第71話 帝国の影と戦の鼓動
王都の空気がようやく落ち着きを取り戻した。
広場には露店が並び、甘い匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
「全裸勇者まんじゅう、焼きたてー!」
声が響くたびに、人々が笑いながら列を作る。
あれ以来、“偽勇者騒動”は完全に笑い話になっていた。
まさか三人組の頭や偽勇者像が光っただけで王都が混乱したなんて、いま思い出しても頭が痛い。
「……まだ売ってるのか、あれ」
俺はまんじゅうの包み紙に書かれた“全裸勇者”の文字を見てため息をつく。
「人気らしいよ。甘さ控えめで評判いいって」
リオナが苦笑しながら答える。
エルナも両手を胸の前で組んで、穏やかに微笑んだ。
「皆さん、笑っています。あの混乱のあとに、こうして平和が戻って……良かったです」
「ああ。……でも、少し静かすぎるな」
俺は通りを見回す。
露店の裏では、鎧姿の兵士が何人も行き来していた。
荷車には乾燥肉や矢束。
笑いの裏では、少しずつ戦いの準備が進んでいる気がした。
王国は油断していた。
“裸の勇者”の噂がすべての話題をさらい、誰もが笑いに浸っていた。
けれど、俺の背中に触れる風だけが違う温度に感じた。
冷たい。乾いている。
――その風の向こうで、何かが動いている。
◇
同じ頃、王城の奥。
磨かれた石床に重い足音が響いていた。
宰相が地図の上に手を置き、険しい顔で報告している。
「陛下、帝国の動きが活発化しております」
国王は沈黙のまま、地図を覗き込んだ。
白い線が王国、赤い線が帝国の前線。
南西部――そこに赤い線がじわじわと近づいている。
「偽勇者騒ぎのせいで、諜報が遅れていたか……」
「はい。すでに国境沿いの哨戒線が圧迫されております」
宰相の声は静かだったが、部屋の空気を凍らせるほどの重みがあった。
国王は椅子の肘を握り、低く呟いた。
「……まさか、あの笑いが戦の隙を生むとはな」
背後の窓から吹き込む風が、地図の端を揺らした。
戦の鼓動が、静かに始まっていた。
◇
一方その頃、帝国の宮廷。
巨大な円卓の中央に広げられた地図の上で、赤い線が王国領に食い込んでいた。
皇帝はその上に手を置き、冷たい声で言った。
「王国は愚かだ。民は笑いに酔い、王は勇者に頼る。今こそ好機」
宰相代理ローデンが恭しく頭を下げる。
「すでに第一軍、第二軍ともに出撃の準備完了。ただし、“全裸の勇者”の名が兵の間で恐れられております」
皇帝は鼻で笑った。
「全裸の男が一人で国を守れるものか。愚かなる噂に怯えるとは……所詮は凡俗」
剣を抜き、地図に突き立てる。
赤い線の中央が裂け、紙の下の木台が小さく軋んだ。
「戦を始めよ!」
重臣たちが一斉に頭を下げる。
その声が広間の石壁に反響し、まるで戦鼓のように鳴り渡った。
◇
夕暮れ。王都の冒険者ギルドはいつもより騒がしかった。
依頼の声、報告の声、鍋を叩く音。
そこへ、扉を乱暴に開けて伝令が駆け込んだ。
「帝国軍が国境を越えた!」
その一言で、ざわめきが一気に沈黙した。
ギルド全体が静まり返り、紙が落ちる音まで聞こえた。
「……本当か?」
俺は伝令から巻物を受け取る。印章は本物。震えた文字が走る。
――帝国第一軍、国境を突破。哨戒部隊遁走。
リオナが小さく舌打ちした。
「やっぱり……あの騒ぎで油断してたのね」
「まさか、バカ三兄弟が戦の前座になるとはな」
「言い方!」
俺の皮肉にリオナが額を叩く。
エルナは蒼い顔で祈りの形を作っていた。
「戦は……避けられないのですか?」
「避けられねぇだろうな」
そう答えた瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
あのとき笑いを取り戻した人々の顔が、次々と浮かぶ。
俺は拳を握りしめた。
◇
王城の会議室。
円卓の上に地図が広げられ、蝋燭の光が赤い線を照らす。
国王が椅子に座り、静かに口を開いた。
「シゲルよ。お前に頼みたい」
「……脱ぎたくはないけど、分かりました」
隣でリオナが肩をすくめる。
「ほらね、また脱ぐ羽目になったわ」
エルナが苦笑しながら小さく祈る。
「でも今度も、人を守るために、ですよね」
「ああ。もう笑い話じゃ済まねぇ」
国王が頷く。
「勇者の名に恥じぬ戦いを。――お前の力が必要だ」
その言葉が、夜の空気より重く俺の心に響いた。
◇
会議が終わり、城の外に出る。
月が高く、風が冷たい。
兵たちが城門に集まり、大きな旗を掲げている。
その動きが、まるで巨大な生き物の鼓動のように見えた。
風の中に、誰かの祈りが混じっていた。
笑いの終わり。
戦の始まり。
遠くの空で、光の筋が一瞬だけ走る。狼煙か、それともただの星か。
そのどちらでもいい。ただ、俺は拳を握り直した。
「……来るなら来い。服を脱げば負けはしない」
胸の奥で呟く。
次の瞬間、頭の中に聞き慣れた声が響いた。
『笑いの幕が下りれば、今度は戦の幕が上がる……人間とは忙しいのぅ』
「うるせぇよ神。こっちは本気なんだ」
『ならば――“服を着たまま勝てるか”、試してみるがいい』
「……なんでそうなるんだよ!?」
夜風が笑うように鳴った。
俺は空を見上げて、ため息をつく。
あの雲の向こうに、きっと帝国の軍勢がいる。
でもその前に、守るべき笑顔がある。
――戦が始まる。
けれど、俺には決意がある。
“全裸の勇者”なんて呼ばれようが、この国を、あの笑いを、守り抜いてみせる。
風が旗を打ち、夜空が揺れた。
その音は、戦の鼓動のようで――
そして、誰かの祈りのようでもあった。




