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第68話 皇帝の裁きと影の逃亡

 帝国の首都グランザでは、民の間にひそひそ声が満ちていた。


「また王国で全裸の勇者が暴れたらしいぞ」


「しかも今度は三人だって! 帝国が送り込んだ偽物らしいじゃないか!」


「ははは、うちの国も落ちたもんだ」


 市場の商人、鍛冶屋、兵士、そして子供までが口にしていた。

 “帝国の恥”という言葉が風に乗って街を駆け巡る。


 その噂が宮殿の白い壁の奥――皇帝の執務室に届いたのは翌朝だった。


「……民草の口が止まらぬか」


 皇帝は静かに呟くと手元の報告書を閉じた。

 書面には“王国での三人組偽勇者事件”とあり、そこには全裸三兄弟の顔と股間に墨を塗った挿絵もあった。

 それは三兄弟が女剣士に吹き飛ばされ、逃げ惑う様が皮肉にも丁寧に描かれていた。


「戦の記録ではなく、喜劇の台本だな」


 重苦しい空気が室内を覆う。

 控えていた宰相が恐る恐る口を開く。


「お言葉ですが陛下、王国での混乱は確かに……成果を挙げたと申せます」


「成果だと?」


 その声は氷の刃のように冷たかった。

 宰相は膝をつき、汗を垂らした。


「姑息を嫌う朕において、民の笑いを買うなど極まりなき恥辱なり。――これを仕組んだ者は全員を捕らえよ」


 命令はその場で下された。



 数日後、帝都の中央広場には異様な熱気が満ちていた。

 民衆が押し寄せ、皇帝の裁きを一目見ようと群がっている。


 壇上には数名の高官たち。

 全裸にされ、顔と股間を黒墨で塗られている。


「見よ、これが帝国を笑い者にした愚者どもだ」


 皇帝の声が響く。

 その隣で宰相が名簿を読み上げていく。


「参謀長ドレイン、統括官メルク、軍監アヴァロス……」


 声が止まる。

 宰相が紙を見つめ、眉をひそめた。


「……陛下、名簿にあるグラナードの姿が、ございません」


 皇帝はゆっくりと視線を巡らせる。

 壇上を見渡しても、その名の男はいない。


「逃げたか」


 短く放たれた一言に、兵たちがざわめく。


「牢の警備は厳重にしておりましたが……!」


「ならば、鼠は巣ごと燃やせ」


 皇帝は厳かに宣言した。

 そして壇上の愚者たちを見据え、右手を掲げる。


「笑え、民よ! 恥を晒せし者たちを笑い、誇りを取り戻すがよい」


 最初の一笑は子どもからだった。

 それが連鎖のように広がり、街全体が嗤いに包まれる。

 全裸黒墨の高官たちは泣き叫び、群衆は声を上げて笑った。


 だが皇帝だけは、冷たい瞳でその光景を見つめ続けていた。


「この恥を糧に、帝国は蘇る。姑息な愚者を斬り捨て、正義の道を歩む」


 皇帝の宣言が帝国中に響いた。



 その頃、帝都の裏通りを一人の男が歩いていた。


 フードを目深に被り、手には小さな壺が光る。

 中には漆黒の墨が入っている。


「民の笑いが裁きを決めるとは、陛下も芸が細かい」


 男――高官グラナードは冷ややかに笑う。

 背後で警鐘が鳴り響き、兵士たちが街を走り回っていた。

 だが、誰もこの細い裏路地までは来ない。


「裸の愚か者たちは民の前に晒された。だが俺は違う。笑われた者が、いつか笑う番を作るだけのこと」


 街の外れには馬車が一台。

 御者がフードを深くかぶり、待っていた。


「行き先は?」


「王国の方だ。勇者と呼ばれる道化のいる国へ」


 グラナードは乗り込み、黒墨の壺を膝に置く。


「この墨こそ、帝国の影。恥を塗られたなら、次は塗り返すまでだ」


 馬車が動き出す。

 雨が降り出し、地面に黒い轍が描かれていく。


 雷鳴が響くたび、グラナードの笑い声がかき消される。


「覚えていろ……“全裸の勇者”」


 彼の声が闇に消える。

 ――帝国の影は、確かに生き残っていた。



 翌朝、皇帝はバルコニーで風を受けていた。

 冷たい風が、街に漂う笑いの残り香を運んでいく。


「影は消えぬか。だが構わぬ。正義を示せば、影は勝手に動くものよ」


 宰相が跪く。

「“聖盾作戦”の準備、整っております」


「ならば動かせ。姑息な策ではなく、剣と信念で挑むのだ」


 朝日が帝都を照らす。

 その光の下、帝国は再び動き出した。

 だが、まだ誰も知らなかった。

 その光の影で――ひとりの男が、漆黒の墨を掲げていたことを。

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