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第58話 静かな帰還と不穏な知らせ

 パンの焼ける香りで目が覚めた。

 腹が鳴る。どうやら胃袋も異世界に馴染んできたらしい。

 問題は、“裸で戦う勇者”なんて肩書きが、まだどこかで囁かれていることだ。


 俺は屋根裏の寝床から身を起こし、煙の匂いに眉をしかめた。


「……焦げてるな」


 下の階からリオナの怒鳴り声が聞こえる。

「シゲル!また焦がしたでしょ!」


「焦がしてねぇよ!多分……自然発火だ!」


「パンが自然発火するか!」


 笑い混じりのやり取りのあと、エルナの優しい声が加わった。

「香ばしいくらいでちょうどいいですよ」


 俺はため息をつきながら階段を下りた。

 朝日が窓から差し込み、埃が光に舞っている。


 星海の大地から戻り数週間、リーベルの街でボロ家を借りて三人で暮らしている。

 屋根はきしみ、床は抜けそうだが、ここには確かに“帰る場所”の匂いがある。


「やっと普通の暮らしに戻れたな……」

 俺がそう呟くと、リオナが鼻を鳴らした。

「どうせまたすぐ脱ぐんでしょ?」


「もう脱がねぇ。平和に暮らすんだ」


 エルナが笑う。

「平和が一番です。ね、リオナさん?」


「そ。あんたが服を着てる間は、世界も平和」


「……評価がヒドい」


 そんな他愛ない会話をしながら、朝の食卓に昇る湯気が平和だった。

 外からは市場の呼び声、馬車の音、遠くの鐘の音。

 ――いつものリーベルの朝だった。



 昼下がり俺たちは街へ出た。

 青空の下、市場には人が溢れ、パン屋の香ばしい匂いが通りを包んでいた。

 旅の疲れがようやく癒えたのか、リオナも上機嫌で串焼きを頬張っている。


「うん、やっぱりこの街の肉はうまいわね!」


「旅の間、焦げパンばっか食ってたからな」


「原因は誰だと思ってんの」


 エルナは祈るように胸の前で手を組んだ。

「でも……こうして笑っていられる時間があるって、幸せですね」


 俺は思わず頷いた。

「ここが、一番落ち着くな」


 リオナが目を細める。

「ま、そう言ってるうちは平和ね。……今のうちは」


 嫌な予感を感じた。

 が、まぁこの女の“予感”は大体当たる。



 夕方の冒険者ギルド、リーベル支部。

 いつもはのどかな場所に、珍しく緊張した空気が流れていた。

 扉を開けて入ってきたのは、王家の紋章を胸に刻んだ若い騎士――王都からの使者だった。


「この街に“黒風を討った勇者”がいると聞く。名を教えてもらいたい」


 受付カウンターのセリナが瞬きを繰り返す。

「ゆ、勇者……?そんな人、登録に……」


 使者は巻物を広げながら、淡々と告げた。


「目撃報告によると、“光を纏った全裸の魔法使い”が黒風を浄化したとのことだ」


 ――ギルド中が静まり返る。

 冒険者も職員も、全員が顔を見合わせた。

 セリナの頬が引きつり、額に汗が浮かぶ。


「……ま、まさか……それって、シゲルさん……?」


 隣の職員が小声で答える。

「間違いない。だって“全裸”って言ってるし」


「いや、他にいねぇし」

 その瞬間、全員の視線が一点に集中した。


 セリナは青ざめた顔で立ち上がり、外へ飛び出した。

「シゲルさーん!どこですかーっ!」



「いや、だから何の用だって?」

 俺は屋台の串焼きを片手に、息を切らしたセリナを見上げた。


「ギルドに来てくださいっ! 王都から使者が来てるんです!」


「王都?なんでそんな物騒な……」


「勇者を探してるんですって!光る全裸の!」


「……おい」


 俺の背後でリオナが盛大に吹いた。

「ぷっ……あんた、また新しい称号もらったじゃない」


「やめろ、笑うな」


 エルナは目を輝かせて言った。

「すごいです、シゲルさん!王都に呼ばれるなんて!」


「すごくねぇよ!行きたくねぇ!」


 しかしその数分後、俺はギルドの応接室に座っていた。

 目の前の使者がまっすぐ俺を見つめている。


「貴殿が――全裸の勇者シゲル殿で間違いないな?」


「いや、全裸にはなるが勇者ではない」


「……全裸ではあるのか」


「そこは聞き流せ!」


 使者は咳払いし、巻物を開いた。

「国王陛下は、貴殿との謁見を望んでおられる」


「謁見?やだね。俺、絶賛平和を満喫中なんで」


 使者の眉が動いた。


「この国は今、他国からの侵略の危機に晒されている。陛下は国防の要として、貴殿の力を求めておられるのだ!」


 ギルド中が騒然となった。

 セリナが息を呑み、職員たちは顔を見合わせる。


「侵略……? まさか戦が……?」


 使者の声は静かだが、重かった。


「既に国境付近では小競り合いが始まっている。黒風の混乱で国が弱った今、隣国が牙を剥いた」


 沈黙が広がる。


 リオナがため息をついて言った。

「ほら、やっぱり放っとけないじゃない」


 エルナも真剣な表情で。

「国が苦しんでいるなら……シゲルさんの力が必要です」


「いや、でも俺は――」


 ギルドの仲間たちが次々と声を上げた。


「行ってやれよ、シゲル!」


「頼むぜ、勇者様!」


「うちの国、救ってくれよ!」


 逃げ道が消えた。


 俺は頭をかきながら天を仰いだ。

「……はぁ。わかったよ。行きゃいいんだろ」


 使者が深く頭を下げた。

「感謝いたします。陛下も、きっとお喜びになられる」


「いや喜ばれても、俺はどうでもいい」



 屋根裏の小さな窓から月が差し込んでいる。

 俺は寝転びながらパンをかじった。

「……また巻き込まれたな」


 下からリオナの声がした。

「自業自得じゃない?脱ぐから目立つのよ」


「今は脱いでねぇ!」


 エルナの柔らかな声が続いた。

「でも……きっと、シゲルさんにしかできないことがあるんです」


 俺は目を閉じた。

 月の光が、どこか遠い王都を思わせた。

「……行くか。なるべく服を着たままな」

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