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第59話 揺れる馬車と王都への旅

 朝靄の向こうで、リーベルの街は相変わらずのんびりしていた。

 市場からは魚を並べる声、パン屋から漂う焼きたての香り。

 戦の噂なんてどこにもない。

 俺の世界は、いつも通りの朝だった。


 広場の真ん中に、ひときわ場違いな馬車が止まっていた。

 黒塗りの外装に金の縁取り、扉には王家の紋章。

 人々が集まり、珍しい見世物でも眺めるようにざわついている。


 これが王家の馬車か。思わずため息が出た。

 俺の家が何軒買えるかな?


 リオナが腕を組んで馬車を見上げる。

「派手ね。あたしたちの家が十軒は買えそう」


「いや、二十軒はいける」


「現実的な計算やめなさい」


 エルナは目を輝かせて手を合わせた。

「なんて美しい装飾……まるで神殿の祭具みたいです!」


「神殿っていうか、成金趣味だろ」


「しっ、失礼ですよ、シゲルさん!」


 白風亭からリナが駆けてきた。

 頬が赤く、息を弾ませている。

「シゲルさん、リオナさん、エルナさん! これ、旅のお供に!」


 小さな包みを渡された。

 中には焼きたてパン。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


「焦げてないか?」


「今度は……ちょっとだけ!」


「“ちょっとだけ”って言葉、信用できねぇんだよ」


 エルナが微笑みながら受け取る。

「ありがとうございます、リナさん。お土産、なにか見つけてきますね」


「ううん! 無事に帰ってきてくれれば、それが一番!」


 風が吹き抜け、馬車の金具がカランと鳴った。

 御者が帽子を持ち上げて声をかける。

「勇者殿、ご準備はよろしいですかな!」


「勇者じゃないけど……まあ、いいか」


 街門が開き、馬車がゆっくりと動き出した。

 猫が伸びをし、通りの人々はのんびり見送っている。

 俺たちだけが、騒がしい世界に連れ出されるみたいだった。


 ◇


 三日目の昼前、俺の尻はすでに限界を迎えていた。

 座席はやたら立派に見えて、地味に硬い。

 初日は快適だったのに、今では背中から尻までが一体化している気がする。


「なあ、リオナ。尻って、こんなに痛くなるもんか?」


「筋肉ないのがバレたわね」


「筋肉の問題じゃねぇよ、これは」


 向かいの席で、エルナは膝に祈りの書を広げて涼しい顔をしている。

「心を落ち着ければ、痛みは軽くなりますよ」


「その術、何年修行すりゃ覚えられる?」


「神に仕える覚悟を持てば自然と」


「はい無理」


 窓の外には草原が広がり、遠くの山並みが霞んで見える。

 空気は清々しいのに、退屈には勝てない。


 昼休み、草むらで弁当を広げる。

 干し肉と硬いパン。

 そこにリナの“ちょっとだけ焦げた”パンを混ぜたら、なぜか妙に旨かったのが悔しい。


「……空、広いな」

 リオナが寝転がって呟く。

 俺も真似して空を見る。


 広い。以上。

「異論はないけど、話が続かねぇな」


 ◇


 八日目の午後、空が曇り、ぽつぽつと雨が落ち始めた。

 ぬかるみに車輪が沈み、馬車が止まる。

 御者が悲鳴に近い声を上げた。

「動きませぬ!」


 リオナが剣を杖代わりにぬかるみに足を突っ込む。

「ほら、押すわよ!」


「魔法でなんとか――」


「服脱ぐ気?」


「押しまーす!」


 三人で泥まみれになりながら押した。

 ぐぐっと動いた瞬間、全員そろってずるんと転倒。

 泥の海にダイブ!

 リオナの額には泥の一本線、エルナの髪には草の冠、俺の顔にもれなく泥パック。


「これが王都公認の勇者の姿か」


「笑いごとじゃありません!」


 それでも、みんな笑っていた。

 泥は不思議と笑いを引き寄せるようだ。


 ◇


 十二日目の夜、野営地で焚き火を囲む。

 星が澄んでいて、吐く息が白く上った。


「あと三日くらいか」

 パンをかじりながら言うと、リオナが火の粉を目で追いながら頷く。

「早かったような、長かったような」


「尻への時間は長かった」


「座るだけで修行ですね」

 エルナが苦笑して腰をさする。


 俺は火の揺らぎを眺めた。

「俺はもう悟りの入口が見えた。尻の」


 リオナが吹き出し、火が一瞬跳ねた。


 しばらく、火の爆ぜる音だけが続いた。


「王様って、どんな人なんだろ」

 リオナが火に手をかざして言う。


「さあな。俺とは住む世界が違うだろ」


「でも、呼ばれたのはあんた。きっと何かあるわ」


「その“何か”が問題なんだよ」


 空を見上げると、ひときわ明るい星が輝いていた。

 灯台の光みたいに、遠くでじっと瞬いていた。


 ◇


 十五日目の朝。丘を越えた瞬間、白い城壁が見えた。

 巨大な都市、王都――。

 白い塔が陽光を反射し、旗が一斉に風にたなびく。

 鐘の音がかすかに響き、空気が一段と張りつめた。


「すご……」

 エルナが息を呑む。俺も同じ気分だった。


「やっと着いた……お尻、もう終わったかと思った」

 リオナが大げさに伸びをする。


 御者が帽子を取って深く頭を下げた。

「勇者殿、王都に到着いたしました」


「勇者じゃなくてシゲル。……まあ、今はどうでもいいか」


 馬車を降りた足裏に、硬い石畳の感触が伝わる。長かった旅の終わり。

 肌に触れる風が違う。王都の空気は、緊張と熱気を混ぜた匂いがした。


「さて。ここからが本番か」

 俺が呟くと、リオナがにやっと笑い、エルナが静かに頷いた。

 三人の影が白い街並みに溶けていく。

 静かな旅路は終わり、新しい騒がしさが待っていた。

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