第80話 風の還る地 ― 理なき世界にて
風の音が戻ってきた。
耳を澄ませば、瓦礫の隙間を抜けていく空気のさざめきが聞こえる。
止まっていた時が、ゆっくりと動き出していた。
灰色の雲が流れ、そこから淡い光が差し込む。
鎮界炉の崩壊で凍っていた帝都の空気が、ようやく“呼吸”を取り戻していた。
俺は裸のまま、工廠の跡地に立っていた。
足元の地面は焦げ、金属の破片が赤くくすぶっている。
光を反射していたはずの壁は、すでに黒い灰へと変わっていた。
その中央で、アスモルが膝をついていた。
燃え残った王衣の裾が風に揺れ、彼の頬を淡く照らす。
彼はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
「……理は、ここで尽きたか」
掠れた声だった。
俺は短くうなずき、胸の奥で息を整える。
「止まってた時も、風も、もう動いてる。これ以上、あんたがここにいる理由はねぇ」
アスモルは拳を握りしめ、目を伏せた。
「神を封じ、人を自由にしたかった……。だが、私は理に溺れた愚か者だったようだ」
「理は生きるための手段であって、止めるための鎖じゃねぇよ」
俺はゆっくりと一歩前に進む。
「俺は一度訪れた場所には、魔法でいつでも戻れる。だから――王国への侵略をやめろ。もし続けるつもりなら、またここに来て止めてやる」
アスモルは苦笑した。
「脅しか?」
「警告だ。俺は戦いたくて戦ってるわけじゃねぇ。けど、誰かがこの世界を止めようとするなら……全裸になって、止めに行く」
沈黙が流れる。
だがその沈黙は、先ほどまでの“凍った時間”ではなかった。
新しく生まれた風が、二人の間を通り抜けていく。
やがてアスモルは立ち上がり、焦げた地面に剣を突き立てた。
「……もう、戦いはやめよう。軍を引き、越境はせぬと誓う」
「そうしてくれ」
俺はうなずき、踵を返した。
風が背を押した。
あの冷たい帝都の空気が、少しだけ温もりを帯びていた。
◇
あとは片付けか。
〈飛翔〉
風が足元を押し上げ、俺の体がふわりと浮かび上がる。
時を取り戻した帝都を後にし、王国に向って空を滑空している。
下では、帝国第一軍が依然として孤立している。
強力な魔法で生まれた巨大断層が、軍を周囲から切り離していた。
亀裂を飛び越え、帝国軍の上へ降りると、兵たちが一斉に武器を構えた。
「落ち着け。戦う気はねぇ」
兵の一人が叫ぶ。
「まさか……“裸の勇者”!?」
「その名で呼ぶな。……その名は変態っぽいだろ」
俺は片手を上げ、地面を見下ろした。
「この亀裂は、今は塞がねぇ。だがお前らを移してやる」
〈空間転移〉
淡い光が兵士たちを包み、眩い閃光とともに景色が反転する。
気づけば、軍は断層の外――安全な丘の上にいた。
将校が震える声で言った。
「貴殿は……敵では、ないのか?」
「敵なら、こんな面倒な魔法は使わねぇよ」
俺は笑って肩をすくめた。
「地面の亀裂はそのまま残す。また攻めてきたら、もう一度孤立させる。覚えとけ」
将校は静かにうなずき、敬礼した。
風が吹き、彼らの旗がはためいた。
その風は、もはや戦の風ではなく、安堵の風だった。
◇
砦へ戻ると、夜明けの光が差し込んでいた。
俺はそのまま――全裸で、堂々と門をくぐった。
「ただいま戻った!」
瞬間、リオナが呆れ顔で立ち上がる。
「……服、どこ置いてきたのよ」
「ここで脱いだままだ」
「もう慣れたけど、慣れたくない!」
隣でエルナが顔を真っ赤にして口を開けた。
「ま、また脱いでる……っ!? ああ……!」
そして――お約束のように、ぱたりと気絶。
俺は頭を掻いた。
「説明する前に倒れるなよ……」
「いいのよ、それがあの子の防御魔法みたいなもんだから」
リオナが笑いながら言った。
「で、結局こうなるのね……世界救っても、裸で戻ってくるとか」
「そういう決まりなんだ、きっと」
砦に笑いが戻り、焚き火がぱちぱちと音を立てた。
外では風が吹き抜け、夜明けの空を柔らかく撫でていく。
その風の中に、いつもの声が混じった。
『裸で世界を救ったか。お前らしい幕引きじゃの』
「……神、もう黙ってろ」
『ほっほ、風が吹けばまたどこかで脱ぐじゃろう。楽しみにしておるぞ』
声が遠ざかる。
俺は溜息をつき、夜明けの空を見上げた。
――世界は、まだ動いている。
風があり、笑いがあり、そして少しの恥もある。
それが、生きてるってことなんだろう。
柔らかな風が砦を包み、夜が明けていった。
( 第4章完)




