第77話 沈黙の帝都 ― 止まりゆく時
帝都グランザの空は、まるで息を潜めていた。
雲は流れず、光は鈍く、遠くの鐘楼は昼を告げることを忘れている。
まるで誰かが“世界の呼吸”を閉じ込めたようだった。
玉座の間には、図式を描いた金属板が置かれていた。
古代の文字で描かれた円環構造。
何層にも重なった線が絡み合い、まるで生きているように見える。
皇帝アスモルは、その前に立ち尽くす技師団を見下ろしていた。
「これが神の座を塞ぐ設計だ。造れ」
その一言で、技師たちは顔を見合わせた。
石板に刻まれた線の意味も、文字も、使用する材質も理解できない。
魔導師ですら読めず、解析の試みはすべて失敗していた。
だが、誰も“分からない”とは言えない。
禁声令が敷かれた帝国で、沈黙こそ忠誠の証だった。
工廠――帝都地下の巨大な鍛造区画には、すでに鎮界炉の骨組みが建てられていた。
高温の灯りが天井を照らし、鉄と石が混ざる音が途切れ途切れに響く。
だが、そこに流れているのは熱気ではなく、不気味な冷たさだった。
技師長リューデルが図板を睨みつける。
「寸法が……合わん。ここを繋げば歪む。だが、図の通りに組むと……崩壊する」
「線を辿るしかない。陛下は“形を整えよ”と仰せだ」
「形? それが何を生むかも知らずにか……」
言葉を飲み込む。
周囲の技師たちが一斉に顔を伏せ、ハンマーを取った。
無言のまま、理解できない線をなぞり、見知らぬ言葉を刻み、金属を嵌めていく。
その動きはまるで祈りの儀式のようだった。
彼らの誰も、何を造っているのか分からない。
ただ“造らねばならない”という重圧だけが、工廠を支配していた。
魔導師の一人が、光の計器を見つめて呟いた。
「魔力値が……波打っている。まるで心臓の鼓動のように」
「それが理の脈動だ。止めるな」
背後でアスモルの声が響いた。
皇帝自ら工廠に現れ、黒衣をまとい、冷たい瞳で装置を見つめている。
「神はこの世界に穴を開けた。理はそれを塞ぐ。――静寂こそ秩序だ」
その瞬間、石板の中心が淡く光り、魔力計が震えた。
光はやがて鎮まり、空気が一瞬だけ粘つくように重くなる。
誰もが息を止めた。
アスモルだけが微笑んだ。
「よい。理は目覚めた。進め」
技師たちは無言で作業に戻った。
鉄槌の音だけが、ひときわ冷たく響いた。
◇
そのころ帝都城門の見張り台に立つ若い衛兵が、眉をひそめた。
広場の噴水が、途中で止まっている。
水の粒が宙に浮いたまま、落ちない。
鳥が飛んだ姿で空に固定され、馬車の車輪も回転の途中で凍りついていた。
音が消え、世界が静止する。
「おい……冗談だろ……?」
隣の衛兵が声を出そうとした瞬間、その声も途切れた。
唇が動いているのに、音が出ない。
息だけが白く曇り、風は動かない。
恐怖に駆られた若い衛兵は城門を飛び降り、駆け出した。
だが、街の中央に入った途端、すべての音が吸い取られるように消える。
子どもが走る姿のまま固まり、商人が笑顔を浮かべたまま止まっている。
時間そのものが、凍りついていた。
やっとの思いで衛兵詰所に駆け込み、上官の前で叫ぶ。
「外が――止まりました! 鳥も、人も、水も!」
上官の目が細くなる。
部屋の奥にいた文官が立ち上がり、命じた。
「禁声令を忘れたか。報告は書面で行え」
「い、いや、書く時間なんて――!」
言い終える前に、衛兵の腕が押さえつけられた。
兵士二人が左右から掴み、縄を掛ける。
文官は冷ややかに言い放った。
「言葉は混乱を招く。沈黙を保て。それが陛下の御意だ」
引きずられていく足音が遠ざかり、部屋に再び静寂が戻る。
外では、止まった時の中で夕日だけが空に焼き付いていた。
帝国の街は、ゆっくりと“動かない世界”へと沈んでいった。
◇
――同じ頃、王国の砦。
夜明け前、俺は妙な胸騒ぎで目を覚ました。
耳に届くはずの音が、ひとつもない。
焚き火の炎は凍ったように揺れず、薪は崩れた姿のまま止まっている。
「……リオナ、起きろ」
「ん……何? 朝ごはんには早い……って、え……?」
リオナが目を開け、硬直した。
エルナも寝ぼけ眼をこすりながら、止まった炎を見つめる。
「火が……動いてません……? え、どうして……?」
俺は空気の流れを感じようとした。
けれど、風がない。
鳥の声も、虫の羽音も聞こえない。
まるで時計の針が止まったようだった。
「これは……帝国の方角からだな。あいつら、何をした」
リオナが剣の柄を握る。
エルナは怯えた声で祈りを口にし、胸の前で手を組んだ。
だが、その祈りの言葉も、音にならずに空気に消えた。
世界そのものが“時を拒んでいる”のだ。
そのとき、声が頭の奥に響いた。
『風が止まったかと思えば、今度は時か。人間とは飽きぬものだな』
「……神か。相変わらず、いいとこで出てくるな」
『あの皇帝、触れてはならぬものを造っておる。理解もせず、ただ形を模しておるようじゃ。時が止まるのは副産物にすぎん。理を描こうとして、命の線を壊している』
「何の事かわからねぇぞ」
『理屈はどうでもよい。問題は、世界の呼吸が止まりかけていることじゃ。風が動かねば、火も水も死ぬ。やがて“生”そのものが動かなくなる』
「……だったら、止めるしかねぇな」
『できるか、シゲルよ。止まった時の中で、動けるのはお前だけだが――』
「俺が動けるなら、それで十分だ。風を戻すのも、火を起こすのも、誰かがやらなきゃ世界が終わる」
沈黙の中、リオナが息を呑む。
「シゲル、今……風が動いたような……?」
焚き火の炎が、わずかに揺れた。
赤い光が、止まった世界の中でかすかに瞬く。
神の声が、低く笑った。
『愚かだが……よい。その愚かさこそ、生の証だ。時が止まる夜が来る。せいぜい、その前に解決してみせよ』
夜が明け始めた。
静止した世界の隙間を縫うように、ひと筋の風が頬をかすめた。
確かに“生きている”と感じる、それだけの風。
俺は目を細め、遠い帝都の方向を見た。
「……待ってろ、皇帝。お前が止めた世界を、俺が動かしてやる」
止まった時の中、俺たちの呼吸だけが確かに響いていた。




