第79話 理の崩壊 ― 神を見た皇帝(後編)
鎮界炉の光が静まり、三重の結界が炉心を包み込んでいた。
空気は焼け焦げた鉄と魔力の匂いで満ちている。
ただ一つ確かなのは――炉心が今、完全に封じられているということだ。
俺は息を吐き、崩れた床の上で立ち尽くした。
その時、背後でかすかな音がした。
振り返ると、皇帝アスモルが壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がっていた。
血の気のない頬、焦げた黒衣。
だがその瞳にはまだ光が宿っていた。
「……終わったと思うか、勇者よ」
アスモルは笑った。
その笑みは冷たいが、どこか誇りを含んでいた。
「理は、一度動き出せば止まらぬ。神を封じるために造られた“形”は、神の干渉では壊れぬ」
「それを止めたのは、神じゃねぇ。俺だ」
「ならば――人の手で、再び動かしてみせよう」
アスモルは床に落ちていた金属の図式に手を伸ばした。
その表面に刻まれた古代文字が淡く光を放つ。
彼は掌を当て、ゆっくりと魔力を流し込んだ。
金属が震え、光が走る。
炉心の結界が一瞬だけ揺らいだ。
アスモルの腕が腫れ、血が滲む。
それでも彼は手を離さなかった。
「神が理を壊すというなら、我は理で神を壊す。世界を止めてでも、均衡を保つ――それが朕の責務だ!」
「……責務? あんたのやってることは、ただの破壊だ!」
俺は叫び、アスモルの肩を掴んで金属板から引き剥がした。
彼はその場に崩れ落ち、息を荒げる。
図式は彼の手を離れ、床に落ちた。
そこから細かな光が漏れ出し、床の隙間へと流れ落ちていく。
俺は即座に魔力を叩き込んだ。
〈封印結界〉
結界を張り、光の流れを断ち切る。
そして、アスモルを見下ろした。
「もうやめろ。理も神も、関係無ぇ。生きてる人間まで巻き込むな」
アスモルは苦しげに息を吐き、しかし笑った。
「理は……止まらぬ。人がいる限り、理はまた形を取る……」
「だったら、その形ごと焼き尽くす」
俺は掌を上げ、魔力を紡ぐ。
アスモルが目を見開いた。
「何を――」
「終わらせる。お前の“理”も、時を封じるこの炉も」
周囲に残っていた技師や兵士たちへ目を向け、声を張り上げた。
「全員、外へ出ろ! 今すぐだ!」
誰も逆らわなかった。
沈黙のまま、軍靴の音が工廠を満たし、次々と人影が出口へ消えていく。
アスモルも壁に手をつき、よろめきながら立ち上がった。
俺は彼の肩を押さえ、静かに言った。
「外で風を感じてみろ。まだ“生きてる”ってことが分かるからな」
アスモルは視線を逸らし、短く呟いた。
「風……か。神ではなく、風……」
そう言うと、ゆっくりと工廠を後にした。
残ったのは俺と、鎮界炉と、金属図式。
俺は図式を拾い上げた。
青白い光が表面を走る。
「……これ以上、誰の手にも触れさせねぇ」
掌を掲げ、魔力を集める。
〈業火〉
炎が走る。
金属の図式は瞬時に白熱し、泡を立てながら溶け落ちた。
音もなく崩れ、蒸気となり、完全に消え去った。
次は鎮界炉を見据える。
三重の結界が揺らぎ、その内部で炉心が鈍く光る。
封印されてなお、鼓動のように震えていた。
「燃え尽きろ――理の亡骸!」
〈業火〉
赤い光が工廠全体を満たした。
轟音と共に金属が崩れ、炎が天井を突き抜ける。
全ての“理”が焼け落ち、灰となって散った。
やがて、風が吹き抜けた。
静止していた空気が動き出し、灰を運ぶ。
世界が再び息を吹き返していく。
外に出ると、アスモルが崩れかけた壁のそばに立っていた。
風に黒衣がはためき、目を細めている。
その顔には、初めて人間の温かみが戻っていた。
「……これが、風か」
「ああ。あんたが言う理より、ずっとまっとうなやつだ」
アスモルは小さく笑い、空を見上げた。
「生きているということが、これほど尊いとはな……」
俺は何も言わなかった。
風がすべてを語っていたからだ。
頭の奥で、神の声が響く。
『燃やし尽くしたか。愚かだが、よくやった』
「神に褒められると、なんか腹立つな」
『ならば、次は理を造る愚か者どもを見張るがよい。風は、止めるな』
声が消える。
空は澄み渡り、青が戻っていた。
俺は目を細め、その風の中で静かに呟いた。
「……あとは、人間の番だな」




