第58話 静かな帰還と不穏な知らせ
パンの焼ける香りで目が覚めた。
腹が鳴る。どうやら胃袋も異世界に馴染んできたらしい。
問題は、“裸で戦う勇者”なんて肩書きが、まだどこかで囁かれていることだ。
俺は屋根裏の寝床から身を起こし、煙の匂いに眉をしかめた。
「……焦げてるな」
下の階からリオナの怒鳴り声が聞こえる。
「シゲル!また焦がしたでしょ!」
「焦がしてねぇよ!多分……自然発火だ!」
「パンが自然発火するか!」
笑い混じりのやり取りのあと、エルナの優しい声が加わった。
「香ばしいくらいでちょうどいいですよ」
俺はため息をつきながら階段を下りた。
朝日が窓から差し込み、埃が光に舞っている。
星海の大地から戻り数週間、リーベルの街でボロ家を借りて三人で暮らしている。
屋根はきしみ、床は抜けそうだが、ここには確かに“帰る場所”の匂いがある。
「やっと普通の暮らしに戻れたな……」
俺がそう呟くと、リオナが鼻を鳴らした。
「どうせまたすぐ脱ぐんでしょ?」
「もう脱がねぇ。平和に暮らすんだ」
エルナが笑う。
「平和が一番です。ね、リオナさん?」
「そ。あんたが服を着てる間は、世界も平和」
「……評価がヒドい」
そんな他愛ない会話をしながら、朝の食卓に昇る湯気が平和だった。
外からは市場の呼び声、馬車の音、遠くの鐘の音。
――いつものリーベルの朝だった。
◇
昼下がり俺たちは街へ出た。
青空の下、市場には人が溢れ、パン屋の香ばしい匂いが通りを包んでいた。
旅の疲れがようやく癒えたのか、リオナも上機嫌で串焼きを頬張っている。
「うん、やっぱりこの街の肉はうまいわね!」
「旅の間、焦げパンばっか食ってたからな」
「原因は誰だと思ってんの」
エルナは祈るように胸の前で手を組んだ。
「でも……こうして笑っていられる時間があるって、幸せですね」
俺は思わず頷いた。
「ここが、一番落ち着くな」
リオナが目を細める。
「ま、そう言ってるうちは平和ね。……今のうちは」
嫌な予感を感じた。
が、まぁこの女の“予感”は大体当たる。
◇
夕方の冒険者ギルド、リーベル支部。
いつもはのどかな場所に、珍しく緊張した空気が流れていた。
扉を開けて入ってきたのは、王家の紋章を胸に刻んだ若い騎士――王都からの使者だった。
「この街に“黒風を討った勇者”がいると聞く。名を教えてもらいたい」
受付カウンターのセリナが瞬きを繰り返す。
「ゆ、勇者……?そんな人、登録に……」
使者は巻物を広げながら、淡々と告げた。
「目撃報告によると、“光を纏った全裸の魔法使い”が黒風を浄化したとのことだ」
――ギルド中が静まり返る。
冒険者も職員も、全員が顔を見合わせた。
セリナの頬が引きつり、額に汗が浮かぶ。
「……ま、まさか……それって、シゲルさん……?」
隣の職員が小声で答える。
「間違いない。だって“全裸”って言ってるし」
「いや、他にいねぇし」
その瞬間、全員の視線が一点に集中した。
セリナは青ざめた顔で立ち上がり、外へ飛び出した。
「シゲルさーん!どこですかーっ!」
◇
「いや、だから何の用だって?」
俺は屋台の串焼きを片手に、息を切らしたセリナを見上げた。
「ギルドに来てくださいっ! 王都から使者が来てるんです!」
「王都?なんでそんな物騒な……」
「勇者を探してるんですって!光る全裸の!」
「……おい」
俺の背後でリオナが盛大に吹いた。
「ぷっ……あんた、また新しい称号もらったじゃない」
「やめろ、笑うな」
エルナは目を輝かせて言った。
「すごいです、シゲルさん!王都に呼ばれるなんて!」
「すごくねぇよ!行きたくねぇ!」
しかしその数分後、俺はギルドの応接室に座っていた。
目の前の使者がまっすぐ俺を見つめている。
「貴殿が――全裸の勇者シゲル殿で間違いないな?」
「いや、全裸にはなるが勇者ではない」
「……全裸ではあるのか」
「そこは聞き流せ!」
使者は咳払いし、巻物を開いた。
「国王陛下は、貴殿との謁見を望んでおられる」
「謁見?やだね。俺、絶賛平和を満喫中なんで」
使者の眉が動いた。
「この国は今、他国からの侵略の危機に晒されている。陛下は国防の要として、貴殿の力を求めておられるのだ!」
ギルド中が騒然となった。
セリナが息を呑み、職員たちは顔を見合わせる。
「侵略……? まさか戦が……?」
使者の声は静かだが、重かった。
「既に国境付近では小競り合いが始まっている。黒風の混乱で国が弱った今、隣国が牙を剥いた」
沈黙が広がる。
リオナがため息をついて言った。
「ほら、やっぱり放っとけないじゃない」
エルナも真剣な表情で。
「国が苦しんでいるなら……シゲルさんの力が必要です」
「いや、でも俺は――」
ギルドの仲間たちが次々と声を上げた。
「行ってやれよ、シゲル!」
「頼むぜ、勇者様!」
「うちの国、救ってくれよ!」
逃げ道が消えた。
俺は頭をかきながら天を仰いだ。
「……はぁ。わかったよ。行きゃいいんだろ」
使者が深く頭を下げた。
「感謝いたします。陛下も、きっとお喜びになられる」
「いや喜ばれても、俺はどうでもいい」
◇
屋根裏の小さな窓から月が差し込んでいる。
俺は寝転びながらパンをかじった。
「……また巻き込まれたな」
下からリオナの声がした。
「自業自得じゃない?脱ぐから目立つのよ」
「今は脱いでねぇ!」
エルナの柔らかな声が続いた。
「でも……きっと、シゲルさんにしかできないことがあるんです」
俺は目を閉じた。
月の光が、どこか遠い王都を思わせた。
「……行くか。なるべく服を着たままな」




