第82話 王都からの再召集
王都からの召集が来てから、三日後の朝だった。
借家の前に停まった王都行きの馬車を見上げて、俺は小さくため息をついた。
板張りの壁は相変わらずみすぼらしいが、一年も住めばそれなりに愛着が湧くものだ。
「じゃ、留守番よろしくな、我がボロ家」
思わず独り言を洩らすと、背後から布袋を肩に担いだリオナが出てきた。
「家にまで話しかけるようになったら末期ね」
「うるさい。俺のへそくりが詰まってる家なんだ、敬意を払え」
「へそくりって、あの床板の下の小銭?」
「なんで知ってるんだよ!」
玄関からエルナが慌てて出てくる。
荷物は一番少ないのに、一番ばたばたしている。
「ま、待ってください、勝手口の鍵……鍵閉めましたっけ……?」
「さっき三回確認したわよ」
「そうでした……すみません、緊張すると、つい」
エルナは自分の胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
戦争が終わって一年。
敵として帝国と向かい合ったあの頃から見れば、だいぶ顔色も良くなった。
それでも“王都からの召集”と聞けば、落ち着かなくなるのは当然か。
御者が声をかけてくる。
「シゲル殿ですね? 王都直行の馬車、出立の刻です」
「はい。……じゃ、行くか」
俺たちはそれぞれ荷物を抱え、慣れ親しんだボロ家に一度だけ振り返った。
特別な思い出が山ほどあるわけじゃない。
でも、“戦のあとに、ただ眠れる場所”があるというだけで、それは十分に大切だった。
「……ちゃんと、また帰って来られるといいわね」
「縁起でもないこと言うな」
「いやな予感がするときほど、口に出しておいた方がマシなのよ」
「そういう理屈は聞いたことないけどな……」
そんなやりとりを交わしながら、俺たちは馬車に乗り込んだ。
◇
リーベルから王都までは、馬車で十数日の旅だ。
一年前も同じ道のりを揺られたはずなのに、今日の景色は少し違って見えた。
窓の外には、のどかな畑が広がっている。
冬を越えたばかりの土はまだ色が淡いが、農夫たちは黙々と鍬を振るっていた。
彼らの手元には、木の柄に鉄の刃がついた道具――けれど、その鉄の光はどこか鈍い。
「……鍬、減ってないか?」
「ん? どういう意味?」
向かいの席で、リオナが首をかしげる。
俺は窓に額を寄せて、畑の隅を眺めた。
「前に通ったときは、予備の農具を立て掛けてるの、よく見かけた気がするんだよな。今は……一本折れたら、次がなさそうな顔して振ってるというか」
「よく分かったわね、そんなところまで見てたの」
「暇だったからな、一年前も」
エルナもそっと窓から外をのぞく。
「……手押し車の車輪、片方だけ木で補修してありますね」
「ほんとね。金属の輪が片側ないわ」
エルナは小さく眉を寄せる。
「王都のギルドからの手紙にもありましたね。“金属製品の不足がじわじわと広がっている”って」
「まぁ、鍛冶屋の兄ちゃんもぼやいてたからな。『鉄が高い、釘一本作るのにため息が出る』って」
戦争で武器を作りすぎた反動かとも思ったが、それにしては減り方がおかしい。
去年の春には、こんな話は聞かなかった。
馬車は街道を進み、小さな村をいくつか通り過ぎた。
どこでも人々は普通に暮らしている。
子どもたちが走り回り、犬が吠え、洗濯物が風にはためく。
戦の傷跡は、少なくとも表面上は癒えているように見えた。
ただ――鍋の底も、門扉の蝶番も、街灯の台座も。
金属でできたものの一つひとつが、妙に大事そうに扱われている。
擦り切れた布を繕うように、何度も何度も修理されている気配があった。
「……平和っちゃ平和だな」
「そうね。ただ、ちょっと息苦しい平和って感じ」
リオナが腕を組んで背を伸ばす。
「戦が終わって一年でしょ。それなのに、今度は別の理由で呼び出し。あんた、ほんと休ませてもらえないわね」
「俺だって、もうちょい着衣姿でのんびりしたいんだけどな」
「全裸前提で話すのやめなさい」
「いや、俺の人生そこが避けて通れない分岐点なんだよ」
「開き直らないでください……」
エルナが困ったように笑った。
その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
◇
王都の城壁が見えてきたのは、出立から半月ほど経った昼下がりだった。
遠くに見える白い壁は、一年前と変わらないように見える。
けれど、近づけば近づくほど、その違いがはっきりしてきた。
「……門扉の補修跡、多いわね」
リオナがぽつりと呟く。
王都の城門に続く大きな扉。
その鉄板には、新しい鋲と古い鋲が混ざっていた。
溶かして打ち直す余裕はなく、足りない鋲の場所に別の金属片をねじ込んだような跡もある。
門番の鎧も、ところどころ補修痕が目立った。 革紐で留められた肩当て。
すね当ての片方だけが、以前より質の悪い金属に変わっている。
「戦で傷んだところを直してるだけ……じゃないわよね、これ」
「多分な。直す材料が足りてないようだ」
門番に顔を覚えられていたのか、俺たちが通行証を見せると、意外とあっさり通された。
「おお、勇者殿か。……いや、いまは“シゲル殿”とお呼びすべきか」
「普通にシゲルでいいです。勇者は、ちょっとくすぐったいんで」
