第8話 光る人影のうわさ
パンの焼ける香りで目が覚めた。
腹が鳴る。どうやら胃袋も異世界の朝に慣れてきたらしい。
窓の外では、秋の光が斜めに差し込み、紅葉した街路樹が風に揺れている。
ここ数日は穏やかに過ごせている。――いや、少なくとも昨日までは。
階下へ降りると、宿屋〈白風亭〉の食堂は朝から賑わっていた。
旅人や商人がパンとスープを囲み、今日の天気や相場の話をしている。
テーブルの一角では、いつもの明るい声が響いた。
「おはようございます、シゲルさん!」
笑顔で駆け寄ってきたのは宿の娘、エマだ。
栗色の髪を三つ編みにして、白いエプロン姿でテキパキと動いている。
「今日もいい天気ですね。……あ、そういえば聞きました?」
「え、何を?」
「昨日の夜! 街の南で“光る人”が現れたんですよ!」
スープを口に運ぼうとしていた俺の手が止まった。
「……光る人?」
「そうです! まるで神様みたいに、眩しい光を放って魔導灯の暴走を止めたって!」
エマの瞳はキラキラしている。
純粋そのものだ。
だが、俺の脳裏には昨夜の光景がフルカラーで蘇っていた。
神様じゃなくて……全裸です、はい。
「へ、へぇ……それはすごい話だね……」
「ねっ! みんな“光の勇者様”だって言ってます!」
その言葉を聞いた瞬間、口に入れたパンが喉に詰まりそうになった。
「げほっ……げほっ!」
「だ、大丈夫ですか!? やっぱりパン、少し固かったですか!?」
「い、いや……噂が、硬すぎてさ……」
エマは首を傾げながらパンを追加で置いてくれる。
その笑顔が罪なくらいにまぶしい。
俺はその視線から逃げるようにスープをすすった。
この街の噂、広まるの早ぇ……! いや、早すぎるだろ!
◇
食堂を出ると、石畳の街路が朝日を反射して輝いていた。
リーベルの街は秋の収穫を祝う季節。
露店には果実酒や焼き栗が並び、通りの端では子どもたちが遊んでいた。
「きゃー! 光の勇者ごっこー!」
「ピカーッ! ボーン!」
棒を掲げ、光の真似をして飛び跳ねる。
……なぜかスキルっぽい掛け声まで再現しているのは気のせいだろうか。
「ちょっ……誰が教えた、それ!?」
「勇者さまの動きだよ!」
子どもたちは無邪気に笑い、俺を指差す。
「おじさん、顔が似てる!」
「おじさんって言うな!」
笑いながら逃げる子どもたちの背中を見送り、苦笑が漏れる。
……おいおい、噂の再現度が上がってるじゃねぇか。
ため息をつきながらパン屋〈クルミ亭〉へ立ち寄ると、
店の奥からミナが顔を出した。
「あら、シゲルさん。昨日の夜、外出してませんでした?」
「い、いや、してないけど……どうして?」
「だって、うちの前の通りまで光が見えたんですよ。あれ、魔導灯の修理のときの光にそっくりでした!」
「そ、そう? 偶然じゃないかな!」
「ふふっ。なんだか、あの光を見たあと、パンの膨らみが良くなったんです!」
「……それは良かったね(奇跡の方向性どうなってんだ)」
結局、パンをひとつ買って店を出た。
噂は想像以上の速度で街中に広がっていた。
どこへ行っても「光る人」「勇者」「神の加護」といった単語が耳に入る。
俺は心の中で土下座する勢いで祈った。
頼む、誰も“全裸”って単語だけは出すな……!
◇
昼前、ギルドの前に立つと、中から人のざわめきが漏れていた。
嫌な予感しかしない。
扉を開けると――案の定だった。
「聞いた!? 昨日、光る人が現れたって!」
「光が街を包んで、魔導灯が止まったらしい!」
「“光る勇者”って呼ばれてるらしいぞ!」
カウンターの向こうではセリナが興奮気味に身を乗り出していた。
「マリアさん! もしかして、これってシゲルさんじゃありません!?」
「なっ……なんで俺になるの!?」
「だって、シゲルさんって、なんか……時々、ピカーッてしてそうじゃないですか!」
「俺を魔道具か何かだと思ってない!?」
ギルド内の冒険者たちがどっと笑う。
「確かに光りそうだな、こいつ」
「性格は地味だけど、やる時は派手だもんな!」
「いや派手なのは脱ぐときだけだから!」
うっかり口が滑った瞬間、場の空気がピタッと止まった。
「……え?」
「……い、いや、その、比喩だよ!? 比喩!」
「どんな比喩ですか、それ!?」セリナが食いつく。
「おおっと、書類整理の時間だな! 逃げるように仕事だ!」
書類棚の影に避難しながら、冷や汗を拭った。
マリアは無表情のまま帳簿にペンを走らせている。
「……光の色が、人の魔力に近いという報告もあります」
「えっ……マリアさん、それってどういう……?」
「つまり、“誰か”が意図的に魔力を制御した可能性がある、ということです」
淡々とした声の奥に、わずかな探りがあった。
俺は乾いた笑いを浮かべるしかない。
「はは……怖いねぇ、魔導灯って」
「ええ。……でも、もしその人が本当に街を救ったなら、英雄ですね」
「へ、英雄!? いやいやいや、俺そんな器じゃ……」
「ええ、でしょうね」
「ちょ、今なんか言った!?」
セリナが「仲いいですね〜!」と笑う中、
俺は心の中で(俺の寿命が縮んでる気がする)と泣いた。
◇
夕暮れ。
日が傾き、街がオレンジ色に染まる。
屋根の上から見下ろすリーベルは穏やかだった。
修復された魔導灯が再び灯り、人々の笑い声が路地に響く。
屋台の香ばしい煙が風に流れ、紅葉がひらりと舞う。
その光景を眺めながら、俺はつぶやいた。
「……悪くねぇな、この街」
昨日まではただの“滞在先”だった。
けれど今は、少しだけ“帰りたい場所”に思える。
『おぬし、人気者じゃのう。脱がずに名を上げるとは進歩じゃ』
「うるせぇよ、神!」
『この調子なら、いずれ“パンを焼くだけで噂になる男”になれるぞ』
「それ褒めてないだろ!」
俺は両手で頭を抱えながら空を見上げた。
夕暮れの空は薄紅に染まり、遠くで鐘の音が鳴っていた。
……でも、悪くない。誰かが笑って、明かりが灯ってる。
この街、ちょっとだけ――好きかもしれない。
風が冷たくなり、紅葉が肩に舞い落ちる。
その瞬間、またどこかで誰かが言った。
――“光る勇者様”が、街を見守っているらしい。
「……誰だそいつ。俺じゃねぇぞ」
そう呟いて苦笑する。
でも、胸の奥では少しだけ誇らしかった。




