第76話 皇帝の狂気― 鎮界炉構想
夜明け前の帝都グランザは、まるで息を潜めているようだった。
街の灯がすべて落とされ、風も、音も、どこか遠くで止まっている。
玉座の間の奥、封鎖された軍議室。
アスモル皇帝は、長机の上に一枚の金属板を置いた。
灰色にくすんだその表面には、螺旋の刻線が複雑に絡み合う様子が画かれていた。
「……これが遺跡から出土した図式、“理文図”です」
報告する文官の声が震える。
「解析はできておりません。ただ……何かを“固定する”ための構造ではないかと」
アスモルはゆっくりと立ち上がり、指先でその図をなぞった。
冷たい金属が淡く光り、静かな脈動を放つ。
空気がわずかに震え、誰もが息を止めた。
「見ろ。これが神を縛る枠組みだ」
皇帝の声は、確信というより祈りに近かった。
「神を討つのではない。神が立つ場所を消すのだ。――神の世界があるなら、消せばよい」
その言葉に、誰も反論できなかった。
アスモルは振り返り、工匠長と魔導省の官吏に命じた。
「これを造れ。名は〈鎮界炉〉とする。理の枠で、神を閉じ込める装置だ」
工匠長が震える声を出す。
「陛下……しかし、これは……我々には、何をどう造れば――」
皇帝の瞳がゆっくりと動いた。
「考えるな。造るのだ!」
沈黙が落ちる。
誰も“無理です”と言えなかった。
その場にいる全員が血判を押し、図式を運び出す。
その瞬間、金属板の中心がふっと光った。
光は一瞬で消えたが、誰もがそれを見た。
――まるで何かが、目を覚ましたように。
◇
帝都の地下工廠。
鉄の匂い、油の熱気、無数の鎖の音。
技師たちは図式の写しを前に、額を寄せ合っていた。
「……何を造らされているんだ、これ」
「わからん。だが陛下の命だ。造らねばならん」
若い技師が、そっと図面に手を触れる。
その指先が触れた瞬間、線が微かに光った。
そして、炉心の周囲の空気がざらりと揺らいだ。
主任が顔を上げる。
「……おい、今のを見たか?」
だが誰も何も言わず、作業を再開した。
分からなくても止まれない。
止まること自体が、罪のように思えたからだ。
その夜、工廠の灯がひとつ、またひとつと消えた。
そして街の風も、同じように――止まった。
◇
一方そのころ、王国の砦では。
俺は夜明けの風を嗅いでいた。
……いや、正確には嗅ごうとしていた。
空気が、流れていない。
まるで世界そのものが呼吸を忘れたみたいに。
そこに斥候が駆け上がってきた。
「報告! 帝国第一軍、依然として動きなし! 補給路も閉ざされ、通信も断絶しています!」
「第二軍にも動きなし。……帝国軍全体が沈黙しているようです!」
リオナが眉を寄せた。
「この状況で動かないなんて変だよ。何考えてんの、あの皇帝」
俺は地図を見つめた。
風の流れも、魔力の流れも感じない。
ただ、遠くの空が鈍く揺らめいていた。
「……止まってるんだよ。風も、心も、全部」
エルナが静かに呟く。
「空気が重いです。……神の息が、届いていません」
俺は思わず苦笑した。
「なら、俺が吹かせてやるさ。――人間の力でな」
リオナが少しだけ笑った。
「どうか服は着たままでね」
エルナが微笑みながら頷いた。
「でも、あなたの風なら……世界を動かせます」
風のない砦の上で、三人の声だけが響いた。
そのとき、頭の奥であの声が聞こえた。
『……風が止まるぞ、シゲル。世界が息をやめた』
神の声だ。
静かで、どこか遠くを見つめるような調子だった。
「なら、俺がもう一度吹かせてやるさ。生きてる証をな」
拳を握った。
止まった空の下で、確かに何かが動き始めている気がした。
◇
帝都地下工廠。
図式の中心が、再び淡く光る。
その脈動はゆっくりと広がり、まるで心臓が初めて動いたように工廠全体を包み込んだ。
それはまだ装置ではなく、静けさそのものの胎動だった。
だがその静けさが、帝国の音を少しずつ飲み込み始めていた。




