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第78話 理の崩壊 ― 神を見た皇帝(前編)

 夜明け前の砦の空は、まるで世界が息を止めているようだった。

 帝都の方角に淡い光の層が広がっているが、風も雲も動かない。

 冷たい空気の中で、耳を澄ませても何ひとつ聞こえない。


「……風が、まったく動いてねぇ」


 俺が呟くと、隣でリオナが眉をひそめた。

「ただ事じゃない。あんな静けさ、ここは戦場なのに」


 エルナは胸の前で手を組み、祈りの言葉を口にしたが――声が出なかった。

 唇だけが動いて、音が消える。


 斥候が戻り、息を荒げながら報告する。

「帝国第一軍、いまだ孤立! ……ですが、帝国本国の動きはまったくありません! 補給も、伝令も!」


 リオナが小さく息を吐いた。

「沈黙しすぎてる……あれだけの軍を放置? おかしい」


 俺は空を見上げ、低く答えた。

「――嫌な予感しかしねぇな」



 帝都地下の工廠では、金属を叩く音が響いていた。

 高温の灯りが天井を照らし、火花が散る。

 そこでは数百人の技師たちが、古代の図式をなぞって作業を続けていた。

 図式の意味を理解出来るものはいない。

 線を刻み、金属を嵌め、符号のような文字を刻む。

 ただ“形を整えよ”という皇帝の命に従っていた。


「材質が違う……しかも、寸法も読めんのだ」


「読めなくても線を辿れ。(ことわり)を描けと陛下は仰せだ」


「理か……まるで祈りだな」


 作業が進むごとに、工廠の外――帝都の街では、時間が止まる空間が増えつつあった。

 噴水の水は宙に浮かび、鳥は羽ばたいた姿で止まる。

 けれど、この地下空間だけは動いている。


 アスモルは炉心の前に立ち、炎を映す瞳で鎮界炉を見上げていた。

「神の座を塞ぐ……理は世界を正す。静寂こそ秩序だ」


 その言葉が響くたび、炉心の表面を走る紋様が淡く光を放った。

 鎮界炉はすでに、動作を始めていた。



 俺は砦を出る決意を固めた。

「帝国で何かが動いてる。いや、“止まってる”のかもしれねぇ。どっちにしろ放っとけねぇ」


 リオナが手を伸ばす。

「シゲル、待って!」


「心配するな、俺なら動ける。時間魔法が使えるからな」


 リオナが息を呑む。

「そんな魔法まで……止めても無駄ね」


「悪いな」


 上着を脱ぎ捨て、ズボンを放る。

 冷気が肌を刺す。魔力が全身を駆け抜ける。


〈スキル モザイク〉

 顔と股間をモザイクが覆う。股間のモザイクは細かい。

 時間が止まった中を通り抜ける。


時間加速(タイムアクセラレート)


 景色が粘つくように流れ、周囲の動きが止まった。

 風は止まり、草が倒れた姿のまま浮かぶ。

 俺の時間だけが、別の速度で流れている。


 止まった鳥、人々、街道。

 そのすべてをすり抜けながら、帝都へと駆け抜ける。

 この魔法の猶予時間は三十秒――それだけあれば十分だ。


 静止した世界の狭間を裂くように走り抜け、俺は帝都の中心――地下工廠の前に立った。



 工廠の内部だけは、時間が正常に流れていた。

 灯りが瞬き、鉄槌の音が響く。

 兵と技師と高官、そして皇帝アスモルがそこにいた。

 彼は炉心の前に立ち、黒衣のまま振り返る。

「貴様が世界の理を乱す者か」


「……なるほど、あんたが原因か」


 言葉が交錯する。

 周囲の兵が剣を抜き、魔導師が詠唱を始めた。


 俺は掌を向ける。


風壁(ウィンドウォール)


 透明な壁が広がり、火花を散らし攻撃を弾く。

 衝撃が風壁を叩くが、俺の前の空気は微動だにしない。


「その装置で世界を止めるつもりか?」


「秩序を守るのだ」


「……その秩序には正義がねぇんだよ」


 アスモルの瞳に、わずかな揺らぎが走る。

 炉心の光が強まった。


 空気が歪み、光が弾ける。

 鎮界炉が本格的に動作を始めようとしていた。

 炉心の奥から轟音が響き、壁が震える。


 俺は深呼吸をし、静かに手を掲げる。

「世界に息をさせる――」


反射結界(リフレクトバリア)

 白い光が炉心を包み、魔力の流れを炉心へと弾き返す。


封印結界(シールドバリア)

 次の層が現れ、周囲の魔力を無効化する。


防御結界(ディフェンスバリア)

 三重の結界が炉心全体を覆った。


 結界の中では、光と魔力が衝突し轟音が工廠を震わせる。


 魔力の奔流が収まり、空気が澄む。

 炉心の鼓動が止まり、ただ淡い光だけが残った。


 アスモルはその光を見つめ、静かに膝を折った。

「……これが、神の力か」


「いや、ただの人間だ」


 俺はゆっくりと息を吐いた。

「世界は止めさせねぇ。止まったら、生きてる意味がなくなる」


 アスモルが小さく笑う。

「理は時に負けるのか」


「時は誰の理にも縛られねぇよ」


 炉心を覆う三重結界は静かに光を保っている。

 世界に、再び“風”の音が戻った。



 地上では、止まっていた鳥が羽ばたきを取り戻し、噴水の水が流れ始めた。

 帝都に風が流れ、ようやく人々が生活を取り戻す。



 俺は振り返り、封じられた炉心を見た。

「まだ終わっちゃいねぇ……あれは止まっただけだ」


 アスモルは何も言わず、ただその言葉を聞いていた。


 静まり返った工廠に、風がひと筋吹き抜ける。

 俺たちの間を分けるように――生きている世界の証として。

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