第68話 皇帝の裁きと影の逃亡
帝国の首都グランザでは、民の間にひそひそ声が満ちていた。
「また王国で全裸の勇者が暴れたらしいぞ」
「しかも今度は三人だって! 帝国が送り込んだ偽物らしいじゃないか!」
「ははは、うちの国も落ちたもんだ」
市場の商人、鍛冶屋、兵士、そして子供までが口にしていた。
“帝国の恥”という言葉が風に乗って街を駆け巡る。
その噂が宮殿の白い壁の奥――皇帝の執務室に届いたのは翌朝だった。
「……民草の口が止まらぬか」
皇帝は静かに呟くと手元の報告書を閉じた。
書面には“王国での三人組偽勇者事件”とあり、そこには全裸三兄弟の顔と股間に墨を塗った挿絵もあった。
それは三兄弟が女剣士に吹き飛ばされ、逃げ惑う様が皮肉にも丁寧に描かれていた。
「戦の記録ではなく、喜劇の台本だな」
重苦しい空気が室内を覆う。
控えていた宰相が恐る恐る口を開く。
「お言葉ですが陛下、王国での混乱は確かに……成果を挙げたと申せます」
「成果だと?」
その声は氷の刃のように冷たかった。
宰相は膝をつき、汗を垂らした。
「姑息を嫌う朕において、民の笑いを買うなど極まりなき恥辱なり。――これを仕組んだ者は全員を捕らえよ」
命令はその場で下された。
◇
数日後、帝都の中央広場には異様な熱気が満ちていた。
民衆が押し寄せ、皇帝の裁きを一目見ようと群がっている。
壇上には数名の高官たち。
全裸にされ、顔と股間を黒墨で塗られている。
「見よ、これが帝国を笑い者にした愚者どもだ」
皇帝の声が響く。
その隣で宰相が名簿を読み上げていく。
「参謀長ドレイン、統括官メルク、軍監アヴァロス……」
声が止まる。
宰相が紙を見つめ、眉をひそめた。
「……陛下、名簿にあるグラナードの姿が、ございません」
皇帝はゆっくりと視線を巡らせる。
壇上を見渡しても、その名の男はいない。
「逃げたか」
短く放たれた一言に、兵たちがざわめく。
「牢の警備は厳重にしておりましたが……!」
「ならば、鼠は巣ごと燃やせ」
皇帝は厳かに宣言した。
そして壇上の愚者たちを見据え、右手を掲げる。
「笑え、民よ! 恥を晒せし者たちを笑い、誇りを取り戻すがよい」
最初の一笑は子どもからだった。
それが連鎖のように広がり、街全体が嗤いに包まれる。
全裸黒墨の高官たちは泣き叫び、群衆は声を上げて笑った。
だが皇帝だけは、冷たい瞳でその光景を見つめ続けていた。
「この恥を糧に、帝国は蘇る。姑息な愚者を斬り捨て、正義の道を歩む」
皇帝の宣言が帝国中に響いた。
◇
その頃、帝都の裏通りを一人の男が歩いていた。
フードを目深に被り、手には小さな壺が光る。
中には漆黒の墨が入っている。
「民の笑いが裁きを決めるとは、陛下も芸が細かい」
男――高官グラナードは冷ややかに笑う。
背後で警鐘が鳴り響き、兵士たちが街を走り回っていた。
だが、誰もこの細い裏路地までは来ない。
「裸の愚か者たちは民の前に晒された。だが俺は違う。笑われた者が、いつか笑う番を作るだけのこと」
街の外れには馬車が一台。
御者がフードを深くかぶり、待っていた。
「行き先は?」
「王国の方だ。勇者と呼ばれる道化のいる国へ」
グラナードは乗り込み、黒墨の壺を膝に置く。
「この墨こそ、帝国の影。恥を塗られたなら、次は塗り返すまでだ」
馬車が動き出す。
雨が降り出し、地面に黒い轍が描かれていく。
雷鳴が響くたび、グラナードの笑い声がかき消される。
「覚えていろ……“全裸の勇者”」
彼の声が闇に消える。
――帝国の影は、確かに生き残っていた。
◇
翌朝、皇帝はバルコニーで風を受けていた。
冷たい風が、街に漂う笑いの残り香を運んでいく。
「影は消えぬか。だが構わぬ。正義を示せば、影は勝手に動くものよ」
宰相が跪く。
「“聖盾作戦”の準備、整っております」
「ならば動かせ。姑息な策ではなく、剣と信念で挑むのだ」
朝日が帝都を照らす。
その光の下、帝国は再び動き出した。
だが、まだ誰も知らなかった。
その光の影で――ひとりの男が、漆黒の墨を掲げていたことを。




