第78話 理の崩壊 ― 神を見た皇帝(前編)
夜明け前の砦の空は、まるで世界が息を止めているようだった。
帝都の方角に淡い光の層が広がっているが、風も雲も動かない。
冷たい空気の中で、耳を澄ませても何ひとつ聞こえない。
「……風が、まったく動いてねぇ」
俺が呟くと、隣でリオナが眉をひそめた。
「ただ事じゃない。あんな静けさ、ここは戦場なのに」
エルナは胸の前で手を組み、祈りの言葉を口にしたが――声が出なかった。
唇だけが動いて、音が消える。
斥候が戻り、息を荒げながら報告する。
「帝国第一軍、いまだ孤立! ……ですが、帝国本国の動きはまったくありません! 補給も、伝令も!」
リオナが小さく息を吐いた。
「沈黙しすぎてる……あれだけの軍を放置? おかしい」
俺は空を見上げ、低く答えた。
「――嫌な予感しかしねぇな」
◇
帝都地下の工廠では、金属を叩く音が響いていた。
高温の灯りが天井を照らし、火花が散る。
そこでは数百人の技師たちが、古代の図式をなぞって作業を続けていた。
図式の意味を理解出来るものはいない。
線を刻み、金属を嵌め、符号のような文字を刻む。
ただ“形を整えよ”という皇帝の命に従っていた。
「材質が違う……しかも、寸法も読めんのだ」
「読めなくても線を辿れ。理を描けと陛下は仰せだ」
「理か……まるで祈りだな」
作業が進むごとに、工廠の外――帝都の街では、時間が止まる空間が増えつつあった。
噴水の水は宙に浮かび、鳥は羽ばたいた姿で止まる。
けれど、この地下空間だけは動いている。
アスモルは炉心の前に立ち、炎を映す瞳で鎮界炉を見上げていた。
「神の座を塞ぐ……理は世界を正す。静寂こそ秩序だ」
その言葉が響くたび、炉心の表面を走る紋様が淡く光を放った。
鎮界炉はすでに、動作を始めていた。
◇
俺は砦を出る決意を固めた。
「帝国で何かが動いてる。いや、“止まってる”のかもしれねぇ。どっちにしろ放っとけねぇ」
リオナが手を伸ばす。
「シゲル、待って!」
「心配するな、俺なら動ける。時間魔法が使えるからな」
リオナが息を呑む。
「そんな魔法まで……止めても無駄ね」
「悪いな」
上着を脱ぎ捨て、ズボンを放る。
冷気が肌を刺す。魔力が全身を駆け抜ける。
〈スキル モザイク〉
顔と股間をモザイクが覆う。股間のモザイクは細かい。
時間が止まった中を通り抜ける。
〈時間加速〉
景色が粘つくように流れ、周囲の動きが止まった。
風は止まり、草が倒れた姿のまま浮かぶ。
俺の時間だけが、別の速度で流れている。
止まった鳥、人々、街道。
そのすべてをすり抜けながら、帝都へと駆け抜ける。
この魔法の猶予時間は三十秒――それだけあれば十分だ。
静止した世界の狭間を裂くように走り抜け、俺は帝都の中心――地下工廠の前に立った。
◇
工廠の内部だけは、時間が正常に流れていた。
灯りが瞬き、鉄槌の音が響く。
兵と技師と高官、そして皇帝アスモルがそこにいた。
彼は炉心の前に立ち、黒衣のまま振り返る。
「貴様が世界の理を乱す者か」
「……なるほど、あんたが原因か」
言葉が交錯する。
周囲の兵が剣を抜き、魔導師が詠唱を始めた。
俺は掌を向ける。
〈風壁〉
透明な壁が広がり、火花を散らし攻撃を弾く。
衝撃が風壁を叩くが、俺の前の空気は微動だにしない。
「その装置で世界を止めるつもりか?」
「秩序を守るのだ」
「……その秩序には正義がねぇんだよ」
アスモルの瞳に、わずかな揺らぎが走る。
炉心の光が強まった。
空気が歪み、光が弾ける。
鎮界炉が本格的に動作を始めようとしていた。
炉心の奥から轟音が響き、壁が震える。
俺は深呼吸をし、静かに手を掲げる。
「世界に息をさせる――」
〈反射結界〉
白い光が炉心を包み、魔力の流れを炉心へと弾き返す。
〈封印結界〉
次の層が現れ、周囲の魔力を無効化する。
〈防御結界〉
三重の結界が炉心全体を覆った。
結界の中では、光と魔力が衝突し轟音が工廠を震わせる。
魔力の奔流が収まり、空気が澄む。
炉心の鼓動が止まり、ただ淡い光だけが残った。
アスモルはその光を見つめ、静かに膝を折った。
「……これが、神の力か」
「いや、ただの人間だ」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「世界は止めさせねぇ。止まったら、生きてる意味がなくなる」
アスモルが小さく笑う。
「理は時に負けるのか」
「時は誰の理にも縛られねぇよ」
炉心を覆う三重結界は静かに光を保っている。
世界に、再び“風”の音が戻った。
◇
地上では、止まっていた鳥が羽ばたきを取り戻し、噴水の水が流れ始めた。
帝都に風が流れ、ようやく人々が生活を取り戻す。
◇
俺は振り返り、封じられた炉心を見た。
「まだ終わっちゃいねぇ……あれは止まっただけだ」
アスモルは何も言わず、ただその言葉を聞いていた。
静まり返った工廠に、風がひと筋吹き抜ける。
俺たちの間を分けるように――生きている世界の証として。




