第72話 風下の防衛線 ― 出陣前夜 ―
朝になっても、王都は静かだった。
まるで時間が止まったように、街全体が息を潜めている。
昨日まであんなに賑やかだった通りも、今日は人気がない。
露店の屋台は板囲いを閉じ、通りを歩くのは鎧をまとった兵士ばかりだ。
夜明け前に帝国軍が国境を越えた――そう伝令が叫んだ瞬間から、この街の空気は変わった。
それまで「全裸勇者まんじゅう」やら「勇者うちわ」やらで浮かれていた笑い声が、嘘みたいに消えた。
俺は商業区の端を歩いていた。
風が吹くたびに、店先の暖簾が音を立てる。
その隣を歩くリオナが、腕を組みながら呟いた。
「戦の匂いがする」
「……昨日まで笑ってた街なのにな」
「人は笑うより、怖がる方が早いのよ」
エルナは法衣の裾を押さえ、祈るように空を見上げた。
「どうか、恐れが人々の心を覆いませんように……」
俺は苦笑いを浮かべた。
「笑いが広がるのは良かったけど、恐れが広がるのは勘弁だな」
静かな街を抜けると、王城が見えた。
そこだけが騒がしい。
◇
王城の作戦室。
重い扉の向こうでは、国王と宰相が地図を前にしていた。
俺たちは呼び出され、報告を聞く。
「帝国軍は風下の砦を目指して進軍中との報告です」
宰相の声は低い。
地図の端、国境線のあたりに赤い印が広がっている。
「我が軍の前線は?」
国王が尋ねた。
「まだ整っておりません。避難誘導を優先しており、戦備は遅れています」
国王は沈黙したまま拳を握り、やがて俺を見た。
「シゲルよ。お前の力で、前線を守ってほしい」
「……脱ぎたくはないですけど、分かりました」
リオナが前に出た。
「現地で指揮補佐を務めます。絶対に守ってみせます」
続いてエルナが一歩進む。
「負傷者の治療と祈りを捧げます」
宰相が少し顔をしかめた。
「勇者殿、今回は……できるだけ服を着たままでお願いします」
「努力はします」
リオナが呆れたように笑う。
「“努力”って時点で怪しいのよね」
場の空気が少しだけ和らぐ。
でも、誰も笑ってはいなかった。
◇
昼には、王都の西門前に人が集まっていた。
馬車が列をなし、補給物資が積み込まれていく。
兵士たちは鎧の紐を締め、顔には決意と緊張が入り混じっていた。
リオナが自分の胸当てを調整する。
「これでよし。……あんたも、ちゃんと準備しなさいよ」
「服はちゃんと着てるだろ」
「服の確認じゃない」
エルナは祈りの腕輪を握りしめ、淡い光を宿す。
「どうか、皆の無事を風が見守りますように」
小さな子どもが駆け寄ってきて、俺の腰のあたりを見上げた。
「がんばれ、全裸勇者!」
「……誰だよ、教えたの」
リオナが肩をすくめて笑う。
「もう街の伝説みたいになってるわよ」
俺は頭を掻いた。
「伝説って言葉をそんな簡単に使うな……」
◇
馬車が王都を出ると風の匂いが変わった。
街の外には煙が漂い、空気が鉄の味をしている。
地平線の向こうから、重い太鼓の音が聞こえた気がした。
「これが……戦の匂いか」
リオナが低く言う。
「土の匂いよりも濃い、戦の空気そのものよ」
「嫌な空気だな。できれば、脱がずに済ませたい」
「それが一番の奇跡ね」
俺はため息をつき、曇った空を見上げた。
風が髪を揺らす。エルナがそっと口を開いた。
「でも、大丈夫です。あなたがいますから」
――あぁ、頼むからその“信頼”の重さで脱衣ハードルを下げないでくれ。
◇
夕日が落ちるころ、丘の上から風下の砦が見えた。
煙が上がり、警鐘の響きが空を震わせる。
あの場所が、戦場になる。
「もう始まるのか……」
リオナが剣の柄に手をかける。
「遅れずに行くわよ」
「分かってる」
空に赤い光が揺れた。
あれは火か、それとも夕日か。
俺は静かに呟いた。
「……笑いの終わりが、戦いの始まりか」
そのとき、風の中にあの声が混ざった。
『さて、人の戦はどこまで愚かで、どこまで愛しいか……見ものじゃの』
「神、今は茶化すな」
『ふむ、では静かに観察させてもらおう。服のままで勝てるか、のぅ』
「どうするか分かってるんだろ!」
風が笑うように吹き抜けた。
夜が迫り、遠くで戦鼓が鳴る。
風下の砦まで、あと少し。
戦いは――まもなく始まる。




