがな”って前置きつきの噂ばっかりだ。でもな、噂ってのは、腹が減ってる連中にはよく効く薬なんだよ。毒かもしれねぇけどな」
その言い方が妙に生々しくて、一瞬言葉が出なかった。
「ガルダの連中も、穀物が減りゃ不安になる。“不安だ”って口にしたところに、“敵がいるぞ”って噂すりゃ、簡単に燃え上がる」
「……誰かさんの得意技ね」
リオナがぼそっと言う。俺も同意しかねない。
「グラナードという名前、聞いたことあります?」
エルナが恐る恐る尋ねると、御者は首をひねった。
「ん? いや、聞かねぇな。こっちで流れてるのは、“影の語り部”とかそのへんの呼び名だ。顔も名前も分かんねぇが、酒場や広場でひそひそ話を広めて歩いてる連中がいるってな」
「影の……ねぇ」
リオナが眉をひそめる。
「影でコソコソやってる分にはまだいいが……表に出てこられると面倒だな」
俺は空を見上げた。
青くて、雲も穏やかで、どう見ても戦前って空じゃねぇ。
――でも、帝国のときも、最初の空はこんな感じだった。
◇
日が傾き始めたころ、西方宿場町リュンドの屋根が見えてきた。
山脈の手前に広がる、中規模の町だ。
門の前には、荷馬車の列ができていた。
兵士たちが一台ずつ荷を改めている。
「検問ね」
リオナが小さく息を吐く。
「戦時中ってほどじゃねぇけど、緊張してるな」
俺たちの番になり、兵士が近づいてきた。
「身分証の提示を頼む」
俺とリオナはギルドカードを見せ、エルナは王都からの許可証を差し出した。
兵士は真面目そうな顔で一通り目を通し、軽くうなずく。
「……王都からか。最近、王都の人間がよく来るな」
「そんなに来るのか?」
「ああ、かなりな。おかげで、こっちはガルダの動きにピリピリしてる」
兵士は、城壁の向こうを一瞬だけ見た。
「山の向こうからの荷は止まったままだ。逆に、向こうに行った商人が帰ってこねぇ。噂も増えてる。“王国はもうガルダを攻める軍を集めてる”とか、“帝国と一緒に鉄を奪う”とか……」
「そんな事実はねぇよ」
思わずきっぱり言うと、兵士は少しだけ安堵したような顔をした。
「だろうな。だが、ガルダの連中がどう見てるかは別の話だ。あんたら、町に入ったら、くれぐれも“王家の使いです”なんて顔は出さないことだな」
その忠告に、俺たちは素直に頭を下げた。
「助言、感謝する」
「今は、余計な誤解を招かねぇのが一番だ。――ようこそ、リュンドへ」
◇
宿場町の中は、見た目だけならにぎやかだった。
行き交う人、店先に並ぶ食べ物、酒場から漏れる喧噪。
けれど、よく見ればいろいろとおかしい。
金物屋の棚はスカスカで、壁には『一人一品まで』の張り紙。
工房の前には『ガルダ製部品入荷未定』の札。
逆に、穀物や干し肉の店は妙に活気がある。
安いうちに買い込もうという空気だ。
「物はまだあるけど、“いつまであるか分からない”って感じですね」
エルナが周囲を見ながら言う。
「こういうとき、人は“理由”を求める。“なぜ足りないのか”“誰のせいなのか”ってな」
俺がそう言うと、リオナが横目で酒場を指差した。
「理由が分かりそうな店なら、そこにあるわよ」
目を向けると、入口の横に、壁新聞のようなものが貼られていた。
手書きの紙に、大きな字でこう書いてある。
『王国と帝国の動きに備えよ』
『鉱山は我らガルダのもの』
見ただけで頭が痛くなるタイトルだ。
「……まぁ、派手にやってんな」
「中に入ってみる?」
「いきなり真正面から突っ込むのは、さすがに不用心じゃねぇか」
俺は首を振った。
「今日は様子を見て、宿を取って、情報を整理しよう。下手に口を挟んで、“王国のスパイだ”なんて騒がれたら目も当てられねぇ」
「それは困るわね。あたし、まだ地下牢とか入りたくないし」
リオナが笑い、エルナは少し青ざめた顔でこくりとうなずいた。
「シゲルさんが……地下牢で脱ぐ展開とか、嫌ですし……」
「そんな展開、俺だって全力でお断りだ」
本気でそう思う。
◇
町外れの宿に部屋を取った。
一階が食堂兼酒場、二階が客室。
三人でひと部屋だ。
粗末だが清潔な部屋で、俺たちは荷物を下ろした。
「さて、とりあえず整理だな」
腰を下ろしながら言うと、リオナが指を一本立てる。
「まずひとつ。ガルダからの鉱物は止まってるけど、こっちの生活はまだ致命的には崩れてない」
「ふたつ。噂は、すでに宿場町レベルでも広がっている」
エルナが続ける。
「“王国と帝国の連合軍がガルダを狙っている”って話ですね」
「みっつ。噂の源は、おそらくグラナード。でも、ここで名前が出てるのは“影の語り部”とか、そういうあだ名だけ」
俺は指を折りながら言った。
「……やっぱり、あの男か」
リオナが、寝台の端で足を組む。
「正直、戦争そのものよりタチが悪いわよ、ああいうの。剣も魔法もいらない。ただ口だけで人を煽れるんだから」
「口だけで人を傷つけられるって、怖いですね」
エルナが膝に手を置き、じっと見つめる。
「戦だって、“誰かが言葉にした”ところから始まるんですもんね……」
「だからこそ、言葉の方から止めないといけねぇ」
自分で言って、少しだけ苦笑する。
俺は剣も少しは振れるし、魔法を使えば大体のものはどうにでもできる。
だけど、今回ばかりは、殴れば解決、って話じゃねぇ。
「まずは明日、商人と工房関係者の話を聞こう。“実際に何が起きてるか”を、噂じゃなくて体感してる連中から」
「了解。あたしは鍛冶屋とか工房筋を当たるわ」
「わたしは教会や救済所を回ってみます。食べ物の配給状況とか、困っている人たちの声を聞けるかも」
「俺は……商人の溜まり場と、噂話が集まりそうな酒場か」
言いながら、少しだけ肩が重くなる。
「裸で殴り込む話じゃないのは、まだ救いかもしれねぇけどな」
「フラグ立てないでよね」
リオナがじとっとした目を向けてくる。
「どうせどこかで脱ぐ羽目になるんだから、それまではせめて真面目にやりましょ」
「“それまでは”って言い方やめろ」
エルナが困ったように笑った。
「でも……シゲルさんが脱がなくて済むなら、その方がいいです。それで人が救えるなら、一番いいです」
「そうだな」
窓の外を見やる。
夕暮れが、山の端に沈みかけていた。
あの山の向こうに、鉄と歯車の国――ガルダ=インダスト王国がある。
そこに、グラナードと、飢えと、不安と、噂が渦巻いている。
「戦になる前に止める。今度こそ、そういう終わらせ方をしたいもんだ」
そう呟くと、風が窓の隙間から入り込んだ。
まだ、血の匂いはしない。
この匂いのまま、終わらせられればいい――心からそう思った。




