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第76話 皇帝の狂気― 鎮界炉構想

 夜明け前の帝都グランザは、まるで息を潜めているようだった。

 街の灯がすべて落とされ、風も、音も、どこか遠くで止まっている。


 玉座の間の奥、封鎖された軍議室。

 アスモル皇帝は、長机の上に一枚の金属板を置いた。

 灰色にくすんだその表面には、螺旋の刻線が複雑に絡み合う様子が画かれていた。


「……これが遺跡から出土した図式、“理文図”です」

 報告する文官の声が震える。


「解析はできておりません。ただ……何かを“固定する”ための構造ではないかと」


 アスモルはゆっくりと立ち上がり、指先でその図をなぞった。

 冷たい金属が淡く光り、静かな脈動を放つ。

 空気がわずかに震え、誰もが息を止めた。


「見ろ。これが神を縛る枠組みだ」

 皇帝の声は、確信というより祈りに近かった。


「神を討つのではない。神が立つ場所を消すのだ。――神の世界があるなら、消せばよい」


 その言葉に、誰も反論できなかった。


 アスモルは振り返り、工匠長と魔導省の官吏に命じた。

「これを造れ。名は〈鎮界炉〉とする。(ことわり)の枠で、神を閉じ込める装置だ」


 工匠長が震える声を出す。

「陛下……しかし、これは……我々には、何をどう造れば――」


 皇帝の瞳がゆっくりと動いた。

「考えるな。造るのだ!」


 沈黙が落ちる。

 誰も“無理です”と言えなかった。

 その場にいる全員が血判を押し、図式を運び出す。

 その瞬間、金属板の中心がふっと光った。


 光は一瞬で消えたが、誰もがそれを見た。

 ――まるで何かが、目を覚ましたように。



 帝都の地下工廠。

 鉄の匂い、油の熱気、無数の鎖の音。

 技師たちは図式の写しを前に、額を寄せ合っていた。


「……何を造らされているんだ、これ」


「わからん。だが陛下の命だ。造らねばならん」


 若い技師が、そっと図面に手を触れる。

 その指先が触れた瞬間、線が微かに光った。

 そして、炉心の周囲の空気がざらりと揺らいだ。


 主任が顔を上げる。

「……おい、今のを見たか?」


 だが誰も何も言わず、作業を再開した。

 分からなくても止まれない。

 止まること自体が、罪のように思えたからだ。


 その夜、工廠の灯がひとつ、またひとつと消えた。

 そして街の風も、同じように――止まった。



 一方そのころ、王国の砦では。


 俺は夜明けの風を嗅いでいた。

 ……いや、正確には嗅ごうとしていた。

 空気が、流れていない。

 まるで世界そのものが呼吸を忘れたみたいに。


 そこに斥候が駆け上がってきた。

「報告! 帝国第一軍、依然として動きなし! 補給路も閉ざされ、通信も断絶しています!」


「第二軍にも動きなし。……帝国軍全体が沈黙しているようです!」


 リオナが眉を寄せた。

「この状況で動かないなんて変だよ。何考えてんの、あの皇帝」


 俺は地図を見つめた。

 風の流れも、魔力の流れも感じない。

 ただ、遠くの空が鈍く揺らめいていた。


「……止まってるんだよ。風も、心も、全部」


 エルナが静かに呟く。

「空気が重いです。……神の息が、届いていません」


 俺は思わず苦笑した。

「なら、俺が吹かせてやるさ。――人間の力でな」


 リオナが少しだけ笑った。

「どうか服は着たままでね」


 エルナが微笑みながら頷いた。

「でも、あなたの風なら……世界を動かせます」


 風のない砦の上で、三人の声だけが響いた。

 そのとき、頭の奥であの声が聞こえた。


『……風が止まるぞ、シゲル。世界が息をやめた』


 神の声だ。

 静かで、どこか遠くを見つめるような調子だった。


「なら、俺がもう一度吹かせてやるさ。生きてる証をな」


 拳を握った。

 止まった空の下で、確かに何かが動き始めている気がした。



 帝都地下工廠。

 図式の中心が、再び淡く光る。

 その脈動はゆっくりと広がり、まるで心臓が初めて動いたように工廠全体を包み込んだ。


 それはまだ装置ではなく、静けさそのものの胎動だった。

 だがその静けさが、帝国の音を少しずつ飲み込み始めていた。

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