「はは、そうか。王城からの召集、と聞いている。中の様子は……見れば分かるだろう」
門番の男は、それ以上多くを語らなかった。
それでも、その顔にはうっすらとした疲れがにじんでいた。
王都の大通りを歩き出す。
一年前、戦の前に訪れたときよりも人は増えている。
行商人の姿もあるし、屋台も出ている。
けれど、大通りのあちこちに“空き家”が目立った。
以前は鍛冶屋や工房だったのだろう場所に、板が打ち付けられている。
「ここ、前に来たとき……確か、武具屋さんでしたよね」
「そうだな。帝国からの武具も置いてあった」
今は、看板だけが風に揺れていた。
〈××鍛冶店〉の文字は消され、上から粗末な板が打ち付けられている。
別の角では、香辛料を売る露店があった。
前に立ち寄ったことがある。
今回は、香辛料の瓶が半分ほどに減っている。
代わりに、干した野菜が増えていた。
「……じわじわ効いてるって感じね」
「何が?」
「鉄よ。武器も、工房の道具も、全部この街の血管みたいなものでしょ。そこが細くなれば、表面上は笑ってても、そのうち動けなくなる」
リオナの言い方はきついが、間違っていない。
俺は胃のあたりに重いものを感じながら、口の中だけでため息を洩らした。
◇
王都ギルドに顔を出すと、受付の職員が俺たちを見るなり目を丸くした。
「シゲルさん! リオナさんにエルナさんまで!」
慌ただしく頭を下げたあと、カウンターの奥から分厚い書類束を抱えて出てくる。
「王城への紹介状は、すでに準備してあります。……本当は、もっと早く呼びたかったんですけど」
「そんな大事なのに、ギルド経由なんですね」
「王城からの正式な通達は、必ずギルドを通す決まりなんですよ。戦のときも、そうだったでしょう?」
そう言われればそうだ。
ただ、周囲の雰囲気は一年前とは違う。
壁に貼られた依頼書は、魔物討伐よりも、橋の補修や、古い装置の解体、代用部品の捜索などが多くを占めていた。
「“鉄製の水車の軸の代替案求む”って……こんな依頼、前はなかったわよね」
「ええ。最近は、鉄や魔導金属を使わずに済む方法を探す依頼ばかりです。王都だけならともかく、地方の村からも同じような話が届いていて……」
受付嬢は申し訳なさそうに笑った。
「それで、王都も本格的に調査に乗り出すことになったんです。 シゲルさんたちには、戦での功績も、あの……第三国との距離感も、ありますし」
「距離感、ですか?」
「ええ、“外の国を怖がらずに見る目”っていう意味です」
なんだか妙に評価されている。
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
紹介状を受け取り、ギルドを後にする。
外は、先ほどより少しだけ風が強くなっていた。
「ねぇ」
リオナが歩きながら口を開いた。
「また、国のために一肌脱げって話になると思う?」
「物理的には脱ぎたくない」
「そこは精神的に一肌脱ぐって言いなさいよ」
「精神的だけで済めば、人生もっと楽なんだけどな……」
エルナが小さく笑う。
「でも、呼ばれた以上、きっと何か理由があるはずです。今、王国が困っていること。それを……わたしたちにしか頼めないって、思っている」
「“わたしたち”に、か。俺だけじゃなくて?」
「はい。私もリオナさんも、一緒ですから」
その言葉に、少しだけ胸のあたりが温かくなった。
戦争が終わったあとも、こうして並んで歩いている。
それだけで、ずいぶん贅沢なことだ。
◇
王城の前に立つと、さすがに空気が変わった。
高い城壁、厚い扉、整然と並ぶ衛兵たち。
彼らの鎧も、ところどころ継ぎ接ぎは見えるが、それでも誇りを失わないように磨かれている。
「勇者シゲル殿一行。お入りください」
衛兵の声は固いが、どこか親しみも混じっていた。
一年前、同じようにここをくぐったときの重苦しい緊張とは、少し違う。
けれど、城の中に足を踏み入れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
床は磨かれ、内装は整っている。
壁には戦で亡くなった兵士たちの名が刻まれた板が増えていた。
その隣には、戦後に新しく掲げられた“感謝状”のようなものも見える。
「……なんか、静かね」
「うるさいよりはいいけどな」
けれど、この静けさは、ただの平和の証というだけではなさそうだった。
まだ見えぬ王の言葉が、廊下の向こうで待っている。
案内役の兵士が振り返る。
「この先の謁見の間で、国王陛下がお待ちです」
俺は無意識に、腰のあたりを見下ろした。
もちろん、ちゃんと服は着ている。
それでも、王に会うときには、いつも“脱ぐ流れになるのでは”と身構えてしまうのは、もう職業病みたいなものだ。
「……シゲル」
隣で、リオナが小声でささやいた。
「今日は絶対、ここで脱ぐんじゃないわよ」
「分かってるよ」
エルナもそっと言葉を添える。
「大丈夫ですよね。ここは……まだ、“話す場所”ですから」
重い扉の前で、俺は一度だけ深く息を吸った。
戦が終わって一年。
平和の中で、別の“ひずみ”が育っているようだ。
そのひずみが何かなのか。
答えは、この扉の向こうにある。
「……行くか」
扉が、静かに開いていった。




