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第72話 風下の防衛線 ― 出陣前夜 ―

 朝になっても、王都は静かだった。

 まるで時間が止まったように、街全体が息を潜めている。

 昨日まであんなに賑やかだった通りも、今日は人気がない。

 露店の屋台は板囲いを閉じ、通りを歩くのは鎧をまとった兵士ばかりだ。


 夜明け前に帝国軍が国境を越えた――そう伝令が叫んだ瞬間から、この街の空気は変わった。

 それまで「全裸勇者まんじゅう」やら「勇者うちわ」やらで浮かれていた笑い声が、嘘みたいに消えた。


 俺は商業区の端を歩いていた。

 風が吹くたびに、店先の暖簾が音を立てる。

 その隣を歩くリオナが、腕を組みながら呟いた。

「戦の匂いがする」


「……昨日まで笑ってた街なのにな」


「人は笑うより、怖がる方が早いのよ」


 エルナは法衣の裾を押さえ、祈るように空を見上げた。

「どうか、恐れが人々の心を覆いませんように……」


 俺は苦笑いを浮かべた。

「笑いが広がるのは良かったけど、恐れが広がるのは勘弁だな」


 静かな街を抜けると、王城が見えた。

 そこだけが騒がしい。



 王城の作戦室。

 重い扉の向こうでは、国王と宰相が地図を前にしていた。

 俺たちは呼び出され、報告を聞く。


「帝国軍は風下の砦を目指して進軍中との報告です」

 宰相の声は低い。

 地図の端、国境線のあたりに赤い印が広がっている。


「我が軍の前線は?」

 国王が尋ねた。


「まだ整っておりません。避難誘導を優先しており、戦備は遅れています」


 国王は沈黙したまま拳を握り、やがて俺を見た。

「シゲルよ。お前の力で、前線を守ってほしい」


「……脱ぎたくはないですけど、分かりました」


 リオナが前に出た。

「現地で指揮補佐を務めます。絶対に守ってみせます」


 続いてエルナが一歩進む。

「負傷者の治療と祈りを捧げます」


 宰相が少し顔をしかめた。

「勇者殿、今回は……できるだけ服を着たままでお願いします」


「努力はします」


 リオナが呆れたように笑う。

「“努力”って時点で怪しいのよね」


 場の空気が少しだけ和らぐ。

 でも、誰も笑ってはいなかった。



 昼には、王都の西門前に人が集まっていた。

 馬車が列をなし、補給物資が積み込まれていく。

 兵士たちは鎧の紐を締め、顔には決意と緊張が入り混じっていた。


 リオナが自分の胸当てを調整する。

「これでよし。……あんたも、ちゃんと準備しなさいよ」


「服はちゃんと着てるだろ」


「服の確認じゃない」


 エルナは祈りの腕輪を握りしめ、淡い光を宿す。

「どうか、皆の無事を風が見守りますように」


 小さな子どもが駆け寄ってきて、俺の腰のあたりを見上げた。

「がんばれ、全裸勇者!」


「……誰だよ、教えたの」


 リオナが肩をすくめて笑う。

「もう街の伝説みたいになってるわよ」


 俺は頭を掻いた。

「伝説って言葉をそんな簡単に使うな……」



 馬車が王都を出ると風の匂いが変わった。

 街の外には煙が漂い、空気が鉄の味をしている。

 地平線の向こうから、重い太鼓の音が聞こえた気がした。


「これが……戦の匂いか」


 リオナが低く言う。

「土の匂いよりも濃い、戦の空気そのものよ」


「嫌な空気だな。できれば、脱がずに済ませたい」


「それが一番の奇跡ね」


 俺はため息をつき、曇った空を見上げた。

 風が髪を揺らす。エルナがそっと口を開いた。

「でも、大丈夫です。あなたがいますから」


 ――あぁ、頼むからその“信頼”の重さで脱衣ハードルを下げないでくれ。



 夕日が落ちるころ、丘の上から風下の砦が見えた。

 煙が上がり、警鐘の響きが空を震わせる。

 あの場所が、戦場になる。


「もう始まるのか……」


 リオナが剣の柄に手をかける。

「遅れずに行くわよ」


「分かってる」


 空に赤い光が揺れた。

 あれは火か、それとも夕日か。

 俺は静かに呟いた。


「……笑いの終わりが、戦いの始まりか」


 そのとき、風の中にあの声が混ざった。


『さて、人の戦はどこまで愚かで、どこまで愛しいか……見ものじゃの』


(ジジイ)、今は茶化すな」


『ふむ、では静かに観察させてもらおう。服のままで勝てるか、のぅ』


「どうするか分かってるんだろ!」


 風が笑うように吹き抜けた。

 夜が迫り、遠くで戦鼓が鳴る。

 風下の砦まで、あと少し。

 戦いは――まもなく始まる。

